■ 「お金」という共同幻想 ■
現代における「お金」は単なる「紙切れ」です。しかし、「お金」のパワーは絶大で、人々は「お金」を欲するが故に努力を惜しみません。
東京駅のホームから林立する新築の高層ビルを眺めながら思ったのですが、このビル群も「お金」の力が無ければ存在しない。もし、世の中に「お金」が無かったら、人々は自給自足のムラ社会を現在も続けていた事でしょう。
「貨幣」の歴史は「交換」の歴史に始まります。「交換」は自分の「余剰」を他人の「余剰」と「交換」する行為です。この行為自体は「必要性」から行われるもので実利的です。
一方、本によれば「交換」は人間に備わった「本能」の一つでもある様です。村の外れに供え物をすると、ある日、別の物に変わっている・・・古代の人々は「神様が供え物を受け取って、代わりの物を与えた」と考えていた様ですが、実際には隣の村の人達が同じ様に供え物をして、元々置かれていた隣村の供え物を神様からの贈り物として持って帰っていただけ・・・ただ、自然崇拝の時代には、神さまとの「交換」は重要な意味を持っていた様です。(これは現代にも受け継がれています)
また、「交換」は「他者の所有物を欲しい」という本能に由来した行為なのかも知れません。
「お金」はこの様な人間の本質的な欲求を満たすツールとしては便利な存在です。近代まではお金は「物の交換」を仲介するツールでした。しかし、「お金」には「富をストック」する機能も備わっているために、「お金を集める事」が目的化します。
本来は自分の生活に必要な物を買う分だけ有れば良い「お金」を人々は貯め始めます。「お金を貯める」事に快楽を覚えるのは、これも人間に備わった「本能」なのかも知れません。飢餓に備えて食べ物を貯蔵するという「本能」が「お金を貯蔵する」という本能に置き換わったのでしょう。
実は現在の通貨の価値は人々の「お金を増やしたい」「お金を貯蔵したい」という「本能」に支えられtえいます。そして、「お金を増やしたい」という思いが「投資」に繋がり、資金が集まる事で、巨大なビルが建造されます。そして、ビルを建築している作業員達の欲望も「お金を稼ぎたい」という思いです。
この様に考えると現代の社会は「お金に価値が有る」という「共同幻想」によって支えられているとも言えます。
■ 「紙のお金」の神性は喪失するのか? ■
「拝金主義」の現代において、「紙のお金」は「神」にも匹敵する存在となっています。宗教の神が人々の共同幻想の上に成り立っているのと同様に、「紙のお金」の価値も人々の共同幻想の上に成り立っています。では、「お金の神性」は失われる事は無いのでしょうか?
「宗教」において「神」の信頼が揺らぐのは、「神が人々の望みを叶えられない」場合です。ですから多くの宗教を「現世利益」を保証せず「死後の利益」という立証不可能な利益を保証する事で「信頼」を保って来ました。
一方「お金」は「現世利益を生むもの」としては神をも凌ぐ力を持っています。
裏を返せば「現世利益を生まなくなった」時、お金に対する共同幻想は消失します。
具体的には「お金で買える物が減った」り「お金で買える物が無くなった」時、人々は「通貨に対する信仰」を失い、「通貨の信用」も失われます。
■ インフレは通貨の信用喪失 ■
リフレ派が正義とする「インフレ」ですが、これは「お金の価値をゆるやかに失わせる」政策です。「お金の価値が将来的に減るならば、今物を買ったり設備投資した方が儲かる」という「期待」に働きかける政策です。
リフレ政策は「通貨価値を毀損する事で、お金を増やしたいという期待を作る」という矛盾を内包しているので、根本的に機能しない政策なのかも知れません。