まずは「山田家」
教会でうどん、いただいてましたので、おでんとビール。つつじの美しい季節♪♪
庵治探訪。前回行ったのはちょうど4年前の5月でした。
ずっと私のブログを読んで下さっている方はご存じのことですし、再三同じことを書くのもな~と、少し迷いましたが、
手短に…
私は小学校5年生から中1までを「庵治」という海辺の漁村で暮らしていました。
両親の離婚によって、私は母方の祖母の「庵治」の家に預けられて暫くは祖母と2人で暮らし、そこから高松市街の小学校にバスで通っていました。
祖母の家は「小屋」のようなところでした。
8畳と4畳の部屋。土間を簡易的に改装した板の間の台所と汲み取りトイレと物置とは、水平な天井がなく、屋根の斜めの角度がそのまま。
かなり特殊な環境だったと思いますが、私は自分なりにその時代をインナーワールドですごく楽しんでいました。
やがて母が再婚して、妹が生まれて、5人で暮らすことになり、私たち家族は窓から屋島と庵治の海が見えるメゾネットのアパートに引っ越しました。
東京での27年に終止符を打って高松に帰ってきたときの5月、私は初めて祖母と暮らした「小屋」のあった場所を訪ねてみました。
そして、4年前には、家族5人で暮らしたメゾネットを見にいってみました。
いずれの時も、不安で胸がドキドキして、特に数十年ぶりで行ったときは、いったいそこがどうなっているのか、全くなにも知らないので、本当に自分がそこを見てどうなるのか怖い思いもありました。
まるで封印が溶かれるような。
メゾネットは、車で通るときに少しだけ見えるので、廃屋になっていることは知ってました。
…が、実際にその場所に踏み込むのはほんとに勇気がいりました。
4年前その場所まで行って、とても懐かしかったのだけど、嘗て自分が住んでいた家の荒れ果てた画像を撮る勇気がありませんでした。
が、今回は撮ってきました。
「ざわざわ」とした気持はなく
ここもまた、私が住んでいた本当に本当に懐かしい時代の懐かしい場所なのです。
妹はこの家で、このメゾネットの階段の上と下で、私に
「で~~~ちゃん!」(ねーちゃん)と、声をかけてくれた。
これが妹の初めて出た言葉だった。なんども妹は「で~~ちゃん!」とにこにこしながら言いました。
こんなことも、きっと家族の誰も覚えてないだろうなー。
きっと両親にとって、この時代は、早く通り過ぎたかったに違いない。
早く安定した生活を子供たちにも与えたいと思ってすごく頑張っていたと思います。
自分が暮らしていた場所が、更地になっていたり、廃屋になっていたりするのって、胸がきゅぅ~~んとなります。
だけど、その感覚も、何度か訪れるたびに、また、年月とともにだんだん薄らいでいって、
楽しく懐かしい思い出だけが残っていくものだということにも気付きました。
でも私にとっては、この時代があってこそのTAKAMIなのです。何度もしつこいけど。
ずっと音楽を続けてきたのも、自分のうたを作ってきたのも、これからどんな音楽活動をしていきたいと思っているのかも、この時代が原点なのです。
この廃屋のテラスにとても大きなサボテンの鉢植えが置き去りにされていました。
きっと誰にも手入れされず、自力で成長したものと思われます。
植木鉢に対してあまりにも大きなサボテンだった、、、
下半分は蜘蛛の巣で覆われていました。ちょっと一部腐りかかっているようにも見受けられました。
自力でこんなに大きく成長するまで、どれだけの年月がかかったのだろうか、、、、
「あなたのことは、これから私がお世話しますからね。」
…ではなく。
「あなたとお話がしたいので、私のところにお越しくださいぜひともお願いします。」
との思いで、近々我が家にお越し願おうと思っています。
先ほど初めてお会いしたときには、おこがましくて、そんな発想はありませんでした。
でも、撮ってきた画像を改めて見ていて、どうしてもこの方をお連れしたくなりました。
アホちゃう!?と笑ってやってください、、、
きっと、お庭の植物や虫たちを大切にされている方には少しおわかりいただけるかも、、