goo blog サービス終了のお知らせ 

WIND AND SOUND

日々雑感 季節の風と音… by TAKAMI

ドラマの出産シーン

2020-05-23 | 人生妙なり

出産10分以内「触っていいですよ」と言われても、なんだかおっかなくて…



閑話休題


出産経験のあるみなさま。
「コウノドリ」とか、他にも出産シーンが登場するドラマはたくさんありますが、
どの出産シーンも、私の経験したものとは全然違って、「うっそでしょー」と感じるのですが、
みなさまはいかがでしょうか?

実は私のブログ、立ち上げて15年以上になりますが、記事の中で最も参照数が多いのが、
「激痛…盲腸 vs 陣痛」です。

盲腸の痛みと陣痛とどっちか痛いか…というおはなし

そりゃもー私にとっては、断然「盲腸」でした。虫垂炎ね。
一晩中、吐くほどの痛みに耐え、食中毒かもしれず。近所迷惑だと救急車は呼んでもらえず、朝になってやっと、しかし自転車を自分で漕いで町医者に行かされ、その後総合病院に搬送され、
腹膜炎直前まで進行してしまっていました。局部麻酔なので、医師の声は全部聞こえ、「うっわ~~コリャひどいわ」とか、「こりゃ相当痛かったやろう」…とか。手術中にも私は自分の腸を引っ張り出されている感覚があり、とっても気持ち悪く「すみません、吐きたいんですけど」って言いました。もう吐くものなにもなくても、気持ち悪いと吐き気がするってもんです。私の後に虫垂炎で手術した人が次々と私よりに先に退院していきました。

母は、私が夜中、ものすごく痛くて苦しいときに、「お産はもっと痛いんだから、練習だ」と申しました。

そうか、もっと痛いのか、、、と、どれほどの覚悟で臨んだことだったか。
確かに、陣痛はものすごく痛かった。この世のものとは思えないほどの痛み。だけど宇宙のミラクルパワーと合体するという不思議で感動的な経験もしました。

しかし、子宮口が全開となって、分娩台に登ったとき、陣痛の痛みは消えてませんでしたかみなさん?
時折陣痛はあるものの、間があいて、その間は、家族や看護師さんたちと談笑もできたし。
看護師さんに触れられると、くすぐったくて声をあげて笑ったりもしました。
「いきみ」は痛いものではなく、ほんとにただ「いきむ」だけなので、この世のものとは思えない陣痛を通過してきた身にとっては、「痛い」とは全然感じなかったし。
まさに生物の「娩出」って感じ。

しかし、どのドラマの出産シーンも全くそうではなく、生まれるまで痛くて苦しそうに描かれています。
これ違うんじゃないでしょうか?

出産というものを、より感動的にドラマティックに仕立てあげるために、このような演出になっているのかもしれないけど、、、、

あっ、それと、お産が始まりも違う。
いきなり痛み出して、それがずっと続く感じに描かれている作品が多いけど、
最初は痛みじゃなくて、張りがかなり頻発して、「いや~~いよいよかも、今日かも?」って、すごくわくわくしたものでした。
「さあ、人生の最高の瞬間に向かって頑張るぞ!」って思いませんでしたか?
千葉にいる夫に高松から電話して、陣痛ピークに間にあった。

あの共同作業はすごかったな。


「コウノドリ」はものすごく良いドラマだなあと思います。

一方で、お産の場面を妊婦と同じ目線で描いたドラマがあったらいいのになあ…と思います。



出産1時間後





Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

近況のご報告 (COVID-19関連)

2020-04-28 | 人生妙なり


大変長らくのご無沙汰でした。
冒頭の画像は、私の住居マンションからの雲ですが、今はかなり生活が変わりました。


ものすごく忙しい予定だった2月、3月、4月…
ライブはすべてキャンセルとなり…というか私からキャンセルを願い出ました。
もう本当に、少しでも早くCOVID-19を撲滅させたいですので。

衣類や、プラスチックや、サージカルマスクなどに付着したウィルスが何日生きてられるのか調べ、じゃあ私はどうすればいいのか、考えました。
これらは「どうすればいい」という基準は人それぞれかと思います。「事実」をきちんと把握して、自分で考えるべきだと思っています。

世界の果たすべき共通の目的ははCOVID-19撲滅。


徹底的にしようと思っても、私はマンション住まいなので、玄関のドアを開ける前に手を洗うことができません。
エタノールも、今では手に入らなくなったし、もっとヤバいことになった時のために使い惜しみをしています。

それでも、とにかくできることはする。


教会の礼拝も中止。
ネット礼拝や、家庭礼拝に切り替えられています。

SYOさんと私は昨年8月に入籍いたしましたが、実質何も変わらずこれまで通りな日々でした。
ただ、一緒に礼拝できることは平安だな~~~と、深~く感じていました。

イースター礼拝の折、私としては大変密集感があり、とても不安を感じたので、牧師に直ちにやめましょうと提案しましたが、
その直後に緊急事態宣言もあり、それ以降は「家庭礼拝」となりました。

日曜の朝は、教会から送られてくるプログラムに従っての家庭礼拝。
奏楽者SYOさん独り占めで大変ゴージャズに賛美歌を歌ったり、
めっちゃ「とりなし」のお祈り(いろんな病気や不安を抱えている身近な方たちのことを祈る)をしたり
聖書を講読したりなどしてます。
COVID-19が蔓延り始めてから、不安を感じながら教会に集ってやっていた礼拝よりも、とっても平安で深いと感じています。


そして今私は、週の半分ぐらいをSYOさんのおうちで過ごし、SYO Micael Gardenの手入れのお手伝いをしています。
昨年秋ごろからなんとなく放置ぎみだった庭の手入れをイッキにやっています。






このカタバミのようなヤツをやっつけるのが私のおしごと





この一見きれいな砂利の通路の下も肥沃な土ですので、油断するとどんどのこのようなことに…





とはいっても私は、ぺーぺーの雑草処理係なのですが、無心になれます。
私の好きな雲が流れている日は、時折空を見上げて、ゆっくりと見とれます。




無心に「草抜き」とか、散らかっている「枯葉集め」とかやります。
SYOさんは、庭の「創造」を無心にやっています。私とは役割が全く違うのです。

ですので、お互い会話をすることは殆どありません。必要な会話、二言、三言。


少し手元が暗いなと感じたら作業は終りにして、部屋で宅飲み…とともに、映画鑑賞…みたいな日々。




COVID-19によって、私の生活はかなり変わりまして、1週間がものすごく長く感じます。

一方SYOさんは全然フツーーで、これまでと何も変わらないところになんかTAKAMIがいる…という感じらしい。



次回は、その無言の庭作業中に突然SYOさんが語ってくれたおもしろい話などなどを書く予定。

Comments (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

息子と電話で話したこと

2020-01-30 | 人生妙なり


昨日、息子と久々に長電話をしました。

先日の「どんぐり」と重複するけど悪しからず。

バイクの免許を取る件について、いろいろ相談されましたが、まあそれは個人情報なので割愛するとして…
自分の話が一段落すると、「オカンは最近どぉよ?」と、話を私に振る。
こーいうところが大人になったなあと嬉しく思う。
以下母の発言。

母の話題といえば、最近毎日Piano & Vocal の練習をしてるってことだな。
それも12月のコンサートに向けて。
それが全然上手くならなくて、私は認知症なのだろうかと思ってたところに
たまたま「NHK1,5ch」ってヤツをみた。


認知症って、ピアノも弾けなくなるんだって。忘れるんだって。
38年間ピアノの先生をやってた女性が若年認知症になってからピアノをやめてしまい、全然弾けなくなっていた。
チェリストの夫の勧めで、一緒にデュエットやろうということになって、グノーの「アベマリア」を夫のサポートで練習した。
(バッハの平均律1番です)もう1からの出発。
そして、カフェで発表する機会が訪れた。彼女は、最後のエンディングに向かうクライマックスのディミニッュのところでつっかかって止まってしまった。
妻「もう1回やっていい?」夫(みなさんに向かって)「いいですか?」 拍手。
そして、ディミニッシュのとこは抜かして、夫がその次のところに妻の手を誘って続きを最後まで弾いた。拍手喝采だった。

息子はこの曲よーく知ってます。
「なにそれ、ドラマ?」
「違うよ、ドキュメントだよ」

まずこの夫がものすごくすごく素晴らしい、素敵な人だと思った。
私は夫が認知症になったら、こんな妻になれるのだろうか? 努力はするけどここまでは難しいだろうなあ、、、
…というより、私のほうが夫より先に認知症になりそうだ。

次に、認知症になったら、ずっとピアノとともに生きてきた人がピアノが弾けなくなるという事実にショック。

私はこの先認知症になるかもしれない、もう入り口にいるかもしれない。私も弾けなくなるんだろうか、、、
私の親祖父母、認知症だらけで、ヤバいのです。
歌も忘れたカナリヤになってしまうんだろうか?
だって、ピアノをこんなに毎日練習したら、高校時代ならもうとっくに弾けてるってもんだ。それが全然いくらやっても前に進まない。まあ1日1mmぐらいは上達してるのか!?!?
フツーLIVEの準備って3ヵ月ぐらい前からやるけど、Piano & Vocalはムリ!
やはり1年を費やそう…と思ったけどもう1月が終わってしまう。
なんか焦る、、、

「前はもっとうまく弾けとったんか?」
「いや、いつも同じところでミスタッチして、本番でも完璧に弾けたことはない。
これほど真剣に練習したこともなかったような気がする。」
「そんなら、練習あるのみじゃ!!」

「そうだよね~~~」と、私は彼の言葉に大いに共感したし、こんなことを言う息子が頼もしかった。
ホントに認知症になったら、来年は弾けなくなるかもしれない、いつか弾けなくなるときが来るかもしれない。今だ。今練習あるのみだ!!


「かごめ かごめ」と「どんぐり」はアナタも知ってると思うけど、
「ムーンライトワルツ」っていうのもあるのよ。高松では一度も歌ったことがない。

「ソレうたってみて、出だしとサビ。」
いやこれ単音で歌っても何のことかわかんないだろう…と思いつつも一応うたったら
息子は覚えてると。
小さい頃、ベビーカーに乗ってる頃から、あちこちのリハーサルに連れ回されたので、母の歌は覚えていると申すのです。

息子よ…愛してるよ、、、

「どんぐり」という曲は、息子が保育園の園庭でどんぐりをたくさん拾って、「おかあさ~ん、見て!」というところからできた。
当時は息子の「おかあさ~ん」の声色を真似て歌っていました。
息子は成長するにつれ、自分のことを歌っているこの曲が嫌いになっていった。

「どんぐり」の「おかあさ~~ん」は、アナタの声色はやめて、自分の心の声で歌うことにしたよ。
そしたら、すごく気持いいのよ。
もう、この曲はアナタの歌じゃないからね。

「そうか、オカンなりに昇華したのだな。」

はい「どんぐり」昇華しました。

母と息子の、めっちゃふっかぁ~~~い人生的音楽的会話。
昇華した「どんぐり」を息子に聴かせたい、、、

「認知症になっても2人の間にあるのは音楽」
https://www.nhk.or.jp/ten5/articles/17/003518.html

認知症になっても、二重奏で愛の調べを|NHK1.5ch(NHK1.5チャンネル)

認知症になっても、ふたりの間にあるのは「音楽」

NHK1.5ch(NHK1.5チャンネル)

 
Comments (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2020のごあいさつ

2020-01-07 | 人生妙なり






あけましておめでとうございます
本年も宜しくお願いいたします






昨年8月、TAKAMI & SYO Michael は入籍をいたしました。

そして今年3月には、SYOさんの所属する高松新生教会にて、「誓約式」を行います。
「誓約式」とは、「結婚式」の簡略式で、フツーの服装で、「花嫁入場」とか「指輪の交換の」ような儀式とかはなく、神さまに結婚を誓約するというものです。

というワケで、こんな冒頭の画像で失礼いたします。
これをアップするか迷いまくりましたが、まあ「やっとやっと」なのだからいいだろうかと、、


息子が小学生の頃、SYOさんにプロポーズしていただきましたが、私は息子が18歳になるまで自分で育てたいので待って欲しいと申しました。
さらに息子は大学入試に不合格で、専門学校に行くことになり、金銭的なこともあり、奨学金や学費の減免の申請などの関係で、さらに待っていただいて、2年めの減免の申請が受理されたこのタイミングでの入籍。
そして、私の所属教会のワーシップチームの今後のことを考えながら、息子にも参列してもらえるようにとのことで、このタイミングでの「誓約式」です。

あまりにも長いお付き合いでしたので、なんで今さら…と思われるかもしれないけど、以上のような理由で、長い長い時間を経て、やっと神さまの御前でちゃんと結婚の誓約ができることとなりました。
もぉ~~10数年、、本当に長かった。ほんとに「やっとやっと」なのです。

しかし。
そうはいってもSYOさんと私は、この10数年、ずっと音楽パートナーでした。
「音楽パートナー」という存在は、夫婦よりもずっと深い地下水脈で?がっていると私は思っています。
ですので入籍しても、気持も、生活自体もなにも変わりません。
私は自分の仕事があるし、このまますぐに一緒に暮らすこともできません。


でも、ひとつだけ変わったことは、SYOさんの所属教会に一緒に礼拝に行くようになった。


私は自分の所属教会でワーシップチームのメンバーで、サポートをしており、時々礼拝の奏楽もやっています。入籍するまではクワイヤーのサポートもしていました。
SYOさんも数十年ずっと奏楽の奉仕をしています。
お互い、それぞれの教会において、音楽奉仕の根幹に関わっているので、私は結婚してもこれまで通り、別々に礼拝にいけばいいと思っていました。

洗礼を受けるとき、牧師先生に伺いました。
夫婦になったら、絶対に同じ教会に行かなくてはいけないのですか?
もちろん常識的にはそうだけれど、例外があることを伺いました。
それは、教義的に違和感があって受け容れられない…という場合などなど。
私は、「音楽的例外」もアリだろーと思い、SYOさんと結婚しても、それぞれの教会で音楽の奉仕を続けたいと思っていました。

でも、8月に入籍してから、自分の教会の音楽奉仕以外の日はSYOさんの所属教会に行くようになり、夫婦で一緒に礼拝するということが、こんなに癒されるものなのかと感じました。

私たちクリスチャンは、日々お祈りをします。
神さまがすぐ傍にいることを感じているのでとにかく何でもお祈りをしまくります。


礼拝でみんなでお祈りするとき、うまく言葉にできないけれど、その群れの中に夫もいるのだ…ということが、私にとって癒しなのかも。

私が去ったあとのシオン教会のことも祈りまくりますし、絶対に良い展望が開けると信じています。
なんだかヨメにいったあとの自分の家族を思う気持ち。



思いのある方はお越しください。
ほんと~~~に普段着で結構ですし、プレゼントやご祝儀は不要です。
受付も設置しません。
出欠連絡も不要です。







3/22 13:00~14:00ごろ
於 高松新生教会

前半は誓約式、後半は祝福コンサート…となる模様
駐車場は銀星テニススクールをご利用できる模様













Comments (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大阪でさざえちゃんとまなみちゃん親子と対面しました

2019-09-18 | 人生妙なり





丁度息子が大阪に戻る日の翌日、「関西桜紫会」という、出身高校の同窓会総会&懇親会があって、
SYOさんと私は演奏のご依頼を受けていましたので、3人で大阪に行きました。
そして、大阪に着いた日の夜、「さざえちゃん&まなみちゃん」親子と対面し、ディープな大阪の夜をご案内いただきました。

さざえちゃんとは、まなみちゃんがお腹の中にいる頃に、とある高齢出産系のサイトで知り合って、個人的にもメールのやりとりなどしてました。
なんだか地下水脈が同じ…みたいなものを感じて、いつか是非ともお会いしたい、お会いできるに違いないと思って密度の濃い期間、疎遠な期間いろいろありましたが、今日まで17年間、お付き合いしてきました。

特にさざえちゃんは料理が得意で、簡単にぱぱっっと、何品目も作る人で、
どれほどいろんな簡単料理を教えていただいたことか、、、

さざえちゃんが作るまなみちゃんのお弁当の品数もハンパない、、、
毎日忙しく働いて、よくこれだけのことがこなせるなあ、、、と、常に尊敬しております。


そのさざえちゃんは、土木の設計や解析関係の仕事をしてらして、このたび息子も建築構造の世界に足を踏み入れるので、いろいろ教えて頂ける。
そして、娘のまなみちゃんは、合唱をやっていて、サークルは、コンクールの全国大会に出るほどのレベル…ってことで、私も彼女と語れる。

これって、私がネットのサークルで出会ったときからの、神さまの計画だ、、、と、クリスチャンの私にはとっても自然に思える。

さざえちゃんは、まなみちゃんを妊娠してから、つわりがとてもきつくて、出産までずっと入院してたと記憶しています。
そして、出産後も、家庭でいろいろとトラブルがあって、それでもすごく頑張っていた…けど、離婚。
その過程についても、いろいろと伺っていましたが、「よくぞここまで頑張るわ、私だったらもうとっくにムリ!」って思ったなあ。

そういう、とっても頑張るさざえちゃんの娘のまなみちゃんと、高校生になってやっとナマでお会いできたんだけど、これまでずっと成長の様子を伺ってきたし、特に合唱を始めてからは、演奏の動画などもいくつか見せていただいたり、部活での練習のことなども聞いていたので、ただ友達のお嬢さん…というだけで済まされない思い入れがありました。

そのまなみちゃんとさざえちゃん親子は、私がこれまで出会った親子の中でダントツに素敵だった。
16年間で、こんなにいい関係、深く暖かい絆を結んでこられて本当によかったね。

ディープな串揚げやさんで、2時間と少しの間だったけど、心から楽しく心地よく、リラックスして過ごすことができました。
息子も大変美味しく楽しかったらしく、私らの4倍ぐらい食べてました。
遠慮というものがないのか、、、(-_-;)


さざえちゃんとまなみちゃんは、本当に仲良し親子で、まなみちゃんがお母さんのこと大好きで尊敬してることは、もうストレートに伝わってきます。
あまりにも仲良しで、先輩と後輩のようです。
でも、そんな親子でも、いつか娘は母を越えていかねばならぬ。
こんなビッグマザーだけど、まなみちゃんなら必ず越えられる。


ということで、知り合ってから17年の歳月を経てやっとお会いすることができました。感動でした。
しかも、5人で!!



ますます楽しみなこれからの人生、、、


Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夏休みの息子帰省

2019-09-15 | 人生妙なり





この夏休みは、息子が2度に分けて、合計約10日ほど帰省していました。

車の運転免許を取るのが目的で、帰った日には試験を受けて取得し、さっそくじーちゃんのMT車で練習した模様。
じーちゃんに付き添ってもらって、いきなりひーばーちゃん(私の祖母)のお墓参りに行ったとのこと。
ひーばーちゃんのお墓は庵治の高台にあり、MTなので、坂道発進コワイよー。
私だったら絶対隣に乗りたくないな。

翌日は、私が付き添って、息子の運転でスーパーと靴屋とガソリンスタンドに行った
免許取得後2、3日目の息子の運転の助手席に乗るのはめっちゃ怖くて、思わず左手でドアの取っ手を握り締めてしまったわ~~
そんなことしても意味ないんだけどね(^_^;)

そして、バックで駐車する…に慣れてなくて「タイヤがどっちに向いていて、どうハンドルを切ったらいいかわからない」というので、ますますコワくて、
「もうそこで止まって~~~!! 違うってば、こっちにこぉぉ~~~やって振って!!」と大声で叫びまくる。
アドバイスというより、コワくて叫んでるだけだ、、、
「母よ、周りの人に聞こえて恥ずかしいし、集中できないので、大声を出すのはやめて。」
と息子に冷静に言われた。
もっともだ。
息子のほうが母よりオトナだなあ…と思ったこと多々ありまくり。

彼はほんとうに良い大人になりました。

路上では、子供が運転している助手席で母が付き添っている感アリアリで、何度も停車して譲ってくれました。
最初は、「たまたまいい人」と思ったけど、こう何度も重なると、彼は19歳で、a little 童顔だし、やっぱり子供の運転と誰にでもわかるのですね。
普通は譲らないような、お店から歩道を渡って道路に出るところ。車線に入れてもらうところ。
息子は、香川県人の愛を感じたとか言ってたけど、ちょっと違うど思うんだがな~~~


さてさて。息子が「モツ鍋がたべたい」というので、お洒落なモツ鍋やさんに行きました。
これまでモツ鍋NGだった息子のリクエスト。






幸せだったな~~~
息子が鍋食べながら「あ~~幸せや~~」と言った。
美味しい、そして母と語る。
でっ、帰りは普段ならタクシーで帰る距離を歩いて、さらに語りまくった。
何を語ったかはもう忘れたけど、私が感じたのは、息子も母とのこういう時間を望んでいるってことだ。


乳児はしっかり肌を離すな
幼児は肌を離せ、手を離すな
少年は手を離せ、目を離すな
青年は目を離せ、心を離すな
(子育て四訓)


こんなんありますよね。ついに息子は青年。
息子に対して否が応でも目を離さざるを得ず、しかし、心は離れていないんだな~~と、ここまで辿り着いたことがとても感慨深いです。
一方的でなく、お互いにってことです。


また、ある日は「テアトロン」に行って、短い時間ですが、SYOさんと3人でセッションしました。(冒頭の画像)
テアトロンも、息子にとっても私にとっても、とても懐かしい場所。
小学生の頃は虫捕りにいったり、東京からの幼なじみと一緒にステージの真ん中で「千の風」を歌ったり…


息子が帰省するたびに、とっても短い時間だけど、こんなふうに濃い時間を過ごしています。
自宅でも、ディープな「2人セッション」や「2人即興作詞作曲LIVE」とかやる。
提案してくるのはいつも息子です。

そして、「あなたがオカンでよかった」「アンタが息子でよかった」
…となります。





相変わらず餃子はこのように包んで並べてくれる



さて。
まだまだディープな世界。
続いては、先日大阪に行ってお友達母子に対面したおはなしです。


Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「私が連れ込んで押し倒しました」3

2019-07-24 | 人生妙なり





朝の7時過ぎに、実家の母からTELがありました。

「今すぐTakを迎えに来い」


本来なら、息子は10時半~11時ぐらいに、母または父がうちに送り届けてくれることになっていました。
私は姑息に、その時間までにSYOさんをご自宅にお送りすればよいと思っていたのでした。


何故突然息子を迎えに来いと言ったのか詳細は忘れました。
恐らく、母は卓球関係で、選手だったり、審判もしていたり、結構その世界ではわりと有名人?なので、突然のご指名とかがあったのではと思われます。

そして有無を言わさず、Takを残してもう出かけるから、すぐに迎えに来るようにと言われたのでした。


大変だ! 1時間ぐらいしか寝てないし、最後のほうはさすがにもう飲んでなかったけど、それでもまだ酒が残ってる。マズイ。しかし迎えに行く以外の選択肢はない。


私はすぐにSYOさんを起こしました。
一緒に息子を迎えにいくのに付き合ってほしいとお願いしました。
(さらに押し倒しまくる)


だって、息子を迎えに行って帰ってきたら見知らぬ男が部屋で寝てるって、めっちゃマズイじゃ~~~ん。


実家に行って、ひとりで私が迎えに来るのを待っている息子を連れて、車に乗り込みました。
助手席にはSYOさんが座っています。

「SYO Michaelさんよ。ピアニストで、お母さんの音楽仲間よ。」と紹介しました。
息子はすぐに打ちとけました。
SYOさん、こんなちっちゃい子ども、だいじょうぶかなあ…と、ちょっと心配だったのでした。
まだ全くといっていいほどSYOさんのプライベートなことを何も知らない私は、ナニゲにちょっと不安だったのでした。

車の中でどんな話をしたのか全く憶えてないのですが、息子は家に帰ったとたんに、すぐにピアノの下から、入学のときに叔母(私の妹)に貰った自慢の地球儀を持ってきて、SYOさんに提示しました。そして

「しょうまいけるさんのおうちはどこ?」

と言いました。
「しょうまいける」とは、日本語を話す外国人だと思ったのだろうか??
息子はまだ2年生なので、地球儀の中で日本の四国がどこにあるのか…さえもあまりよくわかっていません。
でもSYOさんは、一応、日本の四国の小さな香川県を指差して「この辺や」とちゃんと答えて下さいました。


それから、SYOさんと息子はすっかり意気投合して、お友達同士のお付き合いが始まりました。


私がまだSYOさんのプライベートなことなどなど、全然お聞きしてないうちから(ほんとはシャイでおくゆかし~んだよ私は)
SYOさんと息子はどんどん仲良くなっていきました。
「連れ込んだ」日、SYOさんと私はたぶん音楽の話しかしませんでした。(しつこく、ほんとはシャイでおくゆかし~んだよ私は)


しかし、SYOさんと息子の当日「地球儀事件」のあと、帰宅してから少々ですが、拙宅でほんのちょっとセッションタイムありました。
何を演っていただいたのかは全く記憶にないのですが、TAKAMI家リビングがJAZZで満たされてとっても嬉しかったのでありました。
それは息子にも伝わったてはと思います。
ここから3人の付き合いが始まったのだな~~と、、、、
あくまでも3人。SYOさんと私の2人ではありません。

私は、SYOさんの過去?を聞き出すのにも、それからさらに数か月かかっているのです。
聞き出す…って、そんなに強引に聞き出さないよ。
自然にわかってくるのに…です。
SYOさんは「アレがアレや」などと言うので、「アレ」を類推しなくてはならない。
おくゆかしい私は、その場でストレートに聞けないのだ。
今は聞けるけどね。

だから、とんでもない全く逆の解釈を何週間もしていたときもあった。
この件もスゴいんですけど、さすがにSYOさんの過去のプライベートなので控えておくよ。



その後はまあ、徐々に画像もアップするようになったので、ご存じのとおりです。ですので、今回の連載はこれにて終了~~とさせていただきます。


この連載を書くにあたって、当時のことを検索したりなどしながら、SYOさんとTakのツーショットをたくさん見つけました。
でも、ここには限定2枚のみアップします。
あまりいい気になると息子に文句言われそうだからです。
当時息子はは大変あつかましい子供で、SYOさんだけでなく、誰でも自分が「好きだ」と思った人の膝に乗ったり、何でもタメ口で言いたいことを言う。
この無遠慮さにどれだけハラハラしたことか…
しかしその息子はもう今日はいません。息子は分別のある大人に成長しました。

私としては、これまでブログに息子の成長記録として、いっぱい画像や文章をアップして残してきて、本当によかったな~~~~と思います。





このたびは、SYOさんとの「なれそめ」をセキララに書くのが目的だったと思います。
しかし、こうして書いているうちに、SYOさんと私の「なれそめ」よりも、SYOさんと息子Takの出会いに気持が移行していったかな。





また、初期の頃ブログには書いてなかったエピソードなども時折ご紹介させていただきます。


御清読ありがとうございました。



Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「私が連れ込んで押し倒しました」2

2019-07-23 | 人生妙なり





さて。

ことが起こったのは、2007年6月Speak Lowのセッションの日です…から、第3金曜日。
当日のブログによると私はどなたかヴォーカルのお友達と一緒にセッションに参加したらしい… けど、全く誰と行ったのかは憶えていません。

そして、セッションはとっても楽しかったと、ブログにはしれっ…と書いています。今となっては全く憶えていません、でっ、その後。

私は、流れで、SYOさんと、そのお友達の男性と3人で二次会に行くこととなり、居酒屋のお座敷で気持ちよく飲みました。
そして、その男性ともお別れして、私はSYOさんを私の自宅で3次会やりましょとお誘いしました。
まだSYOさんと私は、地元大御所ミュージシャンと、これから高松で活動しようとしているミュージシャンのはしくれ…というカンケイなのであります。

フツーよぉ誘わんわ。よぉ誘ったわヽ(`Δ´)ノ
よほど気分良くヨッパであったと思われます。SYOさんはとってもいい人なので、とりあえずまあいいか…と応じて下さったのだと思います。いや、心からのんベーだったってのもあるかもな。

当時は、自宅マンションは、まだ引っ越して1年余り。部屋の手入れもちゃんと行き届いており、誰をいつお招きしてもよい状態でした。
今なら絶対ムリ!
しかも、私はチャリだったので、SYOさんにチャリの二人乗りを強要しました( ̄□ ̄;)!!  よぉ言ーたわ。もうこの時点から「押し倒して」います。
いや、3次会にお誘いした時点で押し倒しています。

SYOさんがチャリを運転して私が後ろに乗るのですが、もぉ~~これで違反だろっ!?
私のチャリの後ろには、息子のために一応子供用のカゴのようなチャイルドシートが備え付けてあるのでこれで大丈夫…とヨッパの頭で思ったらしい。

そして、SYOさんの運転で、スリムな腰の私はチャイルドシートにオシリを突っ込み、ニケツで自宅マンションへと向かおうとするのですが、SYOさんはあまりにも自転車に慣れておらず、フラフラで運転おぼつかないので、
私は、早々にタクシーを捕まえて、運転手さんに行き先(自宅)を告げて、SYOさんをタクシーにねじ込みました。






ところで。
この日は、「セッションデー」ってことで、息子は、実家に預けていたのでした。
小学2年生だからね。1人でお留守番はようせんわ。
もちろん最初からSYOさんを連れ込むためではありませんからね!!
でもまあ、今日は息子がいないからSYOさんを連れ込もう…ぐらい気が大きくなっていたのかも、、、、いんや~もうシラフだったら絶対あり得ない展開。


ねぇねぇ、これも神さまのご計画だと思う????


でっ、リビングで2人で飲みつついろんな話をしたけど、殆ど憶えていません。残念だったな~もったいなかったな~~
SYOさんの年齢は伺ったような気がするけど、それもさえも翌日になったら忘れてたし。
とにかく、かなりどっぷりと長~~~く語ったので、だんだん明るくなってきた。季節は夏至の頃。
私もヨッパではありましたが、正直なところ眠いし、でも、このあとどーするべき??と思いましたとも。どうやって寝ようか…と、、、

「うちは8時から音出しOKなので、それまでちょっと仮眠しましょぉよ。そんで、8時になったら、ピアノ弾いて~~~~!!」
…と、お願いをしたのである。
とこまであつかましい私!!!


SYOさんもまあ、気持ちよく酔っていたのであろうけど、「このオンナなんじゃ~~」とも絶対思っただろうな。
まあ、それで「8時よっしゃ」ってことになって、私の部屋に連れ込みました。めっちゃ連れ込んだ自覚はあります。たぶんですけど、6時台だったと思います。


しかし実際には押し倒してはいません

手をひっぱって連れ込みました。ハイこれが事実です。
言っとくけど、私は最初からSYOさんを連れ込んで押し倒そうとは全く思っていませんでしたからねっ!



ホントに前後不覚で泥のように1時間ほど寝ていたところ、、、


8時から私の自宅リビングがJAZZで満たされる至福の時間のつもりだったのが、とんでもないことが起こった。

息子を預かってくれている実家から7時ごろに突然電話がかかってきたのである。





つづく




Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「私が連れ込んで押し倒しました」1

2019-07-23 | 人生妙なり


数少ないツーショットを探しまくっておりますが、 もう限界




昨日は、入籍の件、ついにブログにて発表し、FBにもシェアしたところ、とてもたくさんの方からお祝辞をいただきました。
ありがとうございました。
SYOさんの教会の牧師先生に「誓約式」の相談に言ったことを書いたときにも、たくさんのお祝辞をいただきました。
ありがとうございました。

素直にとっても嬉しいのです。
しかし私は、「私が連れ込んで押し倒しました」をいつか書いてやろーと思っていて、まずは入籍することになったことから書かねば…と、
その時を虎視眈々と待っていて、ついにその日が来たのであります。


ではまずSYOさんとの出会いから…

…といきたいとこだけど、SYOさんとの出会いについては、これまでに複数回アップしています。
ので、省略…というか、ご存じない方はこちらをどうぞ。


Zac Bran Piano Trio 11th 応援演説


まあ一応概略を。

ご存じの方は目にタコです。スルーしてください。

私は30代の頃に東京で自分のバンドを立ち上げ、精力的にオリジナルを作っては発表していました。
これをゼヒとも地元高松でも!と思いました。経済的にメンバー全員を率いてくるのは無理なので、音楽やってる弟、妹、そして、弟が紹介してくれた地元ミュージシャンと一緒にやりました。
その時に知り合ったベースの高橋修さんは、今でもずっと「WIND AND SOUND」でベースを弾いて下さっています。
そして、LIVE当日、高橋さんの案内で、SYOさんが聴きに来て下さったのですが、私は全く当日はお会いもせず、お話もしていません。
ただ、「アンケート」を書いてくださり、それがきっかけで、年賀状だけのお付き合いが10年以上続きました。
アンケートも画像アップしています。
1度もお会いしたことのない人との年賀状が10年も続くとは、稀有なことです。
私は年賀状は律儀に書くタイプでしたが、SYOさんはそれ以上に律儀な方です。
そして、私が離婚して、息子を連れて高松に帰ることとなった時、SYOさんに、「高松で音楽活動をやっていきたいので宜しくお願いします」と手紙を書きました。

ま~~続きは、ご興味のある方は上記リンクをご覧ください。


この記事ははSYOさんと私の出会いがテーマではなく、「ZAC BRAN PIANO TRIO」の応援演説なのです。
しかし、今読み返して、ミュージシャンとしてのSYOさんへの尊敬の思いは今でも全く変わっていません。
(まあ、12年もたてば、私も相当ズケズケとモンク言うようになりましたけど。音楽的にも、日常生活的にも。)


それが1番。
2番目は息子のことです。
どれほどいろんなところに一緒にいって、楽しい時間を過ごしたことか。
息子が高校生になり、一緒に行動しなくなってから、そして最近ではさらに、息子と一緒に遊んだ公園やあちこちに出かけて、当時のことを2人で懐かしんでいる今日このごろ。
息子の父親でもない人が、こんなに息子のことを愛情をもって見守ってくれていて、今もなお全く変わらずに愛してくれていることは、どれほどの喜びでしょうか。



イカン、、、なかなか「私が連れ込んで」…が書けないな。
次回こそは!



ところで、SYOさんを画像で拙ブログに初登場させたのがコレです。



2007/10



ナイショでしたからね~~当時は!! SYOさんは虫捕りがかなり得意で、息子にいっぱい伝授してくれました。M氏とは、「Michael」のMでありますが、名前の公表もNG。
でもこれ、今こうしてみたら、後姿、絶対SYOさんや~~ん\(^o^)/

その後だんだん規制緩和されてきて、SYOさんはTAKAMIの音楽パートナーな様相になってきて、そのうちもぉ既成事実として開き直ってきたな。



「連れ込んで押し倒した」日のことは、当時は「しれっ」と書いているのがあまりにもウケる。
いやまあ、次回こそ赤裸々に書きますので、お楽しみに。

いやもう、これから早速書く。


Comments (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「私が連れ込んで押し倒しました」序章

2019-07-22 | 人生妙なり






ついについにSYOさんと入籍することとなりました。

おめでとうおめでとう…とまずはSYOさんと私自身に心から言いたい。


お付き合いを始めて12年。あまりにも長すぎて、もぉ別に今さら結婚なんかしなくてもいいじゃん!
お互いにこの年齢で、これから家族となっても子孫が増える訳じゃないし。

…とは思っていません。


SYOさんは、息子が4年生だった時のある日、私にプロポーズをして下さいました。

その時、私は「うん」とか、
なんだか忘れたけど、承知を表明したのです。
そしたら、SYOさんはなんて言ったと思う?
「やった。」

少年じゃ~~ん、、、


私はそれまで2年近くものお付き合いが日常化しているので、特に「結婚」に日常的な意義は感じませんでしたが、お互いにクリスチャンとして、神さまの御前で結婚の誓約を交わすのは素敵だな…という思いは私にもありました。

しかし、その時に私はSYOさんに、息子が18歳になるまで待ってほしいと申しました。
何故なら、うちは母子家庭で、児童扶養手当を受給している、さらには、息子の父親から養育費も頂いている。
息子が高校卒業するまでは、この状態で自力で息子を育てたいと。
SYOさんに、息子のことで経済的にお世話になることには、自分自身大変躊躇がありました。

息子は高校を卒業し、希望していた公立大学が叶わず、大阪の専門学校に通うことになりました。
経済的に「浪人」という選択肢はありませんでした。
彼は、専門学校では水を得た魚のようで、勤怠も成績も良く、特待生となりました。
そして、学費の減免を受けられることとなりました。

しかし、学費の減免には、家庭の状況や収入の制約があります。
その為にSYOさんとの結婚はさらに延期になり、また今年も減免申請でさらに延期になり、、、、
ようやく今年度の息子の学費減免の申請が受理されました。


さっ! ほな結婚!!

…という訳ですわ~~~\(^o^)/
しかしもう、あまりにも長すぎて、入籍もいったいどのタイミングで…とかも、どうでもいい感ありまくり。
一応教会の牧師先生には相談はしたものの、なんかぼんやりなカンジでしたが、
ついについに!!ですわ~~\(^o^)/


(つづく)


次回からは、SYOさんとのなれそめ
「私が連れ込んで押し倒しました」をいよいよ連載予定。
乞うご期待!!







Comments (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2019 あけましておめでとうございます

2019-01-09 | 人生妙なり






あけましておめでとうございます。


もう七草粥も終わり、鏡開きの頃というのに、いつまでもクリスマスの記事で放ったらかしていました。



今年は、なんだかのんびりゆったりとした年末年始を過ごしました。
何故なら、お正月に関する一切の行事を放棄していたからであります(^_^;)

「おせち」は作らずとも、大晦日も元日もスーパーは開いている。
年賀状は、下さった方にお一人ずつお返事を書く。

息子が10日ほど帰省していましたが、彼は「おせち」や「お雑煮」には子供の頃から興味がなく、大晦日には年越しそばでなく「うどん」を所望するし。
そんなこんなで、殆ど日常に近い年末年始を過ごしました。

でも、大掃除は一応やりましたよ。

6年近く「開かずの間」だった息子が小学生時代の勉強部屋(とは名ばかり)、中学以降は物置きと化して、荒み続け、足を踏み入れることもできなければ、
廊下の途中のドアなのに、明り取りに開けておくこともできなくなっていた部屋の片付けをついにやった!!
私としては、もぉ~~この年末年始はコレだけで大満足。


開けましておめでとうございます\(^o^)/








開けられずの物置の日々、、、




なんといっても、部屋の真ん中に鎮座している、このコタツの下の1000ピースのジグソーパズルが、、、
息子が高校時代に作って放ったらかしたままで、コレをなんとかしてくれない限り、部屋全体がどうともしようのない廃墟廃室の空間と化していたのでありました。





息子は10日ほど帰省していましたが、
いよいよ息子大阪へ帰る日になって、やっとこさ、ジグソーパズルのパネルを買ってきた。
保育園時代からのオモチャや積み木やプラモ、絵本やビデオ、モデルガン、その他…年末に捨てまくったけど、それでもコイツのおかげで移動ができないモロモロをイッキに処分して、
あ~~~ついにスッキリ\(^o^)/


今年は、「ミュージックあにまあと」の新しいウェブサイトを立ち上げ、ヴォーカルレッスンを充実させます。
昨年までは息子の受験などで、自分のLIVE活動も自粛…というより、気分的にあまり積極的になれませんでしたが、今年からはやるよ~~!!
早速次の記事でご案内させていただきます。



新年2日には、高校の同窓生みっちゃんとSYO Michaelスタジオで、3人で濃ゆ~~い合宿やりました。
海鮮鍋でまったりと飲んだあとはセッション。
みっちゃんは、高校時代は声楽だったのだけど、今も立派なテノールだけど、ソプラノサックスでJAZZの世界に足を踏み入れています。


翌3日は、母校高松第一高校が校舎建替えのため、今年取り壊されるので、音楽部(合唱部)OBOGが懐かしの音楽室に集まって、当時の顧問の先生の指揮で、愛唱歌を歌うというイベントに参加しました。
Fscebookだけでの声かけと思われるのに、120名くらいの方が集まって、世代を超えて合唱する校歌や愛唱歌には胸が熱くなりまくり、声がつまりました。
私は諸事情により、現役時代は部活に没頭することが許されておらず、思い出も希薄なのです。
当時は、「うま~く魂を抜きながら」参加していたのだと思います。私が全然憶えていないことを友人や先輩後輩達が憶えて語ってくれるのです。
今となっては、この部活に参加できて本当によかった。
他のOB OG 達は、当たり前なことですが、現役時代の延長のように談笑したり、記念撮影をしたりしていましたが、
私にとっては「現役時代の延長」というのはなく、ひたひたと、一人で感慨に耽るばかりなのでした。
なので、画像はなし。


4日は、ラフォンテーヌの初セッションに参加させていただきました。

前出のみっちゃんも参加。
そして我が息子もついにセッションデビュー。




What a Wonderful World photo by 國井類





大きな古時計  photo by 國井類




Moon River  photo by 國井類



今年も音楽で幕開けとなりました。

これからもたくさんの音楽を紡いでいきたいと思います。
本年もどうぞ宜しくお願いいたします。



photo by SYO Michael







Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

SYOさんのお誕生日ランチ&デート

2018-12-15 | 人生妙なり






今年は大胆に結婚宣言してみたけど、ムリだったなあ~~~(^_^;)

しかし、誕生日は毎年確実に訪れる。

SYOさんのお誕生日は12月9日。いて座O型。しし座A型の私との相性はバッチリなのだ。
2度も離婚歴のある私ですが、SYOさんとは10年越のお付き合い。SYOさんとダメなら私は誰ともダメなのですと申して憚りません。


お互いに歳を重ねました。


あ~~~ここまで書くと、なんだかSYOさんとの「なれそめ」をめっちゃ語りたくなってきたけど、今はやめておこう。
いずれ赤裸々に書きますけどね。
今のところ、拙ブログに初めて登場していただいたSYOさんの画像だけはアップしとく。





息子の虫捕りに付き合ってくれてるところ。
暫ししみじみと過去ログを振り返ってしまいました。


SYOさんは地元ミュージシャン大御所なので、12月は毎年忙しいのです。特にクリスマスは連日レストラン香松でのディナーライヴ。
お互い別々の教会の奏楽奉仕もあるので、SYOさんと私はクリスマスを一緒に過ごしたことがありません。
去年までクリスマスは、息子のサンタクロースを全身全霊でやってました。
っていうか、サンタクロースは毎年私のところにやってきました。「これを贈れ」と指令がくるのです。
今年はまだ来ないなあ、、、どうなるのかなあ、、、
指令が来ればやるつもりなので、なにも自発的には考えてません。


話が逸れまくりましたが、SYOさんがレストラン「香松」ランチに誘ってくださいました。
さすがに自分の誕生日ランチに自分で予約を入れるのは恥ずかしいらしいので、私が予約しました。
こーゆーところに熟年ペアのおくゆかしさが滲みまくるな、、、



…と、脱線しまくりました。

レストラン「香松」で久々のランチデート。




オードブルは海老と帆立のアヒージョ …なんだけど、このオイルを食べ尽くしたくて必死でパンに浸して食べまくろうとしてたら、
お皿を下げるとき、これだけちゃんとテーブルに残して下さいました(^_^;)





スープも安定の美味しさ。いつ来てもどんなスープでもおかわりしたくなる。





メインのビーフシチュー。
ほんとのビーフシチューってこんな味。
私はこれを目指して作っていたので、わかる。とっても感動しました。
しかも、野菜もさりげないけどいっぱい入っていて、気取らない素朴な家庭料理の雰囲気。
明日もまた食べたいなって感じ。これがシチューの真骨頂でしょ。

















窓の外では鶺鴒(せきれい)が遊んでいます。ツガイかな?






お店の方からお2人で記念写真を…と言われたのにお断りしてしまった。照れまして、、、
まあ、またすぐに機会は訪れるであろう。
でも久々にSYOさんのフツーの写真撮りました。
なんか、動物みたい。目がね。
私、この写真すごく好きです。後ろのテーブルにいたオッサンは塗りつぶさせていただきましたへっへへ (^_^;)

SYOさんお誕生日おめでとう。







Comments (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京帰省…死を思い昼酒うどん

2018-09-04 | 人生妙なり


最初はカッシーと古巣の「HUB」で昼酒♪




8/31~9/2の2泊3日、東京に帰省してました。

アップしてるのは殆ど「うどん店」の画像ばかりだけど、これだけを目的に行ったわけではありません。
「うどん」の場面以外は「写真撮ろう」という意識が全然ありませんでした。

3年ぶりの東京。目的は嘗て東京で濃い時間を過ごした懐かしいお友達にそれぞれ会って語りまくること。

あっという間だったけど、一緒に過ごして下さった方々、本当にありがとうございました。
なんだか、「オムニバス」な帰省とでもいうかなあ、、、



ゲリラ豪雨の「長谷川」(大泉学園)で最初に飲んだ酒。名前は忘れた。


FBやブログなどで、近況はわかっていてもやっぱり実際にお会いして、直接顔をみて声を聞いて空気を共有するのって、ものすごく嬉しい。
SNSがあるからこそ、時間と距離の経過とともにフェイドアウトしていかず、ずっと保たれる…っていうのもあるなあ。

昼酒夜酒飲みまくり、このブログには絶対書くことのできない内容の濃~~~い話を語りまくり、、、
いや、ブログどころか、両隣に他のお客様のいるところで、はらはらドキドキするようなモノスゴイ人生報告を聞いたり、、、

みなさん、それぞれ、自分のこと、息子さんや娘さんのこと、要介護の親御さんのこと、いろんなことを抱えててスゴイ。

結婚した人、離婚した人、それぞれみなさん、「打ち止め」ではなく、まだ次の人生があります。

東京時代よりも、ドラマはいっそう展開しており、今回お会いできた方々お一人お一人、あまりにも濃くて「ちょっと要約して書く」なんてこと絶対ムリ。



スミマセン、コレも美味しかったけどなんなのか忘れました…



…しかしいずれは収束して、いやしないままでもピリオドを打つ時がくる、それぞれの人生。
そこに確実に近づいていっているのだってことを、ずっしりと想う時間が少しずつ増えてきた。

その前に親の介護…とかあるんだけど、うちの両親まだまだ元気なので、そこをすっ飛ばして、自分の人生のピリオド、、、ってなんで??


というのも、私の周囲には、独身男女がかなり多い。一般的な方の周囲よりも相当多いと思う。
加えて、結婚してるけど子供は産まないというご夫婦も、かなり多い。
私の友人の大半がミュージシャンや、音楽関係者だからかなと思います。
しかし、これが普通に暮らす一般的な夫婦の形態になりつつあるかも…という気もしています。



茄子とイチジクの胡麻和え (すごっ!めっちゃ美味しかった!!私も作るよ~ん♪)


ハーフのひやかけは、感動的でした。思わず画像撮る前に食べて噛み千切ってしまったわい!



そんな中、今の自分がやがては迎える最後のときってこれからどうなるの??
今やってるお葬式や、火葬のやり方、墓地への納骨って、このままでは時代のニーズに合わなくなるんじゃないの?
いやもうすでになっているのでは?

…と、私は兼ねてから思っているのであります。

どぉよ??



さぬきうどん店にこんなお通しが、、( ̄□ ̄;)!!



数年前に、私の父と、高校の1年先輩を1週間の差で見送って壮絶だったとき、まずは「親族でなくては病状の説明を受けられない」という壁にぶちあたりました。
私の父のパートナーさんは何十年も連れ添いながら入籍しておらず、また、私は1年先輩のSさんとは、知り合って1年足らずのヴォーカルの生徒さんというだけにもかかわらず、
他に付き添いの親族が誰もいないってことで、彼の死に立ちあい、葬儀から納骨まで、深くかかわることとなりました。


私は人の死というのもは、遺された人に託せばよいのだと大昔から思っていたのです。
私が死んだら、私の葬儀や葬方やお墓や、そんなことは、「しきたり」のことなど一切どうでもよく、
私の死(を越えて次の世界にいくということ)を最も大切に思ってくれている人のやりたいよーーにやってくれれば良いと。
今日では、これまでの慣例で、家族や親族が葬儀の主催者であったり、また相続も火葬もなにもかも「血族主体」だけど、これが現代の人の死に方に合っているとは思えません。
私はSさんの死~納骨に立ち会って、本当によかったと思っています。



お通しの、苦くて正しいゴーヤーのお浸し、そして日本酒はワイングラスで供される…


数年前、私のバンドである「WIND AND SOUND」でゲストプレイヤーにお招きしたことのある、嘗てのとても有名なプロのビッグバンドの主力メンバーであった方が孤独死しました。
詳しいことは全く知らされませんでしたが、結局彼は親族のもとに引き取られ葬られたのではないかと推察します。
親族にとっては、何十年も交流がなく、大変迷惑なことだったのかも知れません。
一方、私たちミュージシャンにとっては…少なくとも私にとっては、どれほど触発され、感動を与えて下さったか。
…でも、お別れの機会はありませんでした。

これから、こういうお別れはきっとかなり増えていくと思います。
葬儀も相続も、このような血族主体って「このままでいいのか?」と感じます。



いりこのピクルス 伊吹島のいりこは、ハラワタも甘いという話で盛り上がりました


こんな話を、このたび上京の折に、約10年ぶりぐらいでお会いした弁護士のお友達S氏に話したところ、スゴイ話を伺いました。
裁判所から成年後見人に選ばれた弁護士の方が、被後見人の死、火葬、遺骨の収集にまで立会い、若い後見人は知識不足のため、長い間その遺骨をどうしていいかわからず、 ご自分の事務所の棚に何ヵ月も保管してあったのだとか。

この遺骨がそのあとどうなったのかは伺ったけど忘れましたが…
遺骨なんてどうでもいい、大切なのは天国へ行くその時なのだ…と、個人的には思うのですが、、、遺された人にとっての、人の死の煩雑なことについて、私、上記のように感じています。






閑話休題。


私はこのたびの「東京帰省」で、東京のうどんを食べるのをとても楽しみにしていました。
香川出身、東京在住の同窓生たちは、しょっちゅううどんを食べて、ウマそうな画像をFBにアップしているのです。
いいな~いいな~…と、いつも美味しそうなうどんの画像を見て指をくわえていたのであります。
東京のうどん屋では、蕎麦屋のように、酒の種類とアテが豊富で、まずは飲んで、〆にうどんを食べる…というスタイル。
これ素敵。香川ではあり得ないスタイル。
香川のうどん屋は、短時間でささっと食べてさっさと立ち去るというところだからね。



野菜の天ぷら、初めてホンモノ見ました


そして、器も盛り付けもとても美しい。
それていて、堅苦しくも高慢な感じでもなく、ゆるゆるとくつろげる。
こんなお店、香川にもできてほしい~~~!!
「新東京讃岐うどん 花は咲く」新宿御苑前店





うどんを食す達人の耕造さんが「香川からの客人をうどん屋さんへ案内する会」と大袈裟な会合の名前を付けて予約を入れて下さったので、
もう、大将自ら店の外に出て私たちを迎えてくださり、帰るときも、タクシーを拾える場所までご案内して下さいました。

また、耕造さんは、予約のできないこちらのお店では、ゲリラ豪雨のものすごい中、開店前から20分以上も店の外に並んで下さいました。香川からの客人の私(と、みっちゃん)のために!!!
素敵すぎます。
普段なら開店前から長蛇の列なのだそうですが、さすがに豪雨なので並ぶ人はいませんでした。
そして、私たち3人のために、定刻より早く暖簾を出して下さいました。






うどんを食す達人は、もてなしの達人でもあるのだなあ、、、とっても素敵。



それをいうなら、私の東京における音楽パートナーのカッシーもギターの達人であると同時に、もてなしの達人だ。
彼はさりげなく超絶ジェントルマンなのだ。(あははは、書いてる指が笑ってる…が、ホントにホント)
彼はいつも、さりげな~~~く私を酒と音楽でもてなしてくれる。
私が「このところLUSH LIFEが好きなんだよ、弾いてみて」って言うと、私がいない間に楽譜を探して、ナニゲに譜読みしてみてくれてる。
私はカッシーのギターで歌ってみたいなと思ってたんだけど、めっちゃ難しい曲だし、あまり演奏されることはないし、なんとなくしつこく言うのもなあ…と思ってたけど、
最後の日に、一応、弾いてみて~…と言ったら、なんと彼はソロで弾いてくれたのだ。
「LUSH LIFE」を1日でソロで弾くなんて、スゴすぎる。やっぱりカッシーはすごい、素敵。
やっぱりいつか、カッシーのギターで「LUSH LIFE」がやりたい。

私が一緒にフラミンゴやってた頃より、もぉ、全然成長してて、ただでさえ以前からスゴかったのに、さらに上手くて素敵すぎる。






そして、今回は、息子が保育園時代にとても可愛がっていただいたKファミリーのところで1週間お世話になりました。(私じゃなく息子が)
息子は、Kファミリーの三男坊として受け容れてくださり、一人で東京の主だった建築を見学しながら、毎日伸び伸びと過ごしたようです。
伸び伸びしすぎなんじゃないのぉ~~!?!?ってほど。


でっ、まあいろいろはしょりまくりましたが、まとめとしては

東京帰省楽しかった!めっちゃ幸せ!!



最後になりましたが、息子のとーちゃん、SYOさん、ご協力ほんとにありがとうございました。




Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

庵治探訪…少女タカミを訪ねてⅢ

2018-05-27 | 人生妙なり




まずは「山田家」
教会でうどん、いただいてましたので、おでんとビール。つつじの美しい季節♪♪




庵治探訪。前回行ったのはちょうど4年前の5月でした。




ずっと私のブログを読んで下さっている方はご存じのことですし、再三同じことを書くのもな~と、少し迷いましたが、
手短に…

私は小学校5年生から中1までを「庵治」という海辺の漁村で暮らしていました。
両親の離婚によって、私は母方の祖母の「庵治」の家に預けられて暫くは祖母と2人で暮らし、そこから高松市街の小学校にバスで通っていました。
祖母の家は「小屋」のようなところでした。
8畳と4畳の部屋。土間を簡易的に改装した板の間の台所と汲み取りトイレと物置とは、水平な天井がなく、屋根の斜めの角度がそのまま。
かなり特殊な環境だったと思いますが、私は自分なりにその時代をインナーワールドですごく楽しんでいました。

やがて母が再婚して、妹が生まれて、5人で暮らすことになり、私たち家族は窓から屋島と庵治の海が見えるメゾネットのアパートに引っ越しました。

東京での27年に終止符を打って高松に帰ってきたときの5月、私は初めて祖母と暮らした「小屋」のあった場所を訪ねてみました。
そして、4年前には、家族5人で暮らしたメゾネットを見にいってみました。

いずれの時も、不安で胸がドキドキして、特に数十年ぶりで行ったときは、いったいそこがどうなっているのか、全くなにも知らないので、本当に自分がそこを見てどうなるのか怖い思いもありました。
まるで封印が溶かれるような。

メゾネットは、車で通るときに少しだけ見えるので、廃屋になっていることは知ってました。
…が、実際にその場所に踏み込むのはほんとに勇気がいりました。
4年前その場所まで行って、とても懐かしかったのだけど、嘗て自分が住んでいた家の荒れ果てた画像を撮る勇気がありませんでした。

が、今回は撮ってきました。








「ざわざわ」とした気持はなく
ここもまた、私が住んでいた本当に本当に懐かしい時代の懐かしい場所なのです。

妹はこの家で、このメゾネットの階段の上と下で、私に
「で~~~ちゃん!」(ねーちゃん)と、声をかけてくれた。
これが妹の初めて出た言葉だった。なんども妹は「で~~ちゃん!」とにこにこしながら言いました。
こんなことも、きっと家族の誰も覚えてないだろうなー。

きっと両親にとって、この時代は、早く通り過ぎたかったに違いない。
早く安定した生活を子供たちにも与えたいと思ってすごく頑張っていたと思います。


自分が暮らしていた場所が、更地になっていたり、廃屋になっていたりするのって、胸がきゅぅ~~んとなります。
だけど、その感覚も、何度か訪れるたびに、また、年月とともにだんだん薄らいでいって、
楽しく懐かしい思い出だけが残っていくものだということにも気付きました。





でも私にとっては、この時代があってこそのTAKAMIなのです。何度もしつこいけど。

ずっと音楽を続けてきたのも、自分のうたを作ってきたのも、これからどんな音楽活動をしていきたいと思っているのかも、この時代が原点なのです。







この廃屋のテラスにとても大きなサボテンの鉢植えが置き去りにされていました。
きっと誰にも手入れされず、自力で成長したものと思われます。
植木鉢に対してあまりにも大きなサボテンだった、、、
下半分は蜘蛛の巣で覆われていました。ちょっと一部腐りかかっているようにも見受けられました。
自力でこんなに大きく成長するまで、どれだけの年月がかかったのだろうか、、、、
「あなたのことは、これから私がお世話しますからね。」
…ではなく。
「あなたとお話がしたいので、私のところにお越しくださいぜひともお願いします。」
との思いで、近々我が家にお越し願おうと思っています。
先ほど初めてお会いしたときには、おこがましくて、そんな発想はありませんでした。
でも、撮ってきた画像を改めて見ていて、どうしてもこの方をお連れしたくなりました。

アホちゃう!?と笑ってやってください、、、
きっと、お庭の植物や虫たちを大切にされている方には少しおわかりいただけるかも、、









Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

SJこさんをお迎えしてのお泊り飲み会

2018-05-07 | 人生妙なり


SJこさん指示により作った生春巻き




兼ねてから計画していたSJこさんにウチにお泊りしていただく宴。

息子が家を出て、ベッドが空いてるのでゼヒともうちで飲んお泊りしてね…という計画。
彼女は左半身が不自由で、片手、片足の生活。床に座ることも寝ることもできない。

これまでに何度か彼女を交えた飲み会や、彼女主導の花火大会…などやってきたけど、
いつも飲まずに自宅に車で帰っていたので、ゼヒともゆっくりウチでお泊りいただいて心行くまで飲んで語りたかった。
それがいよいよ実現しました。

2人だから、そんなに本格的な準備はいらないや。
ヤムウンセンとか、タイスキとか、昔からよく2人で行った激辛タイ料理をちょこっと作ろう…とか思ってたんだけど、
SJこさんは彼女なりに、食材を「こんなに( ̄□ ̄;)!! 」というほど用意してきた。
私の料理の出番はほとんどありませんでした。



SJこさんが仕入れてきた超絶ちまき




あまりにも量がハンパないので、atatachanご夫妻を突然ご招待することにした。
ご夫妻は快く承諾してくださり、突如4人での宴会となった。

atatachanご夫妻宅でのホムパの画像はこれまでにも何度もアップしてきたけど、
もぉ~~お料理もテーブルセッティングもスゴすぎなのですが、
ウチは息子が家を出たばかりで、まだ片付けもしてないし、こんな状態で人を招く!?状態なのです。
なので画像ナシ!!

…と思ったら、ちょっとだけあったので一応アップしとく。

よくまあ、こんな物置のような家にお泊りいただいたなあ~~~~~


でも、やぱり気のおけない仲間同士の飲み会って、どんなシチュエーションでも楽しくて、とっても幸せ満載だった。

翌朝8時に我がマンションの音出しOKになったら、彼女に歌ってもらった。
私はゼヒともSJこさんと一緒に歌って遊びだかった。
今回のお招きのいちばんの目的は実はコレだったんだ。
彼女に歌の世界に戻ってきてほしいという強い願いがあるのです。

SJこさんは、高校のとき、声楽のコンクールで一位になりました。
その時の自由曲だった曲、私、覚えてたので、まずはそれを歌ってもらった。
「Lascia ch'io pianga」です。
彼女は私と同じ大学を受験して、現役合格を果たしました。合格発表を見にいくまでもなく絶対ムリ!と思っていた私は、彼女から公衆電話で連絡して不合格を伝えて貰いました。

「TAKAMI、なかった(受験番号が)」
「そうやろ、ありがとう、気にしないでね。SJこさんは?」
「あった。」
「やったじゃん! じゃあ次も絶対頑張って!!ホンマに!!!」
「うん、がんばるよ。」
大学は4次試験まであって、3次試験の合格発表の出来事。

このような会話が交わされたこと、一生忘れられません。彼女の底力をひしひしと感じました。


彼女は病気の後遺症もあり、長い間歌から遠ざかっていることもあり、当時の一位入賞の曲は、最後まで声をキープして歌いきることができなかった。
そこで私は、キーをう~んと下げて歌ってみてもらった。
SJこさんはとっても気持よさそうに歌ってくれた。
それから、私が移調して弾ける範囲のイタリア歌曲や、日本の歌を一緒に演奏して遊んだ。

私はバンド活動人生の中で、ヴォーカルのキーなんて、自分の声域に合わせる、または、バックのミュージシャンが演奏しやすいように決める…という感じでやってきました。
クラシックの、オーケストラをバックとするオペラは「特殊」とさえ思えるほどです。
このオペラのキーや音域に挑戦するために切磋琢磨する…ということは、散々やってきたし、それはそれで一生懸命だった。

だけど、じゃあ、SJこさんは、音楽人生からの脱落者なのか?
そんなことあり得ない。

素人さんのギター&ヴォーカルの方が、なんとしてもこのキーで歌いたい…みたいなオリジナルのキーに対する拘りがあったり、カラオケでもオリジナルキーへの拘りある方かなりいる。
さらは、バンドでも「完コピ」(オリジナルをそのまま再現すること)を目標として頑張ってる人数多。
それは、過程であって、オリジナルを勉強することは大事だけど、最終目標じゃないよ。
自分が今持っている楽器(声もそう)と表現力で、どこまで人に想いを訴えて、受け止めてもらえるか…でしょ。
そこのところがブレることなく、音楽に携わってほしい。プロ、アマチュアに関係なく。


私は、自分の演奏活動とともに、そういう志を持っている人たちのサポートをしたいと思っています。
この思いは「指導」とか「レッスン」とかそんなんじゃないのです。
しかし実際には生きていくために報酬は必要。
ガンガン仕事しなくちゃ。息子の今いちばん費用のかかる時期。


納得していただけるいいLIVE、いい仕事がしたいと、改めて思った次第。










Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする