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ペトロとカタリナの旅を重ねて

あの日、あの時、あの場所で
カタリナと歩いた街、優しい人たちとの折々の出会い・・・
それは、想い出という名の心の糧 

リッカルディ宮 ‐ フィレンツェ

2011年09月21日 | イタリア

 夕闇の街をリッカルディ宮へ向った。
 筈なのだが、何を勘違いしたのかひどく遠回り、夜道は暮れないと言うものの、閉館時間もあって、「どうして?とご機嫌斜め。

 何も、「何も間違おうと思うて・・・、メディチやリッカルディやパッツィ、おまけに、ヴェッキオ、ピッティと紛らわしいやろ? 」と弁明すれど、「別に!とにべもない。

 Photo経済的な困窮から不満を募らせた労働者の蜂起と、政策運営に不満を持つアルビッツィ家が手を結んだチョンピの乱。
 世間の妬み嫉みを痛感、<職住を結ぶ回廊>まで拵えたというコジモさん、わざと簡素に建てたリッカルディ宮に、フィリッポ・リッピの傑作、「マドンナ」はある。

 時間も遅く殆ど人がいない3階の展示室、「マドンナさんは何処かいな?ときょろきょろしていたら、色鮮やかなマドンナ(写真上)がガラス板の向こうに展示してあるのが目に入った。
 が、余りにも色鮮やかで、「レプリカじゃないの?と疑ってしまった。

 館員に訊くと、件の絵を指し、「これがマドンナよ」と教えてくれたが、俄かに信じ難く絶句、どうも、修復された直後のよう。

 彼の「<聖母子と二天使>」(ウフィツィ美術館蔵)に比べればマイナーだが、実に素晴らしく、上半身に薄絹を纏う幼子イエスが母マリアに甘える様子を、見事に切り取っている。

 Photoその後、探し回ってようやく辿りついたのがマギの礼拝堂。
 <マギ>とは、イエスが誕生したとき東方から訪れ祝福と贈物をした三博士のこと。

 その「東方三博士の礼拝」の場面が描かれていて、作中にメディチ家の人々が登場している。

 15世紀、コジモの努力により、ギリシャ正教とローマ教会の統一公会議がフィレンツェで行われた。
 ゴッツォリ描くこの画は、その会議を記念して礼拝堂の周りの壁に描かれた。

 狭い礼拝堂(写真下)の四囲にフレスコ画とは思えないような丹念な筆使いで、修復を終えたばかりなのか色彩豊かに描かれていた。

 ふたりだけの礼拝堂、飽きるほど?眺めた。
 ところで、<ブランカッチ礼拝堂>同様、今はここも15人単位で僅か15分間の入替制、しかも有料と聞く。
 聊か長すぎたとも思う<フィレンツェの旅>、そろそろ終わりに近づいてきた。
 Peter & Catherine’s Travel Tour No.381

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続々・ノヴェッラ教会 ‐ フィレンツェ

2011年09月19日 | イタリア

 サンタ・マリア・ノヴェッラ教会のルチェッライ礼拝堂。
 斜塔の町、<ピサ>のサン・ジョヴァンニ洗礼堂の説教壇を制作した、ニコラ・ピサーノの「聖母子像」が置かれている。

 1dragon主祭壇の右、ストロッツィ礼拝堂の壁面には、15世紀フィレンツェ派を代表する画家のひとりで、ブランカッチ礼拝堂の「<聖ペトロ伝>」を仕上げたフィリッピーノ・リッピが手がけたマニエリスム様式の先駆的代表作、「マルス神殿から龍を追い出す聖ピリポ」(写真上)が描かれている。

 この作品は、「福音書記官聖ヨハネとピリポ伝」のひとつがテーマ。

 イエスの十二使途のひとり聖ピリポが、トルコ西部の世界遺産で名を馳せる石灰華段丘・パムッカレの上のヒエラポリスに建てられた、軍神マルスの化身である悪龍を崇めるマルス神殿に十字架を建てたところ、悪龍が現れ、王子を始めとする数名が惨殺されるも、聖ピリポの奇蹟により死者が蘇生した伝説的な逸話である。

 また、「福音書記官聖ヨハネとピリポ伝」のひとつ「ドルシアナの蘇生」(写真下)も描かれている。

 この逸話は、聖ヨハネが、エフェソスへ帰還の途中、ドルシアナの葬式行列に出会うところから始まる。

 3druisa_2ドルシアナとは、生前ヨハネの戒めに従い、「死ぬ前にもう一度彼を見たい」と切望していた女性のこと。

 葬式行列に出会ったヨハネは、行列に止まるよう命じ、そして、大声で、「さあ、起きあがってドルシアナ。家に帰り、私のために食事の用意をして下さい」と言った。
 彼女は奇跡的に息を吹き返し、棺の中に起き上がった。その劇的な場面を描いている。

 サンタ・マリア・ノヴェッラ教会、有料にはなっていたが、これらの作品が全て修復され美しく蘇っていた。

 傑作を目の当たりにした時の、何時もの快い余韻を楽しみながらノヴェッラ教会を後に、リッカルディ宮へ向った。
 教会前のサンタ・マリア・ノヴェッラ広場には、大きなクリスマス・ツリーが飾られ、オーナメントが夕暮れの広場に点滅を始めていた。
 Peter & Catherine’s Travel Tour No.380

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続・ノヴェッラ教会 ‐ フィレンツェ

2011年08月29日 | イタリア

 サンタ・マリア・ノヴェッラ教会中央祭壇の壁面。
 ここには、若き日の<ミケランジェロ>が師事した画家、ドメニコ・ギルランダイオが 「聖母マリア伝」を描いている。
 ちなみに彼は、ダ・ヴィンチが参考にしたという 「最後の晩餐」を、<サン・マルコ修道院>に描いている。

 Photoこの 「聖母マリア伝」(写真上)の主題はマリアの母、聖アンナの物語である。

〈 ある日、アンナの夫ヨアキムが、エルサレムの神殿へ供物
〈 を捧げに行くと、子供がないことを理由に祭司長からなじら
〈 れ、神殿からも追い払われてしまいます(写真上)

〈 ヨアキムは、失意のうちに荒野に退き、もう家に帰ることも
〈 できないと思い定め、羊飼いたちと暮らしていたのですが、
〈 ある日そこに天使が現れ、妻アンナの妊娠と生まれた子がイエスの母となることを告げられるのです

〈 そしPhoto_2て、そのしるしとしてヨアキムは、エルサレムの金門へ
〈 呼び出されるのですが、やはり、天使に金門に呼ばれたア
〈 ンナと出会います

〈 ふたりは喜びに満ちて抱擁しますが(写真中)、その瞬間、
〈 アンナは子供、即ち、聖母マリアを宿すのです

 この作品では、聖アンナの汚れなき受胎の瞬間、そして、出産後の場面が描かれている。

 また、ギルランダイオは、ノヴェッラ教会の礼拝堂に 「洗礼者ヨハネ伝」(写真下)も描いていて、彼がこの作品を描いている頃、ミケランジェロが弟子入りしたとされている。

  一説によれば、Photo_3この聖母マリア伝の一場面、聖母被昇天のディテール、群像の中に描かれた後ろ向きの人など、ミケランジェロが描いたのではないかとも言われていて面白い。

 ギルランダイオが外出している間に、この教会内で仕事をしている人達のスケッチをミケランジェロが描いていて、その余りの巧みさに驚いたというエピソードも残る。

 この時ミケランジェロ、僅か14歳だったとか。

 余談だが、ミケランジェロの永遠のライバル、<ダ・ヴィンチ>。
 ここサンタ・マリア・ノヴェッラ教会で三年間暮らし、傑作 「モナリザ」を描き始めたとされているが、何とも因縁めいて面白い。
 Peter & Catherine’s Travel Tour No.371

 ※ 「ノヴェッラ教会 ‐ フィレンツェ」へは、<コチラ>からも入れます。

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ノヴェッラ教会 ‐ フィレンツェ

2011年08月26日 | イタリア

 旅中の遠足<ピサ>からフィレンツェに戻った遅い午後のこと。
 ホテルの部屋のバルコニーから、西に傾く日を背に影絵のように浮かぶサンタ・マリア・ノヴェッラ教会(写真上)を眺めた。

 カタリナ に、「覗いてみようか?と誘うと、「その後、リッカルディ宮へも行こうよ」となった。

 Photoドミニコ派のこの教会、訪ねるのはこの日で三回目。
 最初に訪れた99年は、大聖年を前にしての工事であえなく門前払い。

 翌大聖年、教会の巡礼で、グループから離れ教会付属の薬房でコロンを求めた道すがら訪ねた折には、入堂はできたものの堂内いたるところ工事中、「聖三位一体」などの祭壇画はパネル化のためか殆どがシートで覆われていて悔しい思いをさせられた。

 三度目の正直と訪れた02年、聖堂正面の扉は固く閉じられている。
 またもやと思いきや、右手の中庭に通じる門が開いてい、その糸杉の中庭の中ほどに新たに入り口が設けられていた。

  Photo_2この教会、隣接する付属博物館と同様に有料になっていたが、その代わりに、かつてのあの喧騒は何処へ?と驚くばかりの静けさ。

 ちなみに、この教会の修道院に、三部作 「<サン・ロマーノの戦い>」を描いたパオロ・ウッチェッロなどが、「創世記」をテーマに描いた<緑の回廊>あることは書いた。

 初期ルネサンス、フィレンツェ派を代表する画家<マサッチョ>の 「聖三位一体」(写真中)は、主祭壇に向かって左手の中ほどにあった。

 本作は、カトリックの根本的教義である、“ 父なる神、神の子イエス、そして聖霊の三位は本質において同一とする三位一体 ” を主題とし、初期ルネサンスを代表するに相応しい絵として広く認められている。

 Photo_2絵には、聖母マリア、洗礼者ヨハネ、寄進者のドメニコ・レンツィ夫妻も描かれ、祭壇画下部の層・プレデッラ(写真下)には、石棺に横たわる骸骨の全身像が細密に描かれている。

 だまし絵的に三次元の空間処理がされ、遠近法を最初に駆使した作品とされる 「聖三位一体」。

 美術書などと違って納まるべきところにあるフレスコ画は、四年越しにようやく対面が叶ったこともあって、実に素晴らしいものだった。
 Peter & Catherine’s Travel Tour No.370

 ※ 「続・ノヴェッラ教会 ‐ フィレンツェ」へは、<コチラ>からも入れます。

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食わず嫌い ‐ ピサ(5)

2011年08月12日 | イタリア

 真価や面白みをよく理解しないで、ただ初めから嫌うことを、 “ 食わず嫌い ” と言うらしい。

 海運国家ピサの栄光を今に伝える、<奇跡の広場>、<食わず何とか>の不明を恥じる思い。
 心ここに残れども、季節外れの好天に恵まれたことに感謝して帰り道についた。

 サンタ・マリアという名のバス停(写真上右)、その前のタバッキでチケットを買い、中央駅行きのバスを待った。

 2_51_6近くで井戸端会議に余念のないおばさん達に、「この人ら何処の人やろ?と、ジロジロと見られて閉口。
 観光地ピサ、訪れる日本人は多いのだろうが、路線バスに乗る初老の夫婦は珍しい?

 小半時近くも待っただろうか、ようやくバスが来た。
 ところが、アルノ川に架かるメッツォ橋を渡ったところで急停車、動かなくなってしまった。
 そのうち後続のバスが後ろに停まり、両方のバスを行ったり来たりする小さなハプニングを楽しみ?ながら駅に着いた。

 余談だが、日陰のバス停はやはり寒く、駅でトイレを探したが見つからない。
 英語表記と思い込んでしまったのが迂闊といえば迂闊、うろうろと探した挙句、「Bagno」の小さいプレートを見つけ、「そうや、ここはイタリアなんや」と気づくお粗末君。

 そのバーニョ、092_2入り口でおばさんがお皿を前にして座っていたらしく、扉の向こうから「小銭ある?」の声が。
 つい先日、ザルツブルグ駅でも「こんなことがあったやないか」とボヤキながらポケットを探った。

 少しお腹が空いたので、ホテル・ジョリー・マメーのレストランを覗いたが、客が一人もいない。客の姿が見えない店、やはり入るのが躊躇われる。

 で、駅構内のマクドで若者に混じってハンバーガーに齧りついたが、このアメリカの食文化や恐るべし、<ベルリンの壁>が崩壊して数年、東欧の古色蒼然とした街中に、この店の看板だけが矢鱈目についたことを覚えている。

 かつて、<ナポリ>でピッツァを立ち食いしたことがあるが、旅先でマクドは初めて。
 空腹が、「一番のご馳走やね」はけだし至言と実感。
 そんな、あれやこれやを心のアルバムに刻み、素晴らしい天気に恵まれたピサの街と別れた。
 Peter & Catherine’s Travel Tour No.364

  ※ 「威風堂々 ‐ ピサ(4)」へは、<コチラ>からも入れます。

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威風堂々 ‐ ピサ(4)

2011年08月10日 | イタリア

 大聖堂の建設は、11世紀の中頃に始まり12世紀初頭に完成したという。
 ロマネスク様式の典型、十字に交差する建物の中央に円蓋を乗せる大伽藍(写真上)、広場からその全貌が見渡せることもあって威風堂々、まさに、地中海の覇者・ピサの栄光を今に偲ばす。

 Photo_4ほんの数日前、<雪にまみれた>ドイツ中・南部の街と比べ、地中海の陽光を一杯に受け、「今、待降節やろ?」「忘れてしまうほど明るさ、随分と違う。

 大聖堂は、身廊の両側に2本ずつの側廊を持つ五廊式。
 イスラムの支配下にあったシチリア奪還の先駆けとして、パレルモ沖の海戦でイスラムを撃破、その戦利品である無数の巨大な円柱が内陣(写真中)に並び、その上部にはイスラム様式のアーチが架かる。

 主祭壇の「主キリストの磔刑像」、それを取り囲む上部にはモザイク画「玉座のキリスト」。

 Photo_3アドリア海に面したヴェネツィアやラヴェンナと同じように、東方ビザンチン文化の影響が強く窺え、ピサが西地中海の覇権を握り、東方貿易の利権を享受していたことを証してもいる。

 この「玉座の――」の右端には<リッピ>の、「聖ヨハネ」が、高い格天井には青と黄金のパネルが嵌められている。

 イエスの生涯を描かれたゴチック様式の説教壇はジョヴァンニ・ピサーノ作、ガリレオが「振り子の等時性」を発見するきっかけとされたランプも、「ほんと?」「多分」、ある。

 大聖堂の正面向かいには、サン・ジョヴァンニ洗礼堂(写真下)。ほぼ円形の洗礼堂の高さは、これまた斜塔と同じ55mらしい。

  Photo_5この洗礼堂、一層目はロマネスク様式、二層目以上はゴシック様式で、ふたつの様式が融合した、ピサ・ロマネスク様式とも呼ばれるらしく、実に美しいフォルム。

 建物の周りを取り囲む荊の装飾に成人像が並び、頂点には洗礼者聖ヨハネが蒼天に屹立する姿が望めた。

 その北側に建つ幾何学的な直線を持つ矩形の建物は、かつて、ピサに住んだ貴族の墓所・カンポサント。

 洗礼堂の背後、今もその一部が遺こる旧市街を囲んだ古代ローマ時代の城壁。
 それに沿って、これら四つの白大理石の建物が深い緑の芝の上に調和をもって並ぶ様は、<奇跡の広場>と呼ぶに相応しく思え、その威容は、この街のかつての栄光の歴史を今も誇っているかのようだった。
 Peter & Catherine’s Travel Tour No.363

 ※ 「奇跡の広場 ‐ ピサ(3)」へは、<コチラ>からも入れます。

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奇跡の広場 ‐ ピサ(3)

2011年08月08日 | イタリア

 <スピーナ教会>の傍、アルノ川に架かるソルフェリーノ橋を渡りローマ通りを北へ。
 店の軒先に斜塔の意匠の道標が架かり、ドゥオーモ広場が近いことを伺わせ、やがて、ピサ大学の校舎の向こうに傾ぐ塔が見える。

  ローマPhoto_5通りの突き当り、目に飛び込んできたのは真青な空の下、冬ながらも緑の絨毯を敷き詰めたような広場に堂々と聳える白亜の一群。屹立する建物群に言葉がない。

 広場の一方を古代ローマ時代の城壁に囲まれ、“ 奇跡の広場 ” とも称されるこの広場に、大聖堂(写真上)、鐘楼(写真下左)、洗礼堂(写真下右)が並び、その奥に墓所・カンポサントが、穏やかな陽光を浴び白く輝いていた。

 なるほど、大聖堂の後陣の傍に建つ円形の鐘楼、想像していた以上に傾き振りはきつく、今にも倒れるのではないかとも。                                                     

 斜塔の高さは55m、その高低差は70cmといい、二層目から円柱とアーチの回廊が取り巻いている。
 この回廊、塔が傾斜しているため螺旋状に見え、美しさを一層際立たせている。
 12世紀中頃に着工、三層まで工事が進んだ10数年後、南側に傾き始めたという。

2_21_2 ピサ大学で医学を学ぶガリレオ・ガリレイが、斜塔で「落下の実験」を、大聖堂で揺れるランプを見て「振り子の等時性」を発見したことは有名な逸話らしい。

 その斜塔、何年か前、傾向きが進み危険になったため本格的な修復工事に着手、01年の秋、その工事の一部が終了、人数を限って登れるようになった。

 折角ここまで来たんだから、「登ろうか?と訊いてみたが、「う~ん、待ってる」、悲しいかな55メートルの塔を登る体力がない。

 今となってはそうもいかないのだろうが、真っ直ぐにしてこそ本格的な修復と「言えるンと違う?」とも
 尤も、そんなことをすれば、地動説を唱え宗教裁判で有罪にされたガリレオみたく、広場前に並ぶ土産物屋さんから、「客が来なくなった」と、異端審問にかけられるかも?
 Peter & Catherine’s Travel Tour No.362

 ※ 「荊の冠の教会 ‐ ピサ(2)」へは、<コチラ>からも入れます。

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荊の冠の教会 ‐ ピサ(2)

2011年07月27日 | イタリア

 造船技術が発達した11世紀頃のこと。
 パレルモ沖の海戦でイスラム軍を撃破したピサは、西地中海の覇権と東方貿易の利権を獲得、十字軍にも参加し商圏をさらに東方に拡大。

 大聖堂の建設は、戦勝や交易で得た莫大な富をもとにこの頃に始まった。

 Photoしかし、この街にはアルノ川の運行権を狙う上流の都市フィレンツェと東方貿易の利権を争う海運都市ジェノバという、陸海両面に敵があった。

 1284年、ジェノバとの海戦に大敗。
 同じ頃、追い討ちをかけるようにアルノ川口への土砂の堆積が進み、地理的にも海から遠ざかってしまったピサは衰退の一路を辿り、ライバル、フィレンツェの支配下に。
 こうして、ピサはその栄光の歴史に幕を降ろしたという。

 駅前広場に降り立つと、これぞまさに「アズーリ、空色」「今回の旅で一番」、ピサは真青な空に覆われていた。

 街の真んPhoto_2中を流れるアルノ川が、新市街と旧市街に分けている。
 駅前からまっすぐ川に向かって歩くと10分ほどで河畔に着いた。
 目指すはサンタ・マリア・デッラ・スピーナ教会、通りがかった年配のふたり連れ、多分ご夫婦に、「スピーナ教会は何処にありますか?と訊ねている。この二人連れ、親切にも「連れていってやるから着いてこい」と言う。

 川の傍らの小さな教会(写真上)の屋根からは、数多くの棘?が突き出ていた。
 かつて、ここにイエスが被らされた、“ スピーナ・荊の冠 ” が奉納されていたことからこの名前が付いたとのこと。

 アルPhoto_3ノ川に接したゴシック様式のこの小さな教会、屋根に針のような尖塔、側壁には彫刻やレリーフが繊細なまでに施され目を見張る。
 扉、アーチ、そして、バラ窓がそれぞれ小さくふたつ、シンメトリーにあって可愛い。

 ところで、三方の何処を探しても扉が固く閉じられている。
 諦めかけた時、自転車に乗った若い女性が来て、「今、扉を開ける」と言う。

 小さな扉から入ると、そこは、幾何学的な線が美しい梁に支えられた格天井(写真中)の御堂、外観にもまして、さらに小体で簡素な祭壇に聖母子像(写真下)があった。

 聖遺物・荊の冠、「ほんまにここに」「あったの?と疑うほどに小さな教会、小さな展覧会の最中らしく、絵が飾られていた。
 Peter & Catherine’s Travel Tour No.357

 ※「旅中の遠足 ‐ ピサ(1)」へは、<コチラ>からも入れます。

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旅中の遠足 ‐ ピサ(1)

2011年07月25日 | イタリア

 フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ駅。
 大きな駅前通りを挟んで、同名のサンタ・マリア・ノヴェッラ教会と向き合う。
 空の玄関<ペレトラ空港>と並ぶフィレンツェの玄関口(写真上)、早朝から多くの人が行き交っている。

 この日これから、古代ローマ時代の軍港で13世紀まで海運都市国家として栄えたピサへ、ローカル線で1時間の短い旅をする。

 Photo斜塔で有名なこの街、さほどの関心もなかったのだが、ドゥオーモ広場一帯が世界遺産に指定されたのを機に、「話の種にやね」「一度は行っても」程度の思いはあった。
 02年のフィレンツェの旅の途中、その1日をピサへの遠足にあてた。

 さて、私たちが乗る電車は?と、パタパタ?の表示板を見上げるも「さっぱり判らん」。
 で、通りがかりの人に尋ねると、「ルッカかリボルノ行きに」と教えてくれた。

 後日、リボルノはピサの南にある港町で、ルッカはピサの北にあるトスカーナ州の州都だと分かった。
 ちなみに、城郭都市ルッカで、“ オペラ・蝶々夫人 ” の作曲家プッチーニが生まれたとか。                                                                               

 行き先ぐらPhotoい前以って「調べとけよな」とは思ったが、「誰に言ってるの?と倍返しされそうで、勿論、黙っておいた。

 そのピサに向かう電車、発車まで5分ほどしかなく、しかも構内案内図で確かめるとホームは一等左端の奥まったところ。

 人混みを掻き分けホームを走るものの寄る年波、息も上がり、「もうこの辺で!と叫ぶ声が後ろから聞こえる。
 間一髪とはこのこと、飛び乗ると同時に電車は動き出した。

 車内は満員、なのに何故か、お婆ちゃんがひとりで座っている三人掛けの席が空いている。優先席だったのかな?「ミ・スクージ、失礼しまっさ」と声を掛けやおら腰を降ろし、流れ落ちる汗をぬぐう。

 電車は、アルノ川に沿ってトスカーナの起伏のある谷間を縫って走る。
 汗も引き、落ち着いたところで朝日新聞を読んでいると、物珍しいのだろう、「シゲシゲ」とお婆ちゃんに眺められてしまった。

 そうこうしているうちにピサ中央駅(写真下)に着いた。
 Peter & Catherine’s Travel Tour No.356

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酔狂な?‐ フィレンツェ

2011年07月13日 | イタリア

 名画にあたった?ようで、少し疲れた気分でウフィツィ美術館を後にした。
 カフェでしばし休憩、人心地がついたところでサンタ・クローチェ教会へ向かった。天気がいくら好いと言っても ‘Xmas 前、やはり寒い。

 クローチェ教会、質素を旨とするフランシスコ会が設立したと言う。

 2_212_2アッシジの聖フランチェスコ、その人によって建てられたともされるこの教会、中央脇祭壇の壁をジョット工房の「<聖フランチェスコの生涯>」が飾る。

 聖堂中ほど、右側廊から回廊を進むとパッツィ家の礼拝堂。
 フィレンツェの銀行家パッツィ家の依頼で、ドゥオーモのクーポラを完成させたブルネツレスキの設計で造られたとか。

 ファサードには六本のコリント式列柱が並ぶ柱廊があって、その壁面の下の縁を、セッティニャーノのレリーフ「<イエスとヨハネ>」が飾る。

 また、この柱廊の格間とバラ窓つきの半円形の天井にはクーポラを乗せている。概して小さな建物だが、ルネッサンス建築の特徴をよく備えているとされる。

 Photo教会を去りしなに振り返ると、中庭の向うにパッツィ家の礼拝堂(写真上)が望め、その小さなクーポラは冬の束の間の陽光を浴び輝いていた。

 クローチェ教会から、これまたブルネツレスキが設計したという捨子養育院へと向かった。
 養育院前の広場に着く頃には、陽射しはあるものの午後も遅く、寒さが深々と身に滲みる。

 捨子養育院(写真下)は、ユニセフなどの機関の他、一部が美術館になっている。
 美術館と言うよりも木造の教室と表現した方が相応しい展示室、係員が独り所在なさげにいるだけだった。

 そこには、<ボッティチェリの>の初期の絵「<聖母と天使>」や<ギルランダイオ>の「<東方三博士の礼拝>」などが、静寂の中で居住いを正してあった。

 この時期、こんな小さな美術館に足を運ぶ酔狂な観光客、「そんなには」「いないよなあ」。
 Peter & Catherine’s Travel Tour No.351

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