ペトロとカタリナの旅を重ねて

あの日、あの時、あの場所で
カタリナと歩いた街、優しい人たちとの折々の出会い・・・
それは、想い出という名の心の糧 

1月がゆく

2010年01月31日 | 季節/暦

 頭の音をもじって 「やになるほど長いと聞いたような一月、ようやく月捲りの暦の写真が変る。

 朝日新聞のコラム 「風」、“ 元気よく日本を飛び出す若者が減っている。大手旅行社の調査で、海外旅行に出た15歳から29歳までの若者がこの10年で34%も減少 ” したと書く。

 Photoある外交官の言を借り、“ 価値観の違いを知ることが平和の一里塚。国際間の相互理解の礎になる筈の人材が細るのを案じる ” と続ける。

 不況でそれどころじゃないだろうが、若い時の海外体験は将来必ず役に立つと思う。
 尤も、少し品性に欠けるが、私も含めて “ パリしょん ” 程度の海外で、何ほどの価値観の違いが分かるのかと思うところもある。

 さらに 「風」氏、さる教育機関の調査、“ 親が子に期待するのは 「迷惑をかけないこと」が71%と群を抜く反面 「社会に尽くす人」は最下位 ” という結果も紹介。

 若者の海外離れの理由のひとつに、“ 4年前イラクで人Photo_4質になった人への 「自己責任バッシング」もあるのでは”と推し量り、知日派の英国人に、“ 日本では世間に迷惑をかけることがご法度なんだ、と納得した ” と語らせている。

 折しも、各地で新成人を祝う式典が行われた。
 鬱屈するものを誰かの所為にしたいのは分からなくもないが、酒を飲んで騒ぐ新成人の姿が、残念なことに今年も報道された。

 さも得意気に振舞う滑稽な様を眺め、我が子じゃなくてよかったと胸を撫で下ろし、「他人様に迷惑をかけないように」と願う親心、他人が斟酌することではないが、至極真っ当だとも思う。

 なにはともあれ、心づくしの晴着の新成人に、こんな冬の時代だからこそファイト!、とエールを送りたい。
 まあ、そういうことで睦月・一月がゆき、「」げるほど早いという如月・二月がくる。

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悔悛するマグダラのマリア

2010年01月29日 |  ∟イタリアの美術館

 ドーリア・パンフィーリ美術館。

 バロック期の奇才カラヴァッジョ、フィレンツェのウフィツイ美術館で修復終えた 「メドゥーサ」を前にした時、髪が蛇の人間が口と目を大きく開き画面から首を突き出す様に身がすくんだ。

 Photo_4狂気と表現すればいいのか、彼自身が処理できない激情が心を捉え、気持ちを悪くさえさせる絵に魅せられた。

 好き嫌いでだけで言えば嫌いな絵も勿論あるが、ユダヤ王ヘロデがベツレヘムに生まれた全ての幼子を殺すために放った兵士から、エジプトへと逃れる聖家族を描いた 「エジプトへの逃避途上の休息」(上)、そして、「悔悛するマグダラのマリア」(下)、どちらも好きな絵だ。

 ふたつの絵は、ほぼ同時代に描かれたとされる。

 葉陰で幼子を胸に眠る聖母、椅子に深く身を沈め涙するマグダラのマリア、異なる画題にありながらイメージが重なる。

 Photo_5Photo_6過去の豪奢な生活と決別、キリストの忠実な僕として簡素に生きることを受け容れ、ひとり静かに悔悛するマグダラのマリア。
 彼女の頬をひと筋の涙が濡らすのは、神に仕える歓びと畏れか?

 カラヴァッジョは、マグダラのマリアの髪をほどき、真珠の首飾りや留め金などを床にうち捨てさせている。

 モデルは彼の恋人とされていて、彼女への愛おしさや優しさが画面に漂い、絵を前にする者の心に平安を与えている。

 Photo_9カラヴァッジョの絵の中で、数少ないあざとさのない、切ない愛の絵と思うのだが。

 この絵は、香油壷をシンボリックに床や着衣の模様に用いていることから、“ 罪深い女が主イエスの足を涙で濡らし、自らの髪で拭い足に接吻して香油を塗った ”(ルカ7章36‐50)から画想を得たことを暗示させる。(

 ラヴァッジョとベルニーニを訪ねる旅、如何でしたか?

 旅のハイライトとして 「<福者ルドヴィカ・アルベルトーニ>」、そして 「悔悛するマグダラのマリア」を取り上げました。

 折から、没後400年を機に、映画 「カラヴァッジョ・天才画家の光と影」も公開されるようです。

 「<悪魔と天使>」から20回に亘ったこのシリーズ、再会を約して一旦、筆を置くこととします。(

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パンフィーリ美術館

2010年01月27日 |  ∟イタリアの美術館

  ンピドーリオの丘からのローマの空、今にも泣きそうだ。

 アラチェリ教会の大階段も、下りる分には何の支障もなく?カタリナも大人しい。
 ヴェネツィア広場へ向う途中、ぽつりぽつりと雨が落ちはじめ、晴れ女を自認する誰かもここ数日、空模様には口数が少ない。

 Photo_3ヴェネツィア広場とポポロ広場を真っ直ぐに結ぶコルソ通りを北へ、最初の名も知らぬ小さな教会の角を左折、湿っぽい路地を進むとコレッジョ・ロマーノ広場。
 その広場に面して、ドーリア・パンフィーリ宮殿(写真上)がある。

  広場の近くには、象の背中に乗ったオベリスクがあるソプラ・ミネルヴァ教会がある。

 フラ・アンジェリコ、ミケランジェロ、ベルニーニ、そして、カラファ礼拝堂のフィリッピーノ・リッピの「聖トマス・アクィナス」(写真中)など、さながら小さな美術館と読んでもおかしくないほどの作品が並ぶ。

 Photo女性ではただ二人、聖テレサとともに優れた学識の聖人に贈られる教会博士の称号をもつシエナの聖カタリナがこの教会に眠る。

 遺体はミネルヴァの神殿跡に建つこの教会に安置されているが、左手だけシエナのサン・ドメニコ教会に運ばれたのだとか。

 シエナは皇帝派の街として、教皇派の街フィレンツェと常にトスカーナ地方の覇を競った街、永遠のライバルだそうだ。

  話がそれた、元に戻す。

 パPhoto_2ンフィーリ家が所有するこの宮殿、館員が矢鱈生意気で向かっ腹が立つが、絵と出会うためには「我慢、がまん」と言い聞かせる。

 宮殿の廊下を展示室とした美術館、照明が行き届かず、雨もやいの天気もあって暗く、目を凝らしてもよく見えない。

 それに、フィレンツィエのピッティ宮のパラティーナ美術館と同様、壁面に「どっさり」と絵が架けてあって疲れさせる。

 極めつけは、一段と薄暗い部屋、目指す絵はその部屋にあって、「意地悪してんのかいな?」と息巻くものの、カタリナは素知らぬ顔で一枚の絵(写真下)を静かに見入っていた。

トラステヴェレ>からだいぶ回り道をしたが、カラヴァッジョの傑作、「悔悛するマグダラのマリア」にいよいよ出会う。

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カンピドーリオの丘

2010年01月24日 | イタリア

 パンフィーリ美術館が開くまで時間があり、先にカンピドーリオの丘に向かった。
 
イタリアを統一したエマヌエーレ2世記念堂の横手の坂道を上ると、サンタ・マリア・イン・アラチェリ教会の素朴なファサードが見える。

 Photo会の歴史は古く、キリスト以前、カエサルの遺志を受継ぎローマ帝国の礎を築いた初代皇帝アウグストゥスの時代に遡る。

 彼はある日のこと、ここで幼子を抱く聖母を見、さらにキリスト到来の予告と、ここにやがて神の子の祭壇、アラ・チェリが建つという巫女のお告げを聞いたとされ、7世紀には既にここにあったという。

 カタリナ が、「何段あるの!」と、怯むのもさもあらんと思うほど高い教会への階段を見上げ溜息。

 そういえば、大方の人が隣のカンピドーリオ広場(写真上)へと続く緩い坂道へと回っている。

 Photo_2ミケランジェロが設計した広場を挟んで左右に建つのが、ローマを育てた狼の像、「カピトリーノの雌狼」がある世界最古のカピトリーニ美術館。

 ここの絵画館にも、カラヴァッジョの作品が数点展示されているが、それはまたの機会に。

 広場の突き当たりが市庁舎・タブラリウム。
 
その右手の階段はフォロ・ロマーノへと続き(写真中)、左手の階段を上ればアラチェリ教会の右側廊の扉だ。
 
教会の礼拝堂に、イタリア・ルネッサンスの画家ピントゥリッキオの代表作、「聖ベルナルドの生涯」がある。

 ところで、この教会で有名なのは、主祭壇の左手奥の礼拝堂。

 Photo_3奇跡を起こす力があると信じられる聖幼な子の像(写真下)があり、今も世界中から奇跡を願う手紙が届くとかで、籠にどっさりと入っていた。

 教会の影響を強く受けた中世宗教絵画、押なべて幼少期のキリストの顔を聖人に描き、幼子の愛らしさに欠ける。

 イエスが捕らえられたゲッセマネの園のオリーブで作られたという、身の丈1mにも満たないこの像も例外ではなく、ましてや三頭身に冠を戴き、真っ直ぐに見据える様はお世辞にも好きになれない。

 と言えば、霊験あらたかならざるも当然?我が身に奇跡なんて起ころう筈もなく、宝くじ1等なんて、夢のまた夢か。(パンフィーリ美術館に続く)

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大原美術館

2010年01月22日 | 美術館 (国内)

 年初の茶会の日、ペトロ、大原美術館を楽しむことにしていたようだ。 (

 Photo_2ころが、「私も行きたいな」と言い出した。
 会が終わってしまえば、時間も気持ちにも余裕ができると言う。

 折角?のひとりだけの遠足、「なんてことを!」と思ったものの、ふたりもまた楽しからずや、切符が「上手く手に入ればね」と言っていたら、話を聞かれていたのかと思うばかりに都合よく、一回券がチケットショップに。

 くどくなったが、3月中旬の暖かさの大寒の入り、この日限りの青春18きっぷで、吉備路を走る電車に並んで座っている訳は、ざっとこういう次第だ。 (

 敷は、遠い日に逝った父の故郷
 私自身この町に暮らしたことはないが、倉敷という名前を聞いただけで懐かしい思いがするのは、三人の兄弟の他ただひとりの女の子の私を、ことのほか慈しんでくれた父への思いが何時も心の隅にあって、この町の名前を聞く度に甦るからかも知れない。

 2独身時代から何度かこの町を訪れた。
 かなり前になるがこの町が再開発され、随分と雰囲気が変わったように思う。
 倉敷川沿いの柳並木と古い町並の一角に美術館はある。 ( 

 績で財をなした大原孫三郎が設立した私立の美術館。
 絵画と彫刻に限れば、マニエリスムから印象派までの本館と洋画と現代美術の別館からなり、一時間もあれば足りる。

 児島虎次郎が、蒐集を託された孫三郎に宛てた手紙が絵に添えられ、ふたりの強い結びつきが窺える展示方法だ。

 ただ、グレコの一枚だけが、薄暗い部屋でスポットライトを浴びる、特別な扱いを受けていること違和感を覚えた。
 普通に架けられた「受胎告知」ならもう少し素直に向き合えたのに。 (

 3_2奨めは、青木繁の「男の顔」(写真中)だ。
 
ここで初めて出会った時の感動が、長い歳月を経た今も褪せずに残る。

 そして、父が愛してやまなかったミレーが、パステルで描いた「グレヴィルの断崖」。

 グレコの「受胎告知」が、特別扱いされていることにへそを曲げるペトロは、意外にも梅原龍三郎の「朝陽」と藤島武二の「耕到天」(写真下)という、普通のところを選んだ。

 ペトロは口にこそしないもののルソーに期待していたようだが、作品の前からさっさと動いたので、それが外れたようだ。 ( 

 ころで、迂闊にも万年筆でメモをしていると、鉛筆を貸してくれた館員に感謝。 (

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青春18きっぷ

2010年01月20日 | 小さな旅/駅

 予ねてから、大原美術館に行きたいと思っていた。
 
倉敷には仕事で何度か行ったが、美術館の前を通ることはあっても素通りばかり。

 時間に余裕ができ、いざと思ったら迂闊にも足代のことを忘れていた。

 18JRのホームページで調べてみると、美術館のある倉敷まで各駅停車を乗り継いでも片道3千円、新幹線を利用した場合には、同額程度が別に要ることが分かり二の足を踏ませた。

 カタリナに、わが家の家計に文化・教養なる費目があるのかどうか知らないが、「ご支援を」と申し出ると、「いいよ」の返事。
 それでも、新幹線となれば入館料など諸々で2万円近くが軽く費える。

 某日、ショッピングセンタの一角にあるチケット店、列をなす人を見てカタリナが、「大阪へ行くのもここで切符を買う人が結構多いのよ。生活の知恵ね」と言う。
 ショーケースを覗くと、なるほど、図書券などと並んで、大阪や京都駅などへの切符が。

 Cimg4032その横に、“ 青春18きっぷ ” の五回と三回の券があった。
 学生さんなどが、春夏と冬の年3回、JRが発売するこの切符で普通列車を乗り継ぎ、安く旅をすることを思い出した。

 ただ、ひと昔ほど前から利用方法が変ったことは知っていたが、その仕組みが分からなかった。
 チケットを眺めていると店員さんが、「余れば引き取るよ」と言うので、「五回券を買うので4回分を引き取ってくれる?」と訊くと、「いいけど、何時?」と訊かれた。

 それで、「」と答えると、「そんなことできへん、一回は利用して貰わんと」と、険もほろろにあしらわれてしまった。
 お叱りを覚悟で教えを請うと、「券は一枚、利用のたんび日付印を捺して貰わな、引き取る意味があらへんやろ」と、今度は懇切に教えてくれた。
 後日、件の店を覗くと、先の三回券が一回券になっていた。

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ア・リーパ教会

2010年01月18日 | イタリア

 小雨が似合う、素朴な佇まいのサン・フランチェスコ・ア・リーパ教会。
 小さな内陣では、朝の礼拝の後なのか何人かの信者が静かに祈ってい、邪魔をしないように、主祭壇の左、小さな礼拝堂に足を運んだ。

 この淋しい雰囲気の教会が旅の案内書に載るのは、この礼拝堂に、初期バロック彫刻を代表する巨匠ジャン・ロレンツォ・ベルニーニの最晩年の傑作 「福者ルドヴィカ・アルベルトーニ」があるから。

 Photo_2ある罪で告発された弟ルイージの恩赦を得るために、教皇一族のために数多くの作品を手がけたベルニーニが、パルッツォ・アルベルトーニ枢機卿の依頼に応え無償で制作したとされているのがこの作品。

 死の淵で苦しみながらも神とともになるルイーザ、別名ルドヴィカを主題とする本作、右手を右の乳房に、左手をその下に添えて苦しみ悶えるその姿は、見るものを驚かせずにはいないだろう。

 枕やベール、そして、聖服の襞の細やかな表現。
 
何よりも、顎を心もち反らせ小さく唇を開き、今だ捨て切れぬ己が業に苦悶するかのような表情に、一途に神を敬う優美な官能、甘美が見て取れる。

 Photo_3Photo_4老いてなお増す神秘性への傾倒と理想とする女性美の追求に、ベルニーニの凄さを感じさせる。

 彼女は、裕福な一族に生まれながらも、貧者への施しと献身的な神への奉仕のため、健康を損ね天に召されたという。

 この作品、神のもとに召される喜悦と解釈するのが正しいのだろうが、天才ベルニーニ、80歳にならんとする老芸術家の瑞々しい感性に 「恐れ入りやした」と、ローマの下町の素朴な教会と別れた。

 そぼ降る雨が、教会前、サン・フランチェスコ・ディ・アッシジ広場のオベリスクを濡らしていた。
 
その教会と広場、アッシジの聖フランチェスコがヴァチカンを訪れた際に、教会に隣接する巡礼者宿泊所に投宿していたことに由来するという。

 もし、ローマはトラステヴェレへ行かれたら、この小さな教会を覗いてみて下さい、ルイーザがあなたを優しく迎えてくれるでしょう。

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トラステヴェレ

2010年01月17日 | イタリア

 映画、<「天使と悪魔」>をきっかけに始めたバロックの旗手を訪ねる旅。
 ほぼ半ばまできたが、そろそろ別の画家などとの出会いも紹介したくなった。

 それで勝手ながら、「悔悛するマグダラのマリア」と「福者ルドヴィカ・アルベルトーニ」、この対照的な作品で、暫くこの旅から離れることにした。

 初日をヴァチカン博物館で過ごした翌日、トラステヴェレへ向かった。

 Photo_2この日、ファルネジーナ荘のラファエッロ、その向かいのコルシーニ宮のカラヴァッジョを訪ねる予定だが、TVがローマに雲のマークを貼り付けてい、雨になるかも知れない。

 トラステヴェレでは、ア・リーパ教会へもとカタリナ、老彫刻家が魅惑的な聖女を刻んだと言う。

 テヴェレの向こうという意味のローマの下町トラステヴェレ、夜や日曜に賑わう町と聞くが、これまで訪れたことがなかった。

 テルミニ駅前(写真上)からH番サン・カミッロ病院行きの急行バスに乗ったものの、降りるべき停留所に自信がない。川を渡った辺りで降りればいいやと腹を括った。

 フォロ・トライアーノの石畳の坂道を下ると見慣れたヴェネツィア広場。
 ジェズ教会の辺りを左に曲がり、ガリバルディ橋を渡るとトラステヴェレだ。

 Photo_2話はそれるが、イエズス修道会の威光を今に示すジェズ教会、左側廊のロヨラと右側廊のザビエルのふたつの礼拝堂を併せ、三つの主祭壇を持つといえば特異な解釈か。

 話を戻して、生憎のことに、この辺りから車窓をぽつぽつと雨が打つ。
 テヴェレ川を越えた最初の停留所、多分ソンニーノ広場でバスを捨てた。
 
バス停付近のお巡りさんの早口のデーストラ(右)やシニーストラ(左)に苦労しながらも、大方の方向が分かった。

 途中、厄介なことにまた分らなくなり、建物の庇の下にいたおじさんに、「スクージー?」と声をかけた。
 
失礼にも携帯電話の最中だったのだが、電話の相手に「ジャポネーゼ」と言いながら、雨もものかわ四つ辻まで足を運び親切に教えてくれた。

 彼が指差す先に、サン・フランチェスコ・ア・リーパ教会(写真下)のファサードが見えた。(続く)

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1.17

2010年01月15日 | 日記

 被害を受けた多くの方からすれば、「しょせん傍観者が、知った風のことを」と思われるだろうがゆえに、震災のことに触れるのを躊躇う。

 ここ数年の間に、インドネシアや中国で大きな地震が起こった。
 今また、カリブ海に浮かぶ小さな国ハイチが巨大地震に襲われ、未曾有の真っ只中にある。

 Photo_7隣国中国が直ちに救助隊を派遣したというニュースと時を同じくして、悲しいかなわが国では、ダーティな金のやり取りで揺れる与党中枢の動向が大きく報じられる。

 やはり金の問題がついて回る首相が、いち早く決めた支援策が、人名救助でなく資金援助。
 15年前、野に落ちた自民党に、首相の椅子と引き換えに護憲の旗印を降ろして救いの手を差し伸べ、後に高くついたと臍を噛んだ好好爺だけが取り得の人と、的を外した対応振りが情けなくも重なって見える。
 当時、いち早く救助命令を出していれば、救えた命もあったと聞く。

 震災から15年という節目の日を前に、新聞やテレビが様々なその後を伝える。
 生きていれば社会人になったであろうわが子を偲び、形見の辞書のページを静かに繰る母親をテレビ画面で見て、悔しかろうと涙が滲む。

 この震災では内心忸怩たるものがあって、今も澱のように沈んでつきまとう。
 多くの犠牲者でもって贖われたものとは? そのことを改めて見詰め乍ら、“ 御霊、安からんことを祈りたい ” と、切に思う。                                                                      
 

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三度三度

2010年01月13日 | 日記

 様方の悩みのひとつが、三度の食事のことと聞くよねえ。
 家内だけの時は、昼飯なんかそこらにある物でそそくさと済ましてきたのだろうが、我ことながら嵩が高い輩がひなが家にいる分には、それはもう困ったものだろうと同情の極みなんだ。
 今日の午後も 「晩御飯、何が食べたい?と訊かれたよ。

 近になって 「お昼は要らない」と言い出したのよ。
 彼、農家の出でしょ、ご飯好きで、朝たまにパンにでもしようものなら、その後にお茶漬けと言いだすような手合いで手間がかかるのね。
 それが突然、お昼は要らないと言い出したものだから、喜ぶ前に驚いちゃって、「お腹をこわしたの?」と尋ねたのよ。

 かあったのかとか、体の調子が悪いのとか訊ねてくれるのだが、自然に綻ぶらしき顔を見るとね、少しいまいましくもなるんだが、「何もないよ、面倒なだけ」と答えると安心したみたいだったよ。

 職中からさ、デスクワークだし、蟻のように社員食堂に並ぶことに嫌気がさしたこともあって摂ってなかったんだが、これが思いの外体調に良くってねえ。
 僚の 「何時まで続くことやら」の冷ややかな視線もその内に普通になって、昼飯を誘われなくなってね。

 Photo仕事をしてる時は、お昼を抜いていたようなことを言っていたので、家に居るようになってからも続くものとばかり思ってたのね。

 に図らんやとはこういうことなの?リバウンドとも言うのかしら、のべつまくなしに 「昼はなに?」 「夜はなに」と聞かれ、それでなくとも面倒なのに・・・、もう溜息ばかり。
 それが、お昼止めたでしょ、今も半信半疑なんだけれど嬉しくって。

 し辛いが、抜くと体調が良くってねえ、うん。

 れが、私だけお昼って訳にいかないってこと忘れていたのね、困ったわ。

 こかで見たような風景ですが、フィクションです。
 なお、写真と本文は関係ありません。

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