ペトロとカタリナの旅を重ねて

あの日、あの時、あの場所で
カタリナと歩いた街、優しい人たちとの折々の出会い・・・
それは、想い出という名の心の糧 

夏祓い‐6月がゆく

2010年06月30日 | 季節/暦

 春半ばに、<引っ越し‐3月がゆく>を投稿した。
 その折、重い荷物は持てないが、幼い兄弟の遊び相手程度のことはできると、土佐に行ったことを書いた。

 岡山から土佐に向う車中のこと。
 たまさかグリーン車を利用したのだが、前の席に座った人、矢鱈大きな人だと思ったら大阪場所を終えたばかりのお相撲さん、付き人ひとりを従えていた。
 1鬢付け油が匂い、なんともいえぬ雰囲気が辺りに漂う。

 何処まで行くのだろ?と思っていたら、同じ駅で降りた。
 そういえば、横綱を張ったものの、やんちゃが過ぎてさっさと辞めたモンゴルの御方もこの地の留学生?だったか。

 ところで、野球賭博とやらに、どっぷり浸かったお相撲さん引きも切らず。
 関取と言ったって遊び盛りの若者、仲間内での麻雀程度は目くじらを立てるほどのことはないにしても、今度のことはもっての外。

 折りしも今日は、“ 夏越の祓 ”(なごしのはらえ)。
 
6月と12月の晦日に行われる大祓(おおはらえ)、罪や穢れを除き去るための行事とされる。

 1_21_2ちなみに、12月の大祓は、“ 年越しの祓 ” と言うらしいが、新歳時記(ホトトギス)では、“ 夏祓い ” をもって季とするとある。

 夏越の祓でよく行われるのが、茅萱(ちがや)で大きな輪を作り、この輪をくぐることで病気や禍を免れるとされる、“ 茅の輪くぐり ” の神事。

 カタリナ、お茶の仲間の皆さんと、裏千家・青年部の50周年記念の茶会に出席。
 
席の入り口に茅の輪が趣向されていて、「これで息災にが越せる」と喜んでいた。

 真面目に稽古に精進し一番出世を夢見る若いお相撲さん、本場所前に茅の輪くぐって厄を祓っては。

 そんなこんなで、水無月・6月もゆくようで。(写真は、グリーン・クラブのAさんに提供して頂きました。)                                                        

コメント

モンマルトル日記(二)

2010年06月28日 | フランス

 10××日(小雨)「アトリエ・洗濯船

 今朝のパリの空、少し機嫌が悪い。
 アベス駅から、息せき切って地上に出たら、小雨が敷石の道を濡らしていたが、モンマルトルの丘に降る雨、石畳とマロニエに小憎いほど似合う?

 Photoアベス広場の前、赤煉瓦のカトリック教会に寄ってから、石畳の道をアトリエ「洗濯船」に向かった。
 途中、道に迷い遠回りをしてしまい、何度か道を尋ねた。
 皆さん親切で身振り手振りで教えてくれる。

 ペトロ の発音が素晴らしいのか、一度などは、Bateau Lavoir バトー・ラヴォワールを、Moulin Rouge ムーラン・ジュールと勘違いをされ、「キャバレー赤い風車」の近くまで連れられて行く始末。
 それでも、地図を頼りに急坂を登るとエミール・グードー広場近く、ようやく見つけた。

 雨脚がきつくなり、今や本降り。
 ペトロ、道を間違えたことなどとっくに忘れ、「秋色の巴里に雨、相応しいやないか」と、ひとり悦にいっているが、カタリナ は、呆れたのか、「・・・・」無言だ。

 2_2ピカソが恋人と住み始め1_2た安アパートを、詩人のマックス・ジャコブが、歩くとぎしぎし音がしてセーヌに浮かぶ洗濯船を思わせたので、「洗濯船」と名づけたと案内書にある。                                      

 この頃の彼、親友の自殺にショックを受け、暗青色を基調とした絵を多く描いている。
 
“ 青の時代 ” と呼ばれるこの頃の代表作、「自画像」や「男の肖像」(写真:パリ・ピカソ美術館HPから)など、深く沈んだ魂の青は、彼の苦悩と孤独の色として、見る者の心を惹きつけてやまない。

 マネ、ユトリロ、モジリア-ニなど、印象派を始め象徴主義などの画家たちが共同生活をしながら作品を発表したそうだ。

 当時の木造アパート、今はなく、別の建物となっているらしいが、ウィンドウに写真などが掲示されていた。
 勿論、フランス語で判ろう筈もなく、差し詰め、がっかり名所?のようだと言えば過ぎるか。(さらに、続く)

 ※「モンマルトル日記(三)」へは、<コチラ>からも入れます。

コメント (2)

モンマルトル日記

2010年06月25日 | フランス

 セーヌが街をほぼ二分するパリ。
 旅の案内書に、北を Rive Droite ・ 右岸、南を Rive Gauche ・ 左岸と呼ぶとある。
 セーヌ川畔のコンコルド広場から周りを見渡せば、まず目に入るのが左岸の
エッフェル塔、そして、右岸では小高い丘の白亜の建物。

 Photoその白亜のサクレ・クール寺院が聳える丘(写真/デジタルズームで粗いが、凱旋から眺めた夕陽のモンマルトルの丘)を中心としたモンマルトル界隈。
 名前を聞くだけで、芸術の都パリの香りが漂ってくるような気がするから不思議。                                       

 モネの旅の合間に、「モンマルトル日記 ‐ 小雨降る秋の一日」を紐解く。

 10××曇り)「パリの地下鉄

 オペラ・ガルニエの近くのホテルから一筋ばかり北、ノートルダム・ド・ロレット駅からM12号線でモンマルトルに向った。

 アベス駅で下車、出口を通った乗客の多くが、エレベータの前に並んで動こうとしない。
 お年寄りならいざ知らず、若い男性までもがポケットに手を突っ込み、所在なさげに待っている図は、「えっ、なんで?」「おかしくない?と首を傾げさせる。

 Photo_3よく分からないまま列に並んだが、なかなかエレベータがこない。
 気長に待つということが不得手?なペトロ 渋るカタリナを促し、「いい若いもんが何だ。心がけが悪い」と、八つ当たり気味に階段を歩き始めたのだが、若者までが我慢強くエレベータの前を動こうとしなかった訳が直ぐに分かった。

 この駅、モンマルトルの丘の直下、すごく深い所にあるのだ。
 延々? と続く螺旋階段、壁にペンキ絵? が描いてあるのだが、とても楽しむ余裕もなく、「恐れ入りました!と手を上げてもまだ続く。

 カタリナ 肩で激しく息を継いでいて可哀想なのだが、その一回り先が地上かも知れないと思うともう元には引き返せない。
 途切れそうな声で、「少しは我慢することも覚えなきゃ」と、誰かの声がしたような。

 ところで、ガラスの天蓋がユニークな入口(写真)の意匠、作者は、エクトル・ギマールという建築家で、看板も彼の手によるとか、幾らモダンでも」「こうも深こうてはなあ!」。 .続く)

 ※ 「モンマルトル日記(二)」へは、<コチラ>からも入れます。

コメント (1)

ルーアン美術館

2010年06月23日 |  ∟フランスの美術館

 ルーアン美術館、陶器博物館などと並んであった。
 この美術館のことは、以前、ナポリの <カポデモンティ美術館>を訪ねた折にも少し触れた。

 ペトロ とカタリナ カポデモンティ美術館も所蔵しているカラヴァッジョの「キリストの鞭打ち」のバリアントを見比べたくてルーアン美術館を訪ねたのだが、印象派のコレクションも充実、特に、モネの作品を何点か所蔵していて、それも目的にあった。

 Photo_3平日の午後にしては、多くの鑑賞客が訪れていた。
 何はともあれ、インフォメーションでカラヴァッジョを尋ねたら、妙齢の女性係員が、東洋からの遠来の老夫婦に、微笑みと一緒にパンフレットのフロア図に印を入れてくれた。

  二階の部屋の衝立に架かる、「キリストの鞭打ち」を楽しんだ後、印象派のコーナーに足を運んだ。

 美術案内書は、この美術館のハイライトのひとつとして、フランソワ・ドポーのコレクションを上げる。

 Photo_4ドポーは、ペトロが好きな画家のひとりシスレーの友人で、印象派のパトロンでもありコレクターでもあった。

 ここには、シスレーの「ポール=マルリの洪水」(写真上)の他、ルノワール、ピサロ、新しくはモディリアーニの肖像画などが並んでいたが、やはり、モネを置いては語れない。

 「ルーアン大聖堂‐曇天」(写真中)別名、グレイのカテドラルの他、「サン=ドニ街、1878年6月30日の祝日」(写真下左)が架かっていた。

 21ちなみに、モネは「サン=ドニ街」の対画として「モントルグイユ街、1878年6月30日の祝日」(写真下右/オルセー美術館蔵)を描いている。

 また、フランス・ロマン派の画家ドラクロワの「トラヤヌス帝の裁定」やスペイン・バロック期の画家ベラスケスの「デモクリトス」なども架かる。

 ひととおり見た後、1階のガラス張りの屋根から自然光が注ぐ彫刻の庭のジェリコーの彫刻の前で、セルフタイマーで、椅子に腰掛けたふたりの写真を撮った
 が、沢山の絵を見た後でやつれひどく? とてもお見せできる代物でない。

 それで、パリはサン・ザラール行きの列車まで、駅中のカフェで生チョコとコーラで暫し気持ちを癒し、古都ルーアンと別れた。

コメント

ジャンヌ・ダルク

2010年06月21日 | フランス

 ノルマンディーの古都ルーアン
 大聖堂(写真上/内陣)、木製の扉の彫刻が素晴らしいサン・マクルー教会、木組みの家が並ぶ旧市街(写真中)、美術館などに秋の一日を過ごした。

 この古都に、ジャンヌ・ダルクにまつわる遺産がある。
 それは、幽閉された塔であり、火刑された広場であり、祀る教会などである。

 Photo美術館で、カラヴァッジョやシスレー、そして、モネの作品を堪能し右岸駅に戻る途中、彼女が幽閉された塔に寄った。

 話は遡って、ロワール地方の古都オルレアン。
 古くから交通の要衝だったこの町は、ゲルマンやローマ帝国やノルマンに侵略された歴史を持つ。

 そのひとつ百年戦争の末期、イギリス軍に包囲され陥落寸前のオルレアンを救うべく、小さな村の羊飼いの少女が、“ 神の声 ” を聞いて彗星のように現れた。

 その少女、“ ジャンヌ・ダルク

 彼女が、Photo_2フランスを救えとの声、それは “ 聖ミカエルの声 ” であったり “ 聖カタリナの声 ” であったりしたらしい。を、聞いて3年、ようやく、ロワールのシノン城で、時のシャルル7世と会見、訊いた声のことを打ち明ける。

 王の許しを得て、白い甲冑に身を固めフランス軍の先頭にたった彼女は、武器の代わりに、 “ イエズス・マリア ” と書かれた旗を振り兵士を鼓舞したという。

 そして、オルレアンを解放、戴冠式がまだ済んでいなかったシャルル7世を正式に即位させるのである。

 Photo_3によって得た勝利の後、政治家の権力争いや当時の宗教者の思惑に翻弄され、やがて、捕虜となる。
 そして、敵国イギリスに身柄を渡され、宗教裁判により魔女の汚名のもと断罪、僅か19年の生涯を終えた。

 今、人々は彼女を、“ オルレアンの乙女 ” と敬い、カトリック教会は5月30日を “ 聖ジャンヌ・ダルク ” の日として祝う。

 話は戻って、石組みの何の飾り気もない、窓もなく明かり取りの開口が僅かにあるのみ。

 カタリナ は、塔を前に、「彼女は、この暗くて湿った塔の中で、何を神に祈ったのだろうか?と思う。

 かの、“ 神の声 ” が約束した、「勝利と救いの国」へと彼女が旅立ったのが、ここルーアン。
 秋の澄み切った空の下、無骨なまでに物悲しい姿で、幽閉の塔 ” (写真下)はあった。

コメント

Father's Day

2010年06月20日 | 日記

 誰がつくったのか、“ 父の日 ”。
 1909年アメリカ、ワシントン州のJ.B.ドット夫人が、男手ひとつで育ててくれた父を讃えて、教会の牧師にお願いして父の誕生月6月に、“
父の日礼拝 ” をして貰ったことが始まりとある。(ウキペディア)

 ふたりとも両親は鬼籍に入り、父や母の日Photoとはもう無縁のことと思っていた。
 ドット夫人ならずとも、この日に限らず両親への感謝は忘れてはいけないのに、最近、日曜礼拝にとんとご無沙汰で忸怩たる思いもある。

 それにこの日、何処かの商魂逞しい輩の仕掛けとばかり思っていたのだが、「う~ん、こんな謂れがあったとは?」、単純にもすっかり感じ入ってしまうのである。

 <Mother's Day>でカタリナ も書いていたが、この日はむしろ、心にかけてくれる子供たちに感謝する日でもある。
 今年も、やさしくも嬉しい心を贈ってくれた、子供たちに感謝である                                                                      

コメント (1)

梅雨な?一日

2010年06月19日 | 日記

 列島がすっぽりと梅雨に入った。
 入梅した模様?と控えめの発表がされて直ぐ、梅雨の晴れ間が少し続いて、また、“ 当分、降らぬ日はないだろう ” とテレビが報じる。
 で、本格的な梅雨になった日(18日)の小さな出来事をふたつ。
 写真上は、街角で見かけたチロリアンランプ、名付けて妙な花だ。

  Photo_3最近パソコンでラジオが聞けるようになった。
 民放の中破3局とFM3局のみのサービスだが、勿論、無料で流している。
 受信側の設備次第なのだろうが、雑音もなくクリアに視聴でき、パソコンで雑文を書きながらBGMとして愛聴している。

 この取組み、電波の悪い地域をカバーするため試行的に行われていると聞く。
 事情があるのだろうが、高い受信料を払わせるNHKが参加していないのが残念といえば残念。

 朝から本格的に振り出した雨に、部屋も身体も Wet (湿った)になった午後、毎日放送が、“ 三つの歌 ” と題し、リスナーから募った歌とそれにまつわる思い出を紹介していた。

 この日は、長年連れ添ったご主人が生前好きだった歌を紹介していた。
 最近、とみに涙もろくなったペトロ、知らず聞き入ってしまい、心までも Wet (情にもろい) にされてしまった。

  Photo_4たまに、ポカリと時間が空くと、嬉しいカタリナデーとなる。
 それで、予てから準備していた障子の張替えに朝から取りかかった。

 年寄りふたりの生活、障子が破れるということもまずないが、それでも薄汚く日に焼け、なんとなくうらぶれた感じもあって気になっていた。

 濡れ雑巾で桟についた糊もきれいにふき取り、夏用の風通しが好いと触れ込みの障子紙を貼ろうとすると、新聞を読み終えたペテロが障子がない窓を見て、「部屋が明るいしベランダの緑が涼しげでいいね」と言う。

 「う~ん、それもあり?で、桟だけの障子を元に戻してみたらなかなか面白く、暫くはこのまま(写真下)に? しておこうと決めた。
 人様にお見せするものではないが、仮に見られたら、障子紙も買えないの? なのか、不精者め? なのか、それとも、意匠と見て貰えるのかしら? まさか、呆けて貼り忘れたと!

コメント

ルーアン

2010年06月17日 | フランス

 11時頃、ルーアン右岸駅に着いた。
 かつてノルマンディー公国の首府だったこの街、見所は、セーヌ川の北側、右岸にある。

 話はそれるが、地理の勉強を少し。
 ノルマンディー地方雨が多く、ワインの産地ボルドーやブルゴーニュ地方と違って、ワインに適した葡萄が育たないという。
 その代わりに、神がこの地に与え給うたもの? それは、雨に育まれた地での酪農と林檎作り。

 Photo良し悪しは分からぬもののペトロ の好きなカマンベール・チーズとか、葡萄はからっきしだが豊富に採れる林檎から醸造したシードルや火をつければ燃えるというカルヴァドスといった林檎酒がここで産まれるという。                                                           

 話は戻って、ルーアン右岸駅に降りた時、空は青く澄み秋の気配が濃く漂っていた。

 駅前の道をセーヌ川に向かって真っ直ぐに下ると旧市街。
 15世紀から16紀にかけて造られたファサードの装飾が素晴しい裁判所。

 Photo_3近くには、16世紀に作られたルネサンス様式の大時計(写真上)があって、今も正確に時を刻んでいるという。

 大時計を潜ると、正面に見えてくるのが、12世紀に始まり16世紀に完成したとされるノートル・ダム大聖堂(写真中)。

 案内書に、“ フランボワイヤン・ゴシック様式の装飾が美しい ” とあり、“ 火災や戦争で修復が絶え間なかった ” ともあった。

 モネが、フランスで一番高いとされる尖塔を持つこの大聖堂を飽かず描いたことは知られているが、その数、実に30点を超えるらしい。
 この後訪ねるルーアン美術館も、そのうちの一点、「ルーアン大聖堂 ‐ 曇天」を所蔵している。

 Photo_5当時、モネが逗留したホテルが聖堂広場のまん前にあったらしいが、今は観光案内センタになっていた。

 ところで、この大聖堂、ランチ・タイム? があって、12時から2時間扉が閉まる。
 で、聖堂の横手、ブラッセリア・ポール(写真下)に入った。

 ほぼ満席のこの店、混む理由が分かった。
 ボーイさん、ランチのセット・メニューは、「ボリュウームがあるから」と、酒飲みのペトロには前菜とメイン、飲まないカタリナにはメインとデザートを、と実に丁寧なのだ。

 料理が美味しいこともあるが、アテンドの利いたサービスが嬉しい。
 
何事にもクールなカタリナ 横柄な応接には1セントたりとも余分に置かないのだが、あざとさのないものには結構弱い。
 で、この店ではチップをはずんでいた、単純な奴やなあ!

コメント (1)

サン・ラザール駅(2)

2010年06月15日 | フランス

 パリで最も古いとされるサン・ラザール駅
 個の駅から、かつてノルマンディー公国の首府として栄えたルーアンに向う。

 モネは、「睡蓮」や「ルーアン大聖堂」「積みわら」など、同じモチーフの絵を何枚も描いていて、1837年に建てられたサン・ラザール駅は8枚も描いたという。
 尤も、睡蓮など、本人自身が何枚描いたか分からないのでは? と思うほど描いている。

 Photo_4駅、それは、旅への誘い。
 浮き立つような喧噪と喜び、あるいは、別離と郷愁。
 昔も今も変わらずにそこにある風景だが、モネは、それらが醸し出す情景をキャンバスに切り取った。

 ちょうど長い旅を終えて、煙や水蒸気を吐きながらゆっくりと駅舎に近づく機関車。
 線路と機関車のガラスの屋根の伸びやかな空間。
 その向こうに広がる青空と建物が、この絵に動的な広がりを与えている。

 この絵、ターナーの「グレート・ウェスタン鉄道」(ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵)と、しばしば対比されることは、<マルモッタンとテートブリテン>でも書いた。

 Photo_5サン・ラザール駅、今、駅舎改装の真っただ中。

 しかし、嬉しいことに、1877年制作のオルセー美術館所蔵の「サン・ラザール駅」(写真上)に、モネが描いたガラス屋根と同じ風景がそのままにある。

 勿論、ホームで待つ列車、蒸気も煙も吐いてないが。

 ところで、SFCN・フランス国鉄、ルーアン右岸駅行きの発車ホーム、何時ものことながらなかなか発表しない。

 お節介なまでの日本の鉄道会社に慣れた日本人、ペトロ ならずとも少し苛つかされるのでは?

 カタリナ が、ハンチングが小粋な車掌さんに確かめ、列車(写真下)のシートに腰を落ち着けたのは、この駅に着いてから小半時も経っていた。

コメント

あゝ、梅雨入り

2010年06月13日 | 日記

  待たれゐし雨とも思ふ梅雨入りかな (汀子)

 朝から雨、西日本の広い地域で梅雨に入った模様と、TVの気象予報士は伝える。

 夏至や大暑などの二十四節気、桃や端午など五節句などの他に、季節の移り変わりをあらわす暦として雑節がある。

 P1080173雑節には、” 節分 ”、” 彼岸 ”、” 土用 ”、” 二百十日 ” など、よく知られたものもあれば、農作業に深く関わる “ 半夏生 ”(はんげしょう)とか、五穀豊穣を祈願する “ 社日 ”(しゃにち)など、都会暮らしには馴染みの薄いものもある。

 その雑節のひとつが “ 入梅 ”(にゅうばい)、毎年6月11日頃とされている。

 この月に入ってから、曇りや少し小雨のぱらつく日が二、三日あったものの、いい天気が続いた。
 特に、入梅の日の前後は、“ さあ、もう直ぐ明けても暮れても雨を降らすぞ。今のうちに太陽を拝め ” と、眩しいばかりのお天気が続いた。

 小学生、それも高学年の頃、雨の日は憂鬱だった。
 勉強よりも運動場で走り回っている方が性に合っていて、校庭がぬかるんで、教室で過ごす休み時間が詰まらなかった。

 P1080177何よりも嫌だったのは、周りが蝙蝠傘ばかりの中で、番傘を差して登校しなければならなかったこと。
 今思えば、蝙蝠傘を買って貰えなかった訳ではなく、多分、直ぐに壊してしまうので、親も諦めたのだろう。

 親が使えという番傘、開けば、“ ○○商店 ” という屋号が墨書してあり、ご丁寧にも、傘の骨と骨の間が裂け、くたびれて丸く閉じられないのである。
 父親に破れているから嫌だとごねると、「お前さんが破ったんだろう」と、見せしめもあったのだろう、無理やり持たされた。

 たまに親の目を盗んで、新品の番傘を開くと、ばりばりという音とともに油の匂いが広がり、そのうえ、ぱらんぱらんと傘を打つ雨音が小気味よく、楽しかったことを覚えている。

 ところで、のような薔薇の蕾と生菓子のきんとんのような紫陽花、美味しそうでしょう?

  これよりの梅雨の憂き日の一日目 (汀子)

 

コメント (3)