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ペトロとカタリナの旅を重ねて

あの日、あの時、あの場所で
カタリナと歩いた街、優しい人たちとの折々の出会い・・・
それは、想い出という名の心の糧 

聖ペトロ伝 ‐ フィレンツェ

2011年05月11日 | イタリア

 サンタ・マリア・デル・カルミネ教会を訪ねた目的は、ペトロの生涯をテーマにした壁画「聖ペトロ伝」を見るため。

 ただ、この教会を有名にしたのは、残念ながらペトロではなくアダムとイブのようだ。
 その絵とは、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会の「聖三位一体」を描いたマザッチョの「楽園追放」(上/右)。
 テーマは、旧約聖書の創世記の一場面、アダムとイブが禁断の実を食べたばかりに神の怒りに触れ、エデンの園を追放、泣き叫びながら逃げまどう姿を生々しく描いている。

 1112この画の向かいに、もうひとつのアダムとイブ、マゾリーノの「原罪」(上/左)がある。
 マザッチのそれに比べ、静的で繊細なタッチであることが見て取れる。

 ただ、圧倒するのはやはり、礼拝堂の左右の壁面二段に描かれた「聖ペトロ伝」(中=左壁/下=右壁)。

 マゾリーノが託され、マザッチョとともに描き始めたのが1425年頃、マザッチョ夭折後は、マゾリーノが独りで続け、そして、最後はフィリッピーノ・リッピに受け継がれ、1481年頃ようやく完成を見たという。

 左壁の下段中央は、マザッチョとリッピの共作「王子を蘇生させるペトロ」とマザッチョ「説教するペトロ」。

 2_3右壁の上段中央は、マゾリーノの「病者を療すペトロ」と「タビタを蘇生させるペトロ」、下段中央は、リッピの「ペテロの磔刑」と「ネロの前で尋問されるペトロとパウロ」。

 礼拝堂の左右の壁併せて12の場面のうち、アダムとイブの2面を除く10面がペテロの伝承をテーマにしている。

 ただ、その中で、ペトロがイエスと一緒に描かれたのは、左壁上段中央のマザッチョ「貢の銭」だけ。

 “ 皇帝に税金を納めるのは律法に適って・・・ ” と、聞かれた3イエスが、“ 何故わたしを試そうとするのか (マルコ12章13-17・新共同訳)と応じた場面で、画家自身も描かれているという。

 その聖人ペトロの伝承場面、聖書に目を通していないと理解が難しいようだ。

 古くは14世紀の初頭、ジョット工房の手になるパドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂の「キリスト伝」やアッシジの上手教会の「聖フランチェスコ伝」など、当時の教会の殆どがこのような壁画や太陽に輝くステンド・グラスを通して、聖書世界を、イエスの教えを、伝えていたことが窺える。

 ルネッサンスの黎明期から、幾度かの中断があったものの半世紀余の歳月を費やし、聖人の足跡を伝えるべく努力した芸術家集団がいたことに想いを馳せた。
 こうして見るとね」「うん」「ペトロって、ただのおっちょこの泣き虫じゃないんだ」だって!
 Peter & Catherine’s Travel Tour No.324

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続また・閑話休題 ‐ 泣き虫ペトロ

2011年05月06日 | イタリア

 ブランカッチ礼拝堂の主人公、それは、聖ペトロ。
 ガリラヤ湖で弟アンデレと漁をしている時、イエスに声をかけられ最初の弟子になるシモン、後に、イエスからペトロと呼ばれるようになる。
 イエスによって最初に選ばれた十二人の弟子、所謂十二使徒のリーダー的存在でもあったと言う。

11  その彼、主の受難という肝心な時に、大祭司の家の中庭で女中のひとりに「あんた、イエスと一緒にいたやろ?」と問い詰められ、畏れ多くも「おら、イエスなんて知らねえ!と、なんと三度も否認(ラー・トウール「イエスを否定するペトロ(部分)/フランス・ナント美術館蔵)、挙句、主を見捨てて遁走。
 逃げた後、「なんてことをしたんだ」と、恥ずかしくも号泣するのである。

 そのことは四篇の福音書の全てに書かれてい、カタリナ に、「少しおっちょこちょいなのね、ペトロって」と嬉しそうに笑われる始末。

 さらに、ローマで布教中、皇帝ネロの迫害が厳しくなり、「こりゃあかん」と言ったかどうか知らないが、アッピア街道を尻に帆かけてすたこら逃げる途中、復活後のイエスとばったりと出会うお粗末君?

 師と出会った彼、「少し遅いんやけど」翻然と悟りの境地に至り、殉教を覚悟してローマに戻りネロに捕縛される。
 捕縛された彼、師と同じでは余りにも畏れ多いと、自ら逆さ十字架を望み殉教する。

 そのあたりのことは、<ポポロ教会>にもう少し厚く書いたが、そこまでおっちょこちょいとは露知らず? 彼の名を洗礼名に頂いた誰かも、随分とおっちょこである。

 22_pauro21_petrosそんな聖人だがイエスの信頼は厚く、“ 天の国への鍵 ” を預けられる。
 カトリックでは、この泣き虫ペトロを初代のローマ教皇とし、バチカンの丘、ペトロの墓があった場所にサン・ピエトロ大聖堂を建て敬う。

 余談だが、小編でアイコン「」を頻繁に使っている。
 そう、聖ペトロのアトリビュート・表徴は “ ”、ヨーロッパなどの聖堂や教会を訪ねられた折、ファサードに多くの聖人像が並んでいるのを見かけられることでしょう。

 その中でを手にしているのが、わが聖人、おっちょこのペトロさん、くれぐれも “ ” を持つお方とお間違えのないように。
 そのお方は才弾けた<パウロ>さん、サン・ピエトロ広場で両雄並び立たずの定説を覆し、ともにローマ第一の守護聖人として、わがペトロと鎮座(写真下)ましましておられますので。
 Peter & Catherine’s Travel Tour No.322

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ブランカッチ礼拝堂 ‐ フィレンツェ

2011年05月04日 | イタリア

 サンタ・マリア・デル・カルミネ教会。
 大聖堂などから少し離れているせいか人の姿は少ない。

 カルメル修道会によって13世紀中頃に建てられたというこの教会(写真上)、石と煉瓦を積み上げたままの未完のファサードが、長い歳月に晒されて痛々しい。

 059当時は、有料だが開館時間内であれば、何時でも、何時間?でもOKだったが、今は予約が要るうえに、30人単位で僅か15分間の入替制になっていると聞く。

 話がそれた、教会右手から入ると中庭を囲む回廊(写真下)、その中ほどから上階へと続く古びた素朴な造りの階段を数段昇り、突き当たりのこれまた古びた扉を押すと内陣、主祭壇の右手が目指すブランカッチ礼拝堂だ。

 この礼拝堂、14世紀中頃にフィレンツェの商人ピエロ・ディ・ブランカッチによって建てられ、後に甥のフェリーチェ・ブランカッチが所有するようになったという。

 15世紀の初め、フェリーチェは礼拝堂をフレスコ画で飾ることを望み、その制作がマゾリーノと彼の友人で気心の知れた<マザッチョ>に託される。

 062マザッチョが若くして帰天、マゾリーノはひとりで描き続ける。
 描き始めて14年ほど経った頃、ライバルのメディチ家によってブランカッチはフィレンツェから追放されてしまう。

 スポンサーがいなくなったが、フレスコ画は未完成のまま。
 壁画制作はその後、<フィリッポ・リッピ>の息子フィリッピーノ・リッピの手へと移り、やがて完成する。

 1771年の火災により、礼拝堂は焼却を免れたものの煙によってフレスコ画は黒く煤けてしまう。
 長い間そのまま置かれていたが、1990年にようやく修復を終え、当時の美しさが蘇った。

 マザッチョ、マゾリーノ、そして、フィリッピーノへと受け継がれ、“ ルネッサンス絵画のアトリエ ” とも称されるブランカッチ礼拝堂、そのテーマは、「聖ペトロの生涯」。

 フィレンツェ、この先、訪れる機会もまずないことを思えば、「この旅でどうしても」「見とかなあかん」絵だったのである。
 Peter & Catherine’s Travel Tour No.321

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身に覚えあり ‐ フィレンツェ

2011年04月06日 | イタリア

 アルノ川に架かる橋。
 その中でウフィッツィ美術館に一番近い橋が、ポンテ・ヴェッキオ。
 両側に貴金属店がぎっしりと並ぶこの橋、上流側の建物が<ヴァザーリの回廊>の一部となっている。

 99年の初秋、透き通るような青空に誘われ、多くの観光客で賑わっているポンテ・ヴェッキオ(写真上)を渡る。
 店を次々と覗いては、「よくもここまできんきらきん」のアクセサリーを「並べたものね」と感心?する。

21 余談だが、宝石や貴金属のことなど全く判らないものの、日本人が好きなのはプラチナらしいが、このプラチナ、西洋人は余り興味を示さないとも聞く。

 いずれにしても、外敵の侵入に常に怯える歴史を持つユーラシアの人々、土地は持って逃げられず、通貨はなん時、ただの紙屑、金屑になるか知れない。
 頼りになるのは貴金属か宝石、取り分けゴールド・金が好きなようで。

 話を戻して、この街最古の橋という他には、橋上の建物とそこで商いをする貴金属店以外さして面白みもないが、ここからひとつ下流に架かるトリニタ橋、この橋の美しいシルエットを挟んで眺める茜色の落日、見所といえば見所かも?

Photo_2  そのポンテ・ヴェッキオを渡ると、左手になだらかな坂の広場があって、その奥に建つ茶色の大きな建物が、フィレンツェ最大のルネッサンス建築、ピッティ宮(写真下)である。

 ピッティ宮は、メディチ家のライバルでもあった豪商ルカ・ピッティが、花のマリア大聖堂のクーポラ・天蓋を施工したブルネッレスキに、設計を依頼して建てたものだそうだ。
 その後、ピッティ家は没落、ライバルのメディチ家コジモ1世が買取り、君主に相応しい建物としたという。

 この宮殿から、執政宮であったヴェッキオ宮まで回廊を作ったことは何度も書いた。
 もとを明かせば、丸薬で財を成したメディチ家、往時の財力の凄さに感心するものの、一番の理由はやはり身の危険。
 権力を上り詰めるためにかなり悪辣なこともしたのだろう、差し詰め、身に覚えありということ?
 Peter & Catherine’s Travel Tour‐No.308

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続々・閑話休題 - エクセスバゲージ

2011年03月29日 | イタリア

 ミユンヘン空港のチェックイン・カウンターでのこと。
 新入り君への<OJT・研修>の真っ最中で長い列。搭乗客がざわめき始めた頃、別のカウウンターが開き、「こちらへこい」と係員が手招き、ようやく私たちの番がきた。

 039この係員、「ふたつとも一緒にコンベアに乗せろ」と言う。
 今と違いその頃の鞄、ふたりとも矢鱈でかいのを使っていた。で、計量カウンターには、46.8kgの表示が。
 それをみた係員、何か盛んに喋っている。どうも、「エクセスバゲージ」、超過荷物だと言っているよう。

 エクセスチャージ、超過料金を覚悟しつつも、ドイツ訛り? の英語が聞き取れなくて、「bag is just two」と厚かましくも返すと、件の係員呆れながらも搭乗券に何やら書き込み、「ok」と言ってくれた。

 これ幸いと、その場を離れたが・・・、関空では何事もなく、しかも、軽くなっている筈なのだが、同じルフトハンザでも律儀なドイツ人には見過ごすことができなかったようだ。

 ところで、2月9日の朝日新聞、“ 国際線に乗る際に無料で預けられる荷物の制限を、この4月から緩和すると全日空が発表した。”  という記事が載った。

 041_2記事に拠れば、欧州やアジア路線で大幅に緩和されるらしい。
 
この競争時代、「さもありなん」と思いつつも、10年ばかり前のミュンヘン空港のやり取りを思い出し、今更ながら恥ずかしくて冷や汗が出た。

 そんなこんなで、「朝から!と呆れられながらも「ドイツでは最後やさかい」と、ビールを飲み干し、100人ほども乗れるのだろうか機中の人となった。

 11時前、畑の中?で小雨に濡れるペレトラ空港に着いた。
 大聖年の巡礼以来、ほぼ1年振りのフィレンツェである。

 それにしても、雪を頂くアルプスの「息を呑むばかりの美しさ」、エクセスバゲージとともに忘れ難い思い出である。
 Peter & Catherine’s Travel Tour No.304

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続・ライバル ‐ フィレンツェ

2011年03月25日 | イタリア

 最初にアカデミア美術館を訪れた折のこと。
 閉館時間に近く、彼の未完の傑作を見逃してしまい、「ずっと悔しい思いでいた」らしい。

PhotoPhoto_8  その作品とは、四体の「奴隷像」と「聖マタイ」(写真上左:部分)、そして、「ピエタ」。
 3年の時を経てようやく対面、向かいのベンチに腰掛けゆっくりと向き合う。

 ただ、前回OKだった写真、「あかん、ここで写真はと、多分、「言われたんやろけど?」、若い女性警備員に厳しくチェックされた。

 ミケランジェロは、生涯に四体の「ピエタ」を刻んだという。
 唯一完成したのがサン・ピエトロ大聖堂の「ピエタ」、僅か23歳の時の作とされる。

Photo_9Photo_10  二体はここフィレンツェにあって、ドゥオモ博物館の「フィレンツェのピエタ」(写真上右)とアカデミア美術館の「パレストリーナのピエタ」である。

 残る一体「ロンダニーニのピエタ」は、ミラノのスフォルツァ城博物館にあり、大聖年の巡礼の折にグループから離れ対面した。

 ピエタとは、磔刑に処された後に十字架から降ろされたイエスと、その亡骸を腕に抱く聖母マリアをモチーフとする宗教画や彫刻などのこと。

 その四体の「ピエタ」のなかで、三番目に彫られたとされるのが、ローマの東にあるパレストリーナという小さな町のサンタ・ロザリア聖堂に放置されたままとなっていた、「パレストリーナのピエタ」(写真中左)。

Photo_7 他のピエタと異なり、なかばレリーフ・浮き彫りのような形で表現されているのが大きな特色ともされ、四体のなかでは「ロンダニーニのピエタ」(写真中右:部分)と並んで荒削りのまま遺されている。

 いずれにしても天才が、大理石から紡ぎ出そうとしたものは何か?
 サン・ピエトロ大聖堂の「ピエタ」(写真下奥)以外は、未完であるが故に想像を掻き立てられる。

 ミケランジェロが、唯一この街に残したドント形式の油彩、「<聖家族>」。
 美しくも深い悲しみの「ピエタ」から真逆にある、健康的で明るい一家を描いた「聖家族」は、ウフィツイ美術館の後編で。
 Peter & Catherine’s Travel Tour No.302

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ライバル ‐ フィレンツェ

2011年03月23日 | イタリア

 万能の天才<レオナルド・ダ・ヴィンチ>のことを書いた。

 さすれば、ミケランジェロ・ブオナローティも、となるのが成り行きというもの。
 何しろこのふたり、盛期ルネッサンスのみならず、芸術史上最大のライバルなのだから。

 David_3ということで、ウフィツイ美術館からひとまず離れ、再びフィレンツェの街を歩く。
 <サン・マルコ修道院>からアカデミア美術館へ向かったものの、そこは長蛇の列だったということは、<ウフィツィ美術館>で書いた。                                                                                      

 その日の午後も遅く、改めてアカデミア美術館を訪ねた。
 途中の<サン・ロレンツォ教会>辺りの広場や通り、朝方は開いてなかったのだが、多くの露天が店を開き、買い物客やら観光客やらでごった返している。

 午前中、あれほど長い列だったこの美術館、待つこともなく入ることができた。
 ところでこの美術館、勝手口?みたいな所(写真下左)から入り、狭い廊下を進み展示室に入るのだが、どう考えてみても 「出口の方が立派?、首を傾げる誰かに 「館長が変わり者なんじゃない?誰かさんと同じで」と心外なことを言う。

 <ボッティチェリ>同様、豪華王ロレンツオにその天才振り?を認められ、メディチ家の屋敷を工房・アトリエにして石を刻んだミケランジェロ。
 この街に彼の彫刻が、ちりばめられた所以でもある。

 カタリナ は、「彼は素晴らしい絵も残しているが、本質は、本人も言っているように彫刻家だと、あらためて思った」と言う。
 そういうことで、この街に彼の油彩は 「聖家族」(ウフィツイ美術館蔵)の一点のみ。
 そのミケランジェロの不滅の傑作、ルネサンス芸術を象徴する 「ダビデ」(写真上)がここにある。

1_4Photo_3 旧約聖書のサムエル記にある、青年ダビデとゴリアテが対決するシーンを巨大な大理石に彫った。

 青年ダビデは、正面ホールの真ん中(写真下右)で、想像をはるかに超えるスケールで屹立。
 作家の芝木好子さんは掌編 「<ルーアンの木陰>」で、ダビデの若き顔を、“ 未来を信じている顔だ “ と作中人物に語らせている。

 また、バロック期の彫刻家ベルニーニも 「<ダビデ>」を刻んでいるが、同じ対象でも表現が異なり面白い。

 ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂の彼の傑作 「<ピエタ>」。
 あの打ちひしがれた美しくも深い悲しみ、そして、湛えた愛からは想像もつかない、まさに圧倒する力強さで、彼方のゴリアテを睨み据えている。 (続く)
 Peter & Catherine’s Travel Tour No.301

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続・閑話休題 ‐ 飛んでミラノ

2011年03月18日 | イタリア

 初めてミラノを訪れたのは、99年の晩夏。

 永い歳月をかけたサンタ・マリア・デッラ・グラツィエ教会の 「<最後の晩餐>」。
 その修復作業が、その年の晩春にようやく終わり再公開されていたが、迂闊にも鑑賞には予約が要ると、ミラノに着いた日に知った。

 修復が終わったこの傑作をひとめ見ようと、教会前は予約のキャンセル待ちの長い列が延びていた。

 Photo_3鑑賞は25名ずつで十五分間という限られた時間。
 予約に欠員がでた分のみ待機者から補充、今の状況では何時間かかるか判らないらしい。

 一旦は諦めたカタリナ だが、この傑作を見ずして 「帰りたくない」と言う。
 うべなるかな、「よし、並んでやろうじゃないか!と腹を括ったもののこれが全く動かない。
 そのうえ雨まで降ってきて、教会の庇に慌てて身を寄せる始末。

 2_21_2雨が止んでやれやれと思うと今度はかんかん照り。
 すっかり天にも見放されてしまったようで暗澹たる気分、途中でカタリナを教会前のベンチに休ませる。

 こんなことをしながら三時間。
 ようやく入口の前まできた時は万歳と叫びたい気持ちだったが、それはカタリナとても同じ思いだったろうと・・・。

 ところで、この壁画にはこんな逸話が残っているのだそうだ。

 修道院の食堂の壁画制作を依頼されて3年、イエスとユダのイメージが今ひとつ浮かばず、「困ったなあ、どないしよう」と悩んでいたダ・ヴィンチ。
 
ある日のこと、修道院長がミラノ公を訪ね 「まだ、スケッチもしていない」と制作の遅れをこぼした。

 Photoこのことを聞いた彼、ミラノ公に 「わては毎日、朝な夕なミラノの貧民街に通うて、ユダ(写真:手前で左を向く男)の悪辣さを持っている顔を探しているんやけど、まだ見つかりまへんのや」と言い、少し間をおいてこうつけ加えたとか。
 
修道院長をモデルにすれば済むんやけど、彼が笑いもんになるのも気の毒や思うて・・・」と。

 3年の歳月をかけ、1498年2月、壁画は完成した。

 旅先で三時間もの貴重な時間をかけて傑作と対面。
 たちまちにして十五分という時間が過ぎ、ため息とともに押し出されるように出口に向かった。
 外にはまだ、長い、長い列が続いていた。

 後日談だが、翌年の大聖年の巡礼の折に再訪。
 小雨降る夕刻のグラツィエ教会、並ぶ人の姿もなく、予約もあってバスから降りて直ぐに入れたのだが、同時に、あの日のあの三時間を、ほろ苦くも懐かしく思い出した。

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閑話休題 ‐ 朝まだき空港で

2011年03月11日 | イタリア

 クリスマス一色のドイツ・ミユンヘンから空路フィレンツェに入った。
 その日、早朝のミュンヘン、霧のような雨が降り身も凍る寒さ、恐らく氷点下だろう。

 カタリナ も余りの寒さに今朝になって、リムジンバスから 「タクシーにしようよ」と言う。
 中央駅南口(写真上)の前に建つホテル・マリティム、チェック・アウトの際にタクシーを呼びロビーで待つこと5分ほどで来た。

 Photo空港へ向かうタクシー・ドライバー氏、カタリナに言わせれば、「ほら、女優のロミー・シュナイーダー」に似ているという妙齢のブロンド女性、少し驚く。
 それにしても、「シュナイーダーとは、かなり古い」が、革ジャンにスレンダーなお尻がフイットしたボトムに包まれて高く、また驚く誰か。

 どうして 「こんなに足が長いのや」 「誰かは鼻の下が長くなっているよ」とからかわれながら、またまた驚いたのがこのドイツ娘、可愛い顔に似合わずスピードを出す。
 100キロは優に超えているよう。夜も明けぬ早朝のこととて道も凍てているだろと思え、車中一時も気が休まらない。

 ようやく空が白んでくる頃、お蔭様で?予定よりかなり早くミュンヘン空港に着いた。
 荷物をトランクから降ろす彼女に、カタリナが 「ありがとう」の言葉を添えてチップを弾むと、「ダンケシェーン」と嬉しそうに笑う顔が、またまたまた驚くほど可愛いくて、そのギャップに苦笑。

 Photo_2時間が早いので空いていると思ったが、ロビー(写真下)には結構人の姿が多い。
 Aターミナルのルフトハンザ航空のチェックイン・カウウターはふたつが開いていた。

 ところが、何とそのうちのひとつは新入社員のOJT・研修の真最中。
 教師役らしきおばさん悠揚迫らず、「何があっても決して手伝ないわよ」とばかり、まさに悠然と構えている。

 もう一方のカウンターでは、若い女性がてきぱきと搭乗客を捌いている。
 ここまでくると、さすがに並び替える客も出始める。
 列がざわめきブーイングも起こりそうな気配に、件のおばさん 「?×!」ようやく気付いた様だ。

 いくら悠然としていてもやはり客商売、周りの視線が気になりだしたのか、肉体的にも精神的にも重い腰? をようやく上げ、新入君を手伝い始めるのだった。

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ウフィツィ美術館 ‐ フィレンツェ

2011年02月17日 | イタリア

 次に向かったアカデミア美術館、ミケランジェロが多くのギャラリーを引き連れているらしく長蛇の列。
 それに、「街歩きにも」「少し疲れた」ことだし、このあたりでシリーズの初稿、<花の街>へと話を戻し、ウフィツィ美術館に入ることに。

 イタリアの至宝、ウフィツィ美術館。
 Photoメディチ家初代トスカーナ大公のコジモ1世の治世下、16世紀のイタリアで活躍した建築家ジョルジョ・ヴァザーリの設計で、1565年に竣工したという。
 <ウフィツィ美術館自画像展>でも書いたが、通称「ヴァザーリの回廊」なども手がけている。

 画家でもあった彼、当時のイタリアの著名な芸術家と作品を集成した、「美術家列伝」の著者としても広く名が知られている。

 ウフィツィ、英語でオフィスの名が示すとおり、元はフィレンツェ政府の行政機関を集めた執務室だったそうである。

 収蔵する作品は、メディチ家歴代の美術コレクションを主体とし、ルネサンス・文芸復興の発祥の地に相応しい貴重なコレクションとして、イタリア美術界にとどまらず、世界的にその評価は高いといわれている。

 時間軸は02年、3年振りのウフィツィ美術館をベースに、初めて訪れた時のことを交えながら歩いてみたい。

 21シニョリーア広場から美術館へ向かったが、殆ど人の姿が見えず、ホテルを出るのが少し遅れたのが返って好い結果になったようだ。
 チケットを買い一番奥にあるエレベータ・ホールに向かった。

 他の客の姿は見えず、「シニア専用」「違うでしょう、スタッフ専用!のエレベータで、厚かましくも3階の絵画館に向ったのは前回と同じ。

 美術館は、東側の棟と彫刻ギャラリーのロッジア・デイ・ランツィ(写真上)がある西側の棟を、アルノ川に沿って回廊で結ぶコの字型の建物。

 中庭では、柱に穿たれた中からイタリア・ルネッサンスの巨人、ダ・ヴィンチ(写真下左)、ミケランジェロ(写真下右)、ラファエロなどの像が迎えてくれた。

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