何も彼も手つかずのまま入院したカタリナ。
茶道具や衣類の整理のため外泊許可を貰って帰宅した折のこと、大切にしていた長女の誕生祝いに頂いたフランス人形、「供養してほしい」と言う。
カトリックでは十字架やロザリオなどの信仰用具は、神父様から祝別をして貰って初めて神様から頂いたものになる。
信仰用具に限らず、何も彼もが神様から頂いたものであるとすれば、手離すときも同じように扱って貰えると思うものの、何やかやと想い入れがある品は、無闇矢鱈、所構わず捨てる訳にもいかず、納め所としてその手の神社へとなるようだ。
それで、一月の終わり頃、人形供養で名が知られた門戸厄神へ行った。
住宅が建て込み路地のような細い道を、右往左往しながら辿り着くと二月一杯人形の受付は休みと言う。
以前にも同じ目に合ったが、一月二月は厄神さん、厄除けで忙しいことを迂闊にも失念していた。
厄除けと言えば、丹波、但馬、丹後を総称して三丹地方と呼ぶが、その三丹一と言われた柏原(かいばら)の八幡神社の厄除大祭、通称厄神さんが毎年2月17、18日にあって大勢の参詣客で賑わっていたことを思い出した。
神社のある小高い山の裾に学校があって、下校の折に屋台を覘いたり冷かしたりしたものだ。
そんな多感な?頃には思いもしなかった雲を掴むほどの歳になって、いまどき珍しくも何んともないが聊か面倒な病を得た。
癌の性質(たち)から三月毎に折り目?正しく検査を受けてきたが、二年目の節目検査がイレウスでの入院騒ぎで延び延びになっていた。
厄神さんの日にその予後の検査があって、改めて三月に節目の検査をとなった。
話は戻って、厄は男が数えの61歳、女は随分と早く37歳が最後らしい。
それも還暦を過ぎれば61歳の華寿、70歳の古稀などと寿の祝いに変わるそうだが、その辺りまで生きれば十分とされた時代もあったのだろう。
それにしても何やかやと続いたここ二年ばかり、カタリナに何も彼も背負わせて逝かせてしまい遣り切れぬ思いも残る。
予後検査の帰り道、ふたりで度々覘いたお寿司屋さんに久し振りに寄ってみた。
注文したのは彼女を偲んで芽葱、赤カブ、卵焼きなど、なるほど魚が食べられない彼女には詰まらない食事に付き合わせてしまったとほろ苦く、山葵の所為なのかツ~ンとなった。
何やかやと益(やく)もない話になってしまったが、弥生・三月になればなにを扨(さて)置いても人形の供養をしてやりたいと思う。
そんなこんなで如月・二月もゆき、もう直ぐ五節供のひとつ上巳(じょうし)の節供、桃の節句である。
病院のロビーにも雛人形が飾られ、待ち侘びた春がくる。
Peter & Catherine’s Travel. Tour No.772