goo blog サービス終了のお知らせ 

ペトロとカタリナの旅を重ねて

あの日、あの時、あの場所で
カタリナと歩いた街、優しい人たちとの折々の出会い・・・
それは、想い出という名の心の糧 

深まる秋 ‐ 10月がゆく

2014年10月31日 | 季節/暦

 朝からすっきりと晴れたカタリナ の誕生日(10/23)、小ざっぱりとして大阪に出掛けた。
 久し振りの梅田界隈、彼女の元気な頃と同じようにそれを祝って食事を、と思ったものの、さて何を?と考えたら、どんな物が好きだったのか思いつかず、困ってしまった。

 考えをきちんと主張する人が、こと食事に関してはあれこれがなく、何がいい?と訊いても、「何でもいいよ」、としか答えなかった人だった。
 斑模様の記憶をたどったものの思いつかず、結局、ペトロ の好きな物にすれば喜んでくれると。

 食べ終えて店を出たが、味気ないことには変わりがない。
 どA_2んなに高価な食事でも、ワンコインで足りる食事でも、会話を楽しみ乍ら一緒に味わえる人がいなくては詰まらない、と言うことのよう。

 ところで別日のこと、所用で阪神西宮駅近くのさるお店に行った。
 序に昼食を済まそうと思い、品書きを前にあれこれ迷った挙句に松花堂を注文、十字に仕切られた一角にお刺身が盛られていた。

 好き嫌いを余り口にしない彼女だったが、生魚には箸を付けなかったなあと思い乍ら食べていたら、隣に座った年配のご夫婦と思しき二人連れ、聞くともなしに届く会話、声は高くないが世相やら何やら嘲る言葉の応酬。

 驚いて見遣ると別に喧嘩をしている風でもない。
 知的とまで言わないが、穏やかに優しい会話を楽しめないかなあ?と思いつつ、自分もあんな風だったンじゃと、恥かしくなってそそくさと箸を置いた。

 顧みて、二人で食事を楽しむ、そんな贅沢な時をいともたやすく費えていたことが悔やまれるが、間に合う人は大切に・・・と、お節介を承知で思う。

 ふけゆく秋の夜 旅の空に 侘しき思いに ・・・(旅愁)

 話がそれたが、晴れ女を自認して憚らぬ彼女の面目躍如?色付き始めた街路樹の下で、秋が深まりやがて来る静寂の季節を想った、そんな誕生日だった。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.888

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マネ ‐ コートールド美術研究所

2014年10月29日 |  ∟イギリスの美術館

 09年にナショナル・ギャラリーを再訪、名画を楽しんだ後、小春日和のロンドンの街を散策。
 ロンドン大学、正しくは同大学の構成カレッジのひとつコートールド美術研究所へ向かった。

 エントランスの写真(上)からでもお判り頂けると思うが、このコートールド美術研究所、大英博物館やナショナル・ギャラリーなど、メジャーなミュージアムと違って名前も余り知られてなく、展示室も僅か10室ほどの小さなギャラリーである。

 だA_3が、初期イタリアやバロック期以降印象派までの秀作を収蔵している。

 中でも知られているのが、印象派の先駆的画家エドゥアール・マネ(1832-1883 /フランス)が、死の前年に完成したとされる 「フォリー=ベルジェール劇場のバー」、最後のサロン出典作ともされている。

 本作に描かれるのは、当時、流行に敏感な人々がこぞって集った、パリで最も華やかな社交場のひとつフォリー=ベルジェール劇場のバーとシュゾンという若い女性をモデルにした給仕。

 Aシュゾンの背後には、鏡に映った劇場で繰り広げられる様々な情景が細かく描かれている。
 画面右部分で、口髭を蓄えた紳士と会話する女性は、シュゾン自身の鏡に映る後姿である。

 気付かれたと思うが、中央ではシュゾンを真正面から捉え描き、鏡に映る後姿は紳士と共に角度をつけて描かれている。
 実際にはあり得ないこの構図、発表当時は随分と辛辣な評価を受けたとされている。

 ものの、奥行きと広がりを感じさせる構図、精緻に描かれたカウンターの酒瓶、小さな花入れやオレンジが盛られたクリスタルグラス、そして、魅惑的乍らも物憂げな給仕シュゾン、それらが私たちを劇場のバーへと誘うのである。

 とまれ、この絵を観るために態々(わざわざ)しくもここを訪ねたふたりにとって、その価値は十分にあった。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.887

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蒔いた種

2014年10月27日 | 日記

 朝日新聞主催の囲碁の名人戦第五局、NHK ‐ BSの大盤解説で視ていた。
 局面は挑戦者河野九段が井山名人の囲う模様(陣地)に気合宜しく打ち込んだところ。
 当然、名人はこれを許さじと厳しく攻め、そこから数十手、双方ぎりぎりの激しい攻防が続く。

 七番勝負、二勝二敗で迎えた天王山の戦い、固唾を飲んで見守る中、名人が一見隙に見えるような仕掛けを。
 それを読めぬ挑戦者ではないが、受けて遣ろうじゃないか!とばかりに放った次の一手が勝敗の行方を左右する手になった。

 Aその時、武宮元本因坊がこんな解説をした。
 件の一手に、“ 自分が蒔いた種、自分で刈らなければ ” と漏らした言葉に勝負の文(あや)とは別の男の戦いのようなものを思った。

 酔狂老人の笊(ざる)碁ならいざ知らず、打った一手が意味のない石になることを恥じ、たとえ勝負に勝っても、一手かけた石が駄目石ならば意味がないというプロ棋士としての哲学である。

 自分が蒔いた種、自ら刈らなければならない、が、この当たり前のことが存外に難しい。
 この種、心ならずも蒔いたものもあれば、前後の経緯から蒔かざるを得なくなったものも、また、蒔くべく仕向けられたものもある。
 不様なのは理性に遠く、一時の感情に任せて蒔いてしまった時。

 伸びるに任せて放っておけば何れ自然に枯れてくれるが、刈り取らねば先に進めぬ時が聊か厄介、それなりの力も要り、矜持みたくなものが萎えることもある。

 TVの実況を視乍ら、対局者の一時間を超える大長考に付き合って、そんな蒔いた種のことやら、そうそう、“ 過ちては改むるに憚ること勿れ ” とも言うよなあとか、つらつら考えていた。
 ところでこの手合い、意地を見せた挑戦者、残念乍ら刈り損ない名人が防衛に王手をかけた。

 深まりゆく秋、金木犀が路地やら庭先やら、其処彼処(そこかしこ)でいい香りを放っている。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.886

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

吉祥天女 ‐ 浄瑠璃寺(3)

2014年10月25日 | 神社/仏閣

 爽やかに晴れた日(10/17)、浄瑠璃寺まで出かけた。
 農家の庭先、色づき始めた柿がたわわに稔り、稲刈りを終えた田圃の畦道には彼岸花が風に揺れている。

 紅葉と馬酔木(あせび)で知られているこの寺、今、「秘仏・吉祥天女像」が秋季特別開扉されている。
 紅葉が進み堂宇が混雑する前に、静かに拝見したいと思い訪ねた。

 A_2この天女様、カタリナ がこよなく愛していた。
 彼女が敬愛して已まなかった父が、彼女の誕生を喜びその一字を名前に戴いたと聞く。

 九体阿弥陀堂、像前に端坐し対面した。
 雅と表現するよりも、むしろ童女のような、おおどかなお貌が好ましく心癒される。
 厨子に佇まわれる三尺ほどのそのお姿、あどけなく大らかで眺めていて飽きない。

 多くを語ることはない、五穀豊穣、天下泰平、豊かな暮らしと平和を授ける幸福の女神、吉祥天女。
 重要文化財 「厨子入木造吉祥天立像」、その厨子の内部には梵天、亭釈天、四天王、弁財の四神、天部にも諸像が表されている。

 帰依するところは異にするが、ただ見つめるだけ、見つめられるだけで、罪科(つみとが)から救われる、そんな心持にさせられる。

 当尾(とうの)の里は浄瑠璃寺で、カタリナの面影を天女の面差しに見た、と言えば過ぎるだろうか。
 あたかも、今週は、その彼女の誕生週でもあった。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.885

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

当尾の里 ‐ 浄瑠璃寺(2)

2014年10月23日 | 神社/仏閣

 小春日和の穏やかな日(10/19)、当尾(とうの)の里、紅葉と馬酔木(あせび)で知られている浄瑠璃寺へ。

 寺名は薬師如来の居所たる東方浄土、「東方浄瑠璃世界」に由来、本堂、九体阿弥陀堂(国宝)に、九体の阿弥陀仏(国宝)を安置することから九体寺(くたいじ)の通称がある、と前号で書いた。

  B1 A1 A2

 ご本尊は二体、東方の浄瑠璃浄土たる三重塔に薬師如来(毎月8日開扉)、西方の極楽浄土たる本堂に阿弥陀如来がおわす。

 その阿弥陀如来像、“ 九品往生(くほんおうじょう)、努力や心がけなど様々な条件で、下品下生(げほんげしょう)からはじまり、下の中、下の上と最高の上品上生(じょうほんじょうしょう)まで、九つの往生の段階があるという考え(観無量寿経)から、九つの如来を祀った ”(同寺案内冊子)とある。

  B2 C1 C2

 九体の坐像の中心、丈六の中尊は來迎印(下生印)を結び、八体は半丈六で定印(上生印)を結んでいる。
 ちなみに丈六とは、お釈迦様が1丈6尺(約4.85m)あったとところからその丈(たけ)の像のこと。

 陽の沈む西方浄土へ迎えてくれる阿弥陀仏を、西に向かって拝めるよう東向きに置かれた本堂、一体一体が堂前に板扉(いたとびら)を持っているが、勿論、この日は閉ざしていた。

  D1 E2 D3 

 ところで紅葉には少し早いこの時季、それでも夏の名残りや秋の気配を感じさせる花が、浄土を表す池の周りにある。

  E1 E3 D2

 馬酔木に秋桜などのほか紫陽花や秋明菊、それに、名も知らぬ実をつけたものも。
 それぞれが、短い秋の当尾の里の優しい陽たまりのなか、佇んであった。(この稿、続く)
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.884

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小春日和に ‐ 浄瑠璃寺

2014年10月21日 | 神社/仏閣

 小春日和の穏やかな日(10/19)、秋桜(こすもす)の花が見たくなった。

 秋桜の寺と言えば大和の般若寺が知られているらしいけれど、少し足を延ばし、当尾(とうの)の里は浄瑠璃寺で秘仏に会ってきた。
 真言律宗の総本山・大和西大寺の末寺となるらしいこの寺、秋桜ならぬ馬酔木(あせび)で知られている。

  A1 A2 A3

 この日、7時に起床、カーテンを開けると六甲の山が穏やかな日差しの中にあった。
 少し経てば京も大和路も紅葉狩りで混雑する、で、思い立ったが佳日、身支度もそこそこに車を転がした。

 日曜の朝、阪神高速も空いてい、開門される9時少し過ぎに着いた。
 馬がこの葉を食べると脚が痺れ動けなくなることからそう呼ばれる常緑の低木、早春に白い壺(つぼ)形の花を総状に付けるが、勿論、この時季、花はない。

 その馬酔木が並ぶ細い参道の中ほど、とろろ蕎麦を売る食堂のおばあさんに、「おはよう、いい天気ですね」と声をかけると、「ほんに、こんな日は歩くのが楽しい」と応えてくれる。

  B1 B2 B3

 山号を小田原山と称し、ご本尊は、浄土を表す池を挟んで東、つまり此岸の三重塔におわす薬師如来、それに西、彼岸の本堂の阿弥陀如来の二体、開基は義明上人とか。

 寺名は、薬師如来の居所たる東方浄土 「東方浄瑠璃世界」に由来。
 本堂に九体の阿弥陀如来像を安置することから九体寺(くたいじ)の通称があり、古くは西小田原寺とも呼ばれた、と拝観料に付属(つい)た薄い冊子で知る。

  C1 C2 C3  

 紅葉は少し早いけれど、僅か乍らに色づいた梢が青い空に映えて美しく、それにもまして、清明な朝の光を受けて耀く水煙に息を呑む。
 参拝客は僅か、本堂に座し、西方九体仏としばし静かなうちに対面した。

 余談だが、寺と別れ駐車場に行くと大型観光バスが着いたばかり、ささやかな僥倖に感謝した。 (この稿、続く)
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.883

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Blu ‐ ray

2014年10月19日 | 日記

 長年使ってきたDVD再生機、録画機ではない。の、塩梅が良くない。
 新たに物を買わないと決めていることもあって散々迷ったが、録画再生機、それもブルーレイに置き換えた。

 別に、録画したい番組がある訳でもなく、ましてやブルーレイでなくともいいのだが、従来機種が殆ど店頭にないこともあった。
 B-CASカードが付いていたが、そもそも、こんなカードが何故要るのか理解(わか)っていない。

 A置き換えたものの、レジオの日で不在になる金曜に行われることが多い囲碁の名人戦の録画に使うぐらいのこと、ブルーレイなんぞ、録画にも再生にも使ったことがない。
 だから、店員さんが口を酸っぱくして説明してくれたブルーレイの良さなるものを一度も体験していない。
 おまけに、リモコンをTV用とまとめて一つにしたので面倒くさく、何故、置き換えたのか自分でもよく判らない始末。

 余談だが、これに限らず電化製品、デジカメ、PCのOS、スマホなど、便利な機能が一杯付いているらしいがとても使いこなせない。
 その機能が宝だとするならばまさに持ち腐れ、これもご時世と言うものだろうと思うしかない。

 ところで、今年のノーベル物理学賞、この青色LEDの開発に成功した三人の日本人科学者に授与された。
 何年か前に同じ賞を受賞した科学者が、「実生活に寄与した初めての例で羨ましい」と褒めていたが、従来の雲を掴むような授賞理由から、その意味を実感できる画期的な受賞だったと素人なりにも思う。

 尤も酔狂、TVやスマホの画面、電球で幾分なりとその恩恵に与っているものの、ブルーレイ、多分、この先もさほど与らないのが残念と言えば残念かな。
 季節の走りの「小菊」、可愛いので撮った。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.882

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

酒なくて

2014年10月17日 | 日記

 多くは飲めない癖に酒好きの酔狂老人。
 恥を承知で白状すれば、月に一度ほどのことだが、晴れれば晴れたで、雨降れば降ったで、昼日中から欲しくなることがある。
 その日は、グズグズの罪深き午後を過ごす羽目になる。

 そんな暮らしの某日、草木も何とかの深夜、PCを前に得体の知れないものに突如襲われた。
 妙に体がふらつき画面がぼやけ、目を伏せるとキーボードが歪んで見え、そのうち脂汗が。

 A夕べに缶ビールを一本飲んだだけ、それから時間も経っている。
 父親も長兄も襲われた脳梗塞、来るべきものが来たと思った。
 ベッドに横になり目を瞑りながら、あいつの一年祭も納骨も未だ、子供への手紙も書いていないぞ、などと取り留めのないことを思う。

 この期に及んでそんなこと考えても仕方がない、好きにすれば!と開き直ったら、余りいい夢じゃなかったが、夢うつつに小一時間もまどろんだよう、少しふらつくものの平常に戻っていた。

 先のことは神のみぞ知るが、でき得れば寝たきりの身は御免蒙りたい。
 小柄なカタリナ ですら手古摺ることがあった介助、酔狂なれば大袈裟ではなく小さなクレーンが要る。

 高用量の降圧剤を常用する身、事ここに来て何だが、真面目に暮らさなければ大きな迷惑をかける。
 そんなことをつらつら考えさせられた一夜の出来事だった。

 Photoところで、万葉歌人で酒好きの大伴旅人さんも、

 いにしへの七(なな)の賢(さか)しき人たちも欲りせしものは酒にしあるらし (万葉集/巻3-340)

 と、詠んだ。

 喉元過ぎれば何とやら、竹林の七賢と比べるべくもないが、雪見て一杯、月眺めて一杯、花観て一杯、酒なくて何の己が櫻哉、何て思いが鎌首を擡げる始末。

 その様たるや、葛飾柴又の帝釈天の御前様や団子屋のおいちゃんに、「馬鹿だなア」と嘆かれるフーテンの寅さんやないか!
 ここらでその悪癖を、できれば常飲を断たなければ・・・と、真剣に思うのだが、さて?

 散歩で撮った花ふたつ、「蔓日日草」か「クレマチス」に似たのと、花は「デージー」葉は「プリムラ」みたくなの、どちらも名前が判らない。ご存じならば教えて欲しい。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.881

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読点(とうてん)

2014年10月15日 | 本/図書館/言葉

 だいぶ、以前のことになる。
 村田喜代子さんの短編集、連作集と言えるかも知れないが、「<光線>」(12/10/26)という本のことを書いた。

 下線をクリックすると入れるので、繰り返しは避けるが、その中のひとつ、地震を東京で体験した若い母親の物語、「ばあば神」、この掌編、全篇、読点(、)の代わりにブランク(空白)の文章で綴られている。

 A朝日の読書面で、確か、在京の古書店主にして直木賞作家の出久根達郎さんだったと思うのだが、その出久根さん、“ 読んでいて今にも文章が崩れそうで不安定この上ない ” と、書評していたと覚えている。

 芥川賞作家の村田さんと比べるのも痴(おこ)がましいけれど、この句読点、句点(。)は文末に打てばいいので苦? もないが、読点(、)の方はなかなかもって厄介。

 実際、奈辺に打てばいいのか判らなくて困る。

 短い文節で入れると読みやすくはなるのだろうが、情緒がなくなってしまいさっぱりいけなくなる。
 さりとて長い文節にすると読みづらい、何よりも文章に力がないと読ませられないように思う。

 文章作法など習ったことがなく、いわゆるリテラシー、児童が基礎として身に付ける読み書き算盤の、作文すら満足に勉強してこなかった。

 Photoで、声を出して文章を読む音読(おんどく)、その音読がしやすいところに読点を打てばいいや、と自己流で打っている様な塩梅、総じて短く読点を打っている。

 結果、ぶつぶつ切れた蕎麦みたく、剰(あまつさ)え、添えられた汁(つゆ)の味=内容も薄く、食べられた代物ではない有様になってしまう。

 どうせ駄文なら読み易いに越したことがないじゃないか、と半ば開き直り乍ら、本稿も短いところで読点を打っているのだが、果たして味や如何?
 えっ、口にできぬほど不味くもない、が、美味くもない、・・・そうなんだ?

 台風18号が大暴れして列島を走り抜けた翌日(10/7)の台風一過を絵に描いたような日、「ダリア」が澄まして咲いていた。
 上の「ダリア」、花芯が「玉蜀黍」(とうもろこし)みたいで面白いよねえ?
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.880

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さよなら、ポアロ ‐ 想い出のカタリナ

2014年10月13日 | 想い出のカタリナ

 推理小説、数多ある中で一方の雄が、探偵シャーロック・ホームズをこの世に生み出したサー・コナン・ドイル(1859-1930/イギリス)ならば、もう一方はアガサ・クリスティ(1890-1976/イギリス)と言っても異論はあるまい。

 ミステリーの女王と呼ばれたアガサ、1920年に、「スタイルズ荘の怪事件」で推理作家としてデビュー。
 その後、「アクロイド殺し」「オリエント急行の殺人」「ABC殺人事件」など、数々の名作を遺しているが、そこに登場するのが、灰色の脳細胞をもつベルギー人の探偵エルキュール・ポアロ。

 作A品の多くが映画化されTVドラマ化もされたが、イギリスの俳優デヴィッド・スーシェが演じる、「名探偵ポアロ」が一番知人気があったようだ。
 TVドラマを殆ど視ることのなかったカタリナ も、これだけは別だったよう。

 放送が始まった頃の作品が視たく、当時、JRの森ノ宮駅近くに勤務していたこともあって昼休みを利用、近鉄京阪奈線(地下鉄中央線)荒本駅にある府立中央図書館までDVDを借りに行ったものだ。

 その後、新BOXが出る度に買ったり借りたりした。
 余談だが、いい歳の老人がレンタル店に出入りする格好、見場がいいものでないと余りいい顔をしなかった。
 が、新BOXの発売を新聞広告などで知ると、そんなこと忘れたかのように「借りてきてね」と言い残し稽古に出掛けていたが、「勝手な奴め」と呆れたことも今になれば懐かしい。

 そのドラマも、13シリーズ第70話、「カーテン ‐ ポアロ最後の事件」(10/6・NHK-BS)で、25年の幕を閉じた。
 視られた方も多いと思うが、まさかポアロの死で終わろうとは想像もしなかった。

 ドラマであれ何であれ、さよなら、別れには淋しさが付きまとう。
 彼女が元気だったら、「何時か終わりがあるわよ」と、さばさばとしているンだろうけれど。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.879

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする