ペトロとカタリナの旅を重ねて

あの日、あの時、あの場所で
カタリナと歩いた街、優しい人たちとの折々の出会い・・・
それは、想い出という名の心の糧 

今になって ‐ 9月がゆく

2016年09月30日 | 季節/暦

 お色気が売りの某週刊誌が社会の木鐸になったつもりか、恫喝紛いの医療記事を続けている。
 新聞広告の見出しだけで読んだことはないので批判する資格はないが、それでも “ その手術はすべきじゃない、その薬は飲んでは駄目 ” とは穏やかでない。

 嘘か真か、はたまた、嘘でないにしろ針小棒大なのか?
 阿呆くさと思いつつも、誌が名指す手術を受け、処方された高血圧薬を服用する僕(やつがれ)にとって、気にならないと言えば嘘になる。

 今になって “ ちょっと待ったその手術!” と言われたってどうすりゃいいんだか?
 節目検診の折にでも、主治医に訊ねるぐらいが関の山だが、それとても 「しない方が良かったかも」なんて答えが返ってくる筈もない。

 一方薬の方、200mmHgに直ぐになる血圧、自覚症状がないから厄介。
 当初はミカルディス40mgとアラダート20mgを服用していたが、手術やイレウスで上がりっぱなし、入院中に内科医の往診を受け、それぞれ80mg、40mgに倍量することで落ち着いた。

 そのミカルディス、見事?週間誌の槍玉にあがってい、薬局に処方箋を出した折に薬剤師さんに訊いてみた。
 週刊誌のことは既知らしく 「先生が処方されているし、それに、血液検査をされている筈だから」言う。

 その検査、三月毎の腫瘍マーカ(44項目)はほぼ正常範囲内にあるのだが、一般的な検査項目の “ 脂質・コレステロール ” などは含まれていない。

 で、どうしたもんじゃろのう、と首を捻りながら帰宅すると、市の国民健康保険課から葉書が届いていた。
 何だろうと開けてみれば、“ 薬をジェネリックにすれば約半額になる ” とあって笑っちまった。

 そんなこんなで、件の誌みたく破茶滅茶なお天気が、北から南まで大きな爪跡を残して長月・九月もゆく。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.1191

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この国のかたち

2016年09月28日 | 日記

 米国の大統領候補、予備選挙を経て共和党はまさかのトランプ氏、一方、民主党はヒラリーさんが順当と言えば順当に選ばれた。
 大統領選始まって以来の低人気同士と揶揄される両候補だが、彼ら自身が半年もかけて予備選で選んだのだから何をか言わんやである。

 その二人の第1回目のTV討論、NHK‐BSで、“ トランプ氏を米国近代史上、最悪の候補と切り捨てたニ―ヨーク・タイムス ” (朝日:9/25)に同調する訳ではないがヒラリーさんを応援し乍ら視た。

 英語が不得手で同時通訳だったが、通訳氏、激しい遣り取りに追いつけないのか発言の意が十分に汲めず、隔靴掻痒というか歯痒い思いも。

 CNNが直後に行った世論調査では、“ クリントン氏と答えた人が62%、トランプ氏と答えた人が27% ” (朝日電子版)とあり、ひとまずは無難なスタートとなったようだ。

 とまれ、オバマさんに次いで初の冠がつく大統領、大袈裟だがこの世にいる間に実現して欲しいと思う。
 ドイツのメルケルさん、イギリスのメイさん、アジアでは韓国の朴槿恵さん、台湾の蔡英文さん、ミャンマーではアウンサンスーチーさんなどが男に伍し、それ以上に国内外で存在感を見せている。

 司馬遼太郎さんは 「この国のかたち」(全六巻/文芸春秋社刊)の第一巻のあとがきで、“ なんとおろかな国にうまれたことかとおもった ” と終戦直後の日本について記している。

 大作家を引用するも烏滸がましいが、国でも地方でも、この国の政治の愚かしさに絶望感を持っている。
 もう利権や金まみれの男の政治はうんざり、そろそろ女性に国政を任せてはと思う、が、それこそ生きてる間には無理なのだろうか?
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.1190

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常同行動?

2016年09月26日 | 日記

 日にちは定かでないが、確か、お盆前の昼下がり・・・やったと思う。
 NHK ‐ Eテレ、多分再放送やないかと。を何気なしに視てたら、ドキンとすることを出演者が話していた。

 それは、“ 毎日のように急に出掛けるとか周囲からは気儘に見える行動を取るようになるなど、前頭型、側頭型ともに特徴的なのが、同じ行動を繰り返す 「常同行動」です ” とのお医者さんの言葉。
 聞き慣れぬ言葉に真面目?に耳を傾けると 「前頭側頭型認知症」という指定難病の症状だった。

 海馬という記憶を司る部分から萎縮していくアルツハイマー病と違って、脳の前頭葉、あるいは側頭葉という場所の何れかが萎縮し始める、若年性認知症の主な原因のひとつなんだって。

 ふ~んと引き込まれる酔狂、“ 会話の理解力は比較的保たれるため、指摘されるとその場では行動を止めることが少なくない ” と。

 ただ、“ 多くの場合は指摘されても気にせずまた同じ行動を取り、特に、初期では記憶力が維持されるため物忘れは目立たない ” と続ける。

 また、“ 現在自分がいる場所や年月・時刻を把握する能力も維持されやすいため、一人で出かけても迷うことは余りない ” との話に、そうなんやと頷かされる。

 ありゃ? となったのが冒頭の常同行動、お医者さん曰く “ 甘い物を過剰に好きになることが多く、毎日同じ料理を食べたり、あるだけ食べたりする ” と。

 なんやそれ、気儘? <カレー饂飩>など同じもんばっか喰ってる? そんなもん・・・、とっくにその範疇にいるやないかと憮然。
 甘いモン大嫌い、やった筈の左党が、何故か最近お気に入りのアンドーナツをあるだけ頬張り乍ら、TV相手にブツクサとぼやく・・・、えっ、ぼやきは常同行動になかったかって? う~ん、憶えとらンなあ。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.1189

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ブリューゲル(8) ‐ 美術史美術館(27)

2016年09月23日 |  ∟オーストリアの美術館

 ※ オーストリア/ウィーン美術史美術館編 ‐ 中欧美術館絵画名作選(45)

 ミュンヘンのアルテ・ピナコテークだったか、アルトドルファー(1480-1538/ドイツ/ルネッサンス・ドナウ派)の 「<アレクサンドロス大王の戦い>」(158.4×120.3cm)に驚いたことがあった。

 その彼を意識したのかどうか知らないが、ブリューゲル(1525-1569)がこれでもかと描いたのが 「サウルの自害」(1562年/33.5×55cm)。

 彼が多く用いた群集図どころではない作画に呆れさせられる本作、旧約聖書サムエル記から画想を得ている。

 イスラエルには王がいなかったので、士師のサムエルは神の指示に従い王になるべき男を捜す。
 その途上、背が高く美しい若者のサウルに出会い、彼が神に選ばれし者であることを悟って油を注いだ。

 サウルは息子や家臣たちとイスラエルを率いて、ペリシテ人など他民族と勇敢に戦ったが、アマレク人との戦いで、一切を滅ぼせという神の命令に従わなかったため、神の心は彼から離れてしまう。

 神の声を伝えていたサムエルもサウルを諦め、神の言葉によって秘かにエッサイの子<ダビデ>に油を注いだ。
 サウルはダビデの人気を妬んで命を狙うものの逃れられてしまう。

 そんなこともあって、ペリシテ軍との戦いでギルボア山に息子たちとともに追い詰められたサウル、敵の手にかかるよりも、と従者に殺すように命じたが恐れ憚って応じて貰えず、剣の上に身を投げて自害する。

 ブリューゲルはその瞬間を左手の岩場(下:拡大)に切り取っているが、作品自体にサムエルの物語以外の意味は見出せず、個人的にです。主題のあらましをだらだらと綴った。

 美術史美術館、“ ブリューゲル・コレクションは世界最大 ” と誇るが、喩えれば、横綱、大関ばかりじゃ成り立たぬ、幕内、十両に取的さんもいればこその大相撲ということだろうか?
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.1188

 ※ 「美術史美術館(26) ‐ ブリューゲル(7)」へは、<コチラ>からも入れます。

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ブリューゲル(7) ‐ 美術史美術館(26)

2016年09月21日 |  ∟オーストリアの美術館

 ※ オーストリア/ウィーン美術史美術館編 ‐ 中欧美術館絵画名作選(44)

 とにもかくにもブリューゲル(1525-1569)、美術史美術館が収蔵する全作品を、と阿呆なことをやっている、それもゆるゆると。
 もう少しアクセルを踏まないと、いつ終わるか分からないようになってきた。

 で、七回目は、彼の作品には珍しく小振りなサイズの 「巣さがしの謎」(上/1568年/59×68㎝)。

 主題は、“ 巣の有りかを知る者は知り、それを奪う者は物にする ” という、馴染がないというか解りづらい諺なんだとか。

 勝手に咀嚼すれば、巣のありかを得意げに指し示しながら、それが盗まれていることに気付かない知る者の盲目、を皮肉っているということらしい?

 それはまた、“ あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気付かないのか ”(マタイ7章)のアレゴリー・寓意だともされるが、はて?

 いずれにせよ本作、<ナポリ>の<カポディモンテ美術館>に架る傑作 「盲人の寓話」(下/1568年/86×154cm)に繋がる作品ともされているようだ。

 主題は、“ 彼らは盲人を手引きする盲人である。もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むであろう ”(マタイ15章)で、こちらは解り易い。

 それは、“ ユダヤ教のファリサイ派中枢部を指して、なにが人を汚すのかを弟子たちに教えた ”(新約聖書略解)ことのアレゴリーだとされている。

 取りも直さず、“ 真の信仰は正しき導き手によってのみもたらされ、肉体的な欠陥より精神的な欠陥、即ち信仰の欠如の方が怖い ” ことを示唆しているとか。

 ことさら絵解きは不要だろうけれど、少し付け加えれば、ブリューゲルは画面上部に教会を描くことによって、本来、目指さなければならない場所、信仰を示したのだとされている。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.1187

 ※ 「美術史美術館(25) ‐ ブリューゲル(6)」へは、<コチラ>からも入れます。

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秋の夜長に

2016年09月19日 | 日記

 今、17日(土)夜の3時35分、正確には18日(日)の未明だ。
 折しも降り出した雨の音を伴奏に、ラジオ深夜便の 「にっぽんの歌こころの歌」を聴いている。

 今日の歌手はちあきなおみさん、デビュー時の宣伝句が、“ 姓がなく名がふたつの歌手 ” だった、とアンカーが面白いことを紹介している。
 そんな他愛(たわい)もないことを合間にして歌を聴いていたら、今更だがこの方、実に歌が上手いのだ。

 ところで、誰にでも引き際があって、惜しまれて去りたいと等しく思っているだろうが、これが存外に難しい。

 この日の深夜便最後の曲は、アンカーも “ ため息が出ますね ” なんてことを言っている 「星の流れに」。

 少し退廃的な感じもするこの歌手、愛する人との別れを機にきっぱりと歌の世界から消えてしまった。
 演歌的だが愛に殉じた歌手といっていいのだろうか、その潔さを思った。

 そう言えば、山口百恵さんも引き際が綺麗だったなあと思い出した。
 男たるものどんな時も格ありたいと思いつつも、なかなかできるもんじゃないよなあと独り言(ご)つ。

 ニュースに替わった深夜便、台湾付近の台風16号が秋雨前線を刺激して、この連休は西日本を中心に大荒れと報じている。
 大雨? とぼんやりと雨打つ窓越しに暗い町を見ていたら、小さく新聞がポストに落ちる音で我に返った秋の夜長・・・だった。

  思へども思ひもかねつあしひきの 山鳥の尾の長きこの夜を (作者不詳/万葉集十一巻2802)

 思ひもかねつは思案にあまる、の意だそうですが、歌意は自由にどうぞ・・・。
 ところで、“ 道の辺のいちしの花のいちしろく 人みな知りぬ我(あ)が恋妻は ”(柿本人麻呂/11-2480)、万葉集に 「いちしの花=彼岸花」を詠んだ歌は一首だけだそうです。
 ちなみに、いちしの花と掛けたいちしろくは、はっきりとか目立ってという意だそうですよ。 
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.1186 

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また最近、ブログ考

2016年09月16日 | 本/図書館/言葉

 今、ウィーン美術史美術館のブリューゲル編、よたよたと綴って半分ほどのところ。
 なんせ彼ばっか続くので、残りは端折ってお仕舞にした方がいいのかな、と小さな?胸を悩ませている。

 彼の全収蔵品が常設展示されている訳ではないが、それでもずらっと並んだ作品に甚(いた)く感動、「興味ない」とお思いの向きもあろうが少しでも御裾分けを・・・と、「それが余計つうの!」、然(さ)もありなん。

 ところで、「<ゴルゴタの丘への行進>」に、HN “ マックのお父さん ” さんからコメントを頂いた。

 そこには、 “ ご存知かもしれませんが、安野光雅著の 「会いたかった画家」にも、ブリューゲルの 「ゴルゴタの丘への行進」に関する記述があります。なかなか興味のある文章です ” とあった。

 安野さんの本は、三昔も前になるのかな、「空想工房」(1979年/平凡社刊)をはじめとする空想シリーズ(全三冊)などを読んだ。
 軽妙洒脱な文にご自身の挿絵が入った掌篇集になってい、眠れぬ夜などに何章かずつ楽しませて貰った。

 一方、あいつ は、安野さんの絵本が好きで、「きつねがひろったイソップものがたりⅠ・Ⅱ」(1987年/岩波書店刊)などを楽しんでいた。

 そんなことで、空が心もち高く感じた土曜(9/10)、自転車で図書館へ、「会いたかった画家」(2016年/山川出版社刊)を借りた。

 安野さんは、親交のあるブリューゲル研究の第一人者 “ 森洋子さんの本で読んだのだと思うが ” と断り乍ら、独特の視点で作品や画家、往時のことなどを平たく解いていて面白く読んだ。

 それに掌篇だが、印象派の画家や大好きな<クレー>(1879-1940/スイス/20世紀芸術)と<ルソー>(1844-1910/フランス/素朴派)の章、その他に素朴派の章もあって、いい本を紹介して貰ったと喜んでいる。

 で、やっぱり、全収蔵作品を投稿しようかなあと思ってるんや・・・けど、好きにしたらって? だよねえ。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.1185

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私の口は貝の殻?

2016年09月14日 | 日記

 雄弁は銀、されど沈黙は金と言ったのは、誰だったか?
 英国の評論家・歴史家カーライル(1795-1881)の 「衣装哲学」に見える言葉で、“ 雄弁は大事だが、沈黙すべきときを心得ていることはもっと大事だということ ” とコトバンクにあった。

 なるほどねえ、賢い人は弁えを知り、どうでもいいことに口を挟んだり、軽々に意見を言ったりしないんだ。
 真逆の酔狂、どうでもいいことに口角泡を飛ばし、いざ肝心の時に口を閉ざしてしまうんだよなあ。

 でも、お喋りと笑いは心の潤滑油、心置けない友たちと、どうでもいいことをくっちゃベるのも楽しいものだ。
 そんな場にお酒が入ると、人の話を聞かず喋りまくる御仁、酔狂じゃありませんぞ。もいるが、そうなるとお手上げ、拝聴するしかない。

 話がそれたが、鰥夫(やもめ)になってべらぼうに喋る機会が減った。
 お喋り渇望症に加えて生来の皮肉屋、どうでもいいことにちょい皮肉を込めて口を挟む癖がしゃしゃり出て嫌われる仕儀に。

 で、余計なことを喋りそうになると、口にチャックをするのだがこれがいわゆる緩ふん、それで掌に “ 貝の字 ” を書いて呑み込むことにした。

 それとは別に、やゝ短気?な酔狂、癇癪を起しそうになった時の自制手段<六秒の間>を置くため、コーピングマントラ・呪文を唱えている。

 てなことで最近、集会などで、文字を呑み込んだり、ブツブツとマントラを唱えたりと結構忙しく、周りからは 「とうとう呆けたか爺さん!」なんて思われてるかも? 口は災いのもと、どうでもいいことには貝になるに限るようで、はい。

 本文に関係なく語呂合わせに「貝」の写真を貼ったけれど、この貝のこと時間があれば<こちら>を覗いてみて下さい。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.1184

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ブリューゲル(6) ‐ 美術史美術館(25)

2016年09月12日 |  ∟オーストリアの美術館

 ※ オーストリア/ウィーン美術史美術館編 ‐ 中欧美術館絵画名作選(43)

 美術館の公式HP、 “ 古代ギリシャから18世紀末までの芸術作品の数々は、ハプスブルグ家の皇帝や大公たちの収集にかけた情熱の証、とりわけブリューゲル・コレクションは世界最大 ” とある。

 そのブリューゲル(1525-1569)が、農民画家の本領を発揮した 「婚礼の宴会」(1567-68年/114×163㎝)。

 当時、 “ ネーデルランドの農民の婚礼は納屋で行われた ” らしく、花嫁は、稲藁が架る壁の織物を背に慎ましやかに腰かけているが、所在なさげといえばそうかも知れない。

 一方、婿殿は<カナの婚礼>よろしく水差しに酒を注いでいる男か、はたまた赤い帽子を被って皿を配る若者か?
 どちらにしても、嬉しくてじっと座ってられないのか、それとも婿殿が先んじてもてなすことが風習だったのか。

 前景で大人の帽子を被った子供が皿まで舐めている場面を描き、この場の雰囲気を楽しいものにしている。
 とは言え右上隅では、規律や戒律を重んじる修道士と村の長らしき剣を帯びた男が、密かに話をする様子が描かれてい、“ このような宴を苦々しく思っているであろうことを示唆している ” とされている。

 もう一枚 「農民の踊り」(1567-68年/114×164㎝)も架る。

 ブリューゲルは、 “ 大市がたったり婚礼が行われたりすると、変装してこっそりその場に潜り込み、農民らが飲み喰らい踊り跳ね廻る様をつぶさに観察した ” という。

 で、本作では、右端の木に貼られた聖母マリアの絵には見向きもせず、踊り喰らい情欲に走る農民の姿を道徳的な戒めとして描いている。

 それは、「婚礼の宴会」と通底するモチーフともされ、研究者の間には、 ほぼ同時期に同サイズで制作されていることから、これらふたつの作品は一対であったとする説もあるようだ。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.1183

 ※ 「美術史美術館(24) ‐  ブリューゲル(5)」へは、<コチラ>からも入れます。

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ブリューゲル(5) ‐ 美術史美術館(24)

2016年09月09日 |  ∟オーストリアの美術館

 ※ オーストリア/ウィーン美術史美術館編 ‐ 中欧美術館絵画名作選(42)

 ブリューゲル(1525-1569)の五回目は、彼が好んで用いた群集構図の作例のひとつとされる 「ゴルゴタの丘への行進」(1564年/124×170㎝)。

 主題は、イエスが十字架を背負ってローマ総督の官邸からゴルゴタの丘まで歩く<ヴィア・ドロローサ>。

 画面中央に位置するキリスト、その姿は群衆に紛れて見分けにくいが、十字架によって辛うじて識別できる。

 それはブリューゲルの意図が、“ 聖なる出来事よりも、それに対する人々の無関心さ ” にあるからだとされている。

 なるほど画面を見ると、群衆はまるで祭りの縁日のように三々五々、刑場の丘へと急いでいるかに見える。

 画面中央を横切って点在する赤い兵士が、それら群衆の動きを結ぶ線となって、前景で悲しむ聖母、使徒ヨハネ、マグダラのマリアたちとの対比を際立たせている。

 ところで、その群衆たちの無関心を示すモチーフの中で強調されているのが、“ イエスの十字架を背負わされようとするクレネ人シモンの挿話 ” (マタイ27章)。

 その部分を拡大(下)すると、連れて行かれようとするシモンを妻が必死に引き止めている。

 ブリューゲルは、“ 愚鈍なまでの容貌描写によって、野次馬たちの盲目振りを強調しようとしたのだ ” とされ、群衆はこのシモン夫婦の出来事に足は止めるものの、誰ひとりとして倒れたキリストに想いを向ける者がいないことを痛烈に皮肉っている。

 15世紀を経ても少しも変わってないじゃないかと、画家が投げ掛けているのだと解釈すれば納得がいく。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.1182

 ※ 「美術史美術館(23) ‐ ブリューゲル(4)」へは、<コチラ>からも入れます。

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