ペトロとカタリナの旅を重ねて

あの日、あの時、あの場所で
カタリナと歩いた街、優しい人たちとの折々の出会い・・・
それは、想い出という名の心の糧 

実(まめ)な奴 ‐ 7月がゆく

2014年07月30日 | 季節/暦

 実(まめ)な奴がいるもンだ、と呆れつつも感心した。

 兵庫県の議員、正しくは元議員さん、税金で東京や城崎などに頻りにお出かけしていたらしい。
 そのニュースを見聞きして、家族を東京に置いて単身で大阪に赴任していたAという営業部長がいたことを思い出した。

 A2_2 A1_2そのA、東京に資本系列も業態も同じの兄貴格の会社があって、儲けなど全く見込めないのに社の同意を得て東京事務所なるものを拵え、毎週末近くになるとそこに出張。

 営業成績でも上がっていればそんなに問題にもならなかったのだろうが、奥方の元に帰るだけだから売り上げが増える訳もない。
 かてて加えて性格が小賢しく小煩(うるさ)い、世辞にも褒めようがなく部下からは総すかん、あげくあっさり露見。

 当然、誰しも懲戒解雇になると思いきや、当時の社長、聊かというより相当の偏屈、処分、処分と騒ぎ立てるA嫌いの役員連中に嫌気が差したのか、全額を返済させたうえ説諭で放免にしちゃった。

 カタリナ ならずとも、議員やAのような小汚く小狡いこの手のおっさんが大嫌いだろう。
 が、彼女、それに輪を掛けて嫌ったのが文字通りの汚(きちゃな)い男。

 B1 2ところで最近の酔狂老人、散髪が億劫で頭はぼさぼさ、白髪交じりのまばらに伸びた顎髭、そのうえ色落ちしたシャツを着て如何にもむさくるしい。
 彼女が一番嫌ったこの格好、文句あるなら出てきて言って!と、遺影に開き直る始末。

 冗談はさて置き、この無精加減、情動ラインを司る脳の部位が梅雨休みの真っ只中、だったということで、近くある検診外来日辺りには目が覚める筈?

 それに比べて、奥方なのか愛人なのか知らんが、会いたい一心で週末になると気もそぞろにせっせと公金で新幹線に乗ったAを、「あゝ、マジにまめな奴だったンだ」と、改めて感心し乍らゆく文月・7月を眺めている。

 梅雨の合間にまめまめしく撮った花を投稿して憂さ晴らし! 「そんなことより散髪に行きなさい」だって。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.841

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モネ(2)‐ ナショナル・ギャラリー(30)

2014年07月28日 |  ∟イギリスの美術館

 印象派の巨匠クロード・モネ(1840-1926/フランス)。
 前号の連作作品、「睡蓮の池」に続いて今回の絵は、「ラ・グルヌイエールの水浴」。

 パリ近郊ブージヴァルに程近く、セーヌ河畔の新興行楽地であった水上カフェのある水浴場、ラ・グルヌイエール。
 本作は、1869年の夏、友人であるルノワール(1841-1919/フランス/印象派)とともにそこに赴き、画架を並べ描いた作品としても広く知られている。

 B_2厄介? なことに、巨匠、このモチーフでも三点描いてい、その一枚が、「ラ・グルヌイエール」(YN・メトロポリタン美術館蔵)で、もう一枚はブレーメン美術館が所蔵する。

 そのYN版、<オルセー美術館>(12/05/07)でルノワールの「ラ・グルヌイエールにて」と並べているので、印象派の巨匠ふたりの対象の捉え方など、同稿の「ひなげし」とともに是非見比べてほしい。

 ちなみに、この絵、巨匠が友人に宛てた手紙に拠れば、“ 数点の出来の悪いポシャドを描いただけ ” だったとか。

 巨匠がここで着手した試みはポシャド。
 屋外でモチーフを前に素早く描くポシャドと、スケッチにもとづきアトリエで念入りに仕上げるタブロー、その区別を表向きは取り除いてしまい、“ 後期における作画の萌芽となった ” と解説書にある。

 巨匠が連作として描いた、「睡蓮」や「積みわら」や「ルーアン大聖堂」などには、季節や朝方とか夕暮れとかの時間軸があって、その試みや意図が理解(わか)るような気もしないでもない。
 が、ポシャドとかタブローとなると、もうただ黙って頷いているしかないのである。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.840

 ※ ロンドン・ナショナル・ギャラリーの旅(29)へは(コチラ)から入れます。

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見極め点、その後

2014年07月25日 | 散歩道/山歩き

 甲山から始めたハイキング。
 地図では登山コースが4つと思いきや、裏側に地図にないのが2つあって全部で6つ、そのコースを登りと下り毎に組み合わせ、全てを終えれば甲山は卒業・・・と、思っていたら最後の最後で息も絶え絶えの体たらく。

 もう暫く甲山山麓を徘徊、と書いたその後日談。
 大型台風が被害を振りまいて温帯低気圧に変わった翌週の梅雨明けを思わせる日(7/15)、裏甲山?の周回コースから地図にないふたつの登山コースを歩き、取り敢えず見極め点をと考えた。

 Aで、ひとつ目のコースを登り始める。
 石段組みや手すりなど、人の手が入っていないブナ林と裏白が生い茂る山道、距離が短いせいか急坂で、先日来の雨のためかなりぬかるんで滑りやすい。
 甲山、初めて登った時、小一時間かかったが20分ほどで登れるまでに。

 この日は息切ることもなく頂上に、直ぐに下りて途中から枝分かれしたふたつ目のコースを登り、全ての登山コースを完了、ささやかな満足感に浸りながら頂上で小さく休憩。

 さて下山、進級後の六甲山のこと、シャワーの後のビールのことなど、あれこれ考えていたら体が浮いた。

 しまった! と思ったときは手遅れ、急坂に見事足を取られ、したたかに腰の辺りと右肘を地面に打ち付けて身体ひとつ分ばかり滑り落ちてしまった。

 B右側の肩から腰、膝頭にかけて泥がべったり。
 初心忘れるべからず、とはよくぞ言ったもの、いくら低い山でもそこは山道、始めた頃の緊張感が何時の間にか慣れに弛んでいたよう。

 幸いにしてダメージはなく、残る周回コースを経て一等最初に上った登山コースからこの日三度目を目指し、そこから最短の道を下り、車を駐める神呪寺(かんのうじ)境内へ着いた。

 傑作なのはシャワーの折に見つけた腰の辺りの10㎝足らずの打ち身の痕、なんとそれハートの形をしていて思わず笑っちまったが、それと右肘の擦過傷をスタンプに見極め点を貰った・・・と、した。

 ところで、このお寺さんの池の蓮、朝に開いた花が花弁を閉じかけていた。
 ピンクや白の擬宝珠(ぎぼし)のような顔を見せ、中には根?つまり蓮根みたくな浅黄色の花床を覗かせるのもあって可愛かった。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.839

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モネ ‐ ナショナル・ギャラリー(29)

2014年07月23日 |  ∟イギリスの美術館

 泰西名画の中で一番多く写真やコピーをされたのは?
 おそらく、ゴッホ(1853-1890/オランダ/後期印象派)の<「ひまわり」>、そして、この絵ではないだろうか。

 その絵とは、印象派の巨匠クロード・モネ(1840-1926/フランス)の「睡蓮の池」。
 また、この絵は、同じモチーフと構図で描いた連作的絵画としても、画家自身の作品の中で一番多いと思う。
 なぜ、彼は斯くも多くの睡蓮の花、そして、睡蓮の咲く池を描いたのだろうか?

 A池のこちら側から弓形の橋、日本風に言えば太鼓橋。の眺めだけとっても、最終的に18点も描いているのだそうだ。

 例によって脱線するが、モネが愛した「睡蓮」と前号(7/21)で投稿した「蓮」を、迂闊にも混同していたこと、<この夏に出会った花>(11/09/16)でアップしたことがあった。

 話しのそれ序に、パリ1区はコンコルド広場の隣、マロニエの並木道が美しいテュイルリー公園のなか、セーヌ川に面して建つオランジュリー美術館、ミーハーだが、こう書いただけで芸術の都パリの香りがしないでもない。

 その美術館に、モネの「睡蓮」だけを展示する楕円形の部屋がふたつ、∞ の形に並んであって、壁一面の「蓮」に圧倒されたことがあったが、そのことは、<オランジュリー美術館>(10/07/27)で書いた。

 それすぎた話しを戻して、18点のうちで本作を含む12点は、彼の作品を扱う画商の店先?に展示されていたのだそうだが、その中でもひときわ静謐な印象を与えた1点が本作だったとされるらしい。

 橋のある蓮池、ペトロ には、どれもみな同じように見える。
 ありきたりの蓮池が、朝方だとか夕方だとか雲り空とか、気象の移り変わりによって変化する様が、巨匠の好奇心を限りなく誘ったのだろうけれど、それにしても、橋だけで18点とはねえ!(この稿、続く)
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.838

 ※ ロンドン・ナショナル・ギャラリーの旅(28)へは(コチラ)から入れます。

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見極め点

2014年07月21日 | 散歩道/山歩き

 W杯ブラジル大会もドイツの優勝で終わった。
 そのW杯の西ドイツ大会があったのが74年、40年も前になる。
 ちなみに出場国は今の半分の16カ国、アジア地域からは出場ならず、優勝は開催国の西ドイツだったとか。

 そんな大昔を持ち出したのは他でもない、その年、運転免許を取るため自動車学校へ通った。

 Aオートマチック車もあることはあったけど、女性、それも高齢の、専用みたくな時代。
 序に言えば、パワーステアリングなんて使い勝手のいいのもなくて、据え切りはしてはだめ、と言うより重くてできず幅寄せなど大変だったのを覚えている。

 今、教習所でどんな教え方をしているのか知らないが、クラッチ合わせから始まりS字やクランクやⅤ字カーブ、車庫入れに縦列駐車、坂道発進と、順序は定かでないが段階を踏んで進んだ。
 そして、段階毎に見極め点を貰わなければ次に進めなかった。

 前書きが長くなったが、梅雨の晴れ間を縫ってハイキングをしている。
 R君 I君からの父の日?のプレゼントのストック、老人御用達の黄昏印のように思えて聊か恥ずかしかったが使ってみると頗る楽、今じゃ平坦な道でもノルディック・ウォーキングに使うほど。

 そのハイキングだが、いきなり六甲山ともいかず、甲山から始めたことはすでに書いた。

 Photo地図では麓を周回するコースに加えて登山口が三箇所、登山コースが4つと思いきや、裏側に地図にない道が2つあって全部で6つ、そのコースを登りと下り毎に組み合わせ、全てを終えれば甲山(309.2m)は卒業と考えていた。

 豈(あに)図らんや、一番簡単と思っていた最後のコース、なんと頂上付近で敢え無くダウン、息も絶え絶えの体たらく。
 前夜寝そびれた上に朝食抜きが原因と思い付いたが、それにしても無残なやである。

 で、いくら自分に甘くとも見極め点は上げられず、次回は六甲最高峰(931.3m)の目論見は見事挫折、実力のほどを思い知らされてしまった。

 寄る年波とメタボ真っ直ぐの生活に加え二回の手術などなど、思う以上にガタピシの酔狂老人。
 それ相応の汗を流さにゃ見極め点は貰えないってこと、そんな当たり前の事を自覚しただけでも偉いっ!てなことにして、もう暫く甲山山麓を徘徊するとしますか。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.837

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ゴッホ(2)‐ ナショナル・ギャラリー(28)

2014年07月18日 |  ∟イギリスの美術館

 炎の人フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890/オランダ/後期印象派)。
 パリの生活に疲れ、ロートレック(1864-1901/フランス/世紀末芸術)の勧めもあって、1888年2月、南仏プロヴァンスのアルルへと向かう。

 オランダでの修行時代から日本の版画に魅せられた彼は、南仏に向かう汽車の窓から見える風景を、“ 澄んだ空気と派手な色彩効果に関する限り、この地方は僕には日本と同じくらい美しく見える ” と書き、この地に芸術家村を創ることを夢見ていたとか。

 A_3その年の10月、アルルでともに暮らし始めたポール・ゴーギャン(1848-1903/フランス/後期印象派・象徴主義)と、対象の捉え方、アプローチの違いなどから激しい諍いが始まり、早くも12月にはゴッホの心身を打ちのめしたとされる。

 その少し前に描かれたとされるのが、「ファン・ゴッホの椅子」(上)。

 アルル滞在時に共同生活をしていた黄色い家、この家をモチーフに描いたのが<「黄色い家」>(アムステルダム・ゴッホ美術館蔵)。で、使っていた藺草で編まれた木製の椅子、(昼間の)壁を背景に赤いタイルの上にあり、パイプと煙草の小袋が置かれている。

 この「ゴッホの椅子」は、彼自身のインスピレーションを示しているとされ、天然の素材の田舎風の素朴な椅子、背後には自然の成長を示唆する発芽した球根が描かれている。

 また、時期を同じくしてこの絵と対画をなす、「ゴーギャンの椅子(本と蝋燭が載っている椅子)」(下/ゴッホ美術館蔵)も描いている。

 B_2ゴーギャンとの関係に決定的な亀裂が入る直前頃に描かれた本作、赤と緑の肘掛け椅子の上には2冊の小説と蝋燭が置いてある。

 炎が灯された蝋燭は画家としての人生の光明と儚さを象徴し、また、壁のランプが夜の場面であることを示唆、「ゴッホの椅子」との時間的な対比を連想させる。

 二人の共同生活は同年12月、自ら剃刀で耳を切り落とし娼婦ラシェルのもとへ届け、翌日入院、あっけなくも二月足らずで終わる。

 翌89年、画家自身の希望によりサン・レミのカトリック精神病院に入院。
 90年、パリ近郊のオーヴェール・シュル・オワーズに移住するも、同年7月に自殺を図り、駆けつけた弟テオに見守られながら37歳でこの世を去る。
 悲運の画家ゴッホ、生存中に売れた絵はたった一枚だった。

 明るい色彩で描かれた「ゴッホの椅子」、この絵は別の貌も隠していると言う。
 それは、17世紀のオランダ絵画においてパイプの煙は儚さを象徴し、同時に牧師の父に倣い聖職者を志したこともあるゴッホが親しんでいた聖書がそれを示唆する。

 “ 主よ、わたしの祈りを聞いて下さい、わたしの生涯は煙となって消え去るのですから ” (詩編102:1-3) と。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.836

 ※ ロンドン・ナショナル・ギャラリーの旅(27)へは(コチラ)から入れます。

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ゴッホ ‐ ナショナル・ギャラリー(27)

2014年07月16日 |  ∟イギリスの美術館

 後期印象派を代表する画家は? と問われれば、まずこの画家を思い浮かべるのではないだろうか。
 オランダ出身で炎の人とも称されたフィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)を。

 彼は、同じモチーフや構図で何枚も描いたことは知られており、「積みわら」「ルーアン大聖堂」「睡蓮」などの連作的作品を多く描いたモネ(1840-1926/フランス/印象派)と双璧と言ってもいいだろう。

 A_2また、日本の版画に魅せられ蒐集を始めていた彼は、池のある庭園を自宅に造ったモネと同じように、日本を牧歌的な理想の国と考え、日本的なるものを見つけたいと願っていたらしい。

 今回の「ひまわり ‐ 14本」も、何枚か描かれたうちの一枚。

 南仏プロヴァンスのアルルに工房を構えてすぐ、向日葵が萎れてしまうまでに全部で4点のカンヴァスを仕上げ、そのうち2点のみにサインをしたというゴッホ。

 それらは、遅れてアルルに来るゴーギャン(1848-1903/フランス/後期印象派・象徴主義)の寝室の壁に架けるに足りる作品だと判断したためとされていて、本作とミュンヘンのノイエ・ピナコテークが所蔵している。

 画家の人生の中で、特に重要な時代とされるアルル滞在時、その時期に手がけられた多くの作品の中でも、本作は最も傑出したもののひとつと評価されている。

 Bちなみに、ゴッホは1889年の1月に3点の全く等しい同一の複製、つまりレプリカを描いている。

 それらの絵は、フィラデルフィア美術館、アムステルダムのゴッホ美術館、そして日本の損保ジャパンが所蔵している。

 余談だが、3点の中で損保ジャパンの作品にはサインがなく、高額の落札とともに真贋が当時話題になった。

 ところで彼はなぜ斯くも多くの「ひまわり」を描いたのだろうか?

 向日葵は明るい南仏の太陽、ひいては、ユートピアの象徴であったとされているが、友人であったアルルの郵便配達夫の妻オーギュスティーヌ夫人の肖像画を同一構図で何点か描き、それらの両脇に配する翼画として「ひまわり」のオリジナルとレプリカを展示しようとする意図だったともされている。

 その友人の郵便配達夫も、「郵便配達夫ジョゼフ・ルーランの肖像」(オランダ・クレラー・ミュラー国立美術館蔵)など、4点描いている。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.835

 ※ ロンドン・ナショナル・ギャラリーの旅(26)へは(コチラ)から入れます。

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続々・同行二人 ‐ 金色の寺

2014年07月14日 | 神社/仏閣

 表参道、杉の大木が迫りうっそうとした月見坂。
 だらだらと続くのかと思っていたら、結構、勾配がきついところもあって酔狂老人には応える。

 A1 A2 A3

 弁慶堂、薬師堂やら観音堂、仏様や縁の人を祀る祠を滴る緑のなかに埋めて坂道は続く。
 人影もまばらな上り、なのに下りはぞろぞろと団体さんが続く、昼餉(おひる)の時間帯なのかな?

 B1 B2 B4 5 

 天台宗東北大本山、慈覚大師円仁が850年に開山したとされる中尊寺、本堂には丈六の釈迦如来がおわす。
 奥州藤原氏初代清衡(きよひら)が1124年、前九年と後三年のふたつの役(いくさ)で亡くなった無名の兵(つわもの)どもを供養するため大伽藍を造営、開基したとか。

 C1 C2 

 ちなみに、平安時代後期に奥州を舞台に、陸奥の国の豪族安倍氏と出羽清原氏が争い、清原氏が覇者となったのが前九年の役(1051-62)。
 その清原氏が消滅、藤原氏が平泉を中心に奥羽一帯に勢力を張るきっかけとなったのが後三年の役(1083-87)。

 紺紙に金字行、銀字行が一行ずつ交書された清衡発願の中尊寺経、「金銀字交書一切経」をはじめ、国宝・重文などを含む三千を超える宝物を収蔵するのが讃衡蔵(さんこうぞう)。

 Cc1 Cc2 

 さて、関山(かんざん)中尊寺の中核をなすのが国宝・金色堂。
 14世紀になって堂塔の殆どが焼失したものの、創建当時の姿で遺った唯一のものとか。

 本尊は阿弥陀如来、脇侍に観音と勢至の両の菩薩、六体の地蔵菩薩と持国天と増長天が護持する。
 今は新覆堂(おおいどう)に納まって黄金に輝いているが、かつては旧覆堂、鞘堂(さやどう)にあった。

 D1 D3 D2 D4

 時代は270年ほど下がって1397年、京の北山(ほくざん)に室町三代足利義満が開基したのが鹿苑寺。
 その舎利殿・金閣を拝観しているので驚きはないが、金色堂が初めてならば目を瞠ったと思う。

 E1 E2 E3

 ところでここ平泉は、紀行文「おくの細道」にも俳聖芭蕉の足跡が。
 初句は中尊寺の近く、義経の居館があった高舘(たかだち)で詠み、次句はここ中尊寺で、句碑も遺る。

  夏草や 兵どもが 夢の跡 (なつくさや つわものどもが ゆめのあと)
  五月雨の 降り残してや 光堂 (さみだれの ふりのこしてや ひかりどう)

 F1 F2   F4

 その俳聖の像を過ぎた辺りで皮肉にも驟(はし)り雨が、大急ぎで寺内の白山神社の能楽堂を廻って、這う這うの体で退散した。

 復路、しんどくなって一ノ関から仙台まで新幹線を馳走、往路2時間余が僅30分ほどで着いちゃった。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.834

 ※ 「続・同行二人 ‐ 各駅停車」へは、<コチラ>からも入れます。

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ラジオ体操

2014年07月11日 | 日記

 台風一過、まさか梅雨明け? てなことないよねえ。
 もう少し先のことだけど梅雨が明けると夏休みで、その夏休みになると毎朝駆り出されたのがラジオ体操、最近はとんと見かけないけれど。

 先日(6/30)のこと、TVがそのラジオ体操に第3なるものがあった、と報じていた。
 第3とはなんじゃ? と酔狂老人少し興味を惹かれ、インターネットで探ってみた。

 A京都新聞(04/03)に拠れば、“ 放送が短期間で終わったため幻とされるラジオ体操第3、それを活用した市民の健康作りに、東近江市と龍谷大が取り組んでいる ” らしい。

 さらに、“ 昭和21年から1年半だけNHKで放送されたが、複雑な動きを音声で伝えるのが難しく、普及せずに短期間で終わった ” と続いてい、龍大生が演じる動画も見たが、なるほど動きが聊か変則、幻も宜(うべ)なるかなと。

 屋上屋のような気もしないでもない第2でさえ、なぜ拵えたのか殆ど理解できていない酔狂老人にしてみれば、第1があれば十分、第3は遣り過ぎじゃないの? が正直なところ。

 ところで、深刻な肩の痛みに悩んでいる酔狂老人、お医者さんから、「老年ゆえのこと、PCは45分を限度に」と処方され、膏薬と呑み薬で凌いでいたが、それらを止めると痛みが振り返す悪循環。

 Bで、ラジオ体操がいい、と教えて貰ったことを思い出し動画をダウンロード。

 レオタード姿、と言ってもそこはNHKがソースでお上品なものだが、そのお嬢さん方にリードされて第1と第2の間に首の体操を、午前と午後の二回、午後は忘れないように目覚ましをセットして始めた。

 当初は前屈で指先が床まで30㎝ほども足らない無様な格好だったが、真剣にやれば薄っすらと汗ばむほどの運動量、十日も真面目に続けたらてき面に効果が。

 肩も元のままには無理だろうが、PCが楽に打てるようにまでには回復。
 この歳になってなんだが、何事も真剣に取り組めばそれなりの結果が得られるってこと、改めて教えられた。
 ただ、続けなくちゃあかんことも承知しているンだけど!?

 敷き詰めるように咲く、「松葉菊」と「カラディウム」、やっぱり台風一過、早く梅雨が明ければいいね!
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.833

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続・同行二人 ‐ 各駅停車

2014年07月09日 | 小さな旅/駅

 この日(6/11)の朝8時半に仙台空港に着いたが雨模様、ご機嫌が余りよろしくない。
 濃霧で機材の調達がいかず北への便は欠航とアナウンス、北海道、このところ天候は余り芳しくないようだ。

 A1 A2 A3 A4

 空港も周辺も、先の大震災で根こそぎツナミに持っていかれたよう、真っ新(さら)に無機質なまでにきれい。
 その真っ新な空港線、稲取から東北本線と合流、通勤時間帯になるのか満員で仙台駅に着く。

 B1 B2 B3 B4

 仙台駅からは、東北本線のほか仙山線、仙石線などが発着する。
 晴れてたら、その仙山線で山形の山寺へと思ってたが、千を数える石段、雨では面白くもないだろうと平泉へ。

 時刻表を見ると殆ど時間がない、大急ぎで東北本線の小牛田(こごた)行に飛び乗る。
 山あり川あり田んぼありの日本の原風景、米どころ仙台平野、稲穂の波を縫ってのんびり、名も知らぬ駅に停まっては走る。

  C4 C2 C1 C3

 途中、松島駅、三景のひとつ松島は松島海岸駅が近いらしいけど。の辺り、車中から入り江が覘く。

 その松島駅で、対向電車のお客さんと窓越しにエール?の交換。
 お座敷列車のおじさんおばさんたち、お昼も前なのに宴席の真只中らしくマイク握ってご機嫌、田植えも終えて一段落と勝手に推理、大いに楽しんでと手を振って別れる。

  D1 D2 D3 D4

 小牛田駅でホームを変えて一ノ関行に乗り換え。

 一ノ関で、またまた盛岡行の各駅停車に乗り継ぐ。
 車内に観光客の姿は殆ど見かけないが、なぜか11時を過ぎたばかりなのに学生さんで満員、中間試験かな?

 E1 E2 E3 E4_2

 雨は上がり、ぼやけた空からは時折お日様が顔を覗かせる。
 客待ちのタクシーだけが目立つ駅前広場、日本人が大好きらしい世界文化遺産、多くは観光バスで廻るらしい。

 西宮を出て大よそ5時間、日本列島、広いのか狭いのか? 岩手県の平泉に着いた。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.832

 ※ 「同行二人 ‐ 想い出のカタリナ」へは、<コチラ>から、「続々・同行二人 ‐ 金色の寺」へは<コチラ>からも入れます。

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