ペトロとカタリナの旅を重ねて

あの日、あの時、あの場所で
カタリナと歩いた街、優しい人たちとの折々の出会い・・・
それは、想い出という名の心の糧 

万年筆 ‐ 11月がゆく

2012年11月30日 | 季節/暦

 ○○記念日、○○の日とかいう特別?な日がある。
 ちなみに11月には、「勤労感謝の日」(23)や「ノーベル賞制定記念日」(27)などお堅い日から、「蒲鉾の日」(5)や「蓮根の日」(17)、はては「回転寿司記念日」(22)などなど実に多彩というか様々な日があるようだ。

 真面目?な天声人語氏も、「いい夫婦の日」(22)に、“ 夫婦の暮らしは夫の側にいささかの負い目があるようだ。40代以上に聞いたあるアンケートによれば、「将来配偶者を介護したい」と答えたのは女性36%に対し男性は55%と多かった ” と遊んでいる。

 Aこの○○の日だが、毎月設定されているのもある。
 そのひとつが「ふみの日」(23)、特に11月は、前出の「夫婦の日」もそうだが、「いい」と語呂合わせの形容詞が付く。
 そしてこの月には、日本ペンクラブが設立されたことを記念する「ペンの日」(26)もある。

 ワープロが登場して以来、職場や家庭で書類や手紙を書くことが少なくなり、それにつれて町の印刷屋さんや文房具屋さん、めっきりと減った。

 ところでペトロ、金釘流免許皆伝の悪筆ながら、インク壷からスポイトで補充する、昔ながら軸太の万年筆に憧れたことがあった。

 万年筆と言えば、今、古都トレドにグレコを訪ねる旅(97年)の途中にある。
 そのトレドの翌日、マドリード最後の日の朝、カタリナ がダウンしたこと、<鬼門?>の稿で書いた。

 その折のこと、フリー・タイムも残り僅かだったが、少し落ち着いたのかカタリナ、「気分転換に街に出たい」と言う。
 バゲージアウトを済ませ、遅ればせながらそろりと薄氷を踏むように外出。

 B日曜の街は閑散、殆どの店が閉まっていたが、ホテル近くのコロン広場に「ロエベ」、革製品で名の通った店が開いていて万年筆と革ケースを買った。

 その万年筆、定年とともに<こまめ>に手紙などを書くことが億劫になり、いつしかペン皿で忘れ去られたようにある。

 先の天声人語氏、“ 昨今は夫と一緒の墓を嫌がる奥さんも多いそうだ。すきま風の手当ては、早め、こまめが肝要 ” と結んでいた。
 手遅れかも知れぬが、明日は万年筆じゃない我が身、聊か首筋が寒く感じるのは秋風の所為ばかりじゃ・・・。

 「詫助」と「アスター」、高槻のお仲間が公民館の文化祭に協賛して設けられた茶席を飾ったと聞く。
 昨年の文化祭は、<イスラエル巡礼>から帰って直ぐのことだったが、時の流れはいかにもせわしく、霜月・11月がゆく。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.546

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「聖マウリティウスの殉教」

2012年11月28日 | スペイン/ポルトガル

 マドリードの南、古都トレドの旅の途中だが、ここで、ちょっと寄り道。

 エル・グレコ(1541-1614 /マニエリスム)がここトレドで多くの傑作を遺した、そのエネルギー、源泉となったものに触れておきたい。

A_3  1975年、ローマの多くの著名な芸術家を前に 「ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂の『最後の晩餐』、あの壁画をすべて葬り去り、この私に新たな注文してくれたなら、貞潔かつ上品な、絵画的にもミケランジェロを超えるものを描いてみせよう」と言い放ったというグレコ。

 ギリシャのクレタ島で生まれたグレコは、26歳のときベネチアへと渡り、そして、ローマで宗教画家としての腕を磨いたが、野心、そして、強烈な自尊心が災い、教会や大聖堂などの名声を得る仕事に恵まれず、当時、ヨーロッパの最強国であったスペイン、そのなかでもカトリックの中心地だったトレドに、迷うことなく栄光を求めやって来たと言われている。

 スペイン国王フェリペ2世から、マドリード郊外エル・エスコリアルの宮殿の聖堂を飾る祭壇画を依頼されたグレコ。

 ちなみにこの宮殿、サン・ロレンソ・デル・エスコリアル王室修道院が正式の呼び名。
 1557年、8月10日のサン・ロレンソの日に、サン・キンティンの戦いでフランス軍を破ったのがよほど嬉しかったのか、それを記念して建てたとされている。

  宮廷画家を目指してスペインへと来た彼は当然奮い立ったとされ、そして、荘厳なる作品を完成させた。

 B_2その一枚とは 「聖マウリティウスの殉教」(上/エル・エスコリアル修道院蔵)。

 ガリア地方で起きた反乱を鎮圧するために、テーベ地方に駐在していたマウリティウスを隊長とするキリスト教徒で編成された兵士が、感謝際の生贄を捧げることを拒否したため、上司ヘラクレスの命によって虐殺された歴史を切り取った。

 主題は、異教への改宗を拒否した兵士たちが死を選ぶ場面、神への信仰を貫く強さと潔さ。
 しかし、国王の反応は 「この絵は祈る気が削がれる」という予期せぬものだった。

 宮廷画家への野望を断たれ、失意の果てに戻ったのはトレドの小さなアトリエ。(下/エル・グレコの家)
 ともすれば絶望に折れそうな失意の中で描き上げた珠玉の一枚、その絵がここトレドの小さな教会に遺る。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.545

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トレド大聖堂

2012年11月26日 | スペイン/ポルトガル

 トレド定番のヴュースポットで古都を一望。
 再びバスに乗車、旧市街への三つの橋のひとつ、新アルカンタラ橋を渡りピサグラ門の前でバスを離れ城壁を潜った、ように思う?

 大聖堂に向かって、迷路のような細い路地をすたすたと歩くガイドの背中を追う。
 独りでと言われても覚束ない路地、10年後個人旅行で再訪した折には随分と道を訊ねた。を、逸(はぐ)れないようについて歩く。

B1_3 と、突然に大聖堂の前、左右を壁に挟まれた狭い広場(写真上)に着いた。
 彼が困った案内人なのか、説明を聞き逃したらしき当方が困った客なのか、そこが大聖堂の何処になるのかさっぱり判らない。
 案内書では、聖堂正面(写真下/左・右)に、「塔の扉」「免罪の扉」「公証人の扉」と呼ばれる三つの扉があるらしいのだが。

 後から思うに、入口に大きな時計が架かっていたので、大聖堂に七つあるとされている門の中で、最古の「大時計門」と呼ばれる北側の扉から進んだよう。
 何とも頼りない話だが、万事こんな調子で旅程をこなしていたような気がしないでもない。

 マドリードの大司教座が置かれるトレド大聖堂、13世紀フェルナンド3世の時代に着工、15世紀に完成したという。
 規模からいえばこれに優る聖堂、ヨーロッパ各地は勿論、スペイン国内にもセビリア大聖堂を始め幾つかある。

A2_2_2 A1_2 しかし、スペイン・カトリック総本山の矜持だろう、金色の鉄柵で囲まれた主祭壇とその後方で眩いばかりに輝く衝立、その祭壇に向き合って身廊中央で同じように鉄柵で仕切られた聖歌隊席とパイプオルガンなど、すべてが圧巻、折から差し込む初冬の陽光にステンドグラスが鮮やかに輝いていたことを覚えている。

 時間が押しているのか急き立てられように次の目的地へ。
 透明を意味する「トランスパレンテ」と称される装飾、聖具室に架かるエル・グレコ(1541-1614/マニエリスム)やバロック期の巨人カラヴァッジョ(1573-1610 /イタリア)の傑作などを素通り、消化不良で胸の辺りが痞(つか)え、嫌な心持ち。

 この消化不良、10年後に<聖地コンポステーラ>への巡礼の帰途に再訪するまで痞えたまま、我ながら辛抱強い?
 97年当時は銀沿フィルム、言い訳じゃないがいい写真が少ない。
 で、10年後の07年、9月の厳しい日差しを受けて光と影のコントラストが鮮やかなトレドを、また、別の稿で紹介する。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.544

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母の心

2012年11月23日 | 茶事/茶会

 茶チーム・和の輪、恒例の “ 茶名拝受のお祝いの会 ”、今年は S さん。
 お母様の U さんが先に稽古に参加され、続いてご息女の S さんも入られた。

 B3 B2_3 B1_2

 祝いの席の軸は「洗心」、東大寺の前の別当上野道善師の筆。お仲間の N さんから頂戴された本紙を表具されたとの事。
 爽やかな白郡(びゃくぐん)色の天地に中廻しは青藍(せいらん)色、“ 心を洗えば自ら新たなり ” に相応しい表具。真の古銅の花入れの水仙が似合う。
 この時期にこの花を飾られるのはご馳走、ご苦労をなさったと思う。

 A2_2 A3_2

 会はいつもお仲間が昼食にご招待、美味しいお昼の後、拝受された方が薄茶を一服点ててお振る舞いをされる。
 この会では、茶箱で月の点前をして下さった。
 茶箱は戸外、自然の中で風を感じながら楽しむ点前なので、お母様は結界に花寄せで野の風情を創られた。
 香合は S さん手作りの鶴。

 C3 C2_3 C4

 お茶碗は、お母様がお茶に関り出された頃にお求めになられたものとか。
 S さん、「主人が旅先で母に買ってきてくれました」などの思い出をお伺いしながら一服を頂いた。

 D1 D2 D3

 想い出と言えばその昔、生意気盛りの頃だったか、茶道の家元制度を理解しようとせず、お茶さえ点てられたら善しではないかと、屁理屈ばかりを並べ立てていた。

 始めて暫く、茶道の本質も判りだした頃、嫌でたまらなかった入門手続きをやっと済ませた私に、「え~っ」と思うほど母が喜び、点てた一椀を仏壇の父に飲んで貰いなさいと言う。
 お相伴にと言う母に二椀目を点てたが、涙ぐみながら茶碗を持つ母を見て、親不孝をしていたと猛省したことがあった。

 E5 E6

 お祝いの会に話を戻して、お母様手作りの畳んで小さく、広げるといろんな物が入る袋を皆様にと頂いた。何日もかけて、ひとりずつ作って下さったとのこと。
 S さんのお祝いの会、遠い日の “ 母の心 ” も想い出させて頂いた一日でもあった。 (
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.543

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「トレド景観」

2012年11月21日 | スペイン/ポルトガル

 大きく湾曲するタホ川に囲まれた丘の街トレド。
 旅の案内書には、“ しっとりと落ち着いた雰囲気が、旅人の疲れを癒してくれる ” とあって、なるほど、城壁の中すべてを中世そのままの姿で遺す。

  この古都を訪ねたのは、初めて二人で行った記念すべき海外旅行、「行きたい国で選ぶヨーロッパ紀行・情熱の国スペインの全て」というJALのパッケージ・ツアー。

 Photo_2バルセロナ、セビリア、グラナダなどを訪ね、旅程も終わりに近づいていた97年の初冬のこと。

 朝早くマドリードを出発したバスはタホ川に沿って街を半周、旧市街の対岸のかなり高いところで停まる。
 古都が一望のもとに眺められるその場所(写真上:案内書から)は、定番のヴュースポットとなっているのか絶えず観光バスが発着する。

 この場所が有名になったのは、ここから眺める旧市街の風景が素晴らしいこともさりながら、ベラスケス(1599-1660/バロック)、ゴヤ(1746-1828/ロマン主義)と並んでスペイン三大画家と称されるエル・グレコ(1541-1614/マニエリスム)に拠ることが大きい。

Photo_4  グレコは、イタリア滞在時は強烈な自負心が災い、報酬などでの金銭トラブルが絶えず、困窮の暮らしを強いられたという。

 1576年頃、宮廷画家への野望を胸にスペインに渡ったものの、縦長に引き伸ばされた人物像に象徴される奇抜な構図と非現実的な色彩のマニエリスム・スタイルが、当時、絶対的な権力者であったフェリペ2世の不興を招き、宮廷画家への道が閉されてしまう。

 しかし、古都に魅せられた彼はこの地に定住、“ 失意の後に戻ってきたトレドの街にグレコの心情の投影を感じることができる ” と評される傑作、「トレド景観」(写真下)を描く。

 YNのメトロポリタン美術館でこの絵を前にした時、暗く重い雲の影に射し込む光、深緑と濃青によって表現された古都の佇まいに、感銘とともに “ 往時と今がさほど変わらないことが判る ” との評に納得した。

 97年のタホ川の対岸に戻って、初冬の柔らかい光を一杯に受けるトレド、中世にタイムスリップをしたような錯覚に陥った。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.542

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古都トレドとグレコ

2012年11月19日 | スペイン/ポルトガル

 印象派以降は別にして、日本人に最も馴染み深い画家は?
 ルネッサンスの三巨人を別格にすれば、エル・グレコ(1541-1614/マニエリスム/スペイン)をその一人としても異論はないだろう。

 過日、その<エル・グレコ展>のことを書いた。
 で、少し安直だが、グレコ(写真上/自画像・メトロポリタン美術館にて)が愛して已まなかったスペインの古都トレド(写真下)を訪ねてみたい。

Photo_4  カタリナ  との最初の海外旅行がスペイン。
 この古都トレドを訪れたのは、97年も押し詰まった降誕祭・クリスマスの頃、その折々のことなど、<今、ここに在り・・>などで小ブログに投稿してきた。
 当時のこと、ややもすれば昂ぶる気持ちを抑えきれぬかのように、遥かなる国へと題した旅のメモに綴っている。

今日のラ・マンチャは、抜けるように晴れ渡っている
トレドは、マドリードのみならずスペインを守護する大聖堂が
ある街

この国は心ならずも、11世紀までの800年間アラブ人に統
治されたが、そのレコンキスタ・国土回復戦争の勝利の末にキリスト教徒はここを首都とした
16世紀の半ば、フェリペ2世がマドリードへ遷都するまで、この街は常に脚光を浴びてきたのである

Photo トレドを “ 聖なる街。岩のように悲しみに充ちて重い、スペイ
ンの栄光 ” とは、あのドン・キ・ホーテの著者セルバンテス
の言葉

また、ここはエル・グレコの街でもある
エル・グレコとは、“ ギリシャの人 ” という意味
クレタ島で生まれたグレコは、26歳の時にベネチアへ渡り、
そしてローマで宗教画家としての腕を磨いた

この流浪の画家は、教会や大聖堂などの名声を得る仕事に
恵まれず、当時、欧州の最強国であったスペイン、そのなか
でも、カトリックの中心だったトレドに、迷うことなく強い自負
心とともに栄光を求めやって来た
そのトレド、マドリードの南70キロほどのところにある

 またスペイン?の感もあるが、この街を愛しこの街に没したグレコを、97年とその10年後の07年、古都に訪ねた。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.541

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あべこべ

2012年11月16日 | 日記

 木枯らしが吹く季節、鍋に少しぬるめの燗酒を友に・・・、“ 術後の食事、自制と自省に明け暮れる日々の身 ” と、書いたのが前回。

 少し前には、「<似て非なるもの>」で、“ 食べられると思って食べられない女と食べないと思って食べてしまった男 ” のことも書いたが、今回は、その両方の続き。

 Photo過食、過飲すれば覿面(てきめん)にリバウンド、この表現は正しくないか? 跳ね返ってくるのを知りつつも、つい食べ過ぎてしまう。

 尤も、酒は少量でも毎日欲しい型?だったが、今は週に一、二回、時には缶ビール一本を持て余すこともあって、呑兵衛の資格は残念ながら失ったよう。

 飲食であれ喫煙であれ、暦を幾度も還(まわ)る歳にもなれば、社会や他人様に迷惑さえかけなければの自己責任が持論、で、お気の召すままにだ。

 ただ喫煙は、主流煙よりも有害物質が多い副流煙など、周りの人への弊害が大きく、一昔前、飛行機内が全面禁煙になってから中断したまま。

 Photo_4そのペトロ、何を血迷ったか一念発起、「<元の木阿弥>」で、節食にこれ努め、“ 体重計を前に一喜一憂 ” とも書いた。

 カタリナ、過食をチェックしてくれているのだが、「一汁一菜で十分と、出来もしないことを嘯いてどこ吹く風の誰か、しっかりと食べた後で、「う~ん、美味かったけれど」と思案?
 どうも、する事と考える事の手順があべこべのよう。

 この日の夕食も、「残すと勿体ないから」と、誰かの所為にして見事に失敗。
 数時間経ってやってくるであろう、煩わしくも鬱陶しい状態を思い浮かべうんざり、自己嫌悪しきりである。

 高槻のNoさんが稽古に持ってこられた、秋桜にも似て素朴な「嫁菜」(よめな)、黄の「小菊」が色を添える。
 今月の生花の主材は華やかな「糸菊」、葉が小さく花びらが細い、管物(くだもの)と呼ばれる種のひとつだそう。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.540

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自制と自省

2012年11月14日 | 日記

 日曜の朝の食卓に置かれた、まだインクの匂いがする朝刊。
 折り込み広告が挟まれた二つ折りの新聞を開けると、何時ものTV番組欄に全面広告が掲載されている。
 月曜日の新聞はお休みだと幾分がっかりとなる。

 で、毎月曜日に掲載される朝日俳壇、日曜日に掲載されていたが、その中に、

 A_2く秋の日向を通る人ばかり
福岡市・山北如春さん/長谷川櫂氏・金子兜太氏選)

 の、解りやすい句が入選していた。

 ここ暫く、日中はぽかぽか陽気の小春日和が続いていた。
 一転、日曜日は雨、そして、一気に冬めいて来たが、おなじ日の朝日俳壇に、

 ゆっくりと来て足早に秋去らむとす
 
(桶川市・井上和枝さん/長谷川櫂氏選)

 も、あって、短い秋を実感する。

 この七日が二十四節気の “ 立冬 ”、この日辺りを境に万物が冷ゆ(ひゆ)る季節とされ暦の上では冬。
 この月の下旬にもなると、木々の葉は落ち平地にも初雪が舞い始める頃とされる “ 小雪 ”。

  ちBなみに、カトリック教会暦では、この月の25日の年間第34主日「王であるキリスト」で一年が終わり、12月2日からは待降節・アドベント、そして、降誕祭・クリスマス。

 俳誌ホトトギス同人の今井千鶴子さんが、“ 街といふ街行けばクリスマスカロル ” と、この時季を巧みに詠んでいる。

 ところでペトロ、カタリナ から暑いにつけ寒いにつけ騒がしく、「堪え性のない人」と嗤われるが、木枯らしの夜に、鍋に少しぬるめの燗酒を友に・・・など、これからの季節、嫌いではない。術後の食事のこと、自制と自省に明け暮れる日々の身ではあるけれど。

 高槻のYさんが稽古にお持ち下さった「杜鵑草」(ほととぎす)と「石蕗」(つわぶき)。
 秋、日陰などに群れて咲く石蕗、少し離れて見れば大きくて濃い緑の葉に、花の色がいかにもほど良い。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.539

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若きモナ・リザ

2012年11月12日 | 美術館 (国内)

 この夏の初め、カタリナ が、東京で開かれた 「<レオナルド・ダ・ヴィンチ美の理想展>」のことを書いた。

 「衣紋の習作」や 「ほつれ髪の女」(パルマ国立美術館蔵)などが出展されたその展覧会、“ 若い頃はとんぼ返りしてでも行ったものだが ” という主旨のことを書いていた。

 また、“ 彼が生涯に描いた絵で、現存する僅か15点のうち9点を集めた 「ミラノの宮廷画家展」が、昨年ロンドンのナショナル・ギャラリーで開催されたが、その模様が映画になり 「美の理想展」で上映される ” とも。

  ダPhoto・ヴィンチと言えば 「モナ・リザ ‐ ジョコンダ」、世界で最も有名な肖像画である。
 彼がこの絵を描き始めたのがフィレンツェの<サンタ・マリア・ノヴェッラ教会>、終生手離さず絵に手を加えていたため、終焉の地フランスのルーヴル美術館に残ったとされる。

 そのルーヴル美術館、二人で初めて訪れたのはスペインからの帰り道。

 前日<マドリード>で、カタリナが体調を崩したこともあって、グランド・ギャラリー(写真上)だけを楽しんだが、その端の部屋で、額にガラスは嵌っていたものの、今のように箱入り娘で収まってなかったように覚えている。

 前書きが長くなったが、過日(9/28)に続いて昨日曜(10/11)の朝日新聞に、“ ダ・ヴィンチが 「モナ・リザ 」を、実はもう一枚描いていた ” とする記事が載った。

B_2B1_2  記事には、“ 1913年に発見された英国の町の名から 「アイルワースのモナ・リザ」(写真下/左)と呼ばれ、ルーヴル版(写真下/右)より10年ほど前に描かれた未完成品だが、スイスのある財団が鑑定の結果真筆と確認したと発表。専門家の間では偽物との見方も ” とあった。

 また、“ 鑑定者は、モデルはルーヴル版と同じ女性で10歳程度若く、顔の比率や描き方も全く同じ ” と続いていた。
 それを読んで 「へ~え?」と素っ頓狂な声を出したら、「今頃何を言っているの!」と、幾分咎めるような声が返って来た。

 ??首を傾げていたら 「美の理想展」にそのアイルワース版が架かったらしく、「一緒に行こうと誘ったのに」とお冠り。
 それは 「梅田で上映中の 『宮廷画家展』のことじゃなかった?」と呟くと、「人の話をきちんと聞かない人だから」と、また叱られてしまった。

 アイルワース版の出展は東京の 「美の理想展」だけだったらしく、それだけで何となく際物臭い印象はする。
 が、それにしても “ 若きモナ・リザ ” とのデートのチャンスをあたら逃してしまったような気がしないでも・・・。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.538

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文化的?な日

2012年11月09日 | 日記

 先週の土曜日、「文化の日」というへんてこな祝日だった。

 この日、皇居で文化勲章の親授式が行なわれたが、晴れて受章された方を国民こぞって祝福するために、一日仕事などの手を休める日なら「頷けなくもないなあ」、なんてひねくれもンは考えたりするのである。

 A_1昭和23年と言うから終戦間もなくのこと、その日の方便(たずき)に四苦八苦する庶民にとって文化も文明もないだろうが、為政者かなんだか知らないが、この日ばかりは欧米並みの開明的?な暮らしをと、この祝日を定めたのだろうけれど、もともとは明治節、今になっても制定の主旨が理解できない。

 今年の受勲者の一人山田洋次監督、フーテンの寅さんに、生家の団子屋の隣の印刷所で地道に働く従業員へ「やあ労働者諸君、今日も貧乏たらしく働いているか」と、劣等感の裏返しに揶揄させたが、「そんな、こじつけなくても」と笑うが、その寅さんの悔し紛れの心情とこの文化の日、何となく通低しているような。

 ところで、その前日のこと、カタリナ と散歩がてら西宮神社の菊花展に出かけたまではよかったのだが、彼女、孫の七五三詣でにくっついて来たらしいお爺さんが、場所も弁えずくゆらす紫煙に無防備に近づき激しく咳き込む始末。
 菊花もそこそこに神社を辞した。

 B_1_2余談だが、その帰り道、お好み焼きが食べたくて、阪神西宮の駅中にあって鶴橋の名を冠した店に入った。
 ここでも、後から来て隣の席に座った若いアベックが、揃ってぷかぷかと吹かす煙に塗(まみ)れてしまうお粗末さ。
 灰皿を置いている店と知りながら入る方が阿呆と言えば阿呆だが。

 その席で、菊花展の写真をビューアーしてみたが出来映えが今ひとつ。
 「それ、煙草の所為にしてない」と咳き込みながら笑う人を横目に、聊か憮然とした文化の日の前日でした。
 その菊花、珍しい色ふたつ。

 どの菊の香を運び来し風なるや (稲畑汀子)

 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.537

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