ペトロとカタリナの旅を重ねて

あの日、あの時、あの場所で
カタリナと歩いた街、優しい人たちとの折々の出会い・・・
それは、想い出という名の心の糧 

ゆく年

2009年12月31日 | 季節/暦

 今年、お仕舞いのブログです。
 世間のひそみに倣ってこの一年を振り返れば、

 (はる・さくら)
 
弥生三月、年毎に早くなる桜の季節、さして惜しまれもせず職場を去る
 卯月四月、わが友REN君から「ねんちょう(年長)さんになりました」と嬉しい便り、「阪神難波線と大阪ドーム」をその友と楽しむ
 Photo_9皐月五月、葉桜から花水木の頃、<酒と薔薇の日々のジョー・クレイ>でブログをスタート、<ボルゲーゼ美術館>(11月)でようよう50号に

 (なつ・むくげ)
 
水無月六月、ホームページ、「Peter & Catherine's Gallery・一枚だけの美術館」を開設するも難工事で中断、再開は何時のこと?
 文月七月、REN君と「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン」を楽しみ
 Photo葉月八月、民主党の躍進というよりも自民党に、改革なき組織、澱みはいつか腐るという歴史を実見

 *(あき・こすもす)
 
長月九月、カタリナ の新ノート型パソコンを開梱
 神無月十月、ANAのマイレージで、予てからの「テート・ブリテン」と「マルモッタン」にターナーとモネの出会いを求めパリなどへ 
 ノルマンディーの古都ルーアン、アルザスの中世の町コルマールの秋を満喫

 Photo_2(ふゆ・すいせん)
 
霜月十一月、時雨に紅葉が濡れる日の午後、大阪市立美術館<小野竹僑展>へ
 その帰り道、心置けない人たちと快飲
 師走十二月、久しぶりのミサに、奉仕活動が熱心な方から「まあ、久し振り」と呆れられる

 かにかくに
 
「猫を抱いて象と泳ぐ」(小川洋子)と「骸骨ビルの庭」(宮本輝)が面白い
 Photo_13映画館はないが、駅前のレンタルDVD「ナンバーズ」と「ダメージ」と「BONES」にどっぷりと嵌り
 「ラニマニノフ」と「フジコ・ヘミングウェイ」が頗る美味しく、かつての食わず嫌いを反省
 ひとり酒、悲しくも侘しくもないが、余り美味しく感じなくなった年でもあった
 図書館までの半径半里の徘徊、じゃなかった散歩を日課に、あっという間に過ぎた一年だった

 カタリナともども息災に、また、ひと様にさしたるご迷惑もかけず日々を過ごせたこと、何よりも嬉しくただただ感謝。

 拙いペトロとカタリナの、「旅を重ねて」にアクセス頂いた皆様、ありがとうございました。
 新年が、皆様にとってさらに輝けるものであります様に。

   大晦日こゝに生きとし生けるもの (虚子)

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ふたまた ‐ 散歩道

2009年12月27日 | 散歩道/山歩き

 散歩していると、町なかに “ ふたつに分かれる道 ” が、結構あることに気付く。

 三角形や台形の少し歪な敷地に、上手く工夫したなあと思う家もあれば、住みにくいだろうなあと思う家もあって、勝手なことを言いやがってと、住む方からお叱りを受けるかも知れないが、どちらもいいなあと思う。

 0_3ふたつに分かれるといえば、人間生きていれば、「どっちを選べばええんや?俺!という場面に直面すること一度や二度ではなく、「まあまあ、ご大層なこと」と揶揄されようとも、斯くも人間は悩み多き生き物なのかと思う。

 警句などとしてもしばしば用いられるのが、シェークスピアの戯曲ハムレットの、「To be, or not to be, that is the question
 この有名な件(くだり)、“ 生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ ” などと名訳されている。

 そんな深淵なものから、わが最愛の友R君が両親と離れて泊まる時に、「お泊りしたいなあ。でも、夕方になったら母ちゃんに会いたくて涙がでるんだよ」と、幼いなりにどうしようかと日曜の夕方、大好きなちびまる子ちゃんもそぞろに溜息をついているものまで実に奥が深い。

 2_2選ばなかったほうの道の先を見ることができないが故に、選んだ方の道が間違いだったと、臍を噛む場合が往々にしてある。

 徒然草の吉田兼好、今日は日が悪いと嘆く人を、“ 吉凶は人によりて日に非ず ” と揶揄した。
 差し詰め人間の運、不運は、“ ふたつに分かれた道の選び方によって決まるものではない ” ということなのだろう。

 道すがら、もし三叉路に差しかかれば、“ ふたまた ” をかける訳に行かないのだから、大仰に考えずさっさと右か左を決めてしまえばいいのだ。
 ふたまたなんて、生き方として潔しとしないご同輩、途中でしまった思えば元へ引き返せば済む話で、そんなに悩むことでもないではないか。

 えっ、それができないから悩ましいのだって! さもありなん。(二枚の写真、同じ場所です。)

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クリスマス・イブ

2009年12月24日 | 日記

  Merry Christmas クリスマス、おめでとう

  旧約聖書の預言どおり、ヘロデの時代、ユダヤのベツレヘムに神の御子としてイエス様がこの世に遣わされました。
 
今宵、クリスマス・イブ、皆さんは誰と過ごしますか? ご家族揃ってホーム・パーティー、それとも、恋人と教会でしょうか?

 Photo先日の朝日に、「サンタはいる? に答えた新聞」というコラムが載っていました。
 それは、“19世紀の末、ニューヨークに住む8歳の少女が地元の新聞社に、「友達がサンタなんていないと言います。本当のことを教えて下さい。サンタはいるのでしょうか?」という手紙を送った。

 新聞社は、「サンタはいるよ、愛や思いやりの心があるようにちゃんといる」「サンタがいなかったら子供らしい心も、詩を楽しむ心も人を好きになる心もなくなってしまう」「真実は子どもにも大人の目にも見えないものなんだよ」と、後に、米国ジャーナリズム史上、最も有名となる社説で答えた” とする主旨のものでした。

 ところで、昨年の秋に小さな友 R君と出会った時の話です。
 「もう直ぐクリスマスだね。プレゼントは何がいいのかなあ?」と尋ねると彼は、「サンタさんが決めるんだよ」と真面目な顔で応えます。
 「君の好きな物が届いたらいいねえ」と言うと、弾む声で「これからサンタさんに手紙を出すんだ」と幼い字で書いた封筒を見せてくれました。

 Photo_2その彼、幼稚園は「お遊びするところ」で「勉強は小学生になってからだよ」と頑固に思っている様子です。

 3年間の幼稚園生活を満喫、来春地元の小学校に入るらしく、過日電話で、「幼稚園からは僕とS君の二人だけなんだ。明日、その小学校に行くんだよ」と言っていました。

 このご時勢、勉強は小学生になってからなんてと、カタリナと顔を見合わせました。

 が、一世紀前に社説が大真面目で居ると答えたサンタさんを信じる、心豊かな青年になってくれればそれでいいと思っています。

 皆さんにも明日の朝、枕もとの靴下にサンタさんからの素晴らしい贈り物、「イエス様の慈しみと愛のみ心」がきっと届いていることでしょう。(写真上:ウィーン市役所広場のクリスマス市/写真下:のクリスマス・リース)

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わくらば ‐ 散歩道

2009年12月22日 | 散歩道/山歩き

 今日は、昼が最も短く、そして夜が最も長くなる “ 冬至 ”。
 
この日に柚子湯に入り、小豆粥やかぼちゃを食べると風邪をひかないとされているが、さて、新型のインフルエンザにも効き目があるのだろうか?

 昨夜、気が置けない人達との忘年会で少しきこしめし、蒲団を離れるのが遅かったのだが、久し振りに緩んだ寒さに誘われ散歩に出た。

 Photo_5小さな別用もあったので、何時ものコースから夙川公園の上流へ少し足を延ばした。

「桜紅葉」もあらかた葉を落とし、朽ちた松葉とともに川床の石榑(くれ)に留まっていた。
 ゆるやかな流れに歩調を合わせぶらぶらと下流に向かっていたら、「カルガモ」が三羽、小さな洗い堰で水に戯れていて見飽きない。

 水面を漂う枯れ葉を眺めていると、昨夜のカラオケの余韻ではPhoto_7ないが、随分と昔に流行った歌を口ずさんでいた。

 病葉を今日も浮かべて  街の谷川は流れる
   ささやかな望み破れて    哀しみに染まる瞳に
   黄昏の水のまぶしさ
  (川は流れる-詞:横井弘)

 この曲がヒットしたのは、昭和の40年代のはじめ頃だったように思っていたのだが、世に出たのは61年(昭36年)だそうで半世紀に近い。

 Photo_8当時は、歌詞の意味も理解していなかったのだが、単調な旋律を物憂げに歌う仲宗根美樹に、恋に破れた都会の女性の寂寥感らしきものは感じていたように思う。

 ところでこの歌は、“ 晩秋の小さな川に朽ちた葉が流れる様を人生になぞらえている ” のだと今まで思い込んでいた。
 しかし、「病葉」(わくらば)は夏の季語らしいし、一番の黄昏の水のまぶしさ、二番の吹き抜ける風に、のフレーズから、やはり季節は夏と考えるのが尤らしい。

 まあ、それは別として、

  思い出の橋のたもとに 錆びついた夢のかずかず  ある人は心つめたく
   ある人は好きで別れて 吹き抜ける風に泣いてる

 に、橋に佇み川面を見やる儚い女性を想い、

 ともし灯も薄い谷間を ひとすじに川は流れる 人の世の塵にまみれて
     なお生きる水をみつめて 嘆くまい明日は明るく

 に、哀愁を誘われるんだ、多分?
 そのうえでやはり、「秋の歌やないか」と、歌謡曲の歌詞など、どうでもいいことに頑なに拘るのだ。

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クリスマス(2)- 言葉

2009年12月20日 | 聖堂/教会/聖書

 嬉しくも、サン・ピエトロ寺院の聖ペトロの司教座がある主祭壇でミサ(写真上)に与った。
 感激冷めやらぬまま聖堂を辞したところ、丁度、正午にサン・ピエトロ広場に鐘の音が鳴り響いた、というところまでが前回。

 Photo世界平和と民族の相互理解と分かちあいを求め、81年2月の日本を含め、03年9月の最後のスロバキアまで、実に世界100国以上を公式訪問、空飛ぶ司教座とも称された前のローマ教皇、故ヨハネ・パウロ2世。

 その教皇が、教皇館4階の窓に姿を見せる(写真中)と、期せずして歓声が広場全体に起こった。
 教皇はこの日、待降節第4主日にヴァチカンを訪れた多くの信者とともに、” アンジェラスの祈り・聖母マリアへのお告げの祈り ” を始めた。

 Photo_2教皇は静かに十字を切り、待降節を祝う全てのカトリック信徒、世界の全ての人を祝福され、「降誕祭を貧しい人々、困っている者に思いをいたし、連帯する機会にするよう」呼びかけられたことを帰国後、朝日新聞のローマ発で知った。

 また同紙は、「クリスマスが商業主義に堕ちている。原点に立ち戻ろう」とも訴えられたとも伝える。

 祈りと祝福を終え教皇が手を振って去られる時、「パーパ!」の歓声が広場に谺した。

 話は戻って夙川教会(写真下)クリスマスイブのミサ、閉祭唱の もろびとこぞりてで最高潮になる。

 他の宗教のことなど知る由もないが、信徒の方に、「何故、入信されたのですか?」とか、「何かきっかけがあるんでしょうね?」とか、尋ねられたことはこれまでに一度もない。

 Photo_4孔子の弟子が伝承した言葉らしいが、” 来る者は拒まず、去る者は追わず ” というのがある。
 カトリックにもそれに似て、良く言えば鷹揚、厳しく言えば情が薄いと思えるところもある。
 むしろ、その淡白さを好もしくさえ思っている。

 そんなところもあって、今は、難しく考えることはない、素直にその日を、クリスマスを、祝い楽しめばいいと思うようになった。
 これは、ミサに欠席しがちな自身への言い訳でも、勿論ない。

 マヘリア・ジャクソンのアルバムも、丁度、今、「Joy to the world」 (賛美歌112番/もろびとこぞりて)が流れている。
 クリスマスのお祝いを前にして、少し長くなった。

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クリスマス

2009年12月19日 | 日記

 土曜日の夜、マヘリア・ジャクソンが静かながらものびやかな声で、“さやかに星はきらめき 御子イエス生まれ給う”と歌う、「O Holy Night」(賛美歌219番/さやかに星はきらめき)で始まるアルバム、「Silent Night」を聞きながらブログを書いている。

Xmas  日曜日は、待降節第4主日、余すところ僅かでクリスマスだ。

 入信して間もない頃、主日(日曜)ミサの進行(先唱)の奉仕に与っていたが、驚いたことのひとつが、クリスマスイブのミサだ。(写真上:夙川教会)

 カトリックで最も大切な典礼は、キリストの復活を祝う聖なる過越しの三日間、なかでも、主が復活する前夜のミサだが、それとてもクリスマスイブのミサほど人が集ることもない。

 都合4回に分けて行われるクリスマスイブのミサの殆どが、「何処から来たの?」と思うほど人で溢れる盛況?振りだった。
 当時は、クリスマスになると自分が信者だったことを思い出す人が、こんなにも多くなるのかと、皮肉混じりに半ば呆れる思いでいた。

Photo  話は飛ぶが、7年ほど前の12月の日曜、ナターレ・待降節第4主日にサン・ピエトロ寺院のペトロの司教座がある主祭壇(写真下)でミサ聖祭に与ったことがあった。

 当然、イタリア語のミサだったが、カトリックでは何処の国でも、同じように司式が進められるので違和感なく与れる。
 そのミサ、聖歌隊が献じる閉祭唱とともに終わって、感激冷めやらぬ気持ちのまま聖堂を辞し、ぶらぶらとサン・ピエトロ広場に向かって歩いていると、カタリナ が、「早くして!」と急かす。

 「えっ、なんで?」と、訝しく思いながらもカタリナの後を追って、早足で広場に戻った。
 暫くすると、教皇館4階の右から2番目の窓に、教皇の旗らしきものが垂れ下がった。
 そして、正午丁度、サン・ピエトロ広場に、鐘の音が鳴り響いたのだ。(続く)

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スパッカ・ナポリ

2009年12月17日 | イタリア

 ヴェスヴィオ山の稜線(写真上)を照らし、朝日が昇るのがホテルのバルコニーから望める。
 今日も、素晴らしい天気の予感がする。

 ナポリをまっぷたつに割るという意のスパッカ・ナポリ
 昨日、ポンペイからの帰りに訪ねたものの、日曜の午後とあって店という店がシャッターを降ろし、人影もまばらでがっかり。

 Photo寒風が吹きすさび捨てられたゴミが風に舞い、まるでゴーストタウンの様相。あろうことかドゥオーモまでが閉まっている。
 石敷の路地をとぼとぼ歩き、ようようサンタ・キアーラ聖堂に辿り着き一息入れる始末。

 好天の今日は、打って変わったように建物と建物の狭い空間に青空が覗き、バルコニーに洗濯物がはためく。

 マルガリータを焼くピザ屋やバール、雑貨屋から衣料品店などが軒を連ね、商いのやり取りが飛び交う。

 車一台が御の字という道(写真中)を、タクシーやスクータがクラクションを鳴らし傍若無人に走り抜ける。
 この活況こそダウンタウン、「スパッカ・ナポリなんや!」とカタリナ ともども感じ入った。

 Photo_2教会ばかりが矢鱈目立つこの一角、その中心はやはりナポリの守護聖人ジェンナーロを祭祀するドゥオーモ(写真下)
 さすが?に今朝は開いている。

 春秋の二日と年の暮れの三回、小さな壷に納められた聖人の血が液体に戻るという、「ほんまかいな?」のミラーコロ・奇跡が起こるという。

 そのドゥオーモから、通りを少し下った路地の中ほどに目指す建物があった。

 Photo_3この辺り一帯、地下にギリシャ、ローマ時代の遺跡があって、地下ナポリへの入口もあるらしく、 その上に幾時代もが積み重なり、現在の街が築かれているのだそうだ。

 サンタ・マリア・デッラ・ミゼリコルディアという少し長い名前がつけられたその建物も、古い時代の道路があったところに17世紀初頭に建てられたらしい。

 ちなみに、ミゼリコルディアとは、ヴェローナの聖ペトロ殉教者、サン・ピエトロ・マルティレ・ダ・ヴェローナによって、1244年、“ 隣人に対する慈しみ・ミゼリコルディアの業をもって神を称える ” ことを目的にフィレンツェに創設されたのを起源とするとか。

 今も活動する最も古い市民ボランティア組織のひとつとされる。
 ヴァチカン放送局のホームページに拠れば、07年、ローマ教皇ベネディクト16世が、「これからもその業を通して神の愛の福音を全ての人に伝えて欲しい」と励ましたと聞く。(もうちょっと続きます。)

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カポデモンティ美術館(3)

2009年12月15日 |  ∟イタリアの美術館

 ナポリでは、ここカポデモンティ美術館の他に二箇所、カラバッジョの作品を所蔵している。
 イタリア商業銀行がそのうちの一点を所有していて、特別公開でもされない限り観ることが叶わないと諦めていた。

 Photoころが、「キリストの笞打ち」の一作品だけが架けられた廊下。
 その突き当たりを左に曲がった展示室、普通の照明が施された壁に、何と、そのイタリア商業銀行が所蔵する筈の、「聖女ウルスラの殉教」(写真上)が架かっているのをカタリナが見つけ、「信じられない、ラッキー!」と、大喜びをしている。

 国が買い取ったのか美術館に寄託されたのか判らないが、まさに僥倖、感謝である。

 何年か前の秋、ベルギーの水の都・ブルージュ(写真中)を訪れた。
 その時、愛の湖公園という歯の浮くよう名前に注ぐ運河の傍のメムリンク美術館に入った。

 初期ネーデルランド期にブリュッセル地方で活躍した画家、ハンス・メムリンクの最高傑作のひとつ、「聖ウルスラ伝の聖遺物箱」との出会いを求めて訪ねたのだ。

 聖1ウルスラ伝とは、5世紀のイングランドのある国の王の娘ウルスラが、ローマ巡礼からの帰途ドイツのケルンで、異教徒フン族の族長の息子との婚姻を拒んだために襲撃に遭い、巡礼に同行した1万1000人の処女と共に殉教した故事。

 中世以来、実在の聖女と信じられウルスラ崇敬が盛んだったが、今はその実在は疑問とされているらしい。
 その聖女ウルスラの伝説がモチーフになっている。

 カラヴァッジョはこの伝説を、失望した求婚者が射た矢が聖女の胸に刺さった瞬間を鋭く切り取り、聖女の胸から真っ直ぐにほとばしる血を生々しく描いている。

 この作品も暗い背景のなかで、聖女が自分に刺さったものではないかのように矢を冷静に見つめ、射た者は聖女に顔を向けながらもその目は闇に隠している。

 背Photo_2後から事の成り行きを見守っているのは画家自身とされ、一説によれば、この作品の絵具が乾くか乾かないうちに、この無頼の作家は世を去ったとされている。

 まさに、苦悩に満ちた観察者として、彼自身が登場する最後の作品となった。

 残る一点は最終日、ナポリのど真ん中スパッカ・ナポリ、ピオ・モンテ・デラ・ミゼリコルディア教会に訪ねる。

 ホテルの部屋の小さなバルコニーから見えるヴェスヴィオ山(写真下)が、なだらかな稜線を見せて夕陽に映えている。
 
ぼんやりと眺めているうちに茜色から紺色のシルエットと変わっていった。(もう少し続く。)

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カポデモンティ美術館(2)

2009年12月14日 |  ∟イタリアの美術館

 南向きの窓に沿って真っ直ぐな廊下があって、それぞれの展示室を結んでいる。

 その突き当たり、暗い空間でスポットライトに照らされ浮かび上がる作品がある。
 この絵が、このカポデモンティ美術館で、特別の意味を持って遇されていることが窺える。

 Photo_2鮮やかな明暗対比、ぎりぎりにまで切り詰められた人物。
 遠目にもカラヴァッジョの傑作 「キリストの笞打ち」(上)だと判る。

 本作は、彼がナポリ滞在中にサン・ドメニコ・マッジョーレ教会の祭壇のために制作したもので、彼の代表作のひとつとされている。

 主題は、ユダヤの民を惑わしたとして捕らえられたキリストが、ローマ総督ポンティオ・ピラトの命によって笞打ちの刑に処される場面。

 右の刑吏によって体を捻じ曲げられ、左の険しい表情の刑吏はキリストの髪を掴む。
 左下には屈み込み笞を用意する刑吏がいて、これから始まるであろう行為を、観る者に恐怖をもって想像させる。

 Photo_3背景は、彼の多くの作品と同じようにキリストが括られている柱も見えないほど暗く、笞打たれる前の大胆に簡素化されたキリストと刑吏の滑らかでよどみない情景描写がこれからの運動性を示唆する。

 また、曖昧さを残した輪郭線と強い明暗による描写によって、祭壇画として信者をこの悲劇的な場面に立ち会う者へと同化させている。

 それにしてもこの作品、笞打たれる者と笞打つ者(中:部分)との性、品格の対が明確であるがゆえに作品の聖性が際立ち、この無慈悲なテーマに救いがある、そんなふうに思った。

 Photo_4本作が描かれた時期については、カラヴァッジョがナポリに初めて滞在した時であるとする説と、二度目の滞在で死の数月前とする説があり、今も研究者の間で論争が続いていると聞く。

 ところで、ジャンヌ・ダルクをご存知だろう。
 15世紀、英仏百年戦争のさなか突如現れた救国の少女、敗色濃いフランスを奇跡的な勝利に導く。

 その奇跡が、後に魔女のなせる業と断罪され、僅か19歳で火刑に処せられたのがフランスの北部、かつてノルマンディー公国の首府として栄えたルーアン

 そのルーアン美術館の二階の一室、そこに、カラヴァッジョのヴァリアント・異同作品 「キリストの笞打ち」(下)がある。この稿、もう少し続けます。

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カポデモンティ美術館

2009年12月13日 |  ∟イタリアの美術館

 広大なカポデモンティの丘に建つ、国立カポデモンティ美術館(上)、温暖な地中海の恵みを受けた棕櫚の深い緑と赤煉瓦?の外壁が似合う。

 土曜の昼下がりの広い公園、そこかしこに晩冬の穏やかな太陽を一杯に浴びて、サッカーなどに遊び騒ぐ児らが可愛い。

 Photo建物横手、アーチ状の通路を抜けると結構の中庭が吹き抜ける。

 のこのこと、まま美術館へ入ろうとしたら、「チケットを」と声がかかり、「こりゃ、当たり前や」と、ミュージアム・ショップのレジでカンパーニャ・アルテカードを示しチケットと交換。

 途中、クロークの可愛い女の子に 「ボンジョルノ」と微笑まれ 「うへっ!」となるペトロ、カタリナ から間延びした顔を覗かれ 「締りがない こと」と呆れられている。

 この美術館、ファルネーゼ家のコレクションを中心に、彫刻などが1階、絵画は2階に展示されている。

 Photo_5の2階へ上がったフロア正面、最初に出会うのが、初期ルネサンスの画家マザッチョの 「キリスト磔刑」(1426年/中)

 それで、カラヴァッジョの作品に進む前に少し回り道をする。

 マグダラのマリアを彫刻したドナテッロ、大聖堂のクーポラを建設したブルネレスキとともに、フィレンツェにおける初期ルネサンスの三大芸術家と称されるマザッチョ。

 そのマザッチョ、ノヴェッラ聖堂のフレスコ画 「聖三位一体(部分)」(1426~8年/下)で、物理的に遠近法を用いた最初の画家とされている。

 また、カルミネ教会ブランカッチ礼拝堂の壁画 「楽園追放」やマゾリーノとPhoto_4の連作 「聖ペテロ伝」は、中世宗教絵画に決別を告げるものであった。

 それはとりもなおさず教会の束縛から解放され、溌剌と自由に自己を表現することであり、“ イタリア・ルネッサンスは、僅か27歳で夭逝したマザッチョによって、まるで奇跡のように始まった ” とされる所以でもあるのだ。

 話を戻して、この美術館を代表する作品は、盛期ルネサンス・ヴェネツィア派のティツィアーノでも、初期ネーデルランドの農民画家大ブリューゲルでもなかった。

 ましてや、地元のバロック・ナポリ派の巨匠ジョルダーノでもなく、今回のローマからのエクスカーション・遠足の目的であるカラヴァッジョでも勿論なく、マザッチョの 「キリスト磔刑」だったのだ。

 照明が落とされた空間に、スポットライトを浴びて浮かび上がるその作品は、特別に意図された演出とも相俟って、思わず足を止めて見入らされてしまうのである。

 そして僅か数年後、奥行きを与えられてリアズムを得た彼(か)の 「聖三位一体」に思いを馳せるのである。

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