ペトロとカタリナの旅を重ねて

あの日、あの時、あの場所で
カタリナと歩いた街、優しい人たちとの折々の出会い・・・
それは、想い出という名の心の糧 

球春 ‐ 2月がゆく

2011年02月28日 | 季節/暦

 月の初めにキャンプインしたプロ野球、早いものでオープン戦もたけなわ。

 ペトロ、在阪の某チームをそこそこ贔屓に、専らTVで楽しんでいるが、そのTV中継で耐えられないのが、鳴り物の応援スタイル。

 球場で耳にする分にはさほどでもないのだろうが、TV局が集音マイクを駆使? しているのか、のべつ幕なしに鳴り響く不協和な金属音、随分と辛い。

 Photoカタリナ に 「そこまでしなくても?と呆れられながら、音を消してみたりするのだが、それはそれで臨場感に乏しく、「阿呆らしい」なって、結局、観るのを止めてしまう。

 ところで、開幕を前に名古屋高裁が、“ 鳴り物を使った組織的応援について、機構側が相応しくないと判断すれば入場を不許可とすることは当然に許される ” との判断を示した。

 そんな折、今度は仙台地裁が、ファウルボールで怪我、球団に損害賠償を求めた中年男性に、“ 臨場感も観戦には無視できない本質的な要素 ” と請求を棄却、我が意を得たりの思い。

 野球には動作の一つひとつに微妙な間があり、そこに知的な駆け引きが生まれ、観る者もそれに同化できるからこそ面白いと聞いたことがある。

 Photo_2唸りを上げるボール、空気を裂く打球、砂を蹴るスパイク、そして、瞬間のプレーに生じる僅かな間、固唾を呑む観衆とやがて上がる歓声、などなどこそがプロ野球観戦の醍醐味。

 ディジタル放送とやらで買い替えさせられたTV受像機、折角の高規格映像で感じたいものは、その臨場感であって、太鼓やトランペットばかりが鳴り響くのは興醒めだ。

 「アネモネ」(上)と 「パンジー」(下)、薄紫の花二題。

 愛と美と性の女神アフロディーテ、悪戯っ子キューピッドの射た愛の矢が誤って当たり、美少年アドニスと恋に落ちる。
 ところが、哀れにもそのアドニス、猟に出て猪の牙に突かれ死んでしまう。
 悲しみのあまりにアフロディーテが涙、血という話もある。を、注いだとこから芽吹いた花がアネモネだったんだって。

 似たような 「変身物語」、つい先月、<晦日正月 ‐ 1月がゆく>でも書いたっけ?

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師弟対決 ‐ ウフィツィ美術館

2011年02月26日 |  ∟イタリアの美術館

 女にだらしないフィリッポ・リッピ。
 ウフィツィ美術館に架かる彼の傑作は、「聖母子と二天使」と「聖母戴冠」。

1_2  祭壇画「聖母戴冠」(写真上・中)、教会からの束縛からの開放を象徴するかのように、巧みな空間構成と現実的な描写が見て取れる。
 この絵のテーマは、帰天した聖母マリアが復活、肉体と魂が昇天した後に父なる神から戴冠される場面。

 ゴシック美術以前の、押しなべて平板で均質的な解釈とは明らかに異なるとされる。
 例えて、戴冠するのはイエスでなく父なる神であり、背景の玉座の周りには精緻な装飾が施される。

 その背景の百合の花、聖母マリアのアトリビュート・表徴とし3_52_6 て、リッピやダ・ヴィンチの「<受胎告知>」、ボッティチェリの「<柘榴の聖母>」など、多くの作品に用いられる。

 リッピの弟子のサンドロ・ボッティチェリ。
 言うまでもなく、このウフィツィ美術館の主役として、盛期ルネッサンスの三巨人ダ・ヴィンチとミケランジェロ、そして、ラファエロまでも横に置かせている。

 ボッティチェリも、「聖母戴冠」をテーマに描いていて、図らずもここウフィツィで師弟対決となった。

 ボッティチェリの最も有名な祭壇画のひとつ、「サン・マルコ祭壇画 = 聖母戴冠と四聖人」(写真下)は、師リッピとは異なり、登場する人物が切り詰められているのが特徴。

 Photo聖母に加えて福音書記官聖ヨハネ、聖アウグスティヌス、聖ヒエロニムス、聖エリギウス、そして、天使たちが配されている。

  ちなみに、「聖母戴冠」も「受胎告知」も、多くの画家がこのテーマに挑み、リッピと何かと比較される天使のようなフラ・アンジェリコも、この「聖母戴冠」(ルーヴル美術館蔵)を描いている。

 ペトロ は、「角関係みたいやな?」と口走り、カタリナ から「喩えが不謹慎と眉を顰められる始末。

 夭折の天才画家マザッチョ、奔放にあるがままに生きたリッピ、その彼らから40年の時を経てボッティチェリに至る初期ルネッサンス。

 絵画や彫刻などのあらゆる芸術は、次第に自由を得てさらに闊達に、そして、伸びやかに表現されるようになり、文芸復興の花は、ここフィレンツェやヴェネツィア、ローマなどイタリアのみならず、ネーデルランドやドイツなど、ヨーロッパ各地で大きく開くのである。

 小ブログ、そのイタリア・盛期ルネッサンスの巨人たちへと旅は続く。

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フィリッポ・リッピ ‐ ウフィツィ美術館

2011年02月24日 |  ∟イタリアの美術館

 教会からの束縛から解放されたルネッサンス運動。
 それは、僅か28歳で天に召された天才画家マザッチョによって、奇跡のように始まったとされる。

 彫刻家ドナテッロ、建築家ブルネツレスキと共に、初期ルネサンスの三大芸術家とされるマザッチョ。

  Photoここでは、そのマザッチョと40年ほど後の画家ボッティチェリ、そのふたりの間で、重要な役割を果たしたある画家のことについて触れてみたい。

 その画家とは、初期ルネサンスを代表するフィレンツェ派の巨匠フィリッポ・リッピである。

 幼くして孤児になった彼、カルミネ派の修道院で育てられ修道士となる。
 ただ彼は、ドミニコ会の修道士でリッピと同時期に活躍、サン・マルコ修道院に傑作「受胎告知」を遺したフィレンツェ派の巨匠フラ・アンジェリコとは対照的に、数々のスキャンダルを起こしている。

 リッピは、何人もの女性と浮名を流す恋多き男で、修道女と駆け落ちするなど奔放な生活を送ったことで知られる。
 修道女ルクレツィア・ブーティとの間に子までなし、還俗するはめに。
 そのおかげ?と言えばいいのか、後にボッティチェリの弟弟子として活躍するフィリッピーノ・リッピ画伯が誕生したと言う訳である。

 そのリッピ、極めつけの傑作、「聖母子とニ天使」(写真上)がここに架かる。

 Photo_2カタリナ が、「マリアの息遣いが感じられるというこの作品、背景にだまし絵のような枠を用い立体感を表現している。

 幼子イエスを支える天使たちのあどけない表情。
 とりわけ、静謐ながらも憂いをたたえた聖母マリア、その甘美で官能的な表情に生身の女性の伸びやかさを見て取り、画家のみならず市民も教会から開放された喜びを、「ほんとに?」 「多分!感じるのである

 この絵を眺めていると、「好きで女遊びしてたんやないんやで、おいら!」と、リッピの声が聞こえてきそうな気がしないでもない。

 ところで、彼と真逆なフラ・アンジェリコ。
 同じ町<サン・マルコ修道院>の壁に彼の「受胎告知」を見たが、奔放なリッピもこの「受胎告知」(写真下)を<サン・ロレンツォ教会>に遺していて、見比べてみるのも面白い。
 また、リッピから三十年ほど後、巨人ダ・ヴィンチも傑作「受胎告知」を遺し、ここウフィツィ美術館の一室に架かっているが、それは後日に。

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ご馳走様

2011年02月22日 | 人/仲間

 巻すし、ペトロ の生家、慶弔事には必ずこれが並んだらしく、今になっても大好物で度々リクエストされる。

 子供がともに暮らしていた頃は、食べてくれる笑顔が嬉しくてせっせと作ったものだ。
 が、老夫婦ふたりになり量も要らなくなると、たとえ数は少なくとも、高野豆腐、干し椎茸、干瓢などの乾物類を湯戻ししたり煮含めたりする手間は同じ。

  食卓にPhoto_3並ぶものを食べるだけの人は、料理の下拵えなど諸々のことが理解できないようだがこの料理、思いの外時間がかかり、一寸大変なメニューでもあるのだ。

 ペトロは、毎食続いても構わないほど好きらしく、ある日のこと、手伝うから」と言うので一緒に作り出した。

 海苔にチョコチョコと具を入れて巻いたらお仕舞と思っていたらしく、余りに手間ひまがかかるので驚いていた。
 それ以来、言い出しかけては、「大変だからなあ、買ったほうが早いか」と呟くようになったので少し気にしていた。

 そんな矢先のこと、奈良のMさんから嬉しくも、「お口に合えばよろしいのですが」と手作りの巻すしを頂いた。
 その日の夕食、早速頂こうと切り分けていたが、なんともはや食欲をそそる。
 お行儀が悪いが思わず端の一切れ、お先に失礼と頬張ったところ、美味しくて思わず、「味見、味見」とペトロを呼びそうになった。

Photo_4  しかも、頂いた三本の巻きすし、それぞれ具材が違い驚かされる。
 私のように同じ具材ばかりの単調なものではなく、「すごいね、見て、見て」と、まるで自分が巻いたような興奮振り。
 何時もは、多くて四切れほどでご馳走様になるのだが、今日はペトロも驚くほどパクパクと食が進み、現金なものだと我ながら呆れる。

 彼女のご主人、毎日30品目の食材を摂れる料理をと言われると聞き、うわ~っ、それは大変!」と言ったら、楽しそうに、「スープにするといいのよ。それほどむつかしいことではないのよ」と、笑って話しておられた。

 予てからお料理上手とは伺っていたが、まさに脱帽! 残り少なくなったお皿を前に、彼女のご家族の会話が弾む食卓を思い浮かべながら、「美味しかったなあ」「馳走様でした」と手を合せた。

 初釜の折の土佐みずき、嬉しくも蕾がようやく開いた。(

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ゴシックから初期ルネサンス ‐ ウフィツィ美術館

2011年02月20日 |  ∟イタリアの美術館

 大きな板絵の聖母子の一群から、ウフィツィ美術館の旅は始まる。

 中でもPhoto_4一頭地を抜くのが、絵画の祖とも呼ばれるゴシック美術の巨匠、ジョット・ディ・ボンドーネの傑作「荘厳の聖母‐オニサンティの聖母」(写真上)である。

 彼は、アッシジの大聖堂の上の教会やパドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂の連作壁画など、多くの傑作を残している。

 この「荘厳――」は、フィレンツェのオニサンティ聖堂の祭壇画として描かれ、それまでの平面的、様式的に描かれることが常であった対象を、絵画の祖に相応しくその内面を、「聖母子の顔、怖い?ほど鋭く捉えている。

 初期ルネサンスに時代を進めると、まず目に付くのが、ピエロ・デラ・フランチェスカが板の裏表に描いた「ウルビーノ公夫妻の肖像」(写真中)。

 鮮やかな赤が際立つウルビーノ公フェデリコ・ダ・モンテフェルトロ、対照的に地味な衣装の妻バッティスタ・スフォルツァ。

2_31_3  この時代特有の半身真横という形式で描かれた本作は、背景にネーデルランド絵画の特徴を示す空気遠近法を用い、この時期の肖像画としての評価は高いという。

 同じく初期ルネサンス画家で、透視図法を用いて童話のような幻想的世界を描いたパオロ・ウッチェロの連作、「サンロマーノの戦い」も架かる。

 三部構成で描かれたこの絵、ロンドン・ナショナルギャラリーが「<サンロマーノの戦い>」、ルーヴル美術館が所蔵する絵には、「<ミケリーノ・ダ・コティニョーラの援軍>」のサブタイトルが付いている。
 そして、ここウフィツィ美術館が所蔵するのが、「<ベルナルディーノ・デッラ・チャルダの落馬>」だ。

 余談だPhoto_2が、この旅の翌年、このウッチェロの三連作の全てを見ることが叶い、単純にも「嬉しい!」と喜ぶ。 

 ちなみに彼は、ここフィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ教会の修道院の回廊に、同時代の画家とともに「創世記」のノアの箱舟(新共同訳 6.~8.)(写真下)などをモチーフに壁画を描いている。

 その壁画、テルヴェルト・緑色顔料が多く用いられために、陽がさすと辺りがその色に染まることから、「緑の回廊」とも呼ばれている。

 小さな美術館でもある本堂と違って、忘れられたようなこの回廊、ペトロ とカタリナ が訪れた時には、残念ながら相当剥離していた。(ウフィツィ美術館の旅は続く。)

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三題噺 ‐ 散歩道

2011年02月19日 | 散歩道/山歩き

 遠く六甲の山嶺を眺めるまでもなく、今冬は随分と寒い。
 と言っても、去年の今頃を覚えている訳ではなく、なんとなくと言うか、感覚のようなものがそのように思わせているのだろうけど。

 ただ確かなことは、カタリナ からは 「寒くとも不精せず、出かけなくては駄目よ」と叱られているのだが、いかにも最近、散歩に出ることが減った。

 1で、某月某日 「確定申告」に出かける彼女から、「邪魔をしないならついてきてもいいよ」と言われ、「ひょってとしてポチなの?おいら」と思いながらついて歩いた。

 長く待たされることが苦手な性格未だ矯め難し、と彼女に思われているらしいが、どっこい随分と悠長になったことお判りではないようだ。

 この日、風は冷たいものの日溜りは春の陽射しの中で彼女を待ちながら、途切れることのない納税者を眺め 「何と勤勉なる市民よ」と感心をした。

 話は変わるが、「鬼平犯科帳」や 「剣客商売」など、時代小説を多く手がけた池波正太郎さん。
 その名を成す作品は読んだことがないが、昔もむかし、作家のエッセイを数冊ばかり読んだことがある。

 その中の一冊に 「散歩のとき何か食べたくなって」がある。
 Photo今もあるのかどうか知らないが新国劇、島田正吾や辰巳柳太郎の全盛の頃の劇団の座付き作家のような存在だったらしい彼が、散歩の折々に食した雑記であり交遊録のようなものである。

 ぱらぱらとページを捲ってみると、書かれた当時、昭和52年頃に比べ、食文化だけでなく世相や庶民の暮らし向きのことなど、随分の変わりようが窺える。

 それでまた話は変わるが、朝の連続テレビ小説 「てっぱん」。
 タイトルバックのてっぱんダンスなるものを踊る可愛い子供に惹かれ見ているが、話は佳境のようだ。

 育ての親の小さな鉄工所を営む無骨な父が、生みの親の音楽家に 「娘をありがとう」と頭を下げるくだりに年甲斐もなく 「うるうる」となって狼狽えたりしている。

 池波さんの本とドラマのてっぱんじゃないが、久しぶりの散歩の途中、お好み焼きが食べたくなって暖簾をくぐったという他愛もない話である。

 今日から二十四節気のひとつ “ 雨水 ”(うすい)、降る雪が雨に替わる頃、春一番が吹き、鶯の鳴き声が聞こえ始める地域もあるという。
 投稿に迫られ、フィレンツェの旅の幕間に、三題噺みたいなので不精をした。

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ウフィツィ美術館 ‐ フィレンツェ

2011年02月17日 | イタリア

 次に向かったアカデミア美術館、ミケランジェロが多くのギャラリーを引き連れているらしく長蛇の列。
 それに、「街歩きにも」「少し疲れた」ことだし、このあたりでシリーズの初稿、<花の街>へと話を戻し、ウフィツィ美術館に入ることに。

 イタリアの至宝、ウフィツィ美術館。
 Photoメディチ家初代トスカーナ大公のコジモ1世の治世下、16世紀のイタリアで活躍した建築家ジョルジョ・ヴァザーリの設計で、1565年に竣工したという。
 <ウフィツィ美術館自画像展>でも書いたが、通称「ヴァザーリの回廊」なども手がけている。

 画家でもあった彼、当時のイタリアの著名な芸術家と作品を集成した、「美術家列伝」の著者としても広く名が知られている。

 ウフィツィ、英語でオフィスの名が示すとおり、元はフィレンツェ政府の行政機関を集めた執務室だったそうである。

 収蔵する作品は、メディチ家歴代の美術コレクションを主体とし、ルネサンス・文芸復興の発祥の地に相応しい貴重なコレクションとして、イタリア美術界にとどまらず、世界的にその評価は高いといわれている。

 時間軸は02年、3年振りのウフィツィ美術館をベースに、初めて訪れた時のことを交えながら歩いてみたい。

 21シニョリーア広場から美術館へ向かったが、殆ど人の姿が見えず、ホテルを出るのが少し遅れたのが返って好い結果になったようだ。
 チケットを買い一番奥にあるエレベータ・ホールに向かった。

 他の客の姿は見えず、「シニア専用」「違うでしょう、スタッフ専用!のエレベータで、厚かましくも3階の絵画館に向ったのは前回と同じ。

 美術館は、東側の棟と彫刻ギャラリーのロッジア・デイ・ランツィ(写真上)がある西側の棟を、アルノ川に沿って回廊で結ぶコの字型の建物。

 中庭では、柱に穿たれた中からイタリア・ルネッサンスの巨人、ダ・ヴィンチ(写真下左)、ミケランジェロ(写真下右)、ラファエロなどの像が迎えてくれた。

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サン・マルコ修道院 ‐ フィレンツェ

2011年02月15日 | イタリア

 サン・ロレンツォ教会から、メディチ家の邸宅でもあったリッカルディ宮殿の前を通り、サン・マルコ修道院に向かった。
 この修道院、今は美術館となっていてサン・マルコ美術館とも、アンジェリコ美術館とも呼ばれる。

2_21_2  ここはかつて、サン・マルコ信心会の礼拝堂だったそうだが、15世紀になってローマ教皇の命により、ドメニコ派の修道院になったと言われている。

 サン・マルコ修道院(写真上左) が、歴史にその名を留めているのは、ここを拠点に活躍したふたりの僧がいたればこそ。

 そのふたりとは、“ 天使のような ” と呼ばれた画僧フラ・アンジェリコと、後にフィレンツェの実権を掌握するジロラモ・サヴォナローラ。

 ちなみに、サヴォナローラはフェラーラで生まれ、ドメニコ会修道士として禁欲的生活を説き、「虚栄の焼却」を行うなど終生ローマ批判の舌鋒止まず、後には処刑された。

Photo_8  修道院の2階へと続く階段の途中に踊場があって、そこから右に曲がっている。
 その踊場から見上げると、正面の壁に大きな画が架かっていて嫌でも目に入る。

 フラ・アンジェリコ描くところの、「<受胎告知>」である。                                                                         

 と、いう訳でこの絵は、少し見上げる視点(写真上右)で架かっている。
 ゆっくりと階段を登りながら近づいていった時に、最も美しい印象を与えるという、心憎いばかりの演出である。

 大天使ガブリエルが、“ おめでとう、恵まれたかた、主があなたと共におられる ”ルカ1章26~38:新共同訳)とマリアに告げた場面(写真中)が描かれている。

2  カタリナ は、「聖らかな女性像、無原罪の女性とはこの方」と納得。

 また、ここには、若き日のミケランジェロが師事した画家ギルランダイオの「最後の晩餐」(写真下)がある。

 この絵はダ・ヴィンチが、ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の食堂の壁に描いた、「最後の晩餐」の参考にしたとされていて、「なるほど!」と思わせた。

 廊下を進むと小さな僧房、祈りの空間が数多く並び、それぞれに絵が架かっている。

 とまれこの修道院、神への祈りに生きた名もなき修道士の声が、今も「空間に漂っている」ようにも思え、同時に、「フラ・アンジェリコの優しい作風に酔ったひと時」でありました。

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サン・ロレンツォ教会 ‐ フィレンツェ

2011年02月13日 | イタリア

 次に向かったのは、メディチ家礼拝堂から地続きのサン・ロレンツォ教会。

1_22_2 この教会は、ミケランジェロが天国の門と讃えたサン・ジョヴァンニ洗礼堂の東の扉のコンペで、ギルベルティに一敗地に塗(まみ)れたものの、後に、ドゥオモのクーポラの工事で見事にリベンジ、その名を馳せたブルネッレスキが増改築したものと言われている。

 ローマ教皇レオⅩ世は、ミケランジェロにファサードの設計を委ねたが、ブルネッレスキの死によって工事が中断、ファサードは未完のままとなっている。

 この教会は、ミラノ司教として4世紀に活躍した聖アンブロージョによって祝聖されたという来歴を持つ相当に古い教会で、Photoその雰囲気は、中庭を囲む回廊(写真上左)にも見て取れる。

 今となっては、未完のままのファサードや粗さを残したままの外壁(写真上左)などが、この教会を一層味わい深く、風格を感じさせるように思えるから面白い。

 この教会の特徴はもうひとつ、天井が床面と平行であること。
 ロマネスク様式にしても、ゴチック様式にしても天井は丸い形状になっていて、これを穹窿(きゅうりゅう)、ヴォールトと称するのだそうだが、そのヴォールトで支えられているのだそうだ。

 ここでは、水平な格天井が真直ぐに主祭壇(写真中)に伸びている。

 そして、その格天井にはメディチ家の紋章、「てんとう虫かな?」「丸薬でしょ!」のエンブレムが描かれている。

 説教壇は、ドゥオモ博物館に展示されているマグダラのマリア像の作者ドナテッロの手になるものだそうだ。

Photo_5  ところで、街中にいた多くの観光客(写真下)は、「一体、何処に行ったの?だろうか。
 先のメディチ家礼拝堂にしても、このサン・ロレンツォ教会にしても、「寂しいほど人影が少ない」のである。

 その疑問は、次のサン・マルコ寺院とアカデミア美術館で解けた。
 ルネッサンスの巨人ミケランジェロは、アカデミア美術館の方で多くのギャラリーを引き連れているようだ。
 余談だが、当時はそんな有様だったが、今はこの教会、メディチ家礼拝堂とともに長蛇の列と聞く。

 そんなことを思いながら、メディチ家礼拝堂とサン・ロレンツォ教会を後に、次の目的地へと向かった。

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メディチ家礼拝堂 ‐ フィレンツェ

2011年02月11日 | イタリア

 99年、初めてこの街を訪れた時のこと。
 その日、花の街フィレンツェは、初秋の爽やかな光の中にあった。

  まずは、ノヴェッラ駅の近くウニタ・イタリア広場から10分ほど、サン・ロレンツォ教会の裏手、メディチ家礼拝堂(写真上)から、中世の面影を色濃く残す旧市街を歩いてみた。

 Photo_2礼拝堂の入口には既に何人かが並んでいたが、待つこともなくチケットを買うことができた。
 この建物の2階に、メディチ家の歴代君主の礼拝堂がある。

 さらに、廊下を進むと、ルネッサンスの三大巨人のひとり、ミケランジェロ・ブオナローティが設計した新聖具室がある。

 ところで、この街は、メディチ家を抜きにして語れない。
 メディチ家の紋章は丸薬を模したものだが、その紋様から先祖は薬屋か医師であったのではないか、とされているらしい。

 その後、金貸しとして財を成し政冶にも手を広げたという。
 やがて、この街の実質的な支配者として君臨、後に、トスカーナ大公国の君主にまで登りつめた一族である。

 Photo_3話は戻って、新聖具室にはそのメディチ家のロレンツォ2世とジュリアーノの墓があり、ミケランジェロの傑作、「寓意像」がある。

 1520年、ミケランジェロが、メディチ家出身の教皇・レオⅩ世の依頼を受け制作をしたといわれている。

 夭折したふたりの若者に、ミケランジェロは、“ 一日の時間が早く巡って人生を短くしてしまった ” と、ソネット・詩を書いてこの擬人像を彫ったとされている。

 ジュリアーノの肖像(写真中)の下には、「昼=男性像 と 夜=女性像」が、ロレンツォ2世の肖像(写真下)の下には、「曙=女性像 と 夕暮=男性像」が配置されている。

 ひっそりと息づくこの四体の像は、“人生の始まりと老い ” を表現しているのだそうだ。

 像をとっくりと眺めていると、この作品のテーマを考える前に、構想の壮大さと横たわる像の力強さ、そして何よりも「そのマッチョ振り?に圧倒されてしまったのだが、「傑作のどこを見てるの?」と笑われてしまった。

 まずは、花の街で最初に目撃したルネッサンス芸術の傑作、それは、巨人・ミケランジェロの圧倒する擬人像でありました。

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