ペトロとカタリナの旅を重ねて

あの日、あの時、あの場所で
カタリナと歩いた街、優しい人たちとの折々の出会い・・・
それは、想い出という名の心の糧 

老い ‐ 11月がゆく

2016年11月30日 | 季節/暦

 散歩の途中、お寺の掲示板に “ 子供泣かすな何時か来た道、年寄り笑うな何時か行く道 ” と貼ってあるのを見かけ、上手く言ったものだと感心したことがある。

 最近、そのお年寄りドライバーの事故が相次いで起き、とてもだが笑うどころの状況にない。
 年齢を重ねれば感覚も判断も動きも鈍る、加齢が原因の交通事故、何も今に始まったことじゃないのだろうけれど・・・。
 ただ、車を保有する人も免許所有者も少ない上に、発進時にクラッチ合わせの過程があって、件数が少なかったのかも知れない。

 ある年齢になればハンドルを離すことが必要だろうけれど、自分では衰えていないと思っていることや、車がないと暮らしが立ち行かない時代背景などがあってなかなか難しいようだ。

 斯くいう酔狂、某日某駐車場で、停めてあった車に当ててしまった。
 幸いに小さな擦り傷が付いた程度で、先様からは恕(ゆる)して頂いたが、何十年振りかの物損事故に気持ちが塞がってしまった。

 その車、ふた昔も前に都心の駅近傍のマンションに越した時に思い切って手放したことがあったが、それも慣れれば不都合も感じず、<盆暮の墓参>などの折は自宅前のレンタカーを利用していた。

 夏冬の厳しい折、彼女 の稽古の送迎用にと持ちかけたりもしたが、呑兵衛の酔狂を慮って首を縦に振らなかった。
 が、逝って直ぐ、<墓園>が六甲山系の甲山の中腹にあって、交通の便が余り良くないことを理由に買ってしまった。

 持てば持ったでこの無駄使いの固まり、中々手放し難く、今、彼女の言葉をほろ苦く思い出している。
 何時か行く道、思いの外早く着いてしまったかな、そんな気がする霜月・十一月、聊かの教訓を残しゆく。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.1221

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セザンヌ 「松の大木があるサント=ヴィクトワール山」

2016年11月28日 |  ∟アメリカの美術館

 ※ ワシントンDC/フリップスコレクション(10) ‐ DC&NYの美術館にみる泰西名画選(10)

 近代絵画の父と呼ばれたポール・セザンヌ(1839-1906/フランス/後期印象派)。

 南仏の小さな町エクス=アン=プロヴァンスで絵の勉強を続けていた<セザンヌ>。
 60年頃、友人エミール・ゾラ(1840-1902/小説家)を追って念願のパリに出たものの、大都会の雰囲気に馴染めず、エクスとパリを往復し乍ら制作を続けたが、作品はほとんど理解されなかったという。

 結婚、息子の誕生、確執のあった父の死などもあって、80年頃にエクスに戻ったとされている。

 そのセザンヌが、ヴィクトワール山を生家ジャ・ド・ブーファン近郊から描いた 「松の大木があるサント=ヴィクトワール山」(1886-87年/79.4 x 92.4 cm)が今回の作品。

 本作、彼のもうひとつの 「<サント=ヴィクトワール山と大きな松の木>」(1885-87年/66.8×92.3cm/コートールドコレクション蔵)と、ほぼ同じ視点で描かれている。
 その違いを例えれば、フリップス版が広角、コートールド版が望遠レンズで切り取られたと言えば大雑把か?

 青みがかった稜線のヴィクトワール山を背景に、アルク川の堰堤が吐き出す豊かな水に恵まれた田園風景が広がっている。
 前景には、枝葉が覆う松の木が配され、恰も画布に見立てたような引き締まった印象を与えている。

 このモチーフで水彩・油彩など何枚か描いてい、セザンヌの故郷に寄せる深い愛情が見て取れる。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.1220

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大丈夫?

2016年11月26日 | 日記

 朝日紙のコラム、鷲田清一氏の 「折々のことば」、愛読されている方も多いと思う。
 以前にも、小編<どうにもならないこと・・・>で拝借したことがあるが、著名人の言葉もさり乍ら、市井の中から氏が拾い出された言葉に惹かれることも多い。

 困った時の神ならぬ紙?頼み、今回もその 「折々のことば」から。
 今回(11/22)は、“ 「大丈夫?」ってきかれて「大丈夫」って答えるのは、「ほんとは大丈夫じゃない」ってことかもね ”、というある居酒屋の亭主の言葉。

 氏は、“ 我慢に我慢を重ね、ぎりぎりのところで踏ん張っているときに、「大丈夫?まだ持ちこたえられる?」と人に優しく声をかけられると、堰(せき)が切れて一挙に崩れてしまう ” と言葉を添える。

 さらに氏は、“ 逆に、ほんとうに大丈夫なときには、「大丈夫?」ときかれてもきょとんとするだけ。だから大丈夫でなくても 「大丈夫」と返すのが、身を保つぎりぎりの線となる ” と続ける。

 省みて酔狂、ミサの後など親切な方から 「大丈夫ですか?」と、声を掛けられることも間々あり、そんな時、とりたてて踏ん張っている訳じゃないが、みっともなくも狼狽えたりも。

 狼狽えると言えば、土産片手に押っ取り刀でNYに馳せ参じた安倍さん。
 その僅か四日後に、就任後の最初の仕事はTPP離脱と宣言されても “ ともに信頼関係を築くことができる確信のもてる会談 ” (朝日紙・11/25)と恬として愧じない。

 主要国の首脳がこの御仁の資質を見極めようとする中、「一等先に会って貰ったよ僕!」との浮かれ様、差し詰め親父が、「おい、大丈夫か?」と不出来な息子を案じる図、洒落にもなンない。

 クリスマスや正月飾りとしても活用されるらしい 「チェッカーベリー」、花言葉は “ 明日への幸福 ” だって。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.1219

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ゴッホ 「オーヴェルの家」

2016年11月25日 |  ∟アメリカの美術館

 ※ ワシントンDC/フリップスコレクション(9) ‐ DC&NYの美術館にみる泰西名画選(9)

 売れたのは僅か1点のみ、生前は全く作品が売れなかったという。
 ものの、死後急速に評価を高め、現在では後期印象派を代表する画家のひとりとしてもてはやされる悲運の画家フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890/オランダ/ 後期印象派)。

 その彼の最晩年の作とされる 「オーヴェルの家」(1890年)が今回の作品。

 本作は<耳切り事件>の後、精神的に不安定となったゴッホが、90年5月20日、パリ北西<イル=ド=フランス>の<オーヴェル=シュル=オワーズ>に移住。

 友人である精神科医のポール・ガシェのもとで治療、療養生活を過ごした最後の二月間で手がけられた八十点余りの作品の中の一点とされている。

 本作、上景に大きな樹の傍らに白い塀を巡らした青い屋根の家が見えるものの、穂が黄ばみ始めた麦畑が画面のほぼすべてを占めている。

 そのモチーフから描いたのは、博士のもとで治療を受始めた、それも早い時期と思われ、画面からは不安と苦痛に満ちた心理が見て取れ、病状が優れなかったことが窺える。

 その後、傑作のひとつ 「<オーヴェルの教会>」(オルセー美術館蔵)や 「<ポール・ガシェ医師の肖像>」(個人蔵)などを描き、同年7月27日、ピストルを胸に当て引き金を引いた、37歳だった。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.1218

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有効期間 ‐ 三年(3)

2016年11月23日 | 想い出のカタリナ

 短編小説の名手オー・ヘンリー(1862-1910/アメリカ)に 「最後の一葉」がある。

 中学の頃に授業で、“ ベッドに臥すようになった女性は、窓の外に見える煉瓦の壁を這う枯れかけた蔦の葉を数え、「あの葉がすべて落ちたら自分も死ぬ」と言い出す ” 話と習った覚えが。

 こんな昔話を持ちだしたのは他でもない、何でもかんでも感があるショッピング・ポイント、有効期限とやらがあり、この小説の葉が一枚一枚散っていくのと何やら似ていて、期限とともに薄皮を剥がすように失効していく。

 そのポイント失効、聊か癪に障るのがマイレージ。
 ふたりの旅の多くは、ANAも加盟するスターアライアンスグループのそれを利用してきた。

 五年も前<イスラエル巡礼>に参加したのも、利用航空会社が同グループのトルコ航空だったことが背中を押してくれた理由のひとつでもあった。

 そのマイルを使った旅、もう一年半ほども前になるが<サンクトペテルブルク>でほぼ使い切った筈だった。

 が、何ということ、今月初にANAから “ 三年経ったので今月末から順次失効する ” とのメールが届き、それこそ壁を伝う蔦の葉のように減るという。

 ところでペトロ、最期の旅は、かつてカタリナ と歩いた<イタリア>、それも、ローマの小さな教会と小さな美術館を再訪したいと思っていた。

 ところが、厄介なことに僕(やつがれ)、聊かの<術後後遺症>もあってCクラスでないと長時間の搭乗に自信がない。

 それには、別のカード会社に貯まったポイントをマイルに移行しても1万マイルほど足らず、恨めしくも誰が決めたかこの三年というやつ、どうしたもんじゃろのうと小さな?胸を痛めている。

 ここ暫くコレクションの合間に埋め草記事ばかり、そろそろNY行の列車に乗らなければと思っているのだが。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.1217

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ゴッホ余話 ‐ ちょっとミステリアスな絵

2016年11月21日 |  ∟アメリカの美術館

 ※ ワシントンDC/フリップスコレクション(8) ‐ DC&NYの美術館にみる泰西名画選(8)

 この小さなギャラリーの作品を拾うだけで四苦八苦、メトロポリタン美術館なんて所詮無理、なんて今、ちょっぴり後悔しているところ。
 そんな弱気の虫は、防虫剤と一緒に箪笥に仕舞って、ここでちょっと横道に。

 幾ら能天気なペトロ とて、旅の前にはある程度の知識は仕入れている。

 それは、旅本の地球の歩き方や美術案内書だったりHPだったりだが、この旅も旅程表とともに作品リストを作って鞄に入れてきた。

 そのリストの作成途中、「えっ、ほんま?」と思う面白いブログ 「White & black」(10-09-28)に当り、機会があれば紹介したいとファイルに保存していた。

 その作品が、ゴッホが共同生活の家を飾るために描いたとされる 「アルルの公園の入口」(1888年/上)、勿論、ここフィリップスコレクションが収蔵している。

 主題はいたって簡単、公園の入口の景色だが、この作品には、偶然なのか画家の仕掛けなのか、公園に入って突き当りの小道が別れる辺り、仰向けの顔が描かれている・・・と、言うのである。

 半信半疑、投稿氏が説明するように、その部分を切り取って(中)、さらに左に90度回転して(下)、目を細めて眺めたらなるほど横顔が浮かんでくるからびっくり。

 投稿氏は、次のように解いている。
 目は、紺色の服を着た道の真ん中の女性、瞳は、その上着の濃紺の部分
 鼻は、その女性の頭部辺りから左下に伸びた細長い柵に沿って
 そして、鼻の穴がその少し下の黒い服
 口は、その下でベンチに座った黒服の人の膝下から靴先
 髪は、右上の黒い服を着てベンチに座った黒い服の二人
 ・・・だと。

 序に加えるなら、口の下の無人のベンチが顎と首、髪の下辺りには耳が、また、上部の茶の塀とその後ろの木が帽子に見えなくもないのである。

 早描きゴッホ(1853-1890/オランダ/後期印象派)、だまし絵を描いたとは到底思えない。
 が、僅か二カ月で破綻した共同生活、その後の耳切り事件、銃による自殺へと続く予兆と考えれば、俄然この絵がミステリアスになるから不思議ですよね。 
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.1216

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ずぼら ‐ 三年(2)

2016年11月19日 | 日記

 とうとう可笑しくなってきた、お頭(つむ)もそうだけど、今回はメガネ。
 一昨年の初夏、衣更えの頃だったから足掛け三年ほども前になるだろうか、<メガネ>の塩梅がよろしくないと書いたのは。

 よろしくないのは、レンズじゃなく蔓(つる)先のセルロイドの耳当り、で、ずぼらにもママ使っていたが、とうとう焦点が合わなくなってきた。

 手を伸ばしたり近づけたり、明るい方へ紙面を傾けたりしているけれど、新聞が手に負えなくなってきた。

 メガネの方はご存じだろうけれど、ものがきれいに視えないのは思いの他辛い。
 目元やテンプル・こめかみの辺りが、凝り固まったようになって、気分がよろしくない。

 で、調製することにしたのだが、メガネと入れ歯はけちるなと聞いたことがある。
 まあ、何となく判るような気がする、耳や鼻が聞いたら怒りそうだが、目と口はそれほどデリケートな器官だということなんだろう。

 話はそれたが、メガネ業界も競争が厳しいのか、町からメガネ屋さんが段々と姿を消し、代わってチェーン店がそこかしこに店舗を構えている。

 わが町も御多分に漏れず、西宮北口にアマガン、尼崎のメガネ屋さんの略だと思う。という屋号の店があって何度か調製したが、何年か前に店を畳んでしまった。

 最近のことだと思うのだが、そこが大手眼鏡チェーンの店舗になっていたので、冷やかし半分に覗いてみた。

 そしたら店員さん、なんとアマガン時代に顔見知りの方、「どうしてここに?」 と訊ねたら 「フランチャイズ店になった」という、当節、小売業も大変なンだ。

 それで、メガネどうしたのかって? 旧店のカルテが保存してあって、そこには調整したのが八年前と書かれているらしく 「そりゃボケる筈だよなあ」、筋金入りのずぼらさに感心し乍ら検眼器を覗いた。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.1215

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ゴッホ 「道路工夫」

2016年11月17日 |  ∟アメリカの美術館

 ※ ワシントンDC/フリップスコレクション(7) ‐ DC&NYの美術館にみる泰西名画選(7)

 炎の画家とも呼ばれるフィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890/オランダ/後期印象派)。
 フィリップスコレクション、その彼の油彩 「道路工夫」 「アルルの公園の入口」、そして 「オーヴェルの家」を所蔵している。

 その彼の最も名が知れた作品のひとつが 「<ひまわり>」(ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵、他10点)。

 南仏アルルで共同生活するため、唯一人、応じてくれたゴーギャン(1848-1903)の寝室を飾るために描いたとされている。

 その共同生活も僅か二月で破綻、<耳切事件>の後、精神の著しい変調によってアルルの市立病院へ二度入院。
 そこを退院した翌年、ゴッホ自身の希望により<サン・レミ>のカトリック精神病院に入院する。

 その病院の前の道路工事を描いた 「道路工夫」(1889年)、コレクション創設者のダンカン・フリップスが 「ゴッホの中でもベストな作品」と自賛したとか。

 季節は秋、プラタナスだろうか、黄葉した街路樹を彼独特の筆の運びと色使いで力強く表現してい、精神的な危機から脱出したかのようにも見受けられる。

 ゴッホ、サン・レミの病室から眺めた夜空の星を主題に傑作 「星月夜 ‐ 糸杉と村」(1889年)も描いている。
 その作品、NY近代美術館・MoMA編で取り上げたい・・・と、思っているのだが、さて、どうなりますか。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.1214

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秋の夜に ‐ 三年

2016年11月15日 | 想い出のカタリナ

 小春日和の穏やかな日、<初金のミサ>(11/4)の主朗読は 「ルカの福音書16章」だった。

 その要旨は、“ ある金持ちの財産を無駄使いしていると告げ口され、会計の報告を求められた管理人、失職後のことをあれこれ考え知恵を働かせ、主人から借金をしている人々の金を軽減してやり、「仕事を辞めさせられても自分を家に迎えてくれる者たちを作ればいい」と ” 考えた。 

 だが主人は、“ この不正な管理人の抜け目のないやり方を 「自分の仲間に対して光の子らよりも賢く振る舞っていると」褒めた ” と言う難解なもの、司祭の主朗読を聞いた時は珍紛漢紛だった。

 その日の夜、「新共同訳・新約聖書略解」(日本基督団出版局刊)を開き、ちょっとだけ腑に落ちたような。

 この喩えは “ 道徳的ではなく終末論的に捉えなければならない。「光の子ら」、すなわち 「神の国」に連なる人々は、世俗的利益のために賢く振る舞うべきで、イエスは、天の富ではなくこの世の富で友達を作りなさいと教えたのだ ” とあった。

 そして、“ この世の富を貧しい人々のために施し彼らを友としなさい。「金持ちと(貧しい病者の)ラザロ」(ルカ書16章)の喩えの金持ちは、この世で友を作らなかったために、父祖アブラハムの傍に連れて行って貰ったラザロと違って、 「永遠の住まいに迎え入れて貰えなかった」のだ ” と。

 多くの仲間に慕われたカタリナ、その意味では、永遠の住まいに迎え入れて貰えたのでは・・・。
 カトリックに年忌の定めはないが、三年というひとつの区切りを迎え、彼女の救霊の意向を依頼したこの日のミサを振り返り、そんなことを思った静かな秋の夜だった。

  

   「秋桜」  (詞曲:さだまさし/ 歌:山口百恵さん)
    こんな小春日和の穏やかな日は、もう少しあなたの子供でいさせて下さい・・・

 聊か抹香臭い埋め草みたくな記事、せめても明るくと 「ポインセチア」 の妹分らしき 「プリンセチア」 と 「秋桜」、薄紅色を添えてみたけれど、中身まで明るくなる訳じゃないよねえ。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.1213

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ドガ 「稽古する踊り子」

2016年11月13日 |  ∟アメリカの美術館

 ※ ワシントンDC/フリップスコレクション(6) ‐ DC&NYの美術館にみる泰西名画選(6)

 競馬、舞台、踊り子など都会的なものから日常生活に見られる風俗的なモチーフまで、数多く描いたエドガー・ドガ(1834-1917/フランス/印象派)。

 その彼の 「稽古する踊り子」(1900年)が今回の作品。

 ドガの作品には、踊り子や<浴女>などを題材にした室内風景を描いたものが多い。
 野外の風景を描いたものは競馬場など人々の多く集まる場所に限られ、彼の関心の対象は徹底して都会生活とその中の人間であったとか。 

 それには、彼が普仏戦争に従軍した際に、寒さで目をやられたために外出がままならなかったことも関係しているとされる。

 また、裕福な家庭に生まれた彼はバレエが好みで、ガルニエ宮・オペラ座の楽屋や稽古場に自由に立ち入ることが許される定期会員になっていたことも、このモチーフで多く描かせた理由ともされている。

 作品に戻ろう、最晩年の作とされる本作、彼のお気に入りだったのか、ふたりの踊り子の稽古の様子を描いている。

 ふたりの踊り子と言えば、傑作 「<舞台の2人の踊り子>」(1874年頃/コートールド美術研究所蔵)が思い浮かぶ。
 このふたりの踊り子は 「<舞台のバレエ稽古>」(1874年頃/オルセー美術館所蔵)や 「バレエの舞台稽古」(1874年/メトロポリタン美術館蔵)にも登場していることも特筆すべき点のひとつとされている。

 本作の稽古する踊り子もまた同じ人物とも考えられ、この頃を境に視力が衰え、次第に彫刻へと制作活動を移していった老画家の郷愁が、四半世紀を経て本作を描かせたのかも知れない。

 余談だが本作を見て、橙色と青の大胆な色使いから 「<フェルナンド座のララ嬢>」(1879年頃/ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵)を思い出した。

 ところでフリップスコレクション、ドガの踊り子をもう一枚、「ダンスのリハーサル」(1875-6年)を所蔵している。

 傑作 「<ダンス教室=バレエ教室>」 (1875年/オルセー美術館蔵)と、ほぼ同じ時期に描いたとされているが、こちらは随分と画調が暗い。
 それは、銀行家だった父が負債を残して逝き、時期を合わせて兄が事業に失敗した所為か、定かには知らないけれど勝手にそう思っている。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.1212

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