ペトロとカタリナの旅を重ねて

あの日、あの時、あの場所で
カタリナと歩いた街、優しい人たちとの折々の出会い・・・
それは、想い出という名の心の糧 

ロンドン

2012年07月28日 | イギリス

 今、ロンドンが熱い。
 30回という節目の夏季オリンピックが、この街で今日(日本時間)から開かれる。
 既に一部の競技は始まっていて、なでしこジャパンに負けじと男子サッカーも好発進。

 05年7月のIOC総会で、パリ、ニューヨーク、モスクワ、マドリードという錚々たる顔ぶれ、なかんずく本命視されたパリを破って選ばれたときは驚いた。
 ちなみに、204の国と地域が参加しているのだそうだが、「へ~え、そんなに多くの国があったの?」と驚く。

A2_9111A1_9111_2  話は変わるが、20年ほど前、生産性本部の海外研修で降り立った地がロンドン、初めての海外旅行だった。
 旅のメモに当時のことを、“ 夕闇迫る初冬のヒースロー空港、ホテルへ向かう車窓から眺める街はやけに暗い ” と残している。

A3_9111_2  そのロンドン、民家の屋根には幾本もの煙突が並んでいた。
 石炭で暖を取っているらしく、部屋の数だけ煙突があって、その煤で街全体が薄黒く汚れていた。
 壁にこびりついた煤を洗い始めた時期でもあったらしく、所によっては街が縞馬のような模様を描いていたのを覚えている。

 研修途中にバスからちょいと降りて覗いただけだが、最も陰鬱な印象を受けたのがロンドン塔。
 午後も遅くしかも小雨混じり、その昔、監獄として使われた名残のトーチャ(拷問)展をしていて一層陰鬱感が。

 写真(上)は、その91年当時のロンドンの街(上‐左)、ロンドン塔(上‐右)とタワーブリッジ(下)。

B1_2a_pa250031 10年ほども後にタワーヒル駅から眺めたロンドン塔は、昼下がりという時間もあって昔日のイメージはなかったが、それとても隣接するタワーブリッジ辺り、テムズ川にかかる雲が暗く重かったような。

 84年に出版された「七色のロンドン」(浅井泰範著/朝日新聞社刊)、その前書きで、“ ロンドンにも色はあった ” と逆説的に書いているが、この
街の陰鬱感、傘が手B4_2B3_5放せない 気候とアングロ・サクソンというヒトの種によると勝手に思っている。

 写真(下)は、03年当時のロンドン塔(上)とビクトリア駅界隈(下‐左)、そして、09年当時、テムズ川のリバーボートから眺めたビッグベン(下‐右)。

 話を戻して、この歳にもなり、しかも癪に触るが病を貰ったりすると、オリンピックに限らずサッカーのW杯もそうだけれど、「ひょっとしてこの大会が見納め」なんて、詰まらないことを考えたりも。
 心配してくれる人からは、“ 病気と恋に落ちちゃうぞ ” と戒めの<コメント>も貰ったけれど。

 とまれ、“ ニッポン ガンバレ! ” とエールを送ろう。それにしても時差8時間、「眠いよな~!
 Peter & Catherine’s Travel Tour No.493

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シェイクスピアとアン(続)

2010年10月29日 | イギリス

 ストラトフォードから2キロほど、ショッテリー村にある美しい茅葺きの屋根のコテッジ。
 
アン・ハサウェイが結婚するまで住んでいた家で、結婚前には、シェイクスピアが足しげく通ったという。

 静かな雑木林に囲まれた藁葺きのその家は、ひっそりと佇んでいた。
 周りは楓か楢だろうか、真っ黄色に染まって鮮やかに秋の空に映えてい(写真上)、思わず足を止め見とれてしまった。

 Photoシェイクスピアの時代、このコテッジ(写真下)は部屋数が12もあり、篤農家、裕福な小地主のハサウェイ家によって所有されていたそうだ。

 コテッジに入り、ガイドの案内に耳を傾ける。
 暖炉とパン焼きオーブンがある台所は、建築当時と同じ状態にあるという。
 とりわけ、バターを作る部屋など、当時のハサウェイ家の豊かさを偲ばせるのだそうだ。

 コテッジの周りは丁寧にガーデニングが施され、季節には美しい草花を咲かせることが窺える。

 裏手には、こんもりと盛り土された小さな果樹園があって、ふたつみっつ、この時季にしては名残り?の石榴の実が口をあけていた。

 Photo_2アンは創作のためロンドンに赴き、ほとんど家に帰ってこない夫ウィリアムを、この家で子供を育てながら、「ただひたすらに待った」と言う。

 彼女を支えたのは夫への愛情だったのか、彼との間でなした子供だったのか知る由もない。

 カタリナ  彼女の健気さに共感を覚えたようだが、誰かは、「女は弱し、されど母は強し」と屈託がない。

 アンの家を最後に、深い森に覆われた丘の羊小屋、コッツウォルズと別れ、西の空が茜色に燃えて影絵のようになった丘陵を車窓に眺めながら、ロンドン・ヴィクトリア駅に戻った。

 シェイクスピアが足繁く通ったというスワン・ホテル、学生街オックスフォードのことなどはまたの機会に。

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シェイクスピアとアン

2010年10月27日 | イギリス

 ロンドンには、13もの終着駅・ターミナルがあるという。
 そのひとつ、ヴィクトリア駅近くにヴィクトリア・コーチ・ステーションがある。
 そこから、各地に長距離バスなどが出ているらしく、早朝にもかかわらず多くの人で混雑していた。

 余談だが、この日でサマータイムが終わることや、ツアー・タイトルをうろ覚えだったせいもあって、20番近くまで並ぶプラットホームの何番から出発するのかまごついたりもした。

  Photo_6エヴァン・エヴァンス社の赤いコーチは、半数以上が外国人というツアー客を乗せ、晴天のロンドンを離れ、田園風景が続くなだらかな丘陵を走る。

 オックスフォードの街を2時間ほど歩いた後、ストラトフォード・アポン・エイヴォンへと向かった。

 バスは、ハニーカラーの壁が美しいライム・ストーンの民家(写真上)が点在、手つかずの自然との調和が絵になるコッツウォルズの村々を走り抜け、昼もだいぶ過ぎた頃、ストラトフォードに着いた。

 車窓からみるこの町は、エイヴォン川の周りにレストランなどが並び、深まる秋の日の休日、しかも、好天も相俟って川辺で憩う人もかなり見える。

 Photo_71564年4月23日、ここで、偉大な劇作家で詩人のウィリアム・シェイクスピアまれている。

  彼は、ロンドンで成功をした後、故郷のストラトフォードに戻り、1616年の奇しくも自らの誕生日に逝去したとされている。

 彼の生家(写真下)は、エリザベス時代に多く見られた木骨造りの家で、革職人の父が商いに使っていたとか。
 生家へは、広く整備された道路に面した現代風の建物、シェイクスピア記念館?から入る。

 順路に沿って進むと、彼が幼年期に過ごした小さな狭い部屋がある。
 この後訪れる彼の妻アン・ハサウェイが少女時代を過ごした家もそうだったが、この時代の田舎屋の特徴でもあるのか押しなべて天井が低く狭い。
 ただ、どの部屋にも暖をとるための小さな炉があり、この地方の冬の厳しさを思い起こさせてくれた。(続く)

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コッツウォルズ

2010年10月25日 | イギリス

 この月の初め頃だったろうか、少し古い話になる。
 ローマ法王ベネディクト16世が、初めて英国を公式訪問したニュースが流れていた。

  ヘンリー8世が妻と別れたい一心?で、ローマ・カトリックと決別、イングランド国教会、つまり、聖公会を創ったのが500年ほど前。

 Photo_31982年に前ローマ法王ヨハネ・パウロ2世の非公式な訪問はあったものの、斯くも長き時を隔て公式訪問に至ったという。

 このイングランド王、かなりの艶福家で五指に足りない奥方を娶っている。
 取り分け騒がせたのが、最初の妻キャサリン・オブ・アラゴンとの離婚とアン・ブーリンとの再婚。

 離婚を認めない時のローマ教皇クレメンス7世、双方確執譲り難く、「ほんなら別に教団創ったる!」と言ったかどうか知らないが、決別に至った次第。
 そのあたりのエピソードが面白く、芝居やオペラなどに取上げられる所以らしいのだが、詳しくは知らない。

 ただこの御仁、数ヶ国語をあやつり、スポーツ万能でダンスは大得意、音楽の才能も溢れんばかり、「ほんと?」 「そう、書いてある」、大変インテリジェンスに富んだ人だったようだ。

 ところで、その彼の宮廷画家として活躍したドイツ・ルネサンスの画家ハンス・ホルバイン(子)。
 「大使たち」(ロンドン・ナショナルギャラリー蔵)などの傑作を遺しているが、その彼が描いた肖像画 「ヘンリー8世」(写真上)を見ると、「まあ、なんて偉丈夫なの?と思うだろう。

 Photo_4その英明の君、ロンドン郊外はオックスフォード、大学の礼拝堂と司教区の聖堂を兼ねられるものとしてクライスト・チャーチ校を再建したりもしたらしい。

 で、前置きが長くなったが、ひと昔ほど前のサマータイムが終わる10月最初の日曜のこと。

 シティ辺りは早くもテムズ川の寒風が吹き荒び、晴れかと思えば俄かに掻き曇って時雨が走り、色の無い街の様相を見せはじめたロンドン。

 そのロンドンから少し足を延ばし、中世の面影を今も残し、世界一美しい村々と称されるコッツウォルズへと遠足に出掛けた。 (写真下:ショッテリー村に遺る民家)

 その顛末、例によって気侭に綴ってみたい。
 ちなみに、コッツウォルズとは、深い森に覆われた丘の羊小屋 という意だそうだ。 

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マルモッタンとテートブリテン

2010年06月08日 | イギリス

 前回、印象派というスタイルの由来などを書いた。

Photo_4  その印象派の巨人クロード・モネの傑作のひとつ、「印象‐日の出」は、イギリスのロマン主義の画家ウィリアム・ターナーの「ノラム城‐日の出」(写真上)に影響を受けたとされている。

 面白いことに、マルモッタン美術館の数日前、ロンドンのテートブリテンでその「ノラム城‐日の出」と対面したばかり、ことのほか印象深く眺めた。

 ちなみに、マルモッタンとテートブリテン、カタリナ の強い指示?で日程を割いたものだが、そのことはご褒美の稿でも書いた。

 ここで、またまた脱線。
Photo_2  旧テート・ギャラリーのテートブリテン、膨大なターナーのコレクションを誇り、Turner Galleries にその一部を常設展示する。

 何室にも続くターナーの絵。
 情けなくもペトロ 途中から、「どれが、どの絵かよう分からん?」状態になって溜息。

 大気がおぼろげに煙る、ぼかしたようなターナー独特の表現は、実際に絵を前にした時、見る前に持っていたイメージをはるかに超えるインパクトを与える。

 例えば、ロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵の「グレート・ウェスタン鉄道」(写真中)。
 この絵を初めて前にした時、「テムズ河の鉄橋を疾駆する機関車の音を聞いた」と言えば、少しオーバーか?

 後年、ターナーの水彩を用いた独自の心象表現は、印象派の画家に大きな影響を与えたとされ、モネの傑作のひとつ「サン・ザラール駅」(次回掲載予定)も、ターナーの「グレート・ウェスタン鉄道」と、しばしば対比される。

Photo_9  この美術館の前、ミルバンク桟橋からテート・モダンのバンクサイド桟橋を結ぶ、テムズ河リバーボートテート・トゥ・テート・ラインが発着している。

 深まりゆく秋のロンドン。
 午後も遅い時間とあって少し寒かったが、旅の土産話に乗ってみた。
 
陰鬱な空の下で、ビッグ・ベンや大観覧車ロンドン・アイ(写真下)を、また違った目線で楽しんだ。

 話をパリに戻して、マルモッタン美術館。
 「印象-日の出」の他に、モネの「バラの並木道」「ジヴェルニー」「ルーアン大聖堂」などとともに、バティニョール
派の絵も多く架かっていた。

 午後の予定もあり、この小さな美術館に想いを残し、ブーランヴィリエ駅へと向った。

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文明遺産の行方

2010年05月19日 | イギリス

 NHKの「クローズアップ現代」。
Photo  世界のニュースをタイムリーに、専門家の解に映像をえ判り易く説く。

 5月11日放送のテーマが、「 “文明の遺産” めぐる攻防」。

 メソポタミア、エジプト、インダス、黄河。
 いわずと知れた人類文明の先史、世界四大文明の発である。
 これらの文明にかかわる25の国が、エジプトの首都カイロに結集、ある決議をした、と番組は始まる。

 決議の主旨は、「植民地時代に旧宗主国など欧米諸国に持ち出された文化財を、一致団結して取り戻すこと

Photo_2  対象となった遺産とは、大英博物館(写真上)が所蔵する、古代王朝メンフィスでBC2紀に開かれた宗教会議の布告を書写したものとされるロゼッタ・ストーンや古代ギリシア・アテナイのパルテノン神殿を飾った彫刻パルテノン・マーブル、ルーブル美術館(写真中上)が所蔵する古代エジプト時代の貴重な天文図デンデラの黄道帯など26の遺産。

 国際会議が開かれた背景には、原産国が急速に経を遂げ、その声を現保有国の欧米諸国も無視できなくなったという、世界構造のパラダイムシフト、その時代や分野で当然のことと考えられていた認識や思想など社会全体の価値観が革命的もしくは劇的に変化したこと、にあると専門家は解説。

 番組は、鑑賞客で賑わうエジプト考古学博物館を映す。
 悲しくもそこにあるのは、ロゼッタ・ストーン(写真中下左)のレプリカ。原産国のエジプトにとって屈辱以外の何者でもないことは容易に理解できる。

Photo_7 Photo_8  画面は他にも、古代エジプト王ファラオ、ツタンカーメン母、ネフェルティティの胸像(写真中下右)を紹介する。
 この、謎を秘めた未完成の美しい胸像は、1912年ドイによって発見、今、ベルリン国立博物館が所蔵しているが、エジプトと100年に亘り所有権を争っていると言う。
 また、ロゼッタ・ストーンデンデラの黄道帯など、エジプ眠れる文化を発掘、解読したのはフランス。

 先史文明が残した財産、文化遺産は、人類共通財産なのか、それとも、原産国固有の財産なのか?と、番組は問う。 

 ベルリンで観光客の人気が高く、何時も混んでいるペルガモン博物館。
 ここが展示するゼウスの大祭壇(写真下)や古代バビロニアイシュタール門などに至っては、差し詰め奈良の大仏殿と南大門が根こそぎ移設されたようなもの。よくぞここまで持ち帰ったものと、良くも悪くも感心しないでもない。
Photo_9 また一方では、今ここにあるからこそ、この遺産の原形を留得たのだとも思え、それぞれの主張に一理があって難しい。

 ユネスコが、原産国現保有国の仲立ちをしているが、この年間で返還が実現したのは僅か5件と番組は結んだ。
ち なみにわが国は、原産国であり現保有国でもあって、曰く言難い立場にあるようだ。                                                       

 ところで、貴方は、どちらの主張に与されますか?

 返還リストに一番多く財産が並んだのが大英博物館とか。
 私たちも3回ほど訪れたが、人気のエジプトブース、小学生老人まで多くの鑑賞客で何時も溢れ返っている。
 この大英博物館、入館料が不要で、ドネーション・寄付で運営というのが幾らかは救いか?
 小ブログ、おかげ様で150回。ペトロ 少し浮かれて、随分と長くなってしまいまし

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