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ペトロとカタリナの旅を重ねて

あの日、あの時、あの場所で
カタリナと歩いた街、優しい人たちとの折々の出会い・・・
それは、想い出という名の心の糧 

幸福なるイタリア

2013年08月21日 | 大聖年イタリア巡礼

 00年のことだから、足掛け14年にもなる。
 大聖年に夙川教会のY神父様のお導きで、イタリア巡礼に参加する僥倖に巡り合えた。

 今、その “ 大聖年イタリア巡礼 ”、前の年(99)の “ ふたりだけのイタリア旅行 ” を織り交ぜながら、通り過ぎた小さな町のことを書いてきた。

 ローマ、ヴァチカンに始まり、これまで、スピーアコ、オルビエート、アッシジ、サン・ジミニャーノ、シエナ、フィレンツェ、ボローニャ、ラヴェンナ、フェラーラ、パドヴァ、ヴェローナ、マントヴァと巡礼や旅は続いた。

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 どの町も素晴しいけれど、やはり、ローマとヴァチカンをおいてこの国は語れません
 
この台詞、どこかで聞いたような? 映画「ローマの休日」だったっけ?
  ヴァチカンのサン・ピエトロ寺院(左/99)、同クーポラ(中/00)、スペイン階段バルコニー(右/05)です

 以前、<ドイツの町>の稿でも書いたが、ここイタリアのどの町も、歴史や文化を捨ててまでも大きくなろうとせず、個性豊かで美しい町を守っている。

 ルネッサンスの栄光を今に伝えるフィレンツェ、そのフィレンツェと覇を競ったピサ、よくも悪くもイタリアとイタリア人が凝縮したナポリ、そしてアドリア海の女王と謳われる水の都ヴェネツィア、そのヴェネツィアはまたの機会に。も美しい町だった。
 なお、フィレンツェ、ピサ、ナポリなどのことは、カテゴリー “ イタリア ” からお入り下さい。 

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 花の都フィレンツェ(左/99)、文句なしの天井のない美術館でした
 
ピサの奇跡の広場(中/05)、素晴しい景色を見せてくれました
 
そして、ナポリ(右/07)、少し猥雑ですが活気溢れる町でした
 
晴れた日、サンタ・ルチアから望むヴェスーヴィオ火山は優しい稜線を見せていました

 旅の案内書にこんな言葉が。
 それは、“ 幸福なるイタリアよ!そこでしか
愛がなんであるかわからない ” (スタンダール「ロッシーニの生涯」より)。

 大聖年イタリア巡礼、99年の旅ともども、カタリナ の古い銀鉛写真をデジタル化したくて長々とお付き合い頂いた。多謝である。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.691

 ※ 大聖年イタリア巡礼、前号「サンタンブロージョ教会」へは、<コチラ>から入れます。

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サンタンブロージョ教会

2013年08月20日 | 大聖年イタリア巡礼

 大聖年イタリア巡礼、そろそろ終わりに近づいた。
 ローマ時代の遺跡が数多く残り、また、ロミオとジュリエットの舞台となったヴェローナに別れを告げ、最後の巡礼の地、ロンバルディア州の州都ミラノへと入る。

 そのミラノ、これまでのアズーリ色の空とは打って変わったような、今にも泣きそうな雲が厚く覆っている。

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 北イタリアの優等生ミラノ、見所はやはり、ゴチック建築の華ドゥオモ(左/99)
 
ヴィットリオ・エマヌエーレ2世ガッレリア(中左/00)、それに、
 
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の「最後の晩餐」でしょうか(中右・右/99)
 

 だが、それらのことはこれまでにも書いた。
 で、ドゥオモとグラツィエ教会の中ほど、この町の守護聖人アンブロージョを祀る教会を最後に、この巡礼を締め括ることにしたい。

 その教会とは、99年のふたりだけのイタリア旅行で、訪ねることが叶わなかったサンタンブロージョ教会。

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 午後も遅く折からの雨空もあって薄暗く、全体に素朴な印象
 
小雨の中にひっそりと佇む姿に心癒されるものがあります(左・中/00)
 
天蓋の下にある祭壇は、キリストと聖アンブロージョの生涯が刻まれています(右/00)

 4世紀末に、聖アンブロージョにより創建されたミラノ最古の教会だそうだ。
 そんな印象をがらりと変えてくれるのが、サン・ヴィットーレ・イン・チェル・ドーロ礼拝堂。

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 案内人がライトを灯すとそれまでの印象は一変
 
礼拝堂の丸天井を覆おう黄金色のモザイク(左/00)に圧倒されました
 
グラツィエ教会で、「最後の晩餐」(中/99)に再会(右/00)

 99年、<3時間並んでようやく入場>を果たした教会付属の修道院の食堂も、グループだとあっけないほど簡単、その代わりと言っちゃ何だが、感激も半減??
  いやいや決してそんなことは、盛期ルネサンスの巨人レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519/イタリア)の「最後の晩餐」、紛れもなく世界の遺産でした。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.690

 ※ 大聖年イタリア巡礼、前号「城郭の町」へは、<コチラ>から入れます。

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城郭の町

2013年08月16日 | 大聖年イタリア巡礼

 ガイドブックにも載らない小さな集落スビーアコ。
 清貧、純潔、従順の理念のもとヴェネディクト修道会を創設した聖ヴェネットは、山深い人里離れたこの地で、厳しい自然と対峙、己を虚しくし神に仕えたという。

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 巡礼でもない限りここまでくる観光客はいないでしょう
 
方丈の一方が大きく開け放たれ谷を挟んで山が迫る修道院の小さな礼拝堂

 その小さな礼拝堂でミサに与った後、オルヴィエートに向かった。

 オルヴィエートは、丘の上の小さな城郭都市。
 バスは、丘の上まで入ることができないので麓で停る。
 バスを捨て古い城壁に沿って坂道を歩いたが、次第に私達一行の列が段々と長く延びていく。
 ちなみにこの巡礼では、アッシジ、シエナなど丘の上の城郭に囲まれた町を訪ねた。

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 城壁が途切れたところに小さな広場、レプッブリカ広場です
 
長閑な田園が小春日和のなかで煌めき呆れるばかりに素朴で美しい

 この町は、何処がメイン通りかと思えるほどの、小さな道が入り組んでいる。
 城壁に沿って、また路地らしきものを抜けると急に視界が開け、目の前に大きな建物が聳えていた。
 オルヴィエートのドゥオモ、カテドラーレである。

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 カテドラーレは壮麗な彫刻やモザイクがファサードを彩り美しい
 
ここに限らず、こんな小さな町にも立派な大聖堂が聳えています
 
そして、歴史の持つ重みと深い信仰心を感じさせられるのです

 カテドラーレの前でCFの撮影をしてい、その様子を眺めながらシャトル・バスを待つ。
 バスは5分くらいでフニコラーレ、ケーブル乗り場に着く。

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 フニコラーレで丘を下るとオルヴィエート駅です
 
余りにも素晴らしい天気で、些かグロッキー気味です
 
アッシジのシンボル、サン・フランチェスコ聖堂、夕陽に桜色に染まっていました

 ここからまたバスに乗り、一路、アッシジに向かう。
 バスの揺れに身を任せまどろんでいると、ガイドの声に起こされた。

 オリーブの木立を抜けバスは坂を登って行く。
 車窓からは、スパージオ山麓の小高い丘の上に城郭に囲まれた町が望めた。
 聖フランチェスコの聖地アッシジである。

 大聖年(2000年)イタリア巡礼、そろそろ終わりに近づいてきた。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.688

 ※ 大聖年イタリア巡礼、前号「サンタントーニオ聖堂」へは、<コチラ>から入れます。

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サンタントーニオ聖堂

2013年08月07日 | 大聖年イタリア巡礼

 学術と文化の香り高い町パドヴァ。
 黄昏迫るサンタントーニオ・ダ・パードヴァ聖堂へと向かった。

 さまざまな奇跡を起こし、13世紀にパドヴァで没した聖アントニウスを祭祀するこの聖堂、イタリアでも重要な巡礼教会のひとつとされているらしい。

 余談だが、この町の守護聖人聖アントニウス。
 3世紀にエジプトで生まれ、“アントニウスの誘惑” で知られている聖大アントニウスと混同していた。
 その辺のことは、09年の<秋色のアルザス>書いた。

 主祭壇は、ドナテッロ(1386-1466/ イタリア/ルネッサンス)のブロンズ、<ティントレット>(1518-1595/イタリア/盛期ルネサンス)らの作品で飾られている。

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  ドナテッロの「キリスト磔刑像」や「聖母子像」、素晴らしいものでした
 
 聖母子の椅子、古代神話で知識を象徴する二頭のスフィンクスを配しています

 ここには、聖アントニウスの聖遺物が安置してあり、また色彩の魔術師<ティツィアーノ>(1488-1576/イタリア/盛期ルネサンス)、信心会の若き日の作品もある。

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  この聖堂、八つのドームと鐘楼からなっています
 
 ロマネスク、ゴチック、ヴィザンチン、イスラムなどの様式が重なる特異な外観に驚かされます

 サンタントーニオ聖堂の礼拝堂でミサに与る。
 ちなみに、今回の巡礼の同行司祭 Y 神父様の霊名がアントニウス、心なしか司式にも力が入っていたように見受けたのは穿ちすぎ?

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  折から教会の鐘楼、五時を告げる鐘が鳴り響いていました
 
 シャトルバスで新市街で待つ巡礼団のバスに向かいました

 サンタントーニオ聖堂の横手、サント広場から望む教会の横顔が、東方の影響が色濃いヴェネツィア、サンマルコ寺院と雰囲気が似ていて、パドヴァとヴェネツィアの距離が近いことを窺がわせる。

 バスの車窓から眺める教会のファサードや葱坊主の形をした白亜のドームが夕陽を受けて佇む姿は、ここがイタリアであることをしばし忘れさせる景色でもあった。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.681

 ※ 大聖年イタリア巡礼、前号「スクロヴェーニ礼拝堂」へは、<コチラ>から入れます。

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スクロヴェーニ礼拝堂

2013年08月06日 | 大聖年イタリア巡礼

 長靴に似た国イタリア、その最北部ヴェネト州。
 この州と言えば、アドリア海の女王、夢の浮き島とも称えられるヴェネツィア。

 そのヴェネツィアから特急列車インテルシティで僅か30分、世界的に名の知られた水の都の陰で忘れられがちな町がパドヴア。
 余談だが、この巡礼ではヴェネツィアへは半日の自由参加だったのだが、他に行きたいところもあって不参加、この美しい町のことは番外編として後日紹介する。

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 水の都ヴェネツィア、カナル・グランデ・大運河(99/左)を行くゴンドラ
 
サン・マルコ寺院の鐘楼(99/中)からの眺めです
 
 パドヴアのサント広場、後ろの葱坊主がサンタントーニオ聖堂(00/右)

 学術と文化の香り高い町だそうで、かつて、ガリレオ・ガリレイが教授として招聘され、遅れてダンテやペトラルカが講義したと言う、ボローニャ大学に次いでイタリアで2番目に古いパドヴァ大学がある。

 さて、巡礼の一行が最初に向かった先は、スクロヴェーニ礼拝堂。
 駅から目抜き通りを真っ直ぐに南下、大きな運河を渡ると緑に覆われた公園があって、古代ローマの遺物が展示されている市立博物館がある。

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  その公園の一角、ロマネスク・ゴシック様式のスクロヴェーニ礼拝堂(左)
 
 13世紀初頭にエンリコ・スクロヴェーニが建立したのだそうです
 
 博物館への通路(右)

 この市立博物館の絵画館、パドヴア派やヴェネツィア派の作品が数多く展示してあり必見とのことだが、巡礼団は勿論、寄ってくれない。

 礼拝堂へは博物館から入場するようになっていて、一度に入場出来る人数も制限されている。
 99年ミラノのグラツィエ教会のダ・ヴィンチ(1452-1519/イタリア/盛期ルネサンス)の傑作「最後の晩餐」と同じ拝観方法で、湿気などに弱いフレスコ画保存のため仕方がないようだ。
 当時、修復中の堂内には一部足場が組まれていたが全てを見ることができた。

 この礼拝堂、天井から壁面一杯にフレスコ画で彩られている。
 壁画連作群のテーマは、ヨアキム伝、聖母マリア伝、キリストの生涯、善徳の寓意像、悪徳の寓意像、そして、最後の審判。
 絵画の祖とも呼ばれるゴシック絵画期最大の巨匠、ジョット・ディ・ボンドーネ(1267-1337/イタリア/ゴシック)と彼の工房の作である。

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  まず「ヨアキム伝」から、ヨアキムとは聖母マリアの父、マリアの母アンナの夫
 
 妻アンナが、聖母を授かると宣告する天使の夢をヨアキムが見る場面を描いた「ヨアキムの夢」(左)
 
 ヨアキムとアンナは金門の前で再会、マリアの懐胎を抱擁と接吻によって喜び合う「金門の再会」(右)

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 「キリストの生涯」の「カナの婚礼」(左)の場面
 
 水をワインに、キリストの最初の奇蹟として知られています
 
 「ユダの裏切り」(中)の場面、解説は要りませんね
 
 凛とした主と歪む弟子の表情など、連作壁画の中でも特に優れた作品とされています
 
 全部で38の場面が天井から壁面を覆う礼拝堂(右)です

 アッシジの聖フランチェスコ教会に残る彼の初期作品に比べると、格段に技量が進んだことを窺わせる。
 写真が撮れないので、市立博物館のショップで買ったガイドブックからその一部(部分)を拝借した。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.680

 ※ 大聖年イタリア巡礼、前号「ルネッサンス都市」へは、<コチラ>から入れます。

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ルネサンス都市

2013年08月02日 | 大聖年イタリア巡礼

 ルネサンス期にフェッラーラ公であった、エステ家の擁護によって華やいだ宮廷都市フェッラーラ。
 この町、ルネサンス都市とも呼ばれているが、なぜそのように呼ばれるようになったのか?

 話はここから始まる。
 この町に転機が訪れたのは、北イタリア一帯を領有するエステ家が統治するようになってからのこととか。

 15世紀の終わり、当主エルコレー1世は建築家ビアージョ・ロセッティに大規模な街の改造を命じた。
 ロセッティは、当時フィレンツェで開花していたルネサンス様式に倣って設計したとされ、この町がルネサンスの都市計画にもとづき整備された、また、その景観美と有する機能性から、ヨーロッパ初の近代都市と謳われる所以とか。

 前書きが長くなったが、町の中心にあるのが、現在は一部が市庁舎として使われているエステンセ城

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 エステ家の居城エステンセ城、四方を掘りに囲まれ、跳ね橋を渡って入城します
 
イタリアでは珍しく濠に満々と水がありました

 ここには、フィリッポ・リッピ(1406-1469/イタリア/初期ルネサンス/フィレンツェ派)やフィリッピーノ・リッピ (1457-1504/ルネサンス/フィレンツェ派)親子のフレスコ画や空中庭園があるのだが、残念ながら休館のため入場が叶わなかった。

 また、城の前には、フィレンツェでキリスト教の堕落を追及したドメニコ会の修道士で、禁欲的な生活を説いたサヴォナローラの像がある。

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 サヴォナローラは、終生ローマ批判の舌鋒やまず最後は処刑されたそうです
 
生まれ故郷のフェッラーラの市民からは大変慕われているそうです

 城の中を素通りし、市庁舎の前からカテドラーレ、大聖堂へ。
 カテドラーレは、ロマネスク様式とゴシック様式がミックスしたロンバルディア様式の大聖堂。

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 12世紀に完成したカテドラーレ、大理石のファサードが素晴らしい
 
後陣部分は15世紀末にビアージョ・ロセッティが手がけたものとか

 余談だが、酢の王様と称されるバルサミコ。
 このバルサミコ酢の醸造の歴史は以外に古く、12世紀頃からエミリア・ロマーニャ地方のモデナ公としてもこの地を支配していたエステ家が、諸外国の国王や貴族達を招いた際に振る舞いに使ったとか。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.678

 ※ 大聖年イタリア巡礼、前号「モザイクのある町」へは、<コチラ>から入れます。

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モザイクのある町

2013年07月22日 | 大聖年イタリア巡礼

 エミリア・ロマーニャ州の州都ボローニャ。
 その隣町?アドリア海に面した町ラヴェンナ、99年に続いて大聖年のイタリア巡礼で訪ねた。

 東西に分裂したローマ帝国の境界辺りにあって早くから発展を遂げ、5世紀初め西ローマ帝国の世紀末にはテオドリック王の東ゴート王国の首都に。

 さらに6世紀半ばに、東方のヴィザンチン帝国の治下、総督府が置かれ栄えたという。
 この時代に生まれたモザイク美術の傑作が教会などの壁を飾り、ヴィザンチン文化の華やぎを今に残す町である。
 ちなみに、モザイクとは1cm四方の石を彩色し埋めこんだもので、驚くほど精緻である。

 ラヴェンナは、フィレンツェを追放された大詩人ダンテが、この地で「神曲」を書き上げ没したとされている。
 彼はこの「神曲」の中で、この町のモザイクを、“色彩のシンフォニー” と賞賛したそうだ。

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 アドリア海の陽光を受けて眩しいほどに明るい町でした(左三枚/99)
 彼の死後500年も経った18世紀末に建てられたダンテの墓(右/99)です
 
中はがらんとしていて、余り面白くありません

 余談だが、ガイドはヘンな日本語を巧みに操るイタリアのおばさんでなんと二度目、この町の日本語ガイドは彼女しかいないのかな?
 その後、サン・ヴィターレ教会の隣にあるサンタ・マリア・マッジョレー教会で、年間第24の主日ミサに与る。

 ミサの後、ラヴェンナで最も古いモザイクとされるガッラ・プラチーディア霊廟へ。
 西ローマ帝国の皇帝ホノリウスの異母妹ガッラ・プラチーディアが、異民族の度重なる侵入に疲弊しきっていた西ローマ帝国を信仰で守ろうと聖堂建設に乗り出したという。
 それはあたかも、滅亡寸前の西ローマ帝国が最後に耀いた時ともされている。

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 その一族を葬ったとされる霊廟、ガッラ・プラチーディア霊廟(左)です
 
壁から円天井(中)までを覆い尽す深い青を基調にしたモザイク
 
左右に設えられた小さな窓からの淡い光に煌めき、まさに、幽玄の世界です
 
その窓は、外光を和らげるために雪花石膏、アラバスターが施されていました

 霊廟と同じ敷地にある、ヨーロッパでも有数のヴィザンチン芸術の傑作・至宝を有するサン・ヴィターレ教会へ向かった。

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 キリスト教で新しい創造を表す “8” の数字で象られた八角形の教会です
 
煉瓦を組んだだけの何の装飾も施されていない素朴な外観ですが・・・
 
その内陣はと言えば、天井や壁は言うに及ばず床に至るまで全部モザイク
 
一角には、イサクの犠牲(右/99)など旧約聖書の物語性の高い一場面が描かれています

 精緻な装飾で覆い尽くされ驚くばかり、これぞまさにヴィザンチン芸術の真髄が今に遺されていて、何度見てもその素晴らしさ、感動は色褪せない。

 聖堂正面には、キリストが聖ヴィタリス=ヴィターレと大司教エクレシウスを従える様が描かれている。

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 中央には草花の繁る楽園に座するキリスト(左)
 
向かって右には、テォドーラ皇后と女官たち(中)が
 
左には、東ローマ帝国の最大の版図を築いたユスティニアヌス帝とその廷臣たち(右)が

 この後、グループツアーだから仕方がないのかも知れないが、ヘンなガイドのおばさんの店で貴重な時間をつぶした。
 所作もなく店の先の小さな十字路辺りでぶらぶらしていたら、昨年、角の薬店でカタリナ のマスクを買ったことを思い出し笑ってしまった。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.669

 ※ 大聖年イタリア巡礼、前号「イタリアの赤い街」へは、<コチラ>から入れます。

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イタリアの赤い街

2013年07月21日 | 大聖年イタリア巡礼

 二週間余にわたって繰り広げられた選挙、新聞調査に拠れば与党圧勝の気配だそうだがその原因は明らか。
 労組役員上がりが跋扈する前与党、政治家以前、資質もなにも余りにも粗末だったがためのこと。
 批判票を集めそうなのが赤い旗の党のようだが、隣の紅い国がおぞましくて一票を託すにはどうもとも思う。

 字は違うけれどイタリアにも “赤い街” と呼ばれる町がある。
 ヨーロッパ最古の大学、ボローニャ大学で有名なエミリア・ロマーニャ州の州都ボローニャである。
 かつて、イタリア共産党がここで勢力を伸ばしたことから、赤い街と呼ばれているとか。

 町の中心マッジョーレ広場に面したポデスタ宮の一階部分は、ボルティカと呼ばれる柱廊になっている。
 ところで、斜塔といえば<ピサ>、ボローニャにも斜塔があることをこの大聖年の巡礼で初めて知った。

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 至る所ボルティカで結ばれているボローニャの町(左/中)です
 
アジネッリの塔により添うようにガリセンダの塔(右)があります

 今もイタリアの各所に残る皇帝派と教皇派の権力争い。
 競って高い塔を建てた名残らしいのだが、今、アジネッリと背の低いガリセンダの二本の塔が残っている。

 マッジョーレ広場の前のサン・ペトロニオ聖堂は、14世紀の建築家アントニオ・ディ・ヴィンチェンツォの設計になる教会。
 ローマのサン・ピエトロ大聖堂を陵駕する聖堂になる計画だったが、実現せず今日に至っているとか。
 広場にはボローニャのシンボル的存在、海神ネプチューンの噴水がある。

 この町はまた食通の天国としても知られ、お馴染みのミートソースのスパゲッティ、ここで作られ始めたマッケローニ・アッラ・ボロニェーゼのことだそうだ。

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 サン・ペトロニオ聖堂(左二枚)のファサードは未完のままとなっています
 
セイレーンが豊満な乳房から水を吐き、些か妖しげな雰囲気を漂わせています
 
噴水の傍らを通りレストラン(右)で昼食、マッケローニ・アッラ・ボロニェーゼが出ました

 話は戻って、少なくとも六年間もの長い間、暮らしを任せる訳だから、ここはしっかり国民の権利、低投票率が予想されそうなのであえて国民の義務と言う、その義務を果たさなければ。
 我が選挙区、知事選ともども詰まらない人ばかりが顔を並べていると雖もである!
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.667

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マントヴァ

2013年07月17日 | 大聖年イタリア巡礼

 マントヴァは、14世紀にこの地を支配したゴンザーガ家の庇護によりルネッサンス期に華開いた町。
 スペリオーレ湖、メッゾ湖、インフェリオーレ湖の三つの湖に囲まれた静かな町である。
 
 驚くほど静かなマントヴァ駅から歩いて10分ほど、オフイス街を抜けると旧い建物に囲まれたエルベ広場に着いた。

 エルベ広場の一角に建つのがサンタンドレア教会。
 
左側廊の最初の礼拝堂には、この町の生まれで、降架後横たわるキリストを足下からという独特の構図で描いた 「死せるキリスト」(ミラノ・ブレラ美術館蔵)を描いたアンドレア・マンテーニャ(1431-1506/イタリア/初期ルネサンス・パドヴァ派)の墓となっている。

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 エルベ広場の一角にサンタンドレア教会があります
 教会の向かいに円形のサン・ロレンツォ礼拝堂があります

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 ロマネスク様式の礼拝堂の内陣、薄暗く素朴な佇まいでした
 エルベ広場から凱旋門ボールト・ディ・サン・ピエトロをくぐると敷石のソルデッロ広場です

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 ソルデッロ広場の突き当たりにドゥオモがありました
 
正午になると閉まってしまうので急ぎ堂内へ入り、祈を捧げました
 
広場の右手はゴンザーガ家の富と力の象徴ドゥカーレ宮です
 エルベ広場のカフェ・テラスでランチです

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 抜けるような青空のもとで飲むビールは格別でした

 この町で日本人に出会ったのは、凱旋門の所で新婚と思しき二人連れのみ。
 ヴェルディのオペラ 「リゴレット」の舞台となったこの町、イタリアとドイツからの観光客が多いのが特徴なンだそうで、日本人観光客、よほどの変人じゃなければここまで来ないらしい。
 とまれ、しばし巡礼団から離れ、初秋の小さな旅を楽しんだ二人だった。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.664

 ※ 大聖年イタリア巡礼、前号「わがままな旅行者」へは、<コチラ>から入れます。

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わがままな旅行者

2013年07月15日 | 大聖年イタリア巡礼

 少なくとも本人、つまり、ペトロ は決して思っていない。
 なにをだって?そう、自分が変人であること、ましてや奇人なんぞでは断じてないと。

 大聖年の巡礼、九日目のこの日の午後、ヴェローナの町を見学する組、少し遠いがヴェネチアまでエクスカーション、遠足をする組の二手に分かれることになっていた。

 で、ペトロとカタリナ、どちらを選んだのか?
 十二日間の巡礼中、四度、正確には五度だけ?団を離れて行動した。
 最初はローマ、大聖年巡礼の目的のひとつが、ローマ四大バシリカの聖なる扉・ポルタ・サンタ、25年に一度の聖年のみ開かれる。をくぐること。

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 最初は、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ教会と聖なる扉(左二枚)です
 ヴァチカンに教皇庁が移る14世紀までの約1000年間、カトリックの中心だったそうです
 
聖パウロ殉教の地に建てられたとされるサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ教会(右二枚)です

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 そして、聖母マリアに捧げられた最初の大聖堂サンタ・マリア・マッジョーレ教会(左二枚)です
 
四大バシリカの最後は、いわずと知れたサン・ピエトロ寺院と聖なる扉(右二枚)です

 その後、土産物店に寄ってホテルへと言うので、「そんな詰まらんことを」と団を離れ、初めてのローマで登ることが叶わなかったミケランジェロ設計のクーポラ、予ねてから一度は登ってみたいと思っていた。
 これは、決してわがままではないと思うのだが、多分?

 中階までエレベータで昇りクーポラに入ると回廊がある。
 そこからが大変、当然のこととして階段が延々と続くのだが、初めのうち真直ぐで幅もあった階段、登るにつれ円蓋に沿うため次第に狭くなり斜めに傾いでくる。
 最後の胸突き八町を越え、径の狭い廻り階段を気息奄々登り切ると急に目の前の視界が開けた。

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 回廊からは、聖ペテロの司教座のある中央祭壇(左)を俯瞰することができます
 
そこから聖堂の屋上(中・右)、売店があって結構広い。に出ますが、ここからいよいよクーポラに入ります

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 晴れ渡ったローマの街を俯瞰するこの気持ちの良さ、右も左も、表(左)も裏(右)も?堪能
 
頬をなでる風が頗る爽快、360度、ローマのパノラマを心ゆくまで楽しみました

 寄り道がひどいようだ、話を戻す。
 二度目はヴァチカン、数万人の信徒と一緒に教皇の謁見に与ったことは以前書いた。
 その後、どうしてもサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会の聖ペトロが繋がれた鎖、そして、ミケランジェロの「モーゼ像」が見たかった。

 ちなみにこの教会、到着したのがシエスタ?の真っ最中、門前で1時間以上も待たされた。
 ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会で3時間待った「最後の晩餐」、ヴァチカン博物館の城壁に沿ってうんざりする程長い間並ばされた「システィーナ礼拝堂」、わがまま旅行、個人旅行の代償でもある。

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  随分と待たされました(左)
 ♪ 何を差し置いても「聖ペトロが繋がれた鎖」(中・右)、これを見ずして・・・、です
 
サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリとは、鎖に繋がれた聖ペトロという意だそうです

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 主祭壇の傍らにある「モーゼ像」、想像を超える大作でした
 
法王ユリウス2世の霊廟のため作られたものとか、カタリナ、ペトロのため献灯です

 前後するが、四度目がフィレンツェ、ウフィッツィ美術館が予定されていてもう一度とも思ったが、それよりも行きたいところがあった。
 まず、ドゥオモの隣にある貴金属店の「トリーニ」、中央駅からすぐの「サンタ・マリア・ノベッラ教会薬房」、再びドゥオモ広場裏手の「ドゥオモ美術館」である。

 五度目の離団がミラノ、大方の人はミラノの北、湖水地方はコモ湖の見学に向かったが、スフォルツァ城のこれまたミケランジェロが死の数日前まで大理石に刻んだとされる「ロンダニーニのピエタ」がどうしても見たかった。
 彼が、生涯に四体の<「ピエタ」>(下線をクリックして下さい)を刻んだことはこれまでに書いた。

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 フィレンツェのドゥオモ博物館の「フィレンツェのピエタ」(左)です
 
サン・ジョヴァンニ洗礼堂の東の扉、別名「天国の門」のオリジナル・レリーフ(中)です
 
ミラノのスフォルツァ城内の市立博物館の「ロンダニーニのピエタ」(右)です

 そして、三度目が今回の舞台のヴェローナ。
 このときは別に見たいもの行きたい所が格別にあった訳ではない。
 朝飯から夕飯まで顔突き合わす団から少し離れ、出来ればローカル電車の旅がしたかっただけ。
 えっ、それだけでもうわがままそのものだって、そうかなあ?

 話がそれたよう、マントヴァに向かう電車に戻そうと思ったが、ローマだけで少し?紙面を食っちゃったので、とりあえずここで一旦置く。
 文章が長いのは下手な証拠だって、お許しあれ。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.662

 ※ 大聖年イタリア巡礼、前号「イタリアの小さな町で」へは、<コチラ>から入れます。

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