ペトロとカタリナの旅を重ねて

あの日、あの時、あの場所で
カタリナと歩いた街、優しい人たちとの折々の出会い・・・
それは、想い出という名の心の糧 

まさか?‐ 7月がゆく

2011年07月30日 | 季節/暦

 努めて散歩に出るように心がけてきた。
 最近、それも段々と億劫になり、寒い、暑い、雨が降りそうなどと、気持ちに折り合いをつけ避けてきたようで按排がよろしくない。

 Photoカロリーの需給不均衡だ、多分?! リタイヤ前後から望みもせんのに<お腹がぽっこり>。
 ブログのアップやリライトで深夜にPC、その反動の朝寝坊、まるで、盗人に追い銭ならぬメタボに油物の風?

 最近、とみに貫禄がついて、「こりゃあかん、一緒に散歩」と持ちかけても、「お独りでどうぞ」と冷たくあしらわれたのが7月の初め。
 この時期、昼日中の老人の散歩は、新田次郎さんの「八甲田山死の彷徨」じゃないが、“ 甲山死の徘徊 ” になり兼ねない。で、早朝ならばと言う訳。

 西宮神社、夙川公園、広田神社、酒蔵通りなど、コースを幾通りか決め、「今朝はどのコースにすべえ?と、お利口さんにも今も続いている。

 21ただ、走るでもなく早足で歩く訳でもなく、行き倒れて世間様にご面倒をお掛けするのは何とも忍びなく、携帯電話片手にだらしなくものらくら歩き。
 汗を滴らせ走り抜ける真面目氏の視線が、ちょっぴり小馬鹿にしている風に見えるは僻目?

 この散歩で驚いたのが、実に朝早くから働いていること。
 新聞配達、卸売市場、近辺の喫茶店、コンビニにファストフード、商品搬入の車などなど。
 たまに、朝帰りらしきうら若き女性に出会ってドキッとするおまけも?

 卸売市場(写真上)に至っては、歩き始める5時には、一仕事終えたような雰囲気すらあって、「一体、何時からお働きで?」と問いかけたい気にもなる。

  Photoぶつくさと独りごつ歩く爺さん、我ながら不気味な散歩から帰り、シャワーを浴びて朝食の前に血圧測定。
 日々これ不摂生に努めていた?働き盛りの頃の200‐100が、<節食と薬と適度な運動?>の相乗効果なのか120 ‐ 60台に!

 天声人語氏によれば、“ まさか ” のノルウエーの銃乱射事件と “ やっぱり ” の中国高速鉄道事故。
 早朝散歩、その “ まさか ” の結果をもたらしつつあるが、俄かには信じられなくて困っている。

 散歩の途中、見かけた「撫子」と「無花果」(写真中)、そして、酒蔵通りの「今津小・六角堂」(写真下)、明治15年に建てられたという。

 そんなこんなで、文月・7月もゆくようで。
 Peter & Catherine’s Travel Tour No.358

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荊の冠の教会 ‐ ピサ(2)

2011年07月27日 | イタリア

 造船技術が発達した11世紀頃のこと。
 パレルモ沖の海戦でイスラム軍を撃破したピサは、西地中海の覇権と東方貿易の利権を獲得、十字軍にも参加し商圏をさらに東方に拡大。

 大聖堂の建設は、戦勝や交易で得た莫大な富をもとにこの頃に始まった。

 Photoしかし、この街にはアルノ川の運行権を狙う上流の都市フィレンツェと東方貿易の利権を争う海運都市ジェノバという、陸海両面に敵があった。

 1284年、ジェノバとの海戦に大敗。
 同じ頃、追い討ちをかけるようにアルノ川口への土砂の堆積が進み、地理的にも海から遠ざかってしまったピサは衰退の一路を辿り、ライバル、フィレンツェの支配下に。
 こうして、ピサはその栄光の歴史に幕を降ろしたという。

 駅前広場に降り立つと、これぞまさに「アズーリ、空色」「今回の旅で一番」、ピサは真青な空に覆われていた。

 街の真んPhoto_2中を流れるアルノ川が、新市街と旧市街に分けている。
 駅前からまっすぐ川に向かって歩くと10分ほどで河畔に着いた。
 目指すはサンタ・マリア・デッラ・スピーナ教会、通りがかった年配のふたり連れ、多分ご夫婦に、「スピーナ教会は何処にありますか?と訊ねている。この二人連れ、親切にも「連れていってやるから着いてこい」と言う。

 川の傍らの小さな教会(写真上)の屋根からは、数多くの棘?が突き出ていた。
 かつて、ここにイエスが被らされた、“ スピーナ・荊の冠 ” が奉納されていたことからこの名前が付いたとのこと。

 アルPhoto_3ノ川に接したゴシック様式のこの小さな教会、屋根に針のような尖塔、側壁には彫刻やレリーフが繊細なまでに施され目を見張る。
 扉、アーチ、そして、バラ窓がそれぞれ小さくふたつ、シンメトリーにあって可愛い。

 ところで、三方の何処を探しても扉が固く閉じられている。
 諦めかけた時、自転車に乗った若い女性が来て、「今、扉を開ける」と言う。

 小さな扉から入ると、そこは、幾何学的な線が美しい梁に支えられた格天井(写真中)の御堂、外観にもまして、さらに小体で簡素な祭壇に聖母子像(写真下)があった。

 聖遺物・荊の冠、「ほんまにここに」「あったの?と疑うほどに小さな教会、小さな展覧会の最中らしく、絵が飾られていた。
 Peter & Catherine’s Travel Tour No.357

 ※「旅中の遠足 ‐ ピサ(1)」へは、<コチラ>からも入れます。

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旅中の遠足 ‐ ピサ(1)

2011年07月25日 | イタリア

 フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ駅。
 大きな駅前通りを挟んで、同名のサンタ・マリア・ノヴェッラ教会と向き合う。
 空の玄関<ペレトラ空港>と並ぶフィレンツェの玄関口(写真上)、早朝から多くの人が行き交っている。

 この日これから、古代ローマ時代の軍港で13世紀まで海運都市国家として栄えたピサへ、ローカル線で1時間の短い旅をする。

 Photo斜塔で有名なこの街、さほどの関心もなかったのだが、ドゥオーモ広場一帯が世界遺産に指定されたのを機に、「話の種にやね」「一度は行っても」程度の思いはあった。
 02年のフィレンツェの旅の途中、その1日をピサへの遠足にあてた。

 さて、私たちが乗る電車は?と、パタパタ?の表示板を見上げるも「さっぱり判らん」。
 で、通りがかりの人に尋ねると、「ルッカかリボルノ行きに」と教えてくれた。

 後日、リボルノはピサの南にある港町で、ルッカはピサの北にあるトスカーナ州の州都だと分かった。
 ちなみに、城郭都市ルッカで、“ オペラ・蝶々夫人 ” の作曲家プッチーニが生まれたとか。                                                                               

 行き先ぐらPhotoい前以って「調べとけよな」とは思ったが、「誰に言ってるの?と倍返しされそうで、勿論、黙っておいた。

 そのピサに向かう電車、発車まで5分ほどしかなく、しかも構内案内図で確かめるとホームは一等左端の奥まったところ。

 人混みを掻き分けホームを走るものの寄る年波、息も上がり、「もうこの辺で!と叫ぶ声が後ろから聞こえる。
 間一髪とはこのこと、飛び乗ると同時に電車は動き出した。

 車内は満員、なのに何故か、お婆ちゃんがひとりで座っている三人掛けの席が空いている。優先席だったのかな?「ミ・スクージ、失礼しまっさ」と声を掛けやおら腰を降ろし、流れ落ちる汗をぬぐう。

 電車は、アルノ川に沿ってトスカーナの起伏のある谷間を縫って走る。
 汗も引き、落ち着いたところで朝日新聞を読んでいると、物珍しいのだろう、「シゲシゲ」とお婆ちゃんに眺められてしまった。

 そうこうしているうちにピサ中央駅(写真下)に着いた。
 Peter & Catherine’s Travel Tour No.356

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ふたつの展覧会(後)

2011年07月22日 | 美術館 (国内)

 思いの外、多くのギャラリーを引き付けていた青木繁展。
 若かりし頃に深い感銘を受けた作品が、時代の流れとともに受け止め方がこんなにも変化することに驚きながら、会場を後にした。

 2_21_3もうひとつの美術展は、道隔てた市立美術館(写真上)で開かれている、“ フェルメールからのラブレター展
オランダ絵画黄金期の画家ヨハネス・フェルメールの絵の中から、“ 手紙 ” という題がついた三作品を並べたもの。

 今回来日した、<ワシントン・ナショナル・ギャラリー>の「<手紙を書く女>」と<アムステルダム国立美術館>の「<手紙を読む青衣の女>」は旅先で出会った。

 また、アイルランド・ナショナル・ギャラリーの「<手紙を書く女と召使>」は、08年に東京・上野で開かれた<フェルメール展>で観た。
 これら三作品、何れも再見だが、初見とはまた違った満足感が得られた。

 この企画展、三作品に抱き合わせに、同時代のフランドルの画家たちの風俗画、特に、農村や酒場などでの非道徳的な日常を、陽気な筆致で描いたヤン・ステーンなど、40点ほどが架かっていたが、もともと興味がなく、流し見で早々に退散。

 Photo_4ところで、フェルメールは生涯に30数点の絵を遺したという。

 まだ観ていないのは、イギリス王室コレクションの「音楽の稽古」、ロンドン郊外のケンウッド・ハウスの「ギターを弾く女」、あと1990年に盗難にあってまだ見つかっていないボストンのイザベラ・スチュアート・ガードナー美術館の「合奏」の3点だけになった。

 特に、「ギター――」には、最寄の地下鉄駅スイス・コテッジ(写真下)まで行きながらも、そこからケンウッド・ハウスへの一日一便のバスに乗り損ね、歩けば小一時間ほどもかかるらしい山道に怖じ気をふるい、ブラック・キャブは来ず、「もういい!と気短の連れもいて断念、悔しい思いを残した。

 盗難にあった絵は警察が見つけてくれることを祈るのみ。
 イギリスの2枚は、何時かの出会いを夢見ているが、わざわざ飛行機に12時間も揺られて出向くほどの熱意も今はなく・・、「向こうから来てくれないかなあ」(
 Peter & Catherine’s Travel Tour No.355

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ふたつの展覧会(前)

2011年07月20日 | 美術館 (国内)

 第一週の火曜日、この日、稽古はお休み、京都・岡崎で開催中の展覧会にペトロ を誘った。

 地下鉄東山駅から、梅雨明けも近いことを窺わせるカンカン照りのなか、白川沿いに続く路地を、木陰を縫うように歩いて美術館に向かったのは、昨年の今頃だったか、<ボストン美術館展>と同じ。
 Photo_4改めて時の流れを思った。

 まずは、国立近代美術館の青木繁展、閉会近いせいか思いの外入場者が多い。
 没後100年を機に、“ よみがえる神話と芸術 ” と銘打たれた個人展、彼の絵とは、昨春、<大原美術館>のコレクション展以来のこと。

 この企画展、僅か15年の短い画業の中で、440点ほども描いたという彼の油彩や水彩、素描など230点余りを出展、ボリュームとしては十分。
 会場に入ると、正面に「わだつみのいろこの宮」(写真上)が迎える。

 海をモティーフにした油彩が多く並んでいた。
 勿論、代表作「海の幸」なども架かっていたが、好きな絵を見るときに何時も感じる高揚感が、なぜか湧かない。
 日本人の中ではすごく好きな画家のひとりだった筈なのに、「どうしたこと?」と自分に問うてみる。

 代表作の二点以外、迫ってくるものを感じたのは、「女の顔」(写真下右)くらい。
 ちなみにこの女性、彼(写真下左:「自画像」)の恋人で、「海の幸」にも描かれている福田たね。

 ペトロでさえ、「これだけ暗い絵を見せられると気分が沈む」と素朴な感想を述べていて、珍しく? 同感できる。

 21考えてみると、彼の絵に魅せられたのは20代の頃だから随分と昔のこと。
 自分の持てる物は何かと悩みながらも、それでも根拠の無い自信のようなものもあって、こんな筈ではない、いや、努力が足りないのだとか、しばしば葛藤に苦しんだ時期だった。

 彼は、東京の美大に入学してから10年足らず、家庭の事情で久留米に帰郷、九州を転々としながら制作を続けた。
 中央画壇への復帰という飽くなき願望のうちに、西海の地で短い生涯を終えた。

 彼の、「なぜ認められないのか」という懊悩が、当時の悩み多き自分と重ね合わさり、不遇のうちに夭折した画家に、過剰に魅せられたのかも知れない。

 そんなことを考えさせた展覧会だった。(
 Peter & Catherine’s Travel Tour No.354

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勘違いな人 ‐ 散歩道

2011年07月18日 | 散歩道/山歩き

 自宅の近くに、図書館の分室があることを知った。
 収蔵する本は少なく、図書館としての機能は体していないが、予約した本の受け取りや返却には一向に差支えがないので、最近はこの分室を利用している。

 と言うことで、この頃、とんと無沙汰になったのが中央図書館。
 阪神香露園駅の南、オアシス・ロードの傍にあって、散歩がてら度々利用していた。

 つい先頃、久し振りに夙川の土手道? 失礼オア2シス・ロードだった。を散歩、その日余りに暑く、冷房に誘われ図書館に逃げ込んだ。
 書架の新聞と週刊誌を手にソファに腰を下ろしたものの、節電とやらで昨夏ほど涼しくなく、ぬるいといった具合が返って塩梅がいいのか睡魔が・・・、しばし、まどろんでしまった。

 小半時も経っただろうか、目覚めも爽やかに? これから「どうすべえ?とぼんやりしていると、カウンターで司書さんが200ページほどの本を、一枚一枚捲っては右手をもそもそと動かしている。
 それも、時たま溜息らしきものをつきながら、倦むことなく作業を続けている。

 「何をなさって・・?と声をかけると彼、苦笑交じりに、「書き込みなんです」と言う。
 ご丁寧にも、ほぼすべてのページに、鉛筆で書き込みや傍線が引かれているらしい。

 Photo貸出しリストで誰か判るンでしょ?言ったら、予測は付いても、「証拠がないので」とがっくりとした様子。

 以前、書き込みが残る古本、<痕跡本>が人気あるらしきこと小ブログで書いた。

 自分の本に幾ら書き込みをなさろうが、ご随意に!だが、公共図書には頂けない行為。

 カタリナ に、この御仁、自分を教養高き人物だと「勘違いしてるンやろね、きっと」と、したり顔で話題にしたら、「ペトロも気を付けてね」だって。

 白いカラー>とは違った華やかさの、「黄色いカラー」と「矢車菊と柳花笠」?の組み合わせ。 
 バーベナ属の柳花傘、もう少し時間が経てば、小さな花弁がいくつも重なり、傘のようにこんもりとなるそうな。
 
Peter & Catherine’s Travel Tour No.353

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夏の点前

2011年07月15日 | 宗幸雑記

 夏の暑い時期だけする点前がある。
 冷房が効いた部屋では、お客に涼を感じて頂くための工夫など、風情を味わって貰う楽しみ、残念ながら少ないだろうなと思う。

 昔、習っていた先生のお宅では、夏になると葭戸に換わるものの、釜の湯を沸かす炭は燃えていて、そんな中で正座をしていると、「心頭滅却すれば火もまた・・」なんて言われても暑い。

1_6 そんな日に、大きな平らな水指の蓋を取ると一杯に張った水が見え、それだけで、心なしか部屋の温度が下がったように感じたものだった。

 井戸水を汲む釣瓶が、釣瓶水指として使われることもある。
 熱い釜の横にしっとりと濡れた釣瓶水指を置く、これだけの演出に涼を感じほっとする。
 この水指、利休の師武野紹鴎が、水屋道具として木地で使い出したのが始まりと伝えられている。
 これを利休は、茶室で水指として使った。裏方の道具が表舞台に出てきた訳だ。

 3_844_3釣瓶水指に注連飾りを廻し、名水を張り名水点(だて)をすることもある。
 美味しい水を味わってから、この名水で点てたお茶を喫するのだが、わ                                                                            が老師はこのとき水指に氷の塊を入れて下さった。
 暑い席でひんやりとした水の味が格別で、ほのかに檜の香りがすることもあった。

 若い方は釣瓶を見たことが無い人も多く、「炭火で」と言うと「バーベキュ―ですか?の時代だ。茶道具の時代背景を説明し、文化の変化をお話しすることも多くなった。

 今回は、高槻の稽古仲間の Ny さんがお持ち下さった “ 赤芽柏の葉 ” を水指の蓋にして、葉蓋点前を勉強した。これも夏の点前。

Photo_3 裏千家11代玄々斎の創案で、七夕の趣向の茶会に末広籠花入れの受け筒を水指として使われ、梶の葉を蓋にされた。
 蓋にする葉は大きなものであればよいが、匂いがきついものや汁が出るようなものは使えない。

 蓮の葉を使う時には、葉に水滴を落とし露の風情を演出する。こうした涼の取り方もあり、話が尽きない。

 慣れた方は、葉蓋点前で洗い茶巾の扱いを楽しんでいる。
 浅い平茶碗に水を7文目くらい入れ、二つ折の茶巾を入れ茶筅を乗せ茶杓も乗る。

 これも客に目で涼を感じて貰う工夫、暑い夏も、このような点前でお茶を楽しんでいる。
 葉蓋点前の写真、高槻の T さんに撮って頂き、目にも涼しい白桔梗は高槻の Na さんから頂いた。(
 Peter & Catherine’s Travel Tour No.352

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酔狂な?‐ フィレンツェ

2011年07月13日 | イタリア

 名画にあたった?ようで、少し疲れた気分でウフィツィ美術館を後にした。
 カフェでしばし休憩、人心地がついたところでサンタ・クローチェ教会へ向かった。天気がいくら好いと言っても ‘Xmas 前、やはり寒い。

 クローチェ教会、質素を旨とするフランシスコ会が設立したと言う。

 2_212_2アッシジの聖フランチェスコ、その人によって建てられたともされるこの教会、中央脇祭壇の壁をジョット工房の「<聖フランチェスコの生涯>」が飾る。

 聖堂中ほど、右側廊から回廊を進むとパッツィ家の礼拝堂。
 フィレンツェの銀行家パッツィ家の依頼で、ドゥオーモのクーポラを完成させたブルネツレスキの設計で造られたとか。

 ファサードには六本のコリント式列柱が並ぶ柱廊があって、その壁面の下の縁を、セッティニャーノのレリーフ「<イエスとヨハネ>」が飾る。

 また、この柱廊の格間とバラ窓つきの半円形の天井にはクーポラを乗せている。概して小さな建物だが、ルネッサンス建築の特徴をよく備えているとされる。

 Photo教会を去りしなに振り返ると、中庭の向うにパッツィ家の礼拝堂(写真上)が望め、その小さなクーポラは冬の束の間の陽光を浴び輝いていた。

 クローチェ教会から、これまたブルネツレスキが設計したという捨子養育院へと向かった。
 養育院前の広場に着く頃には、陽射しはあるものの午後も遅く、寒さが深々と身に滲みる。

 捨子養育院(写真下)は、ユニセフなどの機関の他、一部が美術館になっている。
 美術館と言うよりも木造の教室と表現した方が相応しい展示室、係員が独り所在なさげにいるだけだった。

 そこには、<ボッティチェリの>の初期の絵「<聖母と天使>」や<ギルランダイオ>の「<東方三博士の礼拝>」などが、静寂の中で居住いを正してあった。

 この時期、こんな小さな美術館に足を運ぶ酔狂な観光客、「そんなには」「いないよなあ」。
 Peter & Catherine’s Travel Tour No.351

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ユネスコ記憶遺産

2011年07月11日 | 日記

 少し古い話だが、文科省が、藤原道長の日記「御堂関白記」(写真上左)と支倉常長らが欧州から持ち帰った「慶長遣欧使節関係資料」(写真上右)をユネスコ記憶遺産に推薦したという。
 この記事で、世界記憶遺産なんてもンがあるのを初めて知ったが、20年近い歴史を持っていることも知り、もうひとつおまけに驚いた。

 1_22_3 これまでにフランスの手書き版「人権宣言」や「アンネの日記」など193件が登録されていると知り、「なるほど!と頷いた。

 新しいところでは、福岡県田川市、市が申請したのがミソ。
 が、10年に炭坑の記録絵師・山本作兵衛さんの記録画(写真下)を推薦、5月の連休の頃だったか、その登録が内定したとTVが姦しかった。

 ちょっと?スケベなペトロ、胸もあらわな女性が色鮮やかに働く様が描かれていて、記憶を司る海馬にインプットされた次第。
 勝手読みだが、素朴派に近いこの記録画、どっちかといえば漫画に近いというのが感想、漫画は、今や “ MANGA ” という世界共通言語ではあるけれど。

 ところで、件の田川市、飯塚市と直方市と併せ筑豊三都と言うらしく、かつては炭鉱で栄え、作家五木寛之さんの小説「青春の門」の舞台ともなった。

 Photo_3 そのひとつ飯塚市は、あの麻生さんの選挙区。
 随分と前の首相のようにも思えるが2年たらず前のこと、その首相の車に漫画が常時積んであり、国立の漫画の殿堂をマジに考えた人でもあるとか。

 筑豊三都のひとつが推薦した漫画、じゃなかった記録画、世界記憶遺産に選定され芽出度い限りだが、無理やり安直な三題噺にしてしもて、叱責されそうな気がせんでもない。
 ところで、文科省は過去にも推薦を検討したが、国宝などのランク付けになることを懸念、見送っていたと言う。

 お役人の何でも公平に扱わなあかんという精神、「皮肉じゃなくて美質だと思う。
 尤も、議員先生やモンスターなお方などに、揉み手もあらわにおべっか、特別のお計らいとやらをなさらなければだが・・・。
 Peter & Catherine’s Travel Tour No.350

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日和見 ‐ 言葉

2011年07月08日 | 本/図書館/言葉

 先日の朝日、“ 津波で壊滅的な被害を受けた宮城県閖上(ゆりあげ)で、神社の再興に向けて小高い丘、日和山に二本の柱が立った ” と報道された。

 日和山とは、船乗りが船を出すか否かを決める際に、日和を見るために利用した山だということを初めて知った。
 この日和山、北は北海道から東北、日本海側の越後や北陸、紀伊半島の熊野などの港町に今もその地名を残すと言う。

 Photo_4随分と昔のことになるが、三丹地域を統括する支社に勤務したことがあった。
 こんなこと言えば住んでいる方に失礼だが、何れの地域も草深く、「人口よりも電信柱のほうが多い」と、幾分の揶揄も込めて言っていたことを思い出した。
 
ただ、緑豊かな山と碧い海に恵まれ、華やかさはないが素朴な風景が広がる地域だった。

 その中の風光明媚な地のひとつに、入り組んだリアス式の海岸線に奇岩が連なる但馬海岸がある。
 その中心が、志賀直哉の小説「城之崎にて」の舞台となった城崎温泉から少し足を延ばした日和山遊園。

 余談だが、本社のお偉方などが暇つぶしに?出張に来た時は、ここ日和山や天橋立などをしばしば案内したものだった。

 Photo_5橋立といえば、宮島、松島と並んで日本三景の一つ。
 リアス式の海岸線が美しいという松島、入り組んだ海岸線が、皮肉にも大津波の被害をより大きくさせたということだった。

 その震災復興だが、上から目線の発言が原因で復興担当相が僅か十日足らずで辞任、その後任選び、ひとしきり難航したという。
 副大臣を昇格させる前に、前の官房長官に就任を依頼したが固辞されたとも。

 大臣への就任要請に、「この期に及んで菅さんと心中できるかい」と袖にしたらしい。
 袖にされた方に原因があるのだろうが、袖にした方も、復興が喫緊の最重要課題と声高に主張する口とは裏腹に、計算高さが見えてうそ寒い。
  日和見は、政治屋の常と言えばそれまでだが・・・。

 カタリナ と、図書館への散歩の道すがら見つけた「桔梗」と「槿」、いかにも夏に似合い涼しげだ。
 Peter & Catherine’s Travel Tour No.349

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