随分と昔のこと、季節は冬、寒い頃だった。
湯上がりに紙を小さく千切っては火鉢にかざし、炙って指に貼っていた母、聞けば膏薬だと言う。
電化製品はと言えば、雑音交じりに聞こえるラジオぐらいのもの。
ましてや、蛇口を捻ると湯が出る生活なんて思いも拠らない時代のこと、農作業や家事で、さぞかし手を酷使したのだろうと思う。
毎年この季節になれば、随分と手を荒らし真っ黒な膏薬を千切っては炙り、貼っていたのを覚えている。
そんな時代背景を歌ったのが「母さんの歌」。
都会に出た子が田舎に暮らす母を思い遣る歌だが、その三番に、♪ かあさんのあかぎれ痛い生みそをすりこむ(作詞:窪田聡)という歌詞があって、当時、田舎で暮らす人は程度の差はあれ荒れた手をしていたのだろうと思う。
こんな話を持ち出したのは他でもない。
ペトロ の手、油抜けのカサカサでぱっくり割れ、その頃の母までいかないにしても随分と荒れた手になった。
食後の片付け、食洗器使うほどの嵩でもなく、洗剤と湯を使う所為に加えて栄養失調でもあるんだろうと思う。
話がそれるが、手と言えば現役時代、お付き合いで、あるいは率先して、どちらかと言えば後者の方が多い? 行ったスナックなどで、ママさんと称される職業婦人から、「あらっ、綺麗な手」なんて褒められたことを思い出す。
それらご婦人、客に褒める所がなければ手を褒めるなんて接客マニュアルがあったらしい。
今時そんな手練が残っているのか、その手の店に頓に無沙汰なので知らないが。
それは兎も角、あかぎれだらけの我が手をつらつら眺め、これじゃデューラー(1471-1528/ドイツ/ルネサンス)描くところの「祈りの手」ではないか、とぼやくと、「頑張っているのは褒めてあげるけれど、それはないんじゃない」と笑い転げるカタリナ の声が聞こえた。
少し堪えた長い睦月・一月、明ければ節分に立春。
だが、寒さはこれからが本番、今しばらく手荒れが続くンだろうなあ。
芸がないが、毎年この時期なると登場する「沈丁花」と雨に打たれた「葉牡丹」。
Peter & Catherine’s Travel. Tour No.760
PS : 「祈りの手」にまつわる逸話は、<コチラ>から当該ページにお入り下さい。