ペトロとカタリナの旅を重ねて

あの日、あの時、あの場所で
カタリナと歩いた街、優しい人たちとの折々の出会い・・・
それは、想い出という名の心の糧 

11月がゆく

2009年11月30日 | 季節/暦

 新嘗祭(にいなめさい)の頃から二十四節気の小雪 ”(しょうせつ)、僅か乍ら雪が降り始める頃とされる。

 縦長の日本列島、紅葉と雪の便りが混ざる。
 歌舞伎だったか、「この辺りは山家ゆえ、紅葉のあるに雪が降る。さぞ寒かったで・・・」という台詞があったように思う。
 小春日和の一日、紅葉を求めて京や奈良の名所に人が集っているらしい。

 Photo京といえば、“ 山陰の小京都 ” とか “ 飛騨の小京都 ” とか呼ばれる所があり、九州や四国や東北など方々にそれなるものがある。

 自然にそのように呼ばれる所もあれば、観光協会などが商魂逞しくあやかろうとする所もあるよう、そんなものと無縁に暮らす人のなかには、眉をひそめている向きもあるだろう。

 この手の話、なにも日本だけではない。
 フランスのアルザス地方のストラスブール、ライン川に沿ったこの町、“ 道の町 ” の意のラテン語 “ ストラテブルグム ” に由来、古来より交通の要衝だったらしい。

 かつてドイツとフランスが領土を争う時代があって、ストラスブルクとドイツ語で呼ばれた時期もあったと聞く。
 その頃の名残なのかフランスにありながら “ プティット・フランス ” と呼ばれる一角が残る。

 Photo_2そのストラスブールからさらにライン川に沿って南、アルザスワインの産地コルマールには “ プティット・ヴース ” がある。

 小賢しくもそんな名前を付けなくとも、昔ながらの木組みの家並みを水路が囲む辺りは個性的で、十分に美しいのにである。

 久しぶりに主日ミサ、日曜礼拝といえば分かりがいい。に与った。
 
11月29日は、待降節第一主日、教会暦ではこの日から新しい一年になる。

 教会の脇祭壇にはイエスの生誕をジオラマにしたプレゼーピオが飾られ、アドベント・クランツ(写真下)、樅の枝のリースで飾られた四本のローソクを週毎に順に点し、主が降誕された日を待ちわびる。

 四本のローソク全てに灯が点る待降節第四主日が過ぎると、降誕祭、クリスマスだ。
 うん? もうそんな時期、少し憮然としながら11月を見送る。

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小春日和

2009年11月28日 | 

 阪急電車の神戸線、西宮北口駅と夙川公園駅のほぼ中間辺り、線路に沿って「西田公園」がある。

 P1070045_4 P1070031_4

 この公園、小高い丘になっていて、中に「万葉植物苑」があり、入口に大きな欅が聳る。
 小春日和の昼下がり、桜紅葉などが爽やかな風に散り初めていた。 

 P1070038_2 P1070036

 管理センタの壁つたう蔦も冬支度をはじめ、八手の花が咲く。
 今、季節の変わり目、紅葉が主役を山茶花に譲ろうとしている。

 P1070050

 いく秋・・・、何となくもの淋しい? 第60号、フォトブログにしました。

 

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ビーフカツレツ

2009年11月27日 | 日記

 ウィーナーシュニッツェル、ハンガリーでグヤーシュという。
 赤パプリカをたっぷりと入れたグラーシュと並んでドイツ辺りから東の地域の料理として知られている。
 ベルリン絵画館のカフェテラス(写真上)など、旅行中にも何度か口にした。

 うPhotoんちくを語れば、行進曲で有名なラデッキー将軍がミラノからウィーンに持ち帰ったとか。
 そのミラノ風カツレツもトラットリアの定番料理だ。

 調理や調味料などに違いがあるのかも知れないが、日本でいうビーフカツレツ、つまり、ビフカツである。

 話は変わるが、競輪場などに使われた後、長い間無残な姿を曝していたオリックスの前身阪急ブレーブスのホームグランド西宮球場。

 6_4何年か前から更地になっていたが、昨秋、ショッピングセンタ(写真中)に生まれ変わり、食事ゾーンを中心に連日客を集めているようだ。

  その食堂街に昔ながらの洋食屋さんがあって、陳列棚にオムレツやクリームコロッケなどと並んでそのビフカツ(写真下)があった。

 デミグラスソースがかかった肉は柔らかく、添えられたポテトもドレッシングされた野菜も美味しかった。

 後に、三八豪雪と名付けられた昭和38年の冬。
 前年のクリスマスを境に断続的に降る雪は、明けて1月から2月にかけ日本海側を中心に大雪をもたらした。

 3月といってもその影響が残る春浅き頃、母とだったと思う、初めての大阪。
 3_6帰りの列車を待つ間、人でごった返す大阪駅の和洋中何でもありの食堂で、生まれて初めて口にしたのがビフカツだった。

 その頃の駅舎は三階建、東海道線は電化されていたが北陸や山陰本線の汽車は煙を吐いていたし、阪急や阪神百貨店前には路面電車が行き交っていた。

 今思えば肉は固く油っぽくて胸焼けしそうな代物だったが、そのハイカラな食べ物に、こんな美味いものがと、感動した。

 ビフカツを食べるたびに、その記憶がよぎる。
 逝って20年、母の思い出は何時も優しく気持ちを素直にさせる。

 ひと昔やふた昔どころでない、セピア色に褪せた遠い日の話である。

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ポポロ教会(3)

2009年11月24日 | イタリア

 ポポロ教会に入って左側すぐ、キージ家の礼拝堂がある

 この礼拝堂、映画 「<天使と悪魔>」でも登場する。
 秘密結社・イルミナティのアンビグラム、左右上下同じに見えるように意匠された図象が、ラファエロの墓を示唆すると解いたラングドン教授、彼の墓があるパンテオンに急行したものの、救出すべき枢機卿の姿を見つけることができない。

 Photo_32_6ンテオンで考え込む教授。
 そして、アンビグラムが示していたのは、ラファエロが設計しベルニーニが完成させた、キージ家の礼拝堂だと気付き、ローマの街をポロ教会へと車を飛ばす。

 そのキージ家の礼拝堂、クーポラのモザイクもラファエロのデザイン。
 内部にはベルニーニの彫刻 「預言者ハバクク」(上/左)と 「獅子と預言者ダニエル」(上/右)が並ぶ。

 まさに、このポポロ教会、ローマで活躍した最高の芸術家たち、盛期ルネッサンスの巨人ラファエロ、バロック期に活躍したボローニャ派のアンニバル・カラッチ、無頼の画家にして光と影の魔術師カラヴァッジョ、そして、彫刻家であり建築家のジャン・ロレンツォ・ベルニーニと、四人の天才・奇才の作品がこれでもかと並ぶ。

 それに加え、ロヴェーレ家の礼拝堂の 「幼子キリストの礼拝」(<ポポロ教会>)を描いたイタリア・ルネッサンスの画家ピントリッキオの作品となれば、祈りの場所であるとともに一流の美術館と比べて遜色がない存在でもある。

 13Photo_4世紀ヴィザンチンの板絵 「マドンナ・デル・ポポロ市民のマドンナ」が飾られた主祭壇近く、ベルニーニが改修した翼廊にパイプ・オルガンのためのバルコニーがあって、ベルニーニの実に可愛い 「天使の像」(下)がけなげにも支える。

 ミケランジェロの 「ピエタ」には、切ないまでの女性の美しさが白亜の大理石から紡ぎだされている。

 ベルニーニが創造する女性像は、その 「天使の像」からサンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリア聖堂の 「聖テレジアの法悦」やサン・フランチェスコ・ア・リーパ聖堂の 「福者ルドヴィカ・アルベルトーニ」のように、端整にして優雅、時にはコケティッシュなまでに艶めかしいものまであって、このバロックの天才彫刻家の多能さに舌を巻く。

 その、男心をそそる 「聖テレジアの法悦」と 「福者ルドヴィカ・アルベルトーニ」は、別の機会にまた。

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ポポロ教会(2)

2009年11月23日 | イタリア

 カラヴァッジョが、ポポロ教会チェラージ礼拝堂のために描いた祭壇画、それは、「聖パウロの回心」と「聖ペトロの磔刑」(上)。

 イエスに選ばれた十二使徒の頭目であるペトロは、天の国の鍵を授けられ初代ローマ教皇に叙せられる(マタイの福音書16-19)。

 Caravaggio_pietro00弱い人間でもあった彼は、主が裁かれた時大祭司の屋敷の中庭で、近くにいた女性から、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言われ、“ 分らない ” と言う。

 門の方へ行くと他の女性からも、「この人はナザレのイエスと一緒にいた」と言われ、“ そんな人は知らない ” と打ち消す。
 そこにいた人々が近寄って彼に言う。「確かにお前もあの連中の仲間だ。言葉遣いで分かる」と。

 ペトロは巻き添えになるのを恐れ、“ そんな人は知らない ” と誓い始めるとすぐ鶏が鳴いた。

 ペトロは、“ 鶏がなく前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう と言われたイエスの言葉を思い出し激しく泣く(マタイの福音書26/69‐73)。

 カタリナ は、「少しおっちょこちょいなのね、彼は」と、なぜか嬉しそうに言う。

 主の昇天後、迫害が激しくなったローマから避難しようと、一旦はアッピア街道に足を向ける。すると、向こうから歩いてくるイエスと出会う。

  2_4驚いた彼は、“ Domine,quo vadis? 主よ、何処へ行かれるのですか? ” と尋ねる、と、イエスは、“ もう一度十字架にかけられるためにローマへ ” と答える。

 ペトロは、それを聞いて翻然と悟り殉教を覚悟、ローマへと戻り、そしてエルサレムやローマで布教活動を行う。
 最後は皇帝ネロに捕まり処刑されるのだが、“ 主と同じでは畏れ多い ” と自ら望み逆さ十字に架けられる。

 本作は、ヴァチカン・バオリーナ礼拝堂のミケランジェロのフレスコ画「聖ペトロの磔刑(部分)」(下)を意識したとされる。

 構図をミケランジェロの作品と左右反転させただけでなく、群集を切り詰め三人の処刑人だけを配置、ふたりは背を向けひとりは目を陰で隠し匿名性を帯びさせた。

 カラヴァッジョはこの作品を、心理的な意味として、“ ペトロの苦痛 ” に置いたとされ、使徒を、“ 格闘すると同時に苦悩する者 ” として描いたともされている。(この稿、もう少し続ける)
 <参考:アート・ライブラリー/
カラヴァッジョから。>

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ポポロ教会

2009年11月22日 | イタリア

 ボルゲーゼ美術館からポポロ教会に向かった。
 美術館から真直ぐ南に伸びる公園内の緩やかな坂道を下って暫く、アウレリアヌスの城壁と出会う辺りがピンチアーナ門。

 近くにガイドブックには載っていない地下鉄の標識が見える。
 ところがこの出入口、地下鉄A線のスパーニャ駅へ続く地下通路だが、呆れるほど長い。

 Photoラッシュ時間でもない昼下がり、殆ど利用する人も見えず、黙々?とエスカレータと動く歩道を何度か乗り継ぐ。
 で、10分ほども歩かされて漸くスパーニャ駅に着いた。

 落書きだらけのチケット自販機、動かないので悪戦苦闘していたら、近くのお巡りさんが自販機を蹴飛ばしていうことをきかしてくれた。

 地下鉄フラミニオ駅から城壁の一部のポポロ門を潜ると直ぐ左に、サンタ・マリア・デル・ポポロ教会(上)がある。
 ポポロ = ローマ市民が聖マリアに捧げた教会という意味でこの名がついたとか。

 Photo_3正午から16時までシエスタ、昼寝?に入るので先を急ぐ。
 何年か前、門扉が固く閉ざされていて、以来、無念な思いを残してきた。

 中央祭壇左手の礼拝堂が、カラヴァッジョの礼拝堂とも呼ばれるチェラージ礼拝堂である。
 正面にアンニバレ・カラッチの 「聖母被昇天」、右手にカラヴァッジョの 「聖パウロの回心」(中)が架かる。

 使徒言行録に拠れば、熱心なユダヤ教徒だったサウロはキリストたちを弾圧する側にいた。
 ダマスカスへ赴く途上でキリストの、“ サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか という声を耳にし、目もくらむ光に射すくめられ落馬、一時的に視力を失ってしまう。

 Photoカラヴァッジョは、その瞬間を鋭く切り取っている。 
 馬の白いまだらの部分に射す神の光、目が眩み地に落ち目を閉ざすパウロ、その傍らにはパウロのアトリビュートの剣が打ち棄てられたように描かれている。

 この出来事を神の啓示と受け止めたサウロはキリスト教に回心、名もパウロと改める。

 当時、この絵には、“ まったく動きがない ” と評する向きもあったそうだが、“ カラヴァッジョは、サウロの心の内にある葛藤を静止させた瞬間に塗り込めた ” と、解釈されているようだ。

 ところで、入って直ぐ右側のロヴェーレ家の礼拝堂に、ルネッサンスの画家ピントゥリッキオの傑作 「幼子キリストの礼拝」(下)がある。
 目的のカラヴァッジョの後、
閉堂までゆっくり鑑賞したのは言うまでもない。 (続く)

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背筋のばして

2009年11月18日 | 日記

 土曜の朝日の朝刊、落合恵子さんの「積極的その日暮らし」というエッセイを連載する。

 この月の第二土曜日は、「ツーン!と鼻が」。
 筆者が自分で自分の髪を切るのだが、もう少しだけ、もうちょっといいだろう、と、つい切り詰めてしまう。
 「ままよ、十日もすれば伸びるだろうし、見てくれる者など誰もいない」と外出、それを親しい女性から、「少しは・・・」と身なりを注意されるのだが、「亡き母に注意された」みたいと、思わず鼻をツーンとさせる話。

 Photo_2このエッセイ、筆者が「母みたく」と思った独り暮らしの女性の、「一日家に居るときも口紅だけはつける。何処かで一寸だけ踏ん張っていないと、暮らしがなし崩しになっていきそうで」という決意みたいなものを耳にし、その毅然とする様にまた鼻が「ツーン!とする」と締め括る。

 エッセイは、長い介護の末に母を見送り、老境に差し掛かかった筆者の独り暮らしの日常が、小さなエピソードとともに毎回さりげなく綴られていて好感が持てる。

 しかし、この「暮らしがなし崩しになりそう」というのは妙に説得感がある。
 男なるもの毎日が日曜の身になれば、パジャマやジャージ姿で一日中過ごしそうな按配。
 自慢じゃないが独りになれば「むさいおじん」になることは請け合い。

 P1060947連れ合いから口うるさく注意されて何とか体裁を保っているのは何処も同じ?だろう。
 人生の同伴者に先立たれた男やもめほど、始末に困るものはないとも耳にする。

 休日の朝、窓越しの柔らかい日差しを浴びながら大欠伸、ぼうっと過ごすのも棄て難いが、さっとひげをあたりこざっぱりした常着に着がえる。
 女性なら、差し詰めきりりと髪を束ねるのもいいだろう、エッセイのようにさっと紅をさすのもいいだろう。
 なんでもいい、自分の気持ちに、「さあ、今日も!」と号令をかけ、しゃきっと背筋を伸ばす所作が大切ということ。

 否応なしに老に向かう狭間でその心意気や大いによし、けなげで可愛いではないか。
 翌週の朝日俳壇、「一つとは淋しき数よ帰り花」(大牟田市・古賀昭子氏/稲畑汀子選)に目が留まった。(写真は、遅い秋に咲いた萩)

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立冬の午後

2009年11月15日 | 美術館 (国内)

 七日から立冬。
 この日から立春の前日まで暦の上で季節は冬、山茶花が咲き始める頃とされているが、さて、実感に乏しい。

 今の時期、中国の漢詩集・臥遊P1060958録(がゆうろく)が謳う、「秋の山明浄にして粧ふが如く」綾なす山肌が夕陽に映える季節が相応しい。

 今、大阪で、「小野竹喬生誕120年展」(主催・毎日新聞など)が開かれている。
 雨もよいの日の午後、その展覧会を訪ねた。

 関西の美術館となれば京都をイメージしてしまう向きがあるが、この少し猥雑な商都大阪にも優れた美術館がある。
 上町台地の一角、天王寺公園の高台に建つ大阪市立美術館。
 住友家の本邸と慶沢園と呼ばれる庭園が、美術館の建設を目的に寄贈されたという。この美術館の正面からの景色、東京上野や京都岡崎でも味わうことのできない得難い財産である。

 日本画は、速水御舟や山口華楊が好きで展覧会に出向いたことがあったが、華楊とほぼ同時代の画家小野竹喬は殆ど知らなかった。
 Photo今回、竹喬が晩年に描いた、芭蕉の自然観と融合させた連作《奥の細道句抄絵》が展示されていると知り足を運んでみた。

 会場には、竹内栖鳳の塾生時代の「島二作(早春・冬の丘)」、近世文人画に憧れた時代の「冬日帳」、さりげない自然と向き合った「秋陽(新冬)」「奥入瀬の渓流」「深雪」など、同時代や後世の日本画家に少なからず影響を与えたことが伺える作品が並んでいた。

 竹喬は茜色の画家ともされ、夕焼けの情景に親しんだとされる。
 心象風景を大胆な朱で表現した「樹間の茜」、淡い朱が巧みな「」や「日本の四季‐春の湖面」と「日本の四季‐京の灯」など、仄かな郷愁を与える。

 P1060970_2そして、《奥の細道句抄絵》へと続く。
 感銘を得たのは、大胆な構図で朱の夕陽を描いた「暑き日を海にいれたり最上川」と「あかあかと日は難面(つれなき)もあきの風」の二作。
 横とう海と川、野分けにたわむ芒が、芭蕉の句意と重なる。

 地味な作品だが、薄日さす梅雨の晴れ間、泥濘の道に難渋する様が淡彩で描かれた「笠島はいづこさつきのぬかりみち」(写真中)、急流を細線と淡い墨と朱で表現した「五月雨をあつめて早し最上川」に見入ってしまった。

 詩情豊かな感性に酔い、薄暮に灯を点す通天閣を眺め美術館を後にした。
 (作品は、「大阪市ホームページ」からリンクしました。)

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ブランデンブルク門

2009年11月13日 | ドイツ/オーストリア

 過日(11/8)朝日紙が、「冷戦終結20年 ‐ 21世紀の壁を越える」と題し社説を載せた。

 記事は “ 1989年11月9日。冷戦の最前線だったベルリンの壁が開放され、市民の手で打ち砕かれた。東欧各地で民主化革命が続き、12月の米ソ首脳会談で冷戦終結が宣言された ” と始まり、“ それから20年。世界を二分した冷戦構造は崩れ、代わってグローバル化が進んだ。それが世界経済の成長の原動力ともなってきた ” と続ける。

 Photo初めての海外旅行が91年11月、ロンドンからフランクフルトを経てベルリンに入った。
 当時のブランデンブルク門(上)の辺りは雑木林で、壁の一部がモニュメントとして残っていた。

 ベルリン・フィルのあるポツダム広場や市内を東西に延びるウンター・デン・リンデンを、東ドイツの国民車・トラバントが排気ガスを撒き散らしながら走っていた。

 東西を往来する際の検問所、チェックポイント・チャーリーは跡形もなく片付けられてい、統合2年、台頭し始めたネオ・ナチが職を失った人たちから支持を得るなど、負の影響が現れ始めてもいた。

  時は流れ18年後の08年、奇しくも同時期の11月にベルリン再訪、絵画館を訪ねた後、ポツダム広場からブランデンブルク門(下)へと歩いた。

 Photo_2かつて雑木林だった一帯は、大きくて黒い不揃いの矩体がいくつも並んでいた、ホロコースト記念碑だという。

 そして、広大なティーアガルテンに沿って走る道路の真ん中にレンガ程度の石が埋め込まれずっと先まで続いていた。
 それが、東西冷戦の象徴、1961年から28年余にわたって西ベルリンを囲み民族を分断した壁の痕だった。

 壁崩壊から20年、冷戦終結の証とされる東西統合がもたらす光と影が検証されようとしている。

 社説に戻る、“ これは成功体験と言っていいのではないか。その教訓を21世紀の世界に生かしたい ” とも書いている。
 が、そこには資本主義の波に取り残され苦しんでいる旧東ドイツの人への視線はない。

 未来に向けての教訓を否定する考えはないが、何かを変えることには必ず表と裏がついて回る。
 そして悲しいことに、裏側にいる人間が表側にいる人間よりも多く、また社会的弱者でもあるという現実が常について回る、あの小泉改革がもたらしたもののように。

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ボルゲーゼ美術館(3)

2009年11月10日 |  ∟イタリアの美術館

 さして広くもない赤い壁紙の部屋に、「パラフレニエーリの聖母」 「執筆する聖ヒエロニムス」 「病める少年バッコス」 「果物籠を持つ少年」 「ゴリアテの首を持つダヴィデ」 「洗礼者ヨハネ」とカラヴァッジョの作品が並ぶ様は圧巻である。

 今、京都に来ているのは 「洗礼者ヨハネ」。

 Palafren_3ただ彼は、ダ・ヴィンチやミケランジェロやラファエロのように、見る者誰しもを絵の前で止めさせる画家ではなく、聖書の解釈が相容れないのだろう素通りする外国人も結構多い。

 しかし、この無頼の画家にして光と影の魔術師、卓越した技を余すところなく見せ付ける。
 とりわけ強い印象を与えるのは 「パラフレニエーリの聖母」。

 教皇の馬丁、パラフレニエーリたちが祭壇画を依頼したことから 「馬丁たちの聖母」、あるいは画面から 「蛇の聖母」とも呼ばれ、サン・ピエトロ寺院の祭壇のひとつに飾られたものの、数日後に他の教会に移されてしまう。

 ヴァチカンがこの絵を疎んじた理由のひとつは、聖母子の傍らに立つ老婆だったようだ。

 この女性、聖マリアとともに光輪が描かれ、かろうじてマリアの母、聖アンナだということが判る始末、いくら写実的といっても、ここまで醜く描く必要はないだろうに、と思う。

 Davinci_2ただ、無原罪の母が神から受肉された幼い我が子に、罪と異端の象徴とされる蛇の踏みしだき方を教える構図は伝統に則ったものとされている。

 ルーブルのグランド・ギャラリーを飾るダ・ヴィンチの 「聖アンナと聖母子」、アンナが娘と孫を見つめる穏やかな表情には慈しみが溢れ、とても同じ画材とは思えない聖性がある。

 話は戻って、この絵の注文には教皇の意向があったとされ、教皇の甥の枢機卿シピオーネ・ボルゲーゼが漁夫の利?を得て今もボルゲーゼ美術館に架かる。

 カラヴァッジョにはこの手の逸話が多く残る。
 ルーブルの 「聖母の死」も然りで、それまでの象徴的に描かれた聖母の死と異なり、臨終の身体は生々しく素足を晒し著しく品性に欠けるとした。

 そして、何よりもモデルが画家の娼婦だった点において、依頼主のローマの教会から受け取りを拒否されたのである。

 その後、この作品の本質を見抜いたルーベンスの仲介によって、マントヴァのゴンザーガ家によって購入された来歴が残る。

 とまれ、僧侶が嫌った絵を貴族は好んだという、当時の教会と宮廷の関係が垣間見えて面白い。

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