goo blog サービス終了のお知らせ 

ぱそらぼ (ぱぁと1)

パソコン講座を、まじめに愛するブログです

明日

2019年03月25日 | 雑談
私は心理学者でも何でもありません。でも時に、話している相手の、言葉にはしておられない心の中が見えるような気がすることがあります(笑)。

子どもの教育はトテモ大切な事だと思っていますが、だからと言っていわゆるネームバリューで学校選びはしなかったつもりです。学校がどんなに有名校であろうと、結局何をどう学んで自らの人生を切り開いて行けるかが大切なのであって、学校の名声と本人の実力は別の物差しで測らなければならないはずです。

相手から「お子さんの学校は…」という話を伺う事があった時、ご自分のお子さん(お孫さん)の学校を聞いて欲しいと思っておられる事に気づきました。話題を振ってみると「いえいえ…」とおっしゃりながら、でも楽しそうに話をしてくださいました。

イチロー選手の引退が大きな話題を呼んでいます。「天才」とも「レジェンド」とも呼ばれる彼は、実にストイックな姿勢で求道者とも呼べるような生き方を我々に魅せてくれました。人生の幸せは、そこに「至る」ものではなく、その至るための「過程」にこそ存在すると私は思っています。…から、イチロー選手はご本人が言われるように、引退と同時に歩みを止める人ではないように感じます。

人の考え方というのは、おのおの独特であるわけで、「彼には敵がいなかった」と言われるイチロー選手であっても、その生き方に諸手を挙げて賛成する人ばかりでない事は明白です。彼を批判する人がいたとしても、イチロー選手の値打ちに変わりはありません。

彼の事を「自分だけは他の人と違って特別な存在だと思っている」という風な言い方で非難する人もおられました。多分、こう言っておられる方こそが、ご自分の事を他者とは違う特別な人間だと思っておられるのだろうな…と推察します。そして、そういう自分自身を好ましいとは思えない…複雑な気持ちを抱えておられるのではないかと思います。

ともあれ、1つの時代が過ぎ去ろうとしている事は事実です。私たちは、どんなに小さな事であれ、その歩みを止めずに明日へ向かいたいと思います。

* * * * * * * * * *

メール添付のファイルが編集できない

パソコンのご質問を(ぱぁと2)にまとめています。ご連絡の際は、メール(chiko_419@yahoo.co.jp)をお送りください。

↓ 尚、下の広告は、gooブログに自動で掲載されるもので、当ブログとは一切関係はありません。

雇用創出

2019年02月18日 | 雑談
若い世代にはSNSが当たり前…といった風に思っていたりしますが、昨年3月のデータによると、Facebookのユーザーは、2~30代でほぼ人口の4割、Twitterは20代で6割、30代で4割、Instagramは20代4割、30代3割といった程度の数字が出ています。この数値を多いと言うのか、少ないと言うのかは、見る人の基準によるところでしょうか。ともあれ、逆の数値を読んでみると、利用者が多いTwitterでも20代のほぼ4割は利用していない…という事になります。

そんな中、長崎県の県立高校で、学校からあるアカウントをフォローするよう言われた…と、戸惑う声が上がっています。「つながるナガサキ」というアカウントは、喫緊の課題である若年層の県定着のために、高校卒業後も地元と関りを持ってもらおうと、県が開設したのだそうです。お知らせのチラシには、TwitterとInstagramでフォローしたことを報告するためのチェック欄があって、先生に提出するようになっています。高校には、フォロー指導の手順書も配られ、何人のフォロワーを獲得できたか高校教育課に報告するよう求めています。

人工流出に悩む切実な県事情が見えて来るようですが、勇み足のようにも見えます。多分、半強制的にフォローさせたとしても、サイトに魅力が無ければ、いずれ飽きられるのは明らかです。SNSを若者に定着させたければ、まずは若い世代が魅力に感じるサイトづくりから始めなければならないというところでしょうか。

一方で、若者が魅力を感じるサイトが、そのまま若者のUターンに繋がるかというと、甚だ疑問でもあります。1にも2にも「雇用」を創出しない限り、若者は地域には戻って来ないはずです。

* * * * * * * * * *

印刷プレビューで次ページを見る

パソコンのご質問を(ぱぁと2)にまとめています。ご連絡の際は、メール(chiko_419@yahoo.co.jp)をお送りください。

↓ 尚、下の広告は、gooブログに自動で掲載されるもので、当ブログとは一切関係はありません。

2019年01月26日 | 雑談
「発達障害」という言葉が使われるようになったのはいつ頃からなのでしょうか。勿論、障害そのものは、以前からあったはずで、それを社会が認識し分類するようになったのが、20世紀に入ってから…と言われているようです。一説に、アメリカで法律用語として作られたのが1963年、70年代になって日本に入って来たと説明されています。発達障害とは、生まれつきの脳の特性の問題で、コミュニケーション能力や判断力などに明らかな不利が生じるものなどと言われています。反面、数値などで分析できる種類のものではなく、専門家が問診や観察をして診断を下します。最近では、自分もそうかも知れない…と、診察を希望する人も増えているそうです。が、全員診断が確定する訳ではなく、グレーゾーンと呼ばれる層の人たちも数多くおられるようです。

専門家の方からは失笑されるだけなのかも知れませんが、こうした「障害」はあるのでしょうけれど、明確にここから向こうが病気ですと断定できるような境目があるようには思えません。むしろ、どんな人でも、ある分野には強いこだわりがあったり、人とうまく折り合いをつけることが苦手だったり、気を付けていても克服できないものがあったりするのではないでしょうか。「病気」というのは、明確に客観的数値で症状を特定できるようなものに限って使いたい言葉のように思います。何でもかんでも「◯◯病」と名前をつけてしまうのでなく、心の持ちようを制御する精神修養のようなものが、もっと見直されても良いのではないだろうかと考えたりします。

精神に蓋をすべきでは無いと思います。が、精神を剥き出しにしておいても良いか…と言うと、それも少し違うような気がします。「心」は大切に真綿でくるんで、傷つかないところにキチンと置いておかないとダメだと思うのですが、そういうことを言う人もいなくなったようにも感じています。

病児を抱えたある知人の言葉を、忘れないようにしています。お子さんに診断が下りた時、親御さんとしては「救われた」のだと話してくれました。つまり、親が子どもをコントロールできない事が、親の力量の無さのせいではなく、生まれ持って抱えた病気のせいだと言ってもらってホッとしたというものです。真面目な親御さんほど、社会に馴染めない子どもについて、自分達の教育が行き届かないせいだと、自身を責めてしまわれるわけで、そうした側面はキチンと押さえておかないといけない事だと今も肝に銘じています。

ただ、社会とうまく繋がれない…事について、(極端な症例の人を除けば)病気だから仕方がないという風に考えるべきではないような気がするのです。正常だとされている人たちと、病気だと診断される人たちの間に、明確な境があるわけではなく、多くの人たちがなだらかな坂の上に並んでいるのではないでしょうか。ここから先が病気で、ここから向こうが正常。といったそういう仕切りがあるわけでは無いとしたら、全ての人が自分の精神をコントロールし、人とうまくコミュニケートする方法を考えて模索すべきなのだと思います。「自分は正しい」という免罪符を握りしめて、周囲のひんしゅくを買っている大人はいくらでもいます。せめて、人として目指したいと感じる「理想像」だけでも、皆が心の中に持てると良いなと思います。

病気は「◯◯病」と名をつけた時から始まるのではないかと密かに思っています。それは予防医学を謳う今の医学の方向からすると、異端なのでしょうが、「病気は悪いことで、治さねばならない」という当たり前の感覚が、ほんの少し違うのではないかと思ったりするのです。

不幸

2019年01月25日 | 雑談
今の時代は、SNSなどで情報が瞬時に広がると言われています。SNS上には、とても個人的な情報から世界情勢まで、実に様々な話題が飛び交っていて、多くの人が興味を示すものと、そうではないものの間にどんな差異があるのか、イマイチ分からないのですが、イマサラのような内容が多くの人の興味を惹いたりします。

買った駅弁に問題があったという投稿者が、製造会社のお客様サポートに電話を入れたところ、トテモ丁寧な応対を経験したというツイートが話題になっているようです。電話応対はトテモ丁寧で、問題の商品写真と連絡先住所を送付して欲しいと請われ、翌日には謝罪文と会社の商品が届き、返金もしてもらえたというモノ。このような不良品に遭遇した時には、SNSに晒すのではなく、直接会社に電話をしましょうとのツイートに、多くの人の興味を示しました。

考えてみれば、ひと昔前(もっと前かも知れませんが)なら、こういう時、次からはその会社の製品を避けるといった対応か、もしくは会社に連絡を入れるかといった対応が普通だったのではないでしょうか。それがいつからか、すぐにネットに晒す…というやり方に変わってしまっていました。この投稿者が言う「多分一番不幸が少なく事が済む方法」だという感想が新鮮で、何でもネットに書いてしまう文化に馴染んでいる世代にとっては、今更のように気づいていない事が山ほどあるのかも知れないと思いました。

「バズる」事に大きな価値を置いている人たちは、「不幸が少なく事が済む」といった価値観を持たないのだろうと想像します。今は、世界全体が「不幸が少なく事が済む」ことを目指してはいません。少しでも、自分の国に利するように、情報を改ざんし、どうしたら「相手に大きな不幸を与えることができるか」を模索しているのが現実です。ですが、人の心の中には、こうした価値観に反応する力が、まだ残っているのだと思います。どうせなら…、人を不幸にするのではなく、人の不幸を少なくする感性が、広まって欲しいと思います。

因果

2019年01月24日 | 雑談
奈良県内の産婦人科から県総合医療センターに、新生児の搬送依頼電話が入りました。依頼電話を受けた交換手からの伝達がうまく行かず、出動したドクターカーは、名称が似ている別の産婦人科に向かってしまいました。その間のタイムロス、約25分。残念ながら、新生児は助かりませんでした。生まればかりの小さな命の無念さと、そのご両親の気持ちを考えると、幾重にも後悔が生まれます。痛ましいニュースです。

「運がいいとか悪いとか、人は時々口にするけど…」とは、フォークデュオ「グレープ」の名曲「無縁坂」の一節です。「運」という言葉だけで、人生のすべてを片付けてしまうのは、少し違うかも知れない…と思いながら、この新生児は「運」に恵まれませんでした。このセンターでは、その後医師7人による検証を行い、25分というタイムロスが無かったとしても、新生児の救命は困難だったと結論づけています。

25分のロスがもしなければ、助かっていた…と言われるのと、遅延は結果には影響を及ぼしてはいない…と言われるのでは、ご両親の気持ちが違って来るかと思います。不幸な結果になりましたが、「仕方がなかった」と諦めるしか術のないご両親に、検証結果は優しく寄り添った形になりました。

ただ、新生児の死亡と遅延との間に因果関係は無い…といった発表がニュースとして必要なのだろうか…と少し引っかかるものはあります。小中学生が自ら命を絶つといった悲惨な事件が時々起こりますが、そのつど「いじめ」があったとか無かったとか…など、第三者委員会が立ち上がって検討するような場面があります。そして、数か月(時に数年)も経ってから「いじめがあった」とか「いじめとは認められない」などの結論を聞かされます。

因果関係というのは、結局、責任のなすり合いをするための常とう手段です。「いじめ」と「自殺」に因果関係があった…と認められることで、残された者たちは「◯◯のせいだ」と思う事ができます。その分、多少なりとも自分達の負うものを減らすことができます。サイエンスの世界では、「因」と「果」が、確かな線で結ばれることが多くありますが、人の世界での「因」と「果」の間には決まった方程式は成立しません。色々なものが微妙に絡み合い、気持ちが猶更複雑に混じりあって、人は様々な想いを醸成されて行きます。

それが「因」であったかもしれないし、「因」では無かったかも知れない。人生の殆どは、そんな曖昧なもので満ち溢れています。無垢なままで天に召された命は、キット最上段の「神」の一番近くで安らいでいるはずです。

* * * * * * * * * *

ペーストボードを白くしたい

パソコンのご質問を(ぱぁと2)にまとめています。ご連絡の際は、メール(chiko_419@yahoo.co.jp)をお送りください。

↓ 尚、下の広告は、gooブログに自動で掲載されるもので、当ブログとは一切関係はありません。

不正

2019年01月21日 | 雑談
2日間の大学入試センター試験が終わりました。全国の受験生の皆さん、まずはお疲れさまでした。センター試験だけで二次試験が課されないところもあるようですが、大半はこれから出願して、二次試験に臨むことになります。「春」は未だもう少し先のようです。インフルエンザが猛威をフルっていると言います。体調管理に気をつけて、悔い無く過ごしていただきたいと思います。

センター試験では、全国で4件の不正行為があったと発表されています。「スマホで用語検索を行った」、「スマホを電卓として使った」。「携帯電話、スマートフォン、ウェアラブル端末、電子辞書、ICレコーダー等の電子機器」は使用が禁止されています。更に「試験が終わっているのに、マークシートへの記入を止めなかった」。これも「解答やめ。の指示に従わず、解答を続けることは不正行為と規定されています。

この3件はともかく、最後の1件の「国語の試験で許可されていない定規を使った」受験生が、全科目無効となった…という結果には、疑問を感じる人が多いのではないでしょうか。受験上の注意として「試験時間中に、定規、コンパス、電卓、そろばん、グラフ用紙等の補助具を使用する」ことが不正行為となる…と、書いてありますが、それがなぜ不正になのかを明確に説明することができる人はいないのではないでしょうか。受験生が迂闊だったと言えばそれまでですが、「疑わしきは罰せず」という原則は、ここでは通用しないのでしょうか。

学校に通う子ども達の筆箱には、大抵「鉛筆、消しゴム、定規」が入っています。文章題を読み落とさないように、定規を充てて問題を読む…と言う受験生は少なからずおられます。そしてそれが、やってはいけない行為で、「複数の監督者でこの行為を確認したから」と言うのであれば、一言「定規を充てて問題を読んではいけません」という声掛けをしてあげることはできなかったのでしょうか。電卓、そろばんは分かりますが、定規、コンパスを使ったから…と言って、特別試験が有利になるとも思えないのですけれど。

試験は公平でなければなりません。後から振り返って、やり直しが効きませんので、試験の監督には気を使います。ですが、悪意で不正を働こうとする者と、そうではない者に区別があっても良いのではないでしょうか。後悔に苛まれているに違いない該当の受験生に、春の来るチャンスが途絶えませんように。

大切なこと

2019年01月20日 | 雑談
Netflixが配信した映画「Bird Box」を真似る「バード・ボックス・チャレンジ」が流行っていると言います。目隠しで様々な行動をする様子を動画でアップするものですが、当然危険で怪我をする人も出ていると言います。これを受けて、You Tubeが投稿ガイドラインを変更したそうです。

You Tubeは「危険な活動を助長するコンテンツを禁止する」としていますが、その中で「タイドポッドチャレンジ」「ファイヤーチャレンジ」など名を上げて、投稿を禁止するとしています。「タイドポッドチャレンジ」というのは、カプセル型の洗濯洗剤を口の中で割り、泡を吐いて騙すという遊び、「ファイヤーチャレンジ」は上半身にアルコールをかけて、ライターで火をつけるという遊び。シャワーで火を消すために、浴室で行われるのだそうです。以前の「アイス・バケツ・チャレンジ」や「ペッパー・チャレンジ」には、まだ「筋委縮性側索硬化症(ALS)」の治療研究支援という、崇高な(?)目的がありました。が、その目的すら単に再生回数を稼ぐだけになってしまっているのが、今の「◯◯チャレンジ」です。

そういう言葉を使って良いのかどうかは分かりませんが、チャレンジという名をつけた単なる「バカ」です。が、その「バカ」を、大真面目に禁止するとか、宣言するとかしている現代の世相は、一体何でしょうか。You Tuberというのが、小学生憧れの「職業」として独り歩きをし始めた昨今ですから、You Tubeが社会的影響を考えて、自主規制に踏み切った…と歓迎すべき事なのでしょう。

が、不適切動画は、無条件で排除すれば良いのではないでしょうか。You Tubeには、何度アップしようとしても、なぜか拒否されてアップできない、良く考えてみれば、You Tubeの主旨に反していたかも知れない。アップできない理由をYou Tube側が説明するのではなく、動画をアップする側が考えなければならないような気がします。

公平だの平等だの…、トテモ大切なことを、今の世の中は長い時間をかけて、獲得してきました。まだまだ差別が無くならないのが現実ですが、人は本人に責任の無い事で差別されてはならないはずです。ですが「本人が責任を持たねばならない」事まで、規制できない世の中もおかしなものかも知れません。私たちはいつから、生きていくことの本当の意味を、考えなくなったのでしょうか。

見識

2019年01月19日 | 雑談
東京の都立高校で、生活指導担当の男性教諭が、廊下で男子生徒の顔を殴るなどの暴力行動に及んだ…という動画が公開されています。動画はユーチューブに投稿され、ツイッターで拡散されたようです。会見に応じた校長は、被害生徒に申し訳なく思っていると話し、該当教師がカッとなってしまったとしています。都教委は厳正に対処する方針だということです。

ネット上では、既に教諭名や生徒名が取り沙汰され、実は先生がはめられたのではないかとの分析もささやかれているようです。廊下に出る…提案は、徒の方から言い出しており、廊下に出た二人を撮影するベストアングルで動画が撮影されていたことになります。生徒は一方的に教師を挑発し、結果教師による暴力事件が発生してしまいました。今回のケースは、何らかの意図を持って撮影されたものに違いありません。

体罰は、学校教育法で禁じられています。どんな状況であっても、教師が生徒を殴るという事は、受け入れられる余地がありません。先生が、これによって処分を免れる…というのは難しそうです。…が、全国津々浦々の学校数は5万校以上あり、その先生方は総数180万人以上にも上るでしょうか。ハッキリ言って、先生全員、人格者を揃える…という訳にはいきません。たとえ相手が生徒であっても、一切腹を立てるな…と言う方が、多分無茶です。

教師の暴力は容認できません。…が、「このように振舞えば、人は本気で腹を立ててしまう」限界を知る事は、生徒にとっても大切な事なのではないでしょうか。先生は暴力をふるってはいけない…と、規則を振りかざす事も大切ですが、本来生徒が守らなければならない節度を教える努力…を怠っているのではないでしょうか。

腹が立ったら怒ってもいい…そう思いませんか。(暴力ではありません。)なんなら、校内に先生が訴え出る事のできる「組織」を置いても良い。「正しい主張」すら理不尽に曲げて言いくるめてしまうような応対に、一々「真っ当な反論」をする必要などありません。同じレベルでの言い合いを許さず、「正しいものは正しい」とはねつける見識が学校にも必要かも知れません。

2019年01月17日 | 雑談
24年前の今朝、阪神淡路大震災が起こりました。「神戸の町が燃えている」ニュース映像は、24年経った今でも、忘れる事ができません。兵庫県内では、未明から平成最後の追悼行事が各所で行われました。四半世紀が経ち、以降もあちこちで大きな災害が発生した事もあって、阪神大震災に特化した追悼行事は年々減っているようです。ある調査によれば、今年行われた追悼行事は50件ほどだとか。勿論、学校や幼稚園、商店街などで、黙とうや避難訓練などを実施したところは2000か所近くにも上るようで、船舶が汽笛を鳴らしたり、寺院や教会が鐘をついて、多くの犠牲者に祈りを捧げました。

人を集め、ロウソクを灯すのには、人もお金も必要です。それなりの人数が集まる中、安全が確保され、撤収までキチンと行う事に、それぞれのイベント主催者は多大なエネルギーが要求されます。人を集める必要は多分無いのだと思います。大きな追悼行事をする必要も要りません。命を守られた人が、護る事のできなかった命を静かに悔やむ日のはずです。それを風化とは呼びません。

「きょう命」というテーマを掲げたイベントがありました。敢えて「きょう」をひらがなにして、3つの「きょう」を掛けているようです。「共にある命」「響き愛う命」「今日ある命」。「共」「響」「今日」。しかも「響き合う」とせずに「響き愛う」と字を当てているのですが、テーマを定める際の紆余曲折が見えるようで、主催者が込めようとした思いが、手に取るように見えて来ます。…がその割に、このテーマの重さが伝わっては来ないのが気にかかります。

いつからか「報道」は、煌びやかに雄弁になりました。どんな時にも「感動」という名の「ドラマ」をそこに演出しなければならなくなりました。「感動」は押し付けるものでもなく、お膳立てをするものでもありません。必要以上に飾り立てられた言葉は、かえって真価を見えなくしてしまいます。

いっそ「無言」に戻りませんか。言葉を封じ込んで「無」になる時、私たちは一番「魂」の傍に近づけるような気がします。

* * * * * * * * * *

インターネットの履歴を消す

パソコンのご質問を(ぱぁと2)にまとめています。ご連絡の際は、メール(chiko_419@yahoo.co.jp)をお送りください。

↓ 尚、下の広告は、gooブログに自動で掲載されるもので、当ブログとは一切関係はありません。

退化

2019年01月15日 | 雑談
「流行」は時に仕掛けられていたりもするようですが、多くの人が自発的に真似る事によって広がります。そして、いつの間にか消え去ります。群集心理と言えば良いのでしょうか。中身が相応しいか…ではなく、単なる「ノリ」以外の何者でもないものすらあります。

映画「バード・ボックス」は、目を合わせると自殺に追い込まれる…という謎の生命体の支配から逃れるため、目隠しをして生活するというSFです。当然ですが、目隠しをすると、周囲が見えず危険です。が、「バード・ボックス」では、マロリーと子どもたちは危険を承知で目隠しをしたまま激流を下って、安住の地を目指します。

この映画を真似て、目隠しをして動き回る「目隠し動画」がアメリカを中心にSNSで流行っているそうです。中には目隠しをしたまま車を運転していたり、壁に激突したり…。動画は、奇抜度を競うわけですが、当然交通事故を引き起こす者もいます。幸い命に別状はなかったものの、車はぺしゃんこになったと言います。映画の配信元のNETFLIXも「自分を傷つける行為はやめて」と注意を呼びかけていると言いますが、なかなか下火になりません。日本に流行が及んでくるのも時間の問題でしょうか。フォロワーが付いてお金になる…と言うより、単純に「いいね!」が欲しいというのが、投稿主の本音のようです。

哲学者の梅原猛氏が、享年93歳で亡くなられました。古代史や文学、宗教など多岐にわたって独自の考察を繰り広げ、命を真っすぐに見据えた方でした。一方で真っすぐに「生死」と向き合おうとして「生きた」人が、その生を終え、他方「生きる」事すら真っすぐに見つめようとしない輩が、いいね!欲しさに意味のない生を繰り広げているのが、現実…だとしたら、世界はどこへ行こうとしているのでしょうか。世界はどんどん「退化」している。偽らざる感想です。