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ぱそらぼ (ぱぁと1)

パソコン講座を、まじめに愛するブログです

言葉

2017年01月08日 | 雑談
今更言うまでもなく、ネットの世界は日進月歩ですが、「日進月歩」という言葉を使う事自体なんだかそぐわない気がするくらい、猛スピードで進んでいる感じがします。次々と新しいサービスが出現しては消えていきます。世の中の仕組みと全く同じで、星の数ほどもあるたくさんのアプリの中で、数限られたものだけが、広く若者の心を捉えることができます。

一昨年には「インスタグラム」が大流行しました。今、若者を中心に人気を博しているのが「スナップチャット」略して「スナチャ」だそうです。既にアメリカなどでは3年以上も前から人気なのだそうですが、ここに来て日本でもユーザー数を伸ばしているのだそうです。

Facebookが爆発的に広まり、若者の象徴のように言われていたのはツイこの前ですが、今の若い人たちは既にFacebookから離れ、インスタグラムに飛びついて、今やスナチャ。Facebookは年配者の交流手段に変貌していっているようです。

スナチャの特徴は何といっても、最大10秒で強制的に送った写真や動画、テキストが消えてしまう事。言い換えると、文字でコミュニケーションが図られた時代から、だんだん画像によるコミュニケーションに変化、更にはそれが現実のおしゃべりのようにログを残すことなく消えてしまうようになったという事です。消えるという切り口は、心理的なハードルを一気に下げる事に成功したようです。

新しい文化は、更に新しい発想を生み、未知の世界を切り開く力を持ちます。スナップチャットのさらに新しい魅力がこれから開花していくのかも知れません。

一方で、人が言葉を紡がなくなる時代に突入しようとしている気がします。「百聞は一見に如かず」という言葉があるように、百の説明するよりもたった1枚の画像を、しかも一瞬見るだけで、思いが伝わる時代になって行くようです。それでも、私は「言葉」の持つ大きな力を、これからも信じていたいと思っています。

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謹賀新年

2017年01月06日 | 雑談
あけましておめでとうございます。

穏やかに新年が明けました。年頭に志を立てると言った意気込みがある方でもなく、主婦にとって忙しい年末年始の合間に、今年はこんな風にあんな風にと思い描く程度の抱負です。それでも、昨年より少し面白いことができたらいいなとは思っています。

人生に限りがあるのは確かな事で、一年ずつ歳を重ねるのは当たり前のことですから、それなりに年齢と折り合いをつけていくしか無いとも感じています。若い頃は、時間は無尽蔵にあるような気がしていたけれど、限りってあるんだよねと最近は思います。でも、だからこそ頑張られるのかも知れません。

人は何のために生きているのかと言うと、現代の風潮のように「自分」のために生きているわけでは無いような気がしています。すべての中心に、シッカリと自分を据えて、自分軸で物を眺める事は、もしかするととても大切な事かも知れませんが、恐らく自分のためだけに生きる事はトテモ空しいのではないだろうかとも思っています。だからと言って「〇〇のために」何かをしようとも思っていません。ただ、第三者が描いている大小さまざまな「夢」の中を、爽やかに通り抜けていく私が居たら素敵かも知れないとは思います。

今年も「素敵なドキドキ」にたくさん出会えることに期待して…、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

佳いお年を

2016年12月26日 | 雑談
年中、言い訳は「バタバタしていて…」でした。そんなバタバタ年も無事に終わろうとしています。うん、色々な事がありました。感慨にふけって、新年の活力に…と思うところではありますが、子ども達の帰省が始まって(ありゃりゃ…)、既にまた「バタバタモード」に突入しています。

そんなこんなで、またゆっくり世の中を斜めから裏から、遠くから近くから、思いっきり自己中に眺めるのは、新年明けてからの事になりそうです。

本年の皆様からの多大なお力添えに心から感謝し(ありがとうございましたっ、最敬礼!)、来る新年が皆様にとりまして幸多いものになりますよう、世の中が少しでも明るい方に向かっていきますよう、お祈り申しあげます。どうぞ、佳いお年をお迎えくださいませ。

らぼ

人生を変える本

2016年12月24日 | 雑談
新聞のトップ一面には、良く本の広告が載ります。広告には「サンヤツ」「半三段広告」「半五段広告」といった分け方があるのだそうです。「サンヤツ」というのは新聞記事の三段分を横に八等分したものを言うそうです。トップ一面下に、8つの広告が横並びで掲載されているのを見る事、そういえばよくあります。次に「半三段広告」はそのまま、記事三段分を横半分ずつ、つまり「サンヤツ」4コマで1つの広告になっているものです。更に「半五段広告」は記事五段分を横半分ずつに分けたもの。勿論、広告を出すには広告料がかかるわけですから、かけた広告料に見合うだけの売れ行きが期待できるはずだという事になります。

つまり、そうした広告は非常にたくさんの人の目に入り、脳裏に焼き付いて、購買に繋がっているわけです。でも「半五段広告」に並んでいる広告の本って、なんとなく似ている気がします。「〇〇が一瞬で変わる」とか「人生を変える〇〇」とか(笑)。見た人の潜在的な部分に、きっとスパッと切り込むようなネーミングなんだろうな…とは思うものの、天邪鬼の私はこの手の本は違和感があり過ぎて馴染めません。

大体、人生が一瞬で変わるはずがありません。そのくらい「目から鱗」の内容が書かれているという事なのでしょうけれど、生き方に関するハウツー本のような類は好きになれません。他人が書いている事を見て本当にそうだな…と思う事はしばしばですが、それは新聞に載っている「明日の運勢」かなんかでも同じ(笑)。あれ、意外と金言が書いてあったりします。干支別に並んでいたりするので、ツイ自分の干支の箇所を読んだりしますが、万人に当てはまる事が書いてあるのだと思ってしまいます。テレビの「ラッキーアイテム」みたいなものでしょうか。

人生本気に変える…には、それなりの自身の経験が必要な気がします。

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優しい時間

2016年12月04日 | 雑談
大学卒業以来、一度もそうした機会がないまま、初のOB展を開催するとの話が出たのが2年前。先輩方のご尽力のおかげで、本当に、本当に!開催されました。ですから、準備期間というのは随分長くあったはずなのですが、親の介護だの子どもの世話だのに明け暮れて、結局もう出品は止めておこうか…とも思ったのを、何とかギリギリで仲間に入れてもらいました。

それよりも、本当に卒業以来ですから、一目ではわからず、名乗り合って「えー!」から始まる再会でした。但し、お話しさせていただいていると、見事にタイムスリップ。懐かしい時間でした。残念ながら所用がありまして、初日しか会場に行けなかったのですが、十分に満喫しました。

何十年という時の流れが、トテモ優しいと感じた時間でした。と同時に、あの頃は「語るべき自分」を持たなかったことを、痛切に思い返しました。若者が世の中を知らないのは当たり前の事ではありますが、それでも「語れる」ものを持っている事は大切な事ではないのだろうかと思いました。諸先輩達を含め、皆が優しい時を重ね、こうして再び出会えたことに、ただひたすら感謝…です。

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欲求

2016年11月29日 | 雑談
マズローの欲求5段階説というのがあるそうです。人間の欲求は5段階のピラミッドのようになっていて、低次元の欲求が充たされて初めて高次元の欲求に繋がるといった事を説いておられます。この理論は有名ならしく、マーケティングやマネジメントなどビジネスシーンでも取り入れられていると聞きます。

人間は自己実現に向かって絶えず成長する生き物だとし、「生理的欲求」「安全欲求」「社会的欲求」「尊厳欲求」「自己実現欲求」といった段階を踏んでいくと考えています。つまり「生理的欲求」であるところの基本的な「食べる」「寝る」などの欲求が充たされて初めて、次の段階の欲求を求めます。次の安全で安心な暮らしを続けたいと思う「安全欲求」が充たされると、仲間が欲しくなる「社会的欲求」に繋がります。社会の中で人とつながっていくことで、他者から認められたいという「尊厳欲求」になり、そうして初めて自分を高めたいという「自己実現欲求」が生まれるのだと。知らないなりに解釈すると、そのような事を唱えられたのがマズローという方なのだそうです。故事に習うなら「衣食足りて礼節を知る」といった事に近いのかも知れません。

突然次元が異なる話になりますが、「朝ご飯を食べる子と、食べない子とでは学力や運動能力に違いが出る」…といった統計が良く持ち出されます。だから、子どもにシッカリ朝食をとらせましょうといった主旨の啓発なのですが、どうも少しニュアンスが違うのではないかと感じています。数字が示すからと言って、直接の因果関係があるかどうかは疑問です。心理学の常識?とされているマズローさんの欲求5段階説も、なんとなく腑に落ちないところがあります。(ハイ、私ごときが言う事ではないですね。良く分かっています。笑)

朝食云々…は、朝食を毎日きちんと食べさせるようにしている家庭は、子どもの教育やしつけにキチンと向き合っている家庭であり、色々な意味できめ細かく生活や学習のサポートに気を配っているため、子どもの学力も伸びやすいと言った事のように思います。マズローの5段階の欲求というのは、より高次な欲求が持てる者は、それより低次の欲求を超越しているといったような事を言っているのではないかと思えたりします。

衣食が足りる事は重要です。一番基本的な欲求をまず満たすことが大切だというのは確かだと思います。ただ、様々に欠けているものが充たされて初めて、人は向上心が持てるのではなくて、より高みを目指す価値観に近づくことで低次の欲求に振り回されない自我が確立できていく、そんな風に思いたいと思いました。うん、今日も支離滅裂。

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算数嫌いを育てないで

2016年11月26日 | 雑談
Twitterに投稿された一つの画像。小学生の算数のテスト答案の画像ですが、訳が分からないと言う声が溢れています。「筆算でしましょう。」と書かれた出題で「3.9+5.1」という問題が出されています。掲載画像では、子どもがそれを筆算にして「9.0」と書いているのですが、先生の赤で小数点以下の「0」が斜線で消されており、1点減点と採点されています。

小学校3年生では「有効数字」という概念は習っていません。数字にとって、上位の「0」や小数点以下の下位の「0」は意味を持ちません。つまり「1,234」という数字を「01,234」と記載しないように、「9」は「9.0」とは記載しない…というのが、小学生へのアプローチなんだろうと思います。ただ、私見ですが、計算対象数値が「3.9」や「5.1」といった風に小数点以下の桁を1桁持っています。答を「9.0」と記載することの方が自然であると感じます。これを「9.00」と書く必要はないし、「9」と書いても間違いではありません。でも、「9.0」となるのが、一番美しい式のように思えます。

ですから、先生が小数点以下1桁目の「0」を赤斜線で消されるまでは良いとして、1点減点する意味は理解できません。算数の時間というのは、数への理解を促し、論理だてて物事を進める術を会得するための学習時間であって、型どおりの儀式を教え込む必要はないと思います。算数の先生は、「算数の世界の美しさ」と、こうすればこうなるという「論理の面白さ」を子ども達に熱く語っていただきたいと思います。

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人権

2016年11月24日 | 雑談
ある方が「人権」というのは国民的課題だという風に表現されていました。なるほど。どこへ行っても、どんなところでも、必ずと言ってよいほどに「人権」の講演会や勉強会は開かれています。様々な角度からアプローチするような工夫が凝らされており、何かしら得るものがあります。

以前、少し年配の方が「最近は人権、人権とよく言われるのだけれど、正直良く分からない」と発言されました。「今、人権と言って、啓発している様々な事象は、すべて人間のモラルだと思うのだけれど」といった趣旨の発言でした。

人権とは、すべての人が生まれながらに持っていると考えられている社会的権利である…とWikipediaは総括しています。誰もが等しく持っている権利だから、他人のそれを侵してはならないという風に謳っているのが「人権」です。これだけ人権学習が叫ばれていても、それでも「いじめ」だの「虐待」だのは後を絶ちません。むしろ、報道されて人の目に晒されることが増えたせいなのかも知れませんが、増えているように思えます。

それに対して、指摘された「モラル」というのは、「自身のあり方」を問うものです。他人が権利を有しているから冒してはならないのではなく、自分がどのようにありたいか? どのように生きたいか? を問い詰めるものです。ですから「誰かが痛い」からしないのではなく、「自らがすべきでは無いと思う」からしないといった発想になります。

定まった「思想」を押し付ける事によって、画一化しようとすることは危険です。ですが、「人間としての美しい生き方」に忠実であろうとすることは、間違ってはいないのではないかと思います。権利云々からアプローチをしていくと、他人の権利と同等に大切にしなければならない自分の権利に行き当ります。自分の、そして自分たちの権利を守ろうとすることは悪い事ではありませんが、それが高じるとトランプ氏やドゥテルテ氏のような発言につながっていくような気がします。品格や人格を重んじるのではなく、物事を損得でストレートに測ろうとする、だからこのような指導者を持った国家は間違いなく「強く」なるのでしょうし、それが世の中の大きな流れの方向のような気がします。

きれいごとや、建前ではなくて、「己の品格」に恥じない生き方を模索する葛藤が、世の中から無くなって行っている事が問題なのかも知れません。

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入試

2016年11月21日 | 雑談
先日の和歌山南部で起きた地震では、ここ滋賀でも「あ!」と体感して思わず一瞬動きを止めました。それ以上揺れは続かなかったので、生活に全く支障は起きませんでした。…と思っていたら、どうやらその折に、近大では全国20会場を使い英語の入試を行っていたと言います。

瞬時に対応が協議され、試験時間が1分間延長されました。ところが、延長の連絡が間に合わなかった会場が2つあり、昼休憩に入ってしまったので、2時限目の試験終了後、問題用紙と答案用紙が再度配られ、1分間の延長分の試験時間を追加実施したそうです。

これに対して、間に昼休憩があったので、友達と答え合わせをするなどが可能だった事から、不公平だという声が上がっているようです。受験生達には、延長時間を設ける事は知らされておらず、それでも「不公平だった」という声は相次いでいるそうです。

受験生にしたら「1点」に泣き、「1点」に笑うわけですから、切実なのかも知れません。20会場のうち、2会場だけが漏れたというのは、会場側のミスでしょうね。ただ、和歌山の地震が各会場で一律に同じ動揺を与えたとは思えません。もしかすると、全く揺れを感じる事のなかった会場も1分の延長時間があったというのは、もしかすると不公平? 言い換えると、不公平なんてその辺にざらにある事だと、居直るしかないのかも知れません。

随分前に、検定試験の試験委員を務めていた時の話を思い出しました。地震ではありませんでしたが、突然館内の非常ベルが誤作動で鳴り響きました。本当に火災が発生したら、まず避難ですから、慌てて調べましたが、結果は「誤作動」、事なきを得ました。ただその間、10名ばかりおられた受験生は誰一人、姿勢を崩すこともなく、誰一人手を止める事もなく、表情一つ変えなかったのが印象的でした。

試験に真摯に向き合って、コツコツと努力を重ねた来られた受験生の皆さんが、それぞれ納得して受け止められる合否結果を手にされますように。

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矢印の半分を赤、半分を白にしたい

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