~風に吹かれて~ by ポー(paw)

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2018.8.11~13休暇村嬬恋鹿沢2(妙義山・中之嶽神社)

2018-08-20 15:53:36 | ・神社・お寺

2018.8.11~13休暇村嬬恋鹿沢2(妙義山・中之嶽神社)

休暇村嬬恋鹿沢へ行きました。kouchaに付き合って植物観察中心ですな。鹿沢へ行く途中、妙義山へ。石門巡りの最後に
中之嶽神社へ降りてきたわけですが、神社の写真だけ切り離して時系列を逆転して投稿します。

何やら大きな黄色い物体が・・・。 

「日本一のだいこく様」だそうですよ。高さ20m、重さ8.5t

関東一円に広がる甲子構中・中之嶽大国神社氏子・崇敬者各位が協力して 平成17年日本一のだいこく様を制作し
奉納しました。だいこく様のお姿は 剣を持つめずらしい姿で、 病や厄、悪霊を祓い福を招く と言い伝えられています。

大黒の「だいこく」が大国に通じるため、古くから神道の神である大国主と混同され、習合して、当初は破壊と豊穣の神
として信仰される。後に豊穣の面が残り、七福神の一柱の大黒様として知られる食物・財福を司る神となった。室町時代
以降は「大国主命」の民族的信仰と習合されて、微笑の相が加えられ、さらに江戸時代になると米俵に乗るといった現在
よく知られる像容となった。現在においては一般には米俵に乗り福袋と打出の小槌を持った微笑の長者形で表される。
by wikipedia

むむ・・・?なんでしょ・・・?>>>「ヘビウリ」だそうですよ。原産地はインド~パキスタンらしいです。

ニホントカゲの幼体 キレイですね~。成体になると青い色は消えてしまうそうですよ。

境内に入ると正面に「中之嶽大国神社(甲子大黒神社)」右手の急な階段の参道を登ると「中之嶽神社」

中之嶽大国神社(甲子大黒神社)社殿(前宮)

大国主命(大黒天)を祭り、子の神様であるので甲子園にあやかりたい野球チームの参拝もあり、野球の神様として
お守りも置いてあります。

中之嶽神社 急な階段の参道

いや~、急ですわ^^;

何やらすごい岩です。

階段上から。

中之嶽神社は轟岩を御神体としていますので、拝殿・幣殿のみで本殿を持たない、珍しい様式となっています。
妙義山の南麓に鎮座する轟岩を神体とする巨岩信仰の神社。轟岩に隣接して拝殿が建立されており、本殿を持たない社殿形式
となっている。

拝殿 脇より。まるでめり込んでいるみたいですね。

拝殿左側には祠やこのような鳥居のような門がありました。詳細は調べてみましたが分からず。。。。。

中之嶽神社は元は「波胡曽神(はこそかみ)」を山の主と祀る神社であったが、倭建尊(日本武尊)が勅命に依り関東御巡行の
際に妙義山に登嶽したと伝えれている。
大和時代の第二十九代欽明天皇(在位539-571年)の御代に妙形氏が社殿を建立、平安末期、第八十二代後鳥羽天皇の寿永二年三月
(1183年)藤原祐胤卿が鍛冶の名工を得て神剣を奉斉いたしました。
江戸時代に入ると、第百八第後水尾天皇の元和二年丁巳月(1616年)、加藤長清(道士)が登厳し中興の開山主として神器を守り
奉斉し、諸大名が崇敬を寄せ、小幡藩主織田筑前守信久侯が社殿を改築、 中之嶽奉行を設け地所を寄進いたしました。
第百十四代中御門天皇の享保五年五月(1720年)、嵯峨御所より十六葉菊御紋付の幕、提灯を下賜せられ、小幡藩の鎮守社として
奉斉され、織田家の後に入封した松平家の崇敬も篤く親祭されました。http://www.nakanotake.com/yuraiより。

白雲衣権現 妙義神社(富岡市妙義町妙義)の地主神・波己曽社 国史現在社(波己曽神)。
社伝によると、宣化天皇二年[537]の創祀。 史料上の初見は『日本三代実録』(貞観元年[889]三月二十六日壬午)の「授上野国
正六位上波己曽神従五位下」。 白雲衣山(白雲山)は妙義山の主峰で、『上野国妙義山旧記』は「山頭天について白雲腰をめくる、
是則白衣観音の現相俯応衆生の効験なれは白雲衣山と号す」と説く。 また、同山の地主破古曽三社大明神について、「破胡曽大明神は
日本仁王四十九代光仁天皇御宇上野国十四郡内利根河西七郡中に群馬之郡地頭は群馬太夫満行と申、榛名山満行大権現と顕、本地地蔵
菩薩、同御前に神と顕被破胡曽大明神と成る、男子八人神と顕る内一人八郎大明神」と記す。 『辛科大明神縁起』によると、御前は
"はこそ(波己曽)大明神"と顕れ、本地は千手観音である。 また、末社が七社(七波己曽)ある。http://www.lares.dti.ne.jp/hisadome/shinto-shu/files/48.html様より。

今回、妙義神社へは寄れませんでしたが、是非、参拝したいと思います。

見晴台にあった祠 さほど古いものではなさそうです。

いや~なかなか修験道!!という感じの神社でございました。次回は妙義神社と巡りたいですね。


中川の箒杉・熊野神社(神奈川県山北町)

2018-08-10 19:22:04 | ・神社・お寺

2018.8.4 その後、9年ぶりに箒杉に会いに行きました。やっぱり大きいわ。 

中川の箒杉

・推定樹齢約2000年、幹周り約12m、根回り約18m、樹高約45m。
・全国名木百選、国の天然記念物、かながわ未来遺産100に指定されています。周辺からは湧水も出ています。

・箒杉という名前の由来ですが、姿が箒に似ているからとか、辺りが箒沢という地名だからという説があります。箒沢という
 地名は「宝木沢」に由来するともいわれ、江戸時代の頃にこの辺りには巨樹も含め、価値ある樹が多くあったそうです。
 そこで幕府が所有地として管理。スギ、ヒノキ、ケヤキ、モミ、ツガ、カヤの伐採を禁じます。近年になると道路整備や
 木材調達の目的で樹は伐採されていきますが、なぜか箒杉だけは残ります。その理由は定かでありませんが、ご神木として
 地域住民から崇められていたからだといわれています。
・1972年の集中豪雨による災害では、箒杉が土砂を食い止め箒沢集落を守ったと伝えられていて、住民は以前にもまして
 町のシンボルツリーとして親しみを持ちます。そのような歴史からか、現在は地元自治体が樹の管理をしています。
・樹の根元には小さな祠、樹の横には熊野神社があり、樹のある場所が集落のシンボルであることが窺えます。
・山側の幹には大枝が折れた痕跡がありますが、これは2003年夏の台風のよるもの。しかし枝が折れた後すぐに、樹木医、
 造園業者による治療が施され、修復されています。

http://tadao-factory.com/2011/08/30/%E4%B8%AD%E5%B7%9D%E3%81%AE%E7%AE%92%E6%9D%89/様より。

丹沢湖へそそぐ中川 清流がとても綺麗でした。ハグロトンボ?が止まっていましたよ。


寒田神社(神奈川県松田町)

2018-08-09 07:38:46 | ・神社・お寺

2018.8.4 丹沢方面へ詣でました。

久しぶりに茅の輪くぐりしましたよ。

youtubeより。
寒田神社の例大祭は7月31日。
遣弊使の参向があり、「豊栄の舞」が奉納され、神輿は、酒匂川で「禊(みそぎ)」を行ってから町内を渡御する。
祭礼の時の大名行列は、松田町の無形文化財に指定され、戦後箱根にも伝えれらている。

狛犬のお尻が可愛かったです。

「歯」の供養碑 何となく歯の形ですね^^

寒田神社(さむたじんじゃ)
・神奈川県足柄上郡松田町松田惣領に鎮座する神社。
・『延喜式神名帳』に小社と記載された相模国の延喜式内社十三社の内の一社とされる。また、境内は酒匂川に面している。
・主祭神 倭建命(日本武尊) 弟橘比売命 菅原道真公 誉田別命
・仁徳天皇の時代の創建。古風土記に記述がある。かつては相模田神社・佐武多神社・佐牟太神社などと称した。
・延喜式神名帳には「相模國足上郡 寒田神社 小」として記載されている。江戸時代には寒田神社神田大明神とも称した。
・社伝では倭建命東征の折、しばらくこの地に滞在されたとされる。
・この地で東征の幸先を祈願した際、酒匂川に酒を流し、東征後この地に戻ってきた際にまだ酒の香りが残っていたため
 酒匂川と名付けられたと伝えられる。このときの椀とされている木椀が神社に伝えられている。
・1626年(寛永3年)徳川家光より朱印地を寄進されるが、1656年(承応3年)酒匂川の氾濫により社殿等流出。1868年
 (慶応4年)に再建された。
・1874年(明治7年)に郷社、1941年(昭和16年)には県社に列せられる。その後、神奈川県神社庁による献幣使参向神社
 となっている他、1971年(昭和46年)には松田町より史跡として指定されている。by wikipedia

けっこう好きな横須賀の走水神社の主祭神も倭建命(日本武尊)と弟橘比売命でしたね。暑い日でしたが、境内は
涼しく、とても居心地の良い空気・空間でした。残念なことに酒匂川から反対側から参拝したので酒匂川を見ていないの
ですよねー。帰ってから気が付いたのでした^^;

 

烏森神社(東京都港区)

2018-08-07 09:00:49 | ・神社・お寺

2018.6 新橋へ飲みに行く前に近くの「烏森神社」へ詣でました。 

 

 

鳥居のデザインが斬新ですなあ。

烏森神社(からすもりじんじゃ)は、東京都港区新橋二丁目にある神社

・社伝によれば、天慶3年(940年)、平将門が乱を起こした時、鎮守府将軍藤原秀郷(俵藤太)が武蔵国のある稲荷神社に
 戦勝を祈願したところ、白狐が現れて白羽の矢を秀郷に与えた。その矢によって速やかに乱を鎮めることができたので、
 それに感謝してどこかに稲荷神社を創建しようと考えていた所、秀郷の夢に白狐が現れ、神鳥が群がる場所が霊地であると
 お告げした。秀郷が現在地である桜田村の森に来た所、お告げの通り烏が群がっていたので、そこに神社を創建したのが
 当社の始まりであるという。
・江戸時代の稲荷ブームの際には、初午の稲荷祭の賑わいは《江戸で一二を争うものであった》という(境内案内板における
 山田將夫宮司の説明、1971年)新橋には他に日比谷神社があり、大祭は日比谷神社と交互に隔年で行われる。当神社の
 大神輿は1930年に名人・山本正太郎(通称だし鉄)によって作られた巨大なもの。「だし鉄の最高傑作とも言われている」
 と境内案内チラシにある。境内に木遣塚あり。また「心願色みくじ」なるものが頒布されている。by wikipedia


2018.6.8~10「山形旅行記」7(寒河江市・慈恩寺)

2018-07-17 16:34:40 | ・神社・お寺

2018.6「山形旅行記」7(膝折温泉)

2018.6 肘折温泉でノンビリ過ごした後、山寺にでもと思ったのですがお疲れモードだったので、とりあえず
寒河江方面へ。国道458号の肘折~寒河江方面は通行止め(冬期間(例年11月初旬から6月中旬頃まで)通行止めのこの区間、
通行可能時でも、標高差約700m・行程約40km中 1/3 程度未舗装・幅員の狭い悪路。)の為、来た道を戻ったのだけれど、
帰ってから調べてみたら、458号を北上すれば良かったみたい。ちょっと遠回り(県道57号~県道331号~国道458号)
しちゃったみたい。

県道57号より

県道331号より(もしかしたら県道57号だったかも)

寒河江で有名な「チェリーランド」にちょこっと寄りました。

三日間、天気はなんとかもってくれました。未だ時間があったので寒河江の慈恩寺へ。

慈恩寺(じおんじ)
・山形県寒河江市にある仏教寺院で現在は慈恩宗の本山。
・創建年 伝神亀元年(724年) 開基 伝行基
・行基によって見いだされ、聖武天皇の勅によって創建したとされる。
・その後、鳥羽天皇の勅で再建され後白河法皇と源頼朝によって山号を与えられた。
・平安時代は荘園主である藤原摂関家から、鎌倉時代から室町時代にかけては地頭・寒河江大江氏の庇護を受け、寒河江大江氏が
 滅ぶと最上氏や江戸幕府によって寺領を認められた。
・江戸時代には東北随一の御朱印地を有し、院坊の数は3ヵ院48坊に達した。
・修験による祈願寺として御朱印地を拝領していたため檀家を持たず、明治の上知令により一山は困窮し帰農する坊が続出した。
・本尊は弥勒菩薩で脇侍として地蔵菩薩、釈迦如来、不動明王と降三世明王を配する国内でも珍しい五尊形式である。創建当初
 八幡大菩薩を鎮守として祭っていたが、時代の変化とともに法相宗、真言宗、天台宗を取り入れ、現在は天台宗真言宗兼学の
 一山寺院として慈恩宗を称する。
・境内地は周囲の中世城館群や行場などとともに2014年10月に国の史跡に指定された。by wikipedia

山門(慈恩寺正門)

元文元年(1736年)築造。3間1戸の楼門造で、入母屋造、八脚門で銅板葺(もと茅葺)。

迫力あります。

本山慈恩寺本堂(国重要文化財)

元和4年(1618年)最上氏により築造。桁行七間、梁間五間、一重、入母屋造、向拝一間、茅葺。明治41年(1908年)、
当時の古社寺保存法により特別保護建造物(現行法の「重要文化財」に相当)に指定。本尊木造弥勒菩薩、釈迦如来坐像、
地蔵菩薩坐像、不動明王立像、降三世明王立像、木造騎獅文殊菩薩、木造騎象普賢菩薩、十羅刹女像、木造二天王立像、
木造如来坐像及び両脇侍立像、木造如来立像、木造菩薩坐像、木造力士立像などを安置。by wikipedia

三重塔
当初、慶長13年(1608年)築造されるも、文政6年(1823年)焼失。文政13年(1830年)再建。本尊木造大日如来坐像。

隣接する熊野神社

慈恩寺は山形盆地葉山の山裾の、寒河江川扇状地より一段高い段丘上に位置する。院坊屋敷地と境内地は概ね東西700m
南北200mの範囲に収まる。扇状地辺縁は標高約125mで仁王坂を上ると標高約146m、参道を160m進むと標高156m。

とても歴史のあるお寺でした。歴史を蓄積した静かな空気・空間でした。

山形駅より。

ステップ台^^

いや~楽しい旅でございました。出羽三山、残る「月山神社」。いつか参拝せねば!
開山期間 7月1日〜9月15日
月山神社本宮のある山頂まで、月山8合目より徒歩3時間弱。下山も徒歩3時間弱。一日がかりの登山ですね~。おわり^^


2018.6「山形旅行記」5(出羽三山神社2)

2018-07-10 18:03:02 | ・神社・お寺

2018.6「山形旅行記」5(出羽三山神社2)

2018.6 山形方面へ参拝の旅に出かけました。さ~て、いよいよ石段参道2446段、登りますよ~。 

羽黒山五重塔を過ぎ、「一の坂」という石段の坂道に入ります。

羽黒山の杉並木は、頂上までの1,7kの参道の両側に右側284本、左側301本の計585本、樹齢300~500年を
超える老杉があります。ミシュランガイド★★★を獲得した景勝地。

おっ、未だ子どもたちが登っている。どうも年長さんは上まで登ってバスが迎えに来ている感じかな。

だいぶ高くなってきました。「二の坂」「三の坂」へ。

階段参道・・・確かにすばらしい杉並木です。

上がるに連れて人も疎らに、少し雨交じりの靄になってきました。一歩一歩の積み重ねで・・・無の境地で・・・?

2446段という事ですが、写真の通り浅くて広い段状も多く登り易いです。

やっと石段上の鳥居に到着。年長さんの兄弟なのかな、年少の僕ちゃんも一緒に到着。すごい頑張っていたんだけど、
雨が降ってきたら我に返ったみたいでワンワン泣いてたんですけどね^^

鳥居をくぐると、雲上の中。靄の中に広がる境内は独特な空気・空間。修験の神社にピタリと寄り添うような靄でした。
まず一つ目の神社。装飾彫刻が凄いです。

かつて弁天堂と呼ばれてた厳島神社。御祭神は市杵島姫命(弁財天)。上り龍と下り龍龍が凄いです。見事な装飾彫刻です。

他の境内社の摂社・末社と違い、何故、表参道である随神門からの石段の最終地点に厳島神社が鎮座しているのか?
https://ameblo.jp/blaue-wind/entry-12322589648.html様によると、

「・・・・羽黒山の石段は龍の形をしており、石段を登った 頂上の入口という場所に厳島神社が鎮座しているのは、
羽黒山頂にある鏡池の主で、蜂子皇子と伊氐波神の対面を仲介した 九頭龍王の妃神として弁才天をお祀りしていた
からなのだそうです。 そして、向拝部分の龍の彫刻は生命を持っており、鏡池の水を飲みに 自由に動き回る姿が頻繁に
見られていたのだそうです。そのため、 参拝している人々がびっくりしてしまうということが起きたため、 『きれいな
お妃さまもお招きしたんだし、龍神様もそろそろ落ち着いて いただけませんかねぇ…(懇願)』という意味を込めて、
彫刻の四方を 金網で囲って動きまわることができないようにしているのだそうです。」

他にググっても情報が見つからなかったため真偽の程?は分かりませんが、ホントに動き出しそうな上り龍・下り龍でした。

羽黒九頭龍王の妃神を祀る厳島神社の隣には、出羽三山開祖である蜂子皇子を祀る「蜂子神社」が鎮座しています。

修験道の聖地とされる出羽三山。その開祖とされる「蜂子皇子(はちこおうじ)」。

「羽黒山縁起」などの伝承によると、蜂子皇子は崇峻天皇の第3皇子で聖徳太子のいとこ。肌の色が黒く、耳元まで口が裂ける
異形ながら、民の苦悩を除く霊力を持っていたとされ、「能除太子」とも呼ばれる。
http://tokumei10.blogspot.com/2014/04/blog-post_8158.htmlより。

蜂子皇子(はちこおうじ)
欽明天皇23年(562年)に崇峻天皇の第三皇子として誕生したと伝わる。崇峻天皇5年(592年)11月3日に、蜂子皇子の父である
崇峻天皇が蘇我馬子により暗殺されたため、馬子から逃れるべく蜂子皇子は聖徳太子によって匿われ宮中を脱出して丹後国由良
(現在の京都府宮津市由良)から海を船で北へと向った。
そして、現在の山形県鶴岡市由良にたどり着いた時、八乙女浦にある舞台岩と呼ばれる岩の上で、八人の乙女が笛の音に合わせて
神楽を舞っているのを見て、皇子はその美しさにひかれて、近くの海岸に上陸した。八乙女浦という地名は、その時の八人の乙女に
由来する。
蜂子皇子はこの後、海岸から三本足の烏(ヤタガラスか?)に導かれて、羽黒山に登り羽黒権現を感得し、出羽三山を開いたと
言われている。
羽黒では、人々の面倒をよく見て、人々の多くの苦悩を取り除いた事から、能除仙(のうじょせん)や能除大師、能除太子
(のうじょたいし)などと呼ばれる様になった。
現在に残されている肖像画では怪異な容貌に描かれたものが多いが、多くの人の悩みを聞いた結果そのような顔になったとも言われて
いる。
出羽三山神社にある皇子の墓(東北地方で唯一の皇族の墓)は、現在も宮内庁によって管理されている。by wikipedia

う~む・・・人々のカルマを引き受けて怪異な容貌になったのでしょうか・・・・


三神合祭殿(さんじんごうさいでん)
社殿は合祭殿造りと称すべき羽黒派古修験道独自のもので、高さ28m(9丈3尺)桁行24.2m(13間2尺)梁間17m(9間2尺4寸)
で主に杉材を使用し、内部は総朱塗りで、屋根の厚さ2.1m(7尺)に及ぶ萱葺きの豪壮な建物である。現在の合祭殿は文政元年
(1818)に完成したもので当時工事に動員された大工は35,138人半を始め木挽・塗師・葺師・石工・彫物師その他の職人合わせて
55,416人、手伝人足37,644人、これに要した米976余石、建設費5,275両2歩に達した。この外に多くの特志寄付を始め、
山麓郷中の手伝人足56,726人程が動員された。建設当時は赤松脂塗であったが、昭和45年~47年にかけ開山1,380年記年奉賛
事業の一環として塗替修復工事が行われ、現在に見るような朱塗りの社殿となった。平成12年、国の重要文化財に指定される。
http://www.dewasanzan.jp/publics/index/19/より。

ググると朱塗りの美しい祭殿なのですが靄が立ち込め・・・残念です。これもまた独特の空気・空間で印象的でしたが。

三神合祭殿内部三神合祭殿は一般神社建築とは異なり、一棟の内に拝殿と御本殿とが造られており、月山・羽黒山・湯殿山の
三神が合祀されているところから、合祭殿造りとも称される独特の社殿で、内内陣は御深秘殿と称し、古来17年毎に式年の
造営が斎行されている。また御本殿長押には、二十四孝の彫刻があり、三神合祭殿額の題字は副島種臣の書である。 
http://www.dewasanzan.jp/publics/index/19/より。

三神合祭殿正面<三神社号額および力士像>
羽黒山頂にあり、三山の開祖蜂子皇子は、難行苦行の末、羽黒大神の御示現を拝し、山頂に羽黒山寂光寺を建立し、次いで
月山神、湯殿山神を勧請して羽黒三所大権現と称して奉仕したと云われる。明治の神仏分離後、大権現号を廃して出羽神社と
称し、三所の神々を合祀しているので建物を三神合祭殿と称している。

月山・湯殿山は遠く山頂や渓谷にあり、冬季の参拝や祭典を執行することが出来ないので、三山の年中恒例又臨時の祭典は全て
羽黒山頂の合祭殿で行われる。古くは大堂、本堂、本殿、本社などとも称され、羽黒修験の根本道場でもあった。

内陣は三戸前の扉に分かれ、正面中央に月読命、右に伊氏波神(稲倉魂命)左に大山祇命,大己貴命,少彦名命を祀る。
本社は大同2年建立以来、度々造替を行ない、近く江戸時代に於いては四度の造替が行われた。慶長10年、最上義光の修造を始め、
明和5年に再造、29年を経た寛政8年炎上、文化2年再建されたが、同8年またまた炎上した。東叡山では再度の炎上に文化10年
荘厳院覚諄を別当に任じ、本社の再建に当たらせ、文政元年1818年完成した。これが現在の本社である。
http://www.dewasanzan.jp/publics/index/19/より。

すばらしい祭殿でした。

祭殿前の「鏡池」
東西38m南北28mの楕円形のこの御池は御本殿の御手洗池であり、年間を通しほとんど水位が変わらず、神秘な御池として
古くより多くの信仰をあつめ、また羽黒信仰の中心でもあった。古書に「羽黒神社」と書いて「いけのみたま」と読ませており、
この池を神霊そのものと考え篤い信仰の捧げられた神秘な御池であり、古来より多くの人々により奉納された、銅鏡が埋納されて
いるので鏡池という。http://www.dewasanzan.jp/publics/index/20/より。

わずかに雨が強くなると静まり返り、弱くなるとカエル(カジカガエルも)や鳥の声が心地よかったです。

鐘楼と建治の大鐘(国の重要文化財)
堂は鏡池の東にあり、切妻造りの萱葺きで、小さいが豪壮な建物である。最上家信の寄進で元和4年再建した。
山内では国宝五重塔に次ぐ古い建物である。
鐘は建治元年の銘があり、古鐘では、東大寺・金剛峰寺に次いで古く且つ大きい。
上帯の飛雲丈は頗る見事な手法で、よく当代の趣味を発揮し、池の間は、雲中飛行の天人や、池注連華を鋳現しているのは、
羽黒の鐘にのみ見る所で、全く希有である。
また天人の図は宇治鳳凰堂の藤原時代の鐘に見るほか、絶えてその例を見ないという。
この鐘は文永・弘安の蒙古襲来の際、羽黒の龍神(九頭龍王)の働きによって、敵の艦船を全部海中に覆滅したので、
鎌倉幕府は、羽黒山の霊威をいたく感じて、鎌倉から鐘大工を送り、羽黒で鐘を鋳て、羽黒山に奉ったのであるという。
http://www.dewasanzan.jp/publics/index/20/より。

これはいったい?????

魔除けの引綱

松例祭(冬の峰)に、つつが虫(悪魔)を引張って焼き捨てる神事に使った引き綱で、綱をかけると悪魔が近寄らないと
伝えられている。
中央の黒い麻糸は、羽黒山頂の鏡池の龍神を表している(綱全体を龍神と見立てているともいわれる)。龍神は火防の神
でもあり、火災が起こらないようにという意味も含まれている。https://www.okaze-gatta.jp/feature/4264様より。

東照社
寛永18年(1641)、第50代天宥別当は徳川幕府の宗教顧問である東叡山の天海僧正の弟子となり、羽黒一山を天台宗に改宗する
条件の一つに、東照権現の羽黒山勧請の周旋を申し出た。
天海僧正は鶴岡城主酒井忠勝に働きかけ、天保2年(1645)藩主は社殿を寄進した。爾来、歴代の藩主の崇敬庇護のもと維持され
てきた。
明治時代に東照宮は東照社と改められ、現在の社殿(3間5間)は昭和55年(1980)に解体復元したものである。天宥別当の勧請の
ねらいは、東照権現を山中に祀ることによって山威を高め、この頃緊張の度を加えつつあった庄内藩との関係を円滑なものに
することにあった。http://www.dewasanzan.jp/publics/index/20/より。

出羽三山には百一末社と称し、羽黒を始め月山、湯殿山の山嶺、または幽谷に多数の末社が散在している。土俵もありました。

天宥社
羽黒山五十世執行別当天宥法印を祀る。

急いでiphoneで撮りました。ほら貝を吹きながら歩いておられました。

五重塔 帰りにはひっそりとしていました。

境内入り口付近

こちらで麦きりを頂きました。若竹の味噌汁とともに美味しかったですよ。

門前町を少しクルマで回りました。宿坊がいくつかありましたよ。

宿坊と魔除けの引綱
門前町手向(とうげ)は、一村総修験で、江戸時代には336坊が軒を連ねた。今に冠木門(かぶきもん)を構え、注連を張った
宿坊があり、霞場や檀那場を支配して、道者の宿泊や山案内をする。又、軒に太い綱をつるしているのを見かけるが、これは
松例祭(冬の峰)に、つつが虫(悪魔)を引張って焼き捨てる神事に使った引き綱で、綱をかけると悪魔が近寄らないと伝えら
れている。http://www.dewasanzan.jp/publics/index/9/#page9より。

いや~見どころ満載の出羽三山神社でした。保育園の遠足の子どもたちと上ったのも良い思い出となるでしょう(笑)
畏れ多い領域(空気・空間)でしたので、子どもたちのおかげで何とか現世に繋ぎとめてもらえたのかも(笑)
山頂が晴れていれば全く違った感じ方だったでしょうね。無事に参拝できて感謝感謝^^ つづく~


2018.6「山形旅行記」4(出羽三山神社1)

2018-07-07 11:46:00 | ・神社・お寺

2018.6「山形旅行記」4(出羽三山神社1)

2018.6 山形方面へ参拝の旅に出かけました。鶴岡市内の本宮三宝荒神社参拝後、羽黒山の出羽三山神社へ。

県道47号線の出羽三山神社大鳥居

出羽三山神社の駐車場に着くと・・・何だか沢山の人が・・・

わ~、保育園の遠足でしたー(笑)
う~ん・・・修験道の神社には似つかわしくないけど、これもまたこれで何だか楽しい(笑

末社・羽黒山天地金神社
随神門の右手前にある朱塗りのお社で、応永4年学頭法性院尊量により創建されたが兵乱のため大破し、後に羽黒山
智憲院宥然により安永8年(1779)再興された。もと「元三大師像」を御本尊としてお祀りしたので大師堂と
称していたが、昭和39年、須佐之男命をお祀りし、天地金神社となり現在に至っている。出羽三山神社hpより。

装飾彫刻の獅子も龍もとても特徴的ですね。なんか可愛らしいです。

天地金神社脇の「豆腐地蔵尊」

この地蔵尊は、第50代別当である天宥別当が羽黒山の二の坂上の 御本坊平あった宝前院という大伽藍の側に安置されて
いたもので、 御山の繁昌と道中安全の守護仏としてお祀りされていたそうです。
廃仏毀釈が激しくなるにつれ、仏像や石像が 燃やされたり壊され、山々を取り囲む谷間に落とされるなどした。 明治6年
宝前院が取り壊しになると、道中を守護してきた この地蔵尊も藪の中に倒されてしまった。
ある時、石工(与蔵)が、地蔵尊を見つけ『お!ちょうど豆腐石にいい石じゃないか!!』と 地蔵尊の顔面を一撃したところ、
その場に卒倒して気を失った。 三日三晩意識が戻らないままだった。 そんな中、与造の夢枕に地蔵尊が立ち『悔い改めよ』

と告げた。 与三は夢の中で自分の行いを反省し、孫子三代にわたり、地蔵尊に 豆腐を捧げることを誓ったところ、四日目に
なって意識が戻った。
この不思議な話を聞いた手向地区の住人の碓氷甚内という者が 五十両の私財を投じ、現在地に地蔵尊を建立した。
それ以来、この地蔵尊は『豆腐地蔵尊』と呼ばれ、延命長寿や 安産子安・子育などの願いを必ず聞き届けてくださると信仰
されているそうです。https://ameblo.jp/blaue-wind/entry-12319056043.html様より。

随神門

羽黒山参詣道の入り口に建つ、赤い山門が随神門。
左右に悪霊の侵入を防ぐ門番の神々(随神)、豊石窓神(とよいわまどのかみ)と櫛石窓神(くしいわまどのかみ)が剣と
弓矢をもって鎮座しています。神仏習合時代は仁王門として仁王像が安置されていました。 

随神門前にある「天拝石」。この不思議な石を通して天を祀ったとされ、修験者の行法を行った場所の石とされている。

さあ、いよいよ羽黒山へ。まずは下っていきます。

継子坂を下ると、参道横に境内社が鎮座する空間へ。

たくさんの末社。遠足なんで子どもたちが多かったですよ~(笑

禊川と禊川神橋(赤い橋)
祓川は月山を源流とする清流で、昔、出羽三山を参拝する人々はこの祓川で罪や穢れを祓い清めたのだと伝えられています。
また、この祓川神橋は、山上の清僧修験(肉食妻帯しない修験者)と山麓の妻帯修験者とを分ける境界となっていたそうです。

「須賀の滝」と拝所である「祓川神社」と「岩戸別神社」。
須賀の滝は、第50代別当であった天宥別当が8km放れた 月山山麓の水呑沢から水を引いて造った人工の滝だそうです。
神仏習合当時は『不動滝』や『祓川滝』と呼ばれていました。

立派な杉です!

「羽黒山の爺スギ」 樹齢1,000年、根周り10.5m、幹囲8.25m。羽黒山内で最大最古の杉の木であります。
近くに婆スギもあったそうですが、明治35年(1902年)の暴風により倒れてしまったのだそうです。

奥に五重塔が見えてきました。

子どもたちがたくさん(笑)  年少さん?はここで折り返すみたいでしたよ。

国宝の羽黒山五重塔

羽黒山五重塔は羽黒山にある室町時代建立の五重塔。

東北地方では最古の塔といわれ、平将門の創建と伝えられています。現在の塔は約600年前の長慶天皇代に、庄内の領主で
羽黒の別当であった武藤政氏によって再建されたものといわれています。

高さが29.0mの三間五層柿葺素木造で、昭和41年には国宝に指定。

明治時代の神仏分離により、神仏習合の形態だった羽黒山は出羽神社となり、山内の寺院や僧坊はほとんど廃され、取り
壊されたが、五重塔は取り壊されずに残された数少ない仏教式建築の1つである。

五重塔は、仏塔の形式の一つ。層塔と呼ばれる楼閣形式の仏塔のうち、五重の屋根を持つものを指す。下から地(基礎)、
水(塔身)、火(笠)、風(請花)、空(宝珠)からなるもので、それぞれが5つの世界(五大思想)を示し、仏教的な
宇宙観を表している。

仏塔は、古代インドにおいて仏舎利(釈迦の遺骨)を祀るために紀元前3世紀頃から造られ始めたストゥーパに起源をもつ。
古代インドのストゥーパは饅頭形(半球形)のものであったが、この形式が中国に伝えられると、楼閣建築の形式を取り入れ
て高層化するようになった。こうした楼閣形の層塔は朝鮮半島を経て日本へ伝えられた。木造の層塔は日本に多く残って
おり、中国、朝鮮半島における遺例はごく少ない。by wikipedia

つづく~


2018.6「山形旅行記」3(本宮三宝荒神社)

2018-07-06 14:48:19 | ・神社・お寺

2018.6「山形旅行記」3(三宝荒神社)

2018.6 山形方面へ参拝の旅に出かけました。翌日は羽黒山・出羽三山神社へ。途中、大きな鳥居が目に入ったので参拝
致しました。

大きな鳥居です。

立派な拝殿です。境内にクルマが数台止まっているものの誰も居りません。ん?張り紙を見ると・・

あ~、「春の湯殿山参り」で氏子さんたちが集まってお出かけになられたのでしょう^^

本宮三宝荒神社(もとみやさんぼうこうじんじゃ)

御祭神
三宝大荒神(高皇産霊大神、天之御中主大神、神皇霊大神)
天照皇大神-歴代皇室御神霊
出羽三山大神-蜂子大神
産土大神-八百万大神

出羽三山が蜂子皇子に開かれた593年の後、皇子が月山山中で御修行の折、東補陀落山に三宝荒様が御出現なされ、
大自然から人間が学ばねばならぬ生き方を教えていただいたのが始まりだそうです。そしてその場所(月山山中に
そびえ立つ岩石)を、『三宝荒神岳』といい、当神社の奥の院として羽黒派古神道を修行する山伏達を始め、多くの
修行者達が登拝しているそうです。(本宮三宝荒神社案内書より)


2018.6「山形旅行記」2(善宝寺・湯野浜温泉)

2018-07-06 14:35:50 | ・神社・お寺

2018.6「山形旅行記」2(善宝寺・湯野浜温泉)

2018.6 山形方面へ参拝の旅に出かけました。湯殿山神社から今夜のお宿の湯野浜温泉へ。
途中、鶴岡市内の善寳寺(ぜんぽうじ)へ伺いました。
先日、佐渡の大野亀へ行ったときに下記の情報を得て、たまたま今回直ぐ近くを通るので
立ち寄ったわけです。

・細い道(参道)が頂まで続いていて狭い頂に石祠が建てられている。台座をいれると高さは2.5m。
・あまりの大きさに、麓からは石燈籠、昔の灯台のように見える。
・石祠台座には「明治廿八未年九月吉日」とあり、石祠内に「龍澤山善寶寺」の御札が納められている。
善寶寺は山形県鶴岡市にある曹洞宗の寺。海の守護神である龍神を祀るお寺として、漁業関係者に厚く信仰され、とくに
 日本海に面した道県で信仰されている。
「龍王講」という漁民が主体となった信仰組織により、明治時代に流行神のように広まったらしい。
善寶寺信仰は佐渡においても盛んだった。
・佐渡の海岸に祀られた善寶寺関係の石塔、石祠小社など60基が報告されている。石塔では善寶寺を象徴する「両大龍王神」
 「八大龍王」の銘が目立つ。
・賽の河原(二ツ亀と大野亀の間)海岸近くの窟屋に納められた地蔵たちは、奥の方に古い佐渡の地蔵たちが不規則に並び、
 手前には新しい地蔵が整然と並んでいる。
https://blog.goo.ne.jp/bosatu2014/e/518f9938154d927c2a05f0ae9c9368ed 様より。

善寳寺(ぜんぽうじ)は、曹洞宗の寺院。山号は龍澤山(りゅうたくさん)。本尊は薬師如来。
妙厳寺、最乗寺と並ぶ曹洞宗三大祈祷所の一つ。

地蔵菩薩像 大きいです。

総門(登録有形文化財) 「善宝寺龍王講」の札が掲げられていますね。

すごい装飾彫刻です。

安政3年(1856年)に再建された十二支を主体とする細やかな彫刻の総門。総ケヤキ造り。この優れた彫刻は棟梁の
剣持藤吉30歳頃の気迫の込められた作。特に獅子の造形と迫力は一見の価値あり。戦時中に十二支の酉(とり)が盗まれ、
一支欠けています。辰は龍の姿では彫刻されていませんので、よくよく探してみてください。
http://www.zenpouji.jp/wp/sanpai より。

奥は「山門」

山門

文久2年(1862年)再建。慶応3年(1867年)5月27日に上棟式を挙行した記録があります。
構造は複雑で彫刻は至妙なる総ケヤキ造り、銅板葺きの楼門です。
門内部両脇には右に「毘沙門天」左に「韋駄天」が門を護ります。
一般にお寺の門には仁王像が安置されることが多いのですが、廃仏毀釈の折、善寳寺に避難してきたこの両尊天像を安置した
と言われております。
山門正面円柱の唐獅子は棟梁の嘉右衛門の作であるのに対し、後方の獅子は棟梁の弟富五郎の作であり、兄弟で技を競い合っ
て力作したものであります。
山門二階楼上内部には秘仏である十六羅漢像が安置されておりますが、一般への公開はしておりません。
梁間に架かっている額縁には善寳寺の山号である「龍澤山」と書かれており、これは江戸時代活躍した鶴岡出身の能筆の
名僧「不幼老卵(ふようろうらん)」が書いたものであります。遠くから見ると小さく、門に近づけば近づくほど鳳凰が羽を
広げるかのように壮麗に見えると言われます。http://www.zenpouji.jp/wp/sanpai より。

五百羅漢堂

安政2年(1855年)建立。531体もの羅漢像は顔の作り・表情も、着物の模様のデザインからポーズまで一つとして
同じものはなく、衣の模様やデザインに至るまで同じものはありません。
北前船で財を成した商人達の寄進によって建てられた、北前船西回り航路の繁栄を感じさせる貴重な文化的遺産です。
「亡き人の面影しのぶ五百羅漢」と詠われるように、かつて写真のない時代には亡くなった人に似た顔を五百体の中から
見つけて、そこに手を合わせたと言われます。
正面は釈迦三尊、十大弟子が祀られ、柱上には風神雷神、左右台座上には東西南北を守護する四天王が安置されしております。
現在東北芸術工科大学様の協力の下、五百羅漢像の修復に取り組んでおり、一体一体丁寧に修復作業を進めております。
http://www.zenpouji.jp/wp/sanpai より。

残念ながら拝観時間が過ぎていて見ることができませんでした。それにしても古い建築物が多いです。

本堂

本堂の裏手に龍王殿があります。

龍王殿

開山の太年清椿大和尚が室町時代後期文安3年(1443年)に守護神の龍神様を祀るために創立したと言われ、天保4年
(1833年)に再建された権現造りの荘厳な伽藍です。
屋根は現在銅板葺きとなっておりますが、かつては茅葺(かやぶき)屋根であり、その形は波のうねりを表し日本古来からの
茅葺技術の粋を集中したものであったといわれます。
この龍王殿は龍の王が棲むといわれる竜宮城を模して造られ、彫刻には滝登りをして龍に変化しようとする鯉や、波しぶきが
彫られており、龍と海との繋がりを表しているといわれます。
建物内部右手には善寳寺の歴代住職の位牌堂、中央の菊の御紋の奥には有栖川宮家様の御霊牌所となっており、左手の金色の
扉の中には善寳寺龍道大龍王、戒道大龍女の二龍神が奉安されております。
2016年には善寳寺開基龍華妙達上人様の生誕1150年を記念してこの黄金の扉がご開帳され、史上初めて龍神様の
ご尊体が一般に公開され沢山の方々より手を合わせて頂きました。http://www.zenpouji.jp/wp/sanpaiより。

ここから発した龍王信仰が日本海、佐渡へと海の安全を願い広まっていったのでしょうね。

山門からの参道階段を下り、五重塔方向へ。

弥勒菩薩

かつて宝暦年中に当地方を未曽有の大飢饉が襲い、悪病が流行しました。 当時の住職(二十三世喝禅方丈)はこれを深く
嘆き、病魔退散、五穀豊熟を強く願い、この巨大な弥勒尊像を建立しました。
弥勒尊さまの周囲に安座されている七体のお地蔵様は、元々は羽黒山におりました。 明治初期の廃仏毀釈の際、川に
沈められようとしていたお地蔵様を当時の住職(三十三世禅山方丈) が聞き及びそれを譲り受けてここに安置したものです。 正面の額は「龍華楼(りゅうげろう)」と読みます。https://ameblo.jp/kamigamino-sasayaki様より。

五重塔

明治26年(1893年)建立。材料は総ケヤキ造り、屋根は銅板葺き、高さ38メートルの大塔は「魚鱗一切之供養塔」
(ぎょりんいっさいのくようとう)として、海の生き物達の供養塔として漁師をはじめ海に関わる人々の願いと祈りを受けて
建立されました。
内部には仏の5つの智慧を表す五智如来が祀られます。
正面:釈迦如来 東方:阿閦(あしゅく)如来 西方:阿弥陀如来 南方:宝勝如来 中央:大日如来(芯柱円柱がそれを
表す)
善寳寺には昔から夜になると音を発する「夜啼き石」という不思議な石があったが、それを塔建立の際に礎石として中央に
納めたといわれ、それ以降石が啼くことはなくなったと言われます。
建立から一年余り後明治27年に起きたマグニチュード7.0の直下型地震である酒田地震大火の際にも、また先の3.11
東日本大震災の際にもヒビ割れ一つなく建っておりました。
大日如来を表す芯柱は塔中央に上から下へ分胴のように吊るされており、振子の役割として免震構造になっており、大地震
からもお護りいただいております。
塔の側面には十二支が3体×4面に彫刻されており、自分の干支を見つけて、その方角から手を合わせるとよいと言われます。
総門と同じく、辰年だけは龍の姿で彫られてはおりませんので、そちらも探してみてください。http://www.zenpouji.jp/wp/sanpai より。 

凄いお寺でございました。平日の夕方だったので参拝者も少なく、悠々とした時間の中でゆっくりと空気・空間を
味わうことができました。感謝感謝^^

行った当時、情報を持ってなくて・・・・奥ノ院の「貝喰の池」へは行けませんでした。あ~残念^^; 
その後、湯野浜温泉へ。

湯野浜温泉
庄内平野・鶴岡市の西部、日本海に面した海浜の温泉郷です。もとの名は“亀の湯”と称され、天喜年間(1053~58年)に
付近の一漁夫が海辺で温浴している亀を見て、この地に温泉が広まったという故事に由来します。
そして奥州三楽郷の一つとされ、上ノ山、東山と並ぶの歓楽地として栄えました。http://www.yunohamaonsen.comより。
つづく~


2018.6「山形旅行記」1(湯殿山神社)

2018-06-28 16:59:35 | ・神社・お寺

2018.6「山形旅行記」1(湯殿山神社)

2018.6 山形方面へ参拝の旅に出かけました。ほとんどクルマで出かけることが多いので「新幹線」が物珍しく(笑)

う~む・・・てっちゃんが惹かれる理由が良く分かります。美しさ、大きさ、音・・・

ご縁があって、鉄道ファンの方々に初めて何も良く分からないままに旅に連れて行ってもらったのは、北海道で最後のSL運行の
年でした。私が15歳の夏。周遊券を使い、二週間夜行列車を繋ぎ、時刻表を見ながら蒸気機関車の写真を撮る旅でした。
そこで、旅行、写真に目覚めたわけです。旅は列車の旅からクルマ主体に、写真は風景からウミウシ、花、鳥と何でも撮る
ようになりました。どこを掘り下げてもまだまだ世の中には知らない事がたくさんあります。今回は、神社主体の旅ですが、
そこを掘り下げても、おそらく生涯たどり着くことはないでしょう。

07:12東京発 10:06山形着 山形新幹線・つばさ123号 乗車。

「山形新幹線・つばさ123号」と「東北新幹線・やまびこ123号」連結部分
福島駅で切り離されます。

車窓風景 米沢を超えた辺り。

山形新幹線
1992年、新在直通方式のミニ新幹線として開業した。名称の通り、福島駅 - 新庄駅間のほとんどが山形県内である。
「新幹線」と案内されているものの、この区間は正式には在来線である奥羽本線の一部。山形新幹線の在来線区間は設備的制約
(踏切の存在、130km/hを超える速度での安全設備が未整備、福島・山形県境の急勾配区間の存在)のため、最高速度は
130km/h。by wikipedia

ミニ新幹線
車長は、フル規格新幹線の25mに対して、ミニ新幹線では20 - 23mであり、車幅は、3380mmに対して、2945mm。
そのため、新幹線区間では、乗降口とホームとの間隔が開いてしまうため、折り畳み式のステップを車両の乗降ドアの下部に
備える。by wikipedia

車両幅が狭いため、座席も通常は2席/3席ですが、山形新幹線は、2席/2席でしたよ。

車窓風景 ん?山の斜面にビニールハウス。調べたらブドウ畑のようです。

・山形県のぶどう栽培の歴史はかなり古く、南陽市鳥上坂のぶどうの碑には、「ここは江戸時代初期にぶどう栽培が始まった
山形県ぶどう発祥の地」とあります。
・大洞鉱山が隆盛していた頃、①甲州(現、山梨県)の鉱夫が甲州ぶどうを持ち込んだ説、②また出羽三山に通じるこの街道を
通って、修験者がぶどうを持ち込んだ説の2つが伝えられています。
・現在、山形県はぶどう生産量で全国3位を誇っている。ぶどうは排水の良い土地を好む。日照が十分あり、昼夜の寒暖の差が

大きく、成熟期に雨が少ないなどの条件も、県内のぶどう産地は満たしており、山梨の勝沼地方ともよくにているといいます。https://www.ajfarm.com/2767/ より。

地元栽培のぶどうを使用し、風土の良さを生かしたワイン作りが盛んで県内には14のワイナリーがあるそうですよ。

車窓からは、上山市の超高層マンション「スカイタワー41」も見えました。最高部の高さが地上134mと山形県内で最高層の
建築物で田んぼの中にドカンと建っていましたよ。

10:06 山形駅到着~。

レール&レンタカー予約していたので駅前のJR駅レンタカーへ。車種は日産NOTEでした。想像よりもなかなか広いです。
大人4人でも十分^^ 山形自動車道で月山方面へ。道中、雪を被った真っ白な月山が綺麗に見えていました。終点月山で
降り国道112号線、湯殿山有料道へ。有料道に入ると、エゾハルゼミの鳴き声が賑やかに陽射しは爽やかに・・・・・

修行の旅(笑)第一弾は「湯殿山神社」。

大鳥居

事前調査でネットで良く見ていた大鳥居。予想していたよりもデッカイですねー。

湯殿山休息所にクルマを停めて歩いて登ろうかと思ったら、この参道にクマが出たのではないかとの情報が^^;
とりあえず、短い距離ですが休息所売店前から参拝バス(片道200円 約1km、徒歩で約20分ほど)に乗りましたよ。

本宮入口 ここから階段参道。

湯殿山のご由来(看板より)

御祭神
大山祇命(おおやまづみのみこと)
大己貴命(おおなむちのみこと)
少彦名命(すくなひこなのみこと)

出羽三山とは、月山・羽黒山・湯殿山の総称で推古天皇元年(593)、第32代崇峻天皇の御子である蜂子皇子様の御開山
である。
皇子は、蘇我氏の難を避け、京都の由良から海路を経て、出羽国庄内浜の由良に入られた。そして三本足の霊鳥の導くまま
羽黒山に入り難行苦行の末、羽黒山上に羽黒権現の御示現を拝し、次いで、月山、湯殿山を開き、両神を羽黒山に勧請して
羽黒三所大権現と称した。

その後、皇子の御徳を慕い、加賀白山を開いた泰澄上人修験道の祖と言われる役の行者、また真言宗の開祖弘法大師
天台宗の開祖伝教大師とその弟子慈覚大師なども来山して修行をしたとも伝えられている。
こうして皇子修行の道は次第に発展して羽黒派修験道となり、全国に名を知られ時代を重ねるにつれ、人々の厚い信仰を

集めることとなった。

此処、湯殿山は、推古13年(605)の御開山とされ、出羽三山の総奥の院として特に厚い信仰を集めてきた。
江戸時代までは真言宗として奉仕してきたが、明治維新に際して神仏分離(廃仏毀釈)が発令され、古への神奈備山にかえり
神社として奉仕している。

殊に出羽三山信仰は「三関三度」や「擬死再生」など、生まれ変わりの信仰が今も尚息づいている。
羽黒山で現世利益の御神徳に与り、月山の大神の下で死後の体験をし、慈悲深い湯殿の大神より、新しい生命を賜って、再生
すると考えられる。

特に湯殿山での修行は三世を超えた大日如来を本地仏とする大山祇命・大己貴命・少彦名命の霊験により、神仏と一体になり
即身成仏を得ることが出来るとされた。
また湯殿山本宮では、御神体を目の当たりに拝し、直に触れてお詣りが出来る御霊験の有り難さより、俳聖松尾芭蕉も
「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」の句を残された、古来「語るなかれ」「聞くなかれ」と戒められた清浄神秘の霊場なので
ある。

なお、ここから撮影は禁止。

湯殿山神社へ参拝

湯殿山は「語るなかれ、聞くなかれ」と言われるように、「湯殿山で見聞きしたことは決して口外してはいけない。それに
ついて聞いてもいけない」という掟が古来よりあるそうです。

湯殿山本宮では、御神体を目の当たりに拝し、直に触れてお詣りが出来る御霊験の有り難さより、俳聖松尾芭蕉も
「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」の句を残された、古来「語るなかれ」「聞くなかれ」と戒められた清浄神秘の霊場なので

ある。

というわけで多くは語りません。ググると情報はたくさん出てきますのでお調べください。

感想としては、湯殿山神社の御神体にも驚かされましたが、御神体近くはいかにエネルギーが漲っているか感覚的に感じられ
ました。
それは風水で云う龍穴のようで、上野原の軍刀利神社奥ノ院の大桂の地場と同じような感覚。こちらの方が更に大きな
磁場というか地球のエネルギーを感じましたね。神社空間というよりもエネルギー凝縮場、自然に頭を垂れる・手を合わせて
しまう畏れ多い自然への崇拝・・・原始信仰が未だに息づいているような場でした。

三山が神仏習合であった時代、三山を抖擻(とそう)する修行を「三関三渡」といった。羽黒山は観音菩薩(現在)、月山は
阿弥陀如来(過去)、葉山や薬師岳は薬師如来(未来)とされ、それらの加護と導きにより現在・過去・未来の三関を乗り越え、
湯殿山の大日如来(三関を超越した世界)の宝窟に安住し、即身成仏(生きたまま悟りを開く)の妙果を得るというものである。
裸足になってご神体に登拝するのは、大日如来と一体になって感得することである。また湯殿山は神の世界ゆえ、古来より人工は
許されず社殿を設けないのである。

湯殿山神社本宮では、参拝に際して現在でも履き物を脱ぎ、裸足になり、御祓いを受けてからでなければお詣りは許されない。
俗世とは切り離された神域である。

月山から西に尾根づたいに下りること8km、月山の絶頂より流れ落ちる梵字川のほとり、幽邃な仙境に、悠久の太古より、滾々と
霊厳とを御霊代として、大山祗神、大巳貴命(大国主神)、少彦名神の三神が鎮まります湯殿山神社(1,100m)がある。
http://www.dewasanzan.jp/publics/index/16/ より。

開山期間は、積雪のため6月1日より11月3日頃まで。(積雪期は閉山、湯殿山開山祭/6月1日) 

本宮入り口より 赤い鳥居が見えています。素晴らしい場でした。帰りは徒歩で下りました。

タニウツギ 満開でした。

本宮入り口・・・後ろ髪を引かれるように・・・バスで登ってきた参道を下ります。

ミズバショウとキンリュウカ

参道のあちこちに境内社がありました。

水の流れの音が心地よいです。

水の流れは湯殿山神社方向から。流れの下は黄褐色の石岩が続いています。

梵字川にかかる神橋

湯殿山神社方向 湯殿山神社から神橋が見えておりました。

まだまだ雪が残っていました。

大鳥居脇の「玉姫稲荷神社」

此処仙人沢の霊域に於いて、即身成仏の修行に挺身された鉄門海上人が守り神として帰依され、その御守護を得て成仏されたと
のいわれから湯殿大神に願掛けする人は、先ず玉姫稲荷にお参りし、その霊験におすがりし、そのおたすけを頂いて本願を達成
するという習わしがありました。(由緒看板より)

ナガハシスミレ?

日本国内にはおよそ十数体の即身仏が現存すると言われていますが、そのうち6体が庄内の5つの寺院に安置されているそうです。

湯殿山休憩所でお蕎麦を頂きました。つづく~


2018.5.25~27「佐渡島」旅行記14(牛尾神社~帰路)

2018-06-22 14:19:40 | ・神社・お寺

2018.5.25~27「佐渡島」旅行記14(牛尾神社~帰路)

2018.5.25~27 佐渡島へ行ってきました。メインは植物観察。

27日、佐渡金山・北沢浮遊選鉱場跡、塩生湿地の植物探索後、一路、海岸から標高900m付近の天然杉遊歩道コースへ。
昼食後、「トキの森公園」&自然の朱鷺を観察して、旅の最後にちょっとだけ神社へ。

境内社の天満宮 薬師堂と太子堂を合祀。文政9年(1826年)建立の棟札あり。
すごい存在感の天満宮です。

拝殿前の大杉が印象的です。

拝殿 すごい装飾彫刻です。屋根もすごいですね。シャチホコも飾られています。

能舞台

「潟上の天王さん」の奉納能 牛尾神社は出雲大社の流れをくむ由緒ある古社。能舞台も格式と重厚さを備え、佐渡の能舞台
ではほぼ最大。薪能の歴史も佐渡では古いものの一つです。天王祭宵宮では能舞台において薪能を奉納。潟上と吾潟の鬼太鼓
も奉納されます。本祭では、巫女舞、大黒舞。神輿渡御が行われ、鬼太鼓が家々を門付して回ります。さど観光ナビより。

・・・いったい本殿はどうなっているんでしょう。

「潟上の天王さん」の名前で親しまれる古社。792年「出雲大社」より大国主命などを勧請して建立。再建された拝殿には
鯉の泳ぐ姿や順徳上皇の物語絵など精緻な彫刻群が施され、当時の棟梁や名工たちの技術が偲ばれます。拝殿前の樹齢
約1千年の御神木は、子授け・安産の杉として信仰されています。1901年に再建された瓦葺き正面入母屋造り・背面寄棟造り
の能舞台(県の有形民俗文化財)は、定能が盛んであった「国仲四所の御能場」の1つに数えられます。演能の歴史も古く、
室町期の能面「翁面」と「三番叟面」(県の有形文化財)が社宝として保管されており、毎年6月には例祭宵宮薪能が演じられています。さど観光ナビより。

拝殿脇

龍もド迫力です。

鬼瓦もスゴイですね。

15:11撮影 流石に帰りの時間が圧していて駆け足の参拝になってしまいました。

境内は重厚で、ゆっくりとその空気・空間に溶けてみたかったですね。さて大急ぎでフェリー乗り場へ。

両津港付近のシャッター街。

・両津港から10分ほど歩いたところに、古くから栄えてきた「両津夷(えびす)本町商店街」。約1キロにわたって
 100軒近い商店が並ぶが、営業しているのは十数軒。過疎化でシャッター通り化してしまった。
・昭和25年に約12万6千人だった島の人口は年々減り、平成25年4月1日現在で約6万1千人と半数以下になった。
・若者の島離れと高齢化が原因だ。佐渡では進学と就職のため、高校卒業後に約80%の若者が島を離れる。
・さらに毎年、千人程度の島民が亡くなっていく。
・夕暮れの後、両津港近くの住宅街を歩くと、明かりが漏れてこない民家が多いことに戸惑う。
・市の人口のうち65歳以上の割合は昭和25年に6・6%だったが、平成25年4月1日現在で37・7%となっている。
・平均年齢も平成16年に49・38歳だったが、今年2月末現在で52・28歳まで上がった。
・佐渡市は地域再生のため、留学生や観光客の受け入れ、農業の連携先などとして中国との関係を強化する道を模索している。
 産経ニュースより。

・・・・佐渡は深刻な問題を抱えているのですね。歴史も辿れるし、素晴らしい自然もあり、何とか観光等で、
もっともっと盛り上がってもらいたいですね。

佐渡について
佐渡島は新潟県の日本海沖に浮かぶ、周囲281.5km人口約57000人の大きな離島です。地図で見るとSの字や蝶々の形に
見えるなどインパクトのある形をしているのではないでしょうか。島の中央には広い穀倉地帯の平野が広がり、その北側
には標高1000mを超える大佐渡山脈、南側には果樹栽培が盛んな小佐渡山地があります。 佐渡の作り上げる自然は多様で、
海を見れば砂浜、砂利浜、岩礁、断崖絶壁、山を見れば棚田、果樹園地、深い谷や、急峻な山。多くの渡り鳥がその羽を
休める島であり、トキと共生する生物に優しい島づくりをしています。 佐渡島沖の海流の影響で、新潟県本土に比べ
冬は1,2度高く反対に夏は1,2度涼しい。季節の移ろいがとても丁寧で四季折々の植物、魚、果樹を楽しむことができます。
また鬼太鼓、薪能を始め伝統文化が島民によって守られ、現代でも継承を行っています。
佐渡UIターンサポートセンターより。

16:05両津→18:35新潟フェリーに乗り込み、クタクタ状態で新潟へ。

佐渡でお寿司食べたかったーという事で調べたら直ぐ近くに「廻転寿司 佐渡 弁慶」が^^
でも40分待ちとの事でお隣の「別館・立ち食い」へ。こちらは空いていて直ぐに食べられました^^
ノドグロ、カワハギ肝のせ 美味しゅうございました。感謝感謝。

その後、新潟から東京までkouchaと交代で関越自動車道を南下。0時前には自宅に到着。なかなかパワフルな旅行で
ございました。(終)


2018.5.25~27「佐渡島」旅行記4(荒崎神社)

2018-06-06 00:38:57 | ・神社・お寺

2018.5.25~27「佐渡島」旅行記4(荒崎神社)

2018.5.25~27 佐渡島へ行ってきました。メインは植物観察。「二ツ亀」「大野亀」の後、ドンデン山荘へ。

その途中の気になった「荒崎神社」と「大クワ」の木に立ち寄りました。

両津港から新潟県道45号線を北上後、西へ回り込んでドンデン山荘へ向かうルート(新潟県道81号線・佐渡縦貫線)
が6/17まで入川側冬期閉鎖継の為、北上した45号線を南下。北上時に気になった神社を参拝しました。この45号線
沿いには集落ごとにしっかりとした神社がありそうでしたよ。ググってみると両津から北端まで1~2km毎に神社が
あるようです。

新潟県の4700社余りに及ぶ神社数は全国一。『延喜式』の式内社は、越後、佐渡では63社を数えます。

幾つかの神社を通り過ぎたうち「荒崎神社」にお呼びがかかりました(笑)いえいえ拝殿の装飾彫刻が目に飛び込んだ
からでした。

荒崎神社

祭神 迦具土命(かぐつちのみこと)

宝暦寺社帳に「荒崎大明神、社人助右エ門、当社永享十午年(一四三八)勧請、社地弐畝歩御除 」とある。

利済庵の鎮守であったものが村の産土神として祀られたといわれている。その名残であろうか、 以前は元旦の早朝に
利済庵の僧侶が読経をしてから、参拝者が新年のあいさつを交わすという風習 があった。

祭神「迦具土命」は伊邪那美命(いざなみのみこと)の子で火の神であるところから、火を使う 塩釜に関係がある神社
いわれている。境内からは、縄文土器・石鏃(やじり)などが出土してい る。 看板より。

由緒:京都の愛宕神社を勧請したという伝承がある利済庵(曹洞宗の寺院)の鎮守だったものが、村の産土神として
祀られたといわれています。現在の社殿は昭和10年の改築。

立派な装飾彫刻です。狛犬が見当たりませんでしたが、拝殿内に木彫の狛犬が居られたようですよ。
http://www.komainu.org/sado/ryotu/arasaki/arasaki.htmlより。

明治の頃、新潟県は全国で最も人口が多かったこと、或いは明治末期に時の政府が進めた神社合祀政策の影響を比較的
受けなかったことなどが背景にあると考えられます。
人口が多かったということは、かつて日本人の9割が農業によって生活を成り立たせていた時代に、広い穀倉地帯を有し、
収穫高が大きかったことが関係しています。
人口の多さが自然村(農耕・漁労を通じて、自然に形成された村落共同体)の多さにつながり、必然的に神社数も多かった

のだということになります。その意味では、新潟県は神社の自然な成り立ちを今に伝えていると言えるでしょう。
新潟県神社庁より

なるほど、このような理由で神社が多いわけですね。

続いて、近くの「羽吉の大クワ」

大クワは、旧家のお屋敷内に立っています。私有物ですが、そこまで小道が作られていて、誰でも自由に見学できるように
なっています。旧家の一階の屋根は押しつぶされていました。

養蚕の歴史を伝えるヤマグワの巨木
佐渡は昔から山桑摘みの養蚕の島で、県下で1~2位の養蚕地でした。
このヤマグワは樹齢約1300年と推定される老大樹で、根元周囲5.2m、高さ9m。幹が4本に分岐しており、枝張りは18m。
北海道小樽の恵比寿神社の大クワ、群馬県沼田市の薄根の大クワとともに日本のクワ三名木の一つに挙げられています。
さど観光ナビより

いや~立派な桑の木でした。桑の木ってこんなに大きくなるんですねー。


子の神氷川神社(埼玉県新座市膝折)

2018-05-25 03:39:13 | ・神社・お寺

2018.5 ときどき前を通る神社へ参拝へ。鳥居の中(境内)がどうなっているか分からなくて気になっていたんですわ。
陸上自衛隊朝霞駐屯地の丘陵の西で黒目川の間に鎮座しています。

 

『風土記稿』によれば、膝折の地名は小栗小次郎助重が賊に追われて馬で当地まで逃れて来たところ鬼鹿毛というその馬が
膝を折って死んだことに由来する。また昔高麗の城の落人五人が原野であった当地を開墾したという。

一方『埼玉県地名誌』では「鳥取県三朝町の中津地方で二月初午をスネオリといって、この日は山の神の木数え日で山に
入れば脛を折る」との伝説に基づき、地名の由来を推測している。

当地は既に室町期から宿駅として栄え、『廻国雑記』を著した聖護院道興は文明十八年(一四八六)に膝折の里に入り、
ここで休憩した際に、この地に市が立てられて商人が集まっていたと記している。

武蔵野台地の水の乏しい中、ここは低地にあり水に恵まれたことが、早くから宿場を形成する要因となったものであろう。

当社はこの膝折の里の南方の「子の神」と呼ばれる山上に鎮まる。創建についての伝承は語られていないが、古くから山の
神として祀られていた子の神が坐す山上に、中世、一の宮として名高い氷川神社が村の鎮守として勧請されたことが推測
される。

別当は真言宗持明院で、当社の北方八〇〇メートルほどの所(膝折一丁目・塩野製作所の辺り)がその跡地で、明治八年に
廃寺となった。

『明細帳』によると、明治四十三年に宇宿の愛宕社・字上ノ原の稲荷社・字下ノ原の稲荷社の無格社三社を村社である当社
に合祀した。(境内掲示より)


若宮八幡神社(埼玉県東松山市)

2018-05-18 14:50:44 | ・神社・お寺

2018.5 東松山の若宮八幡神社を参拝。

この神社は古墳の上に鎮座していましたよ。

八幡神社由緒略記
御祭神   誉田別尊(応神天皇)
倉稲魂命   武御名方命
菅原道真   別雷命
素盞鳴命   軻遇突智命
御由緒
当所石橋の八幡神社は誉田別尊(応神天皇)を主祭神と齋きまつり明治40年3月23日宇附川稲荷神社、城山五社大神,
上宿愛宕神社を合祀せる古社なり。

昔大神は深く内外の政治に大御心を用いられ文学を奨励し殖産興業を盛んにし数多の池溝を開き潅漑の便を計り又大船を
作り交通の道をも開かれ当時国内は勿論韓国との交通甚だ頻繁となし海外の文化を導入し謙譲忍耐、和表、協同の徳を
もって国家を安泰し国民を安んじ給えり、
されば大神は厄除開運の御神徳と共に文教及び産業の守護神として万人齋し、尊崇する中に当社は私達祖先により慶長元年
(1596)村内守護のため此の地の古墳上に社殿をを造営し相模国鎌倉の鶴岡八幡宮より神霊を文祀し代々祭祀怠らず
厚き神護の下営々として村づくりにいそしみ来たれり。

爾来星霜移り社殿の老朽甚だしく再建の議澎湃として起り昭和48年12月16日竣工淨闇の裡に壮麗清浄の新殿に神霊を
奉安し盛大に奉祝今日に及ぶ而して今や神威益々赫々の光を発し氏子崇敬者を鎮守し給え御神徳の洪大なるを偲ばしむ。

文化財 史跡 若宮八幡古墳一基
埼分指第179号 昭和39年3月 指定
主なる祭事
祭旦祭   1月1日
祈年祭   4月15日
例大祭  10月15日

う~ん・・・ちょっと残念な繭額

良いお顔です^^

若宮八幡古墳(下唐子3号墳)の上に建てられています。

ヤグルマギクが綺麗でした。もう終わりかけですけど。。。埼玉の道端でよく見かけます。繁殖力が強いですね。
一年草ですが、こぼれ種でもよく増えるみたい。


小野照﨑神社(東京都台東区下谷)

2018-05-17 17:22:53 | ・神社・お寺

2018.5 飲みの後、道に迷いフラフラ歩いていたら、グーグル地図にある名前の神社があって独りで盛り上がってた

のですが、残念ながら、その神社は現地には存在していませんでした。残念。。。。更に歩いていたら、あちこちに
神社旗が・・・。

平成30年5月13日

「大祭」 5月18・19・20日(金・土・日)

今年も一年に一度の入谷の町を挙げての最も大きなお祭り「大祭」の季節がやってまいりました。

五月の清々しい空の下、18日に各町神酒所のお祓いと御神輿への御霊入れの神事があり、19日は神社では大祭式が執り
行われる中、各町会内では神輿が各町内を練り歩き、初夏の入谷に活気のある舁ぎ声が響き渡ります。

最終日の20日には、地域17の町会、約十基の町神輿が一列に並び神社まで渡御をする「連合渡御」が行われ、祭りの
活気はピークを迎えます。


神社にて期間中は、一年の皆さま方の安寧を祈念する「大祭特別祈祷」も受け付けております。
ご家族ご一統様、お揃いでのご参拝を心よりお待ち申し上げます。


5月18日(金) 宵宮
5月19日(土) 大祭式
5月20日(日) 連合渡御  http://onoteru.or.jp/ より。

さすが、下町!!ポスターやhpからすでに熱気を感じます。で、小野照﨑神社へ。

さすがにちょ~っと暗くて境内の中はよく解りませんでしたが、夜でもひっきりなしに参拝者が来られていました。

小野照崎神社
由緒 小野篁を主祭神とし、相殿に菅原道真を祀る。
852年(仁寿2年)この地の住民が上野照崎の地に小野篁を奉斎したのが起源と伝わる。
寛永年間(1624年-1643年)、寛永寺の建立のため幕府より移転を命じられ、現社地に遷座した。
江戸末期、回向院より菅原道真自刻と伝わる像を迎えて相殿に祀り、「江戸二十五天神」の一つに数えられた。
樋口一葉の「たけくらべ」に「小野照さま」の名で出ている。
境内末社:富士浅間神社(下谷坂本富士)、御嶽神社、三峰神社、琴平神社、庚申塚( 日本三大庚申の一つ)、
稲荷神社、織姫神社

by wikipedia

ありゃ~、富士塚があったんですね~。暗くてよく分からなかったのでした。改めて昼間に参拝に行ってみたいと思います。

小野篁(おののたかむら)
・延暦21年(802年) - 仁寿2年12月22日(853年2月3日)

・平安時代前期の役人であり学者であり歌人である人物。
・貴族たちが保身のため言質を取られないように生きる中で、清廉反骨、直情なその姿勢は『野狂』と呼ばれる。
・人間でありながら、閻魔大王の裁判の手伝いをしていたという話がある。「朝には朝に務め、夕べには冥府に仕える」
 つまり、朝(昼間)は朝廷に勤め、夜は冥界で閻魔大王の副官をしていると恐れられていた。
・篁が地獄の冥官であるという話は自然に世間に広まり、皆、篁を恐れたという。
・小野篁は、亡くなった母に会うために冥土に通い始めたといわれる。 
https://matome.naver.jp/odai/2136909827563985801より

852年に奉ったという事は、未だ小野篁は生きていたという事??小野篁の事は全く知らなかったので良い勉強に
なりました。小野篁は霊能者だったという事なのでしょうがなかなか興味深いです。ちょっと調べてみようかな。