マヨの本音

日本の古代史から現代まで、歴史を学びながら現代を読み解く。起こった出来事は偶然なのか、それとも仕組まれたものなのか?

大阪出張です。

2010年03月02日 06時00分01秒 | ひとりごと
今日は朝の一仕事を済ませたら大阪へ出張しなければならない。昔は毎週のように行っていたが、最近は年に数回しか用事がなくなってしまった。せっかく行くのだからいろいろ寄ってこよう。
なにせ大嫌いな大阪なのだが、やはり西日本の中心なだけあり、特に繊維に関しては大阪の優位は動かない。
軽蔑しながらも大阪商人のど根性は見習うところは多いのである。
加治木氏によれば大阪は「うおーさか」で、「倭のサカ」ということ。つまり、倭国のスキタイ族の中心だったことになる。この中心から天智天皇に追われ逃げたのが蘇我蝦夷のナガスネヒコである孝徳天皇、頭を下げたのがニギハヤヒである中臣鎌足になるのだそうだ。いずれにしても私も昔、十三(じゅうそう)で飲んだことがあるがそこが「とみ」の意味だとは驚いた。登美長すね彦のトミである。さらに、新大阪から難波方面の地下鉄に乗ると「中津」に止まる。ここが「中臣の国」なのである。さらに、乗る地下鉄の行き先は「なかもず」で、この百舌は「百済」そのものだという。うーん・・・倭国の当時の首都はいまや河川工事の結果、淀川の下に沈んでしまっているとのこと・・・・、ちょうど今日その上を通ることになる。なるほど、大阪には古代の怨念がこもっているのだ。私が何か大阪を嫌がる理由がそのあたりにあるのかも、つまり、住民は真実をすべて知っているのに本当のことを言えなく、結果ボケと突っ込みの笑いでごまかしてきたのかも・・・。大阪漫才にはそのような庶民の悲哀がこもっているのか?
江戸の場合、比較的抑圧された歴史はなく、ある意味本音が通用し、過ごし易かったのではないか。大阪はやはり怖いところだったのだ。それに比べ、名古屋は倭国の王族が逃げ込んだところで、明治になるまで一種の治外法権だったのだろう。つまり、倭国の王族の宮廷言葉が保存されたのである。もちろん名古屋弁のことだが・・・。(本当かな?)
古代史の謎、白村江の戦いが行なわれたのは枚方のことだそうである、天智天皇と孝徳天皇の戦いを頭に浮かべながら大阪へ行ってきます。