マヨの本音

日本の古代史から現代まで、歴史を学びながら現代を読み解く。起こった出来事は偶然なのか、それとも仕組まれたものなのか?

卑弥呼は困っていたのだ

2021年07月23日 17時01分19秒 | 歴史の翻訳

時間がたっぷりあるのでこの際、邪馬台国関係をまとめようと思います。かなり長い話になるので何回かに分ける必要が出てくるかもですが‥‥とりあえず始めてみましょう。
邪馬台国論争というのがありますが、真実は目の前にあるのに全く真実を見ようとしない教育者の姿勢にはあきれるしかない。私の主張が全面的に正しいとはとても言えないが、少なくとも真実に近づきつつあることは間違いないと思っています。wikiからの引用が多くとても読みにくいとは思いますが、私が描く世界を少しでいいので共有していただきたいと思っています。

まず最初に邪馬台国の位置に関してはとても長くなるため省かせていただきます。なぜならその検証はたいした意味はないためで、一番大事なことは、魏志倭人伝で描かれている邪馬台国は我々がエジプトと呼んでいる国であり、その当時は倭国だったということなのです。そんな馬鹿なと読み捨てるのではなく、日本を作った人たちが聖書、中国の史書、朝鮮史も日本書紀も作ったことを認識し、いかに彼らが優秀だったかを知る必要があります。パソコンもコピーもない時代に、よくぞあれほどの歴史を作り上げたか、全くあきれるほどです。
黒沢明が作った映画「七人の侍」をリメークした作品に「荒野の七人」があります。それを単独で見た人は元の作品を想像できるでしょうか。場所も時代も違うのに根本の流れは変えず、何の違和感も感じずに見てしまう。これがユダヤ人の得意技、歴史の捏造のテクニックとなります。
松本清張の「砂の器」では空襲で亡くなった夫婦の戸籍を乗っ取り有名なピアニストになる話があります。歴史の捏造はこれと似たテクニックが使われます。時代を合わすために架空の人物を配置したり、物語を面白くしたり、教訓的な話を埋め込むため勝手な物語を挿入したり、ある意味フィクションになってしまう部分も出てきます。
さて、魏志倭人伝の卑弥呼を読み解いて行きますが、かなり長くて面倒な話になりますので興味のない方は適当に読み飛ばしてください。
まだ十分に解明できていないことが多いので、また新しい発見があった場合はブログでお知らせすることになると思います。

「卑弥呼の時代とは」
まず時代背景からはっきりしておかねばなりません。魏志倭人伝で伝えられている歴史はおおむね西暦200年前後のことになっています。倭国の女王公孫氏の娘、卑弥呼は魏の洛陽に朝貢する。当時、中国は三国志の時代で、魏、呉、蜀が覇権を争っていて、ほぼ魏が中原を支配する時期となっています。ところがオリエントに存在した三国時代はいくつかあるのですが今回の場合、バビロニア、イシン、ラルサの覇権争いの時代と見ます。すると魏の明帝の時代はアッカド王朝のハンムラビの時代になり、実態はBC1790から1757年ごろとなります。歴史のリメークを読むにはこの時代の差を理解してもらう必要があります。

つまりその時代の世界の中心はバビロニアであり、魏書はそこに展開した世界が描かれたということ。従って漢書、晋書、隋書、唐書、それぞれ違う立場から書かれているためその違いを知ることは歴史の奥深さを知るうえでとても興味深いお勉強になります。
さて、オリエント史から見ると公孫氏は中国史では燕の国、オリエントではシリア地域のエブラ王国、もしくはマリ王国などのシリア諸国に当たります。当時の公孫氏(シリア)は倭国(エジプト第12王朝)の宗主国だったといわれています。
稲羽氏あるいは鹿島氏は公孫氏をエブラ王国に比定しているようですが、私はマリ王国ではないかと考えます。wikiで比較しましたがハムラビに滅ぼされたのはマリで、エブラはおそらくヒッタイトに滅ぼされている。

「魏とは」・・・バビロニア
「バビロニアは世界で最も古くから農耕が行われている地域の一つであり、前4000年期には既に中東の広い範囲との間に交易ネットワークが張り巡らされていた。前3000年期には文字が使用され始めた。初めて文字システム体系を構築したシュメール人やアッカド人たちはバビロニア南部でウルやウルク、ニップル、ラガシュなどに代表される多数の都市国家を構築し、前3000年期後半にはアッカド帝国がバビロニアを含むメソポタミア全域への支配を打ち立て、更にウル第三王朝がそれに続いた。
前2000年期に入ると、アムル人(アモリ人)と呼ばれる人々がメソポタミア全域で多数の王朝を打ち立てた。その内の一つでバビロンに勃興したバビロン第1王朝は、ハンムラビ王(在位:前1792年-前1750年)の時代にメソポタミアをほぼ統一し、バビロンが地域の中心都市となる契機を作った。
アッカドの王サルゴンとその孫ナラム・シンはメソポタミアのほとんどを征服したが、二人とも自分がエブラを破壊したと書き記している。破壊された正確な時期についてはなお論争のさなかであるが、紀元前2240年は説の中でも可能性の高いものである。これ以後の3世紀の間、エブラは経済的な重要性を若干回復したが、以前の繁栄には及ばなかった。この時期、ニップルの近郊のドレヘム(Drehem)からの文書やヒッタイトのカネシュからの文書にあるように、エブラは近隣の都市国家ウルシュ(Urshu)と結びつきを持っていた可能性もある。

(倭国の中の邪馬台国)
さて、倭国のエジプト王朝ですが、12王朝(紀元前1991年頃 - 紀元前1782年頃)は、エジプト中王国時代の古代エジプト王朝でアメンエムハト1世から始まり戦略的な理由からテーベからイチ・タウイに首都が移されている。要は、王権に正当性が乏しいく不安定だったと思われる。
アメンエムハト3世の死後、第12王朝の王権は急速に不安定になった。次の王とされるアメンエムハト4世についての記録はほとんどなく、彼は単に共同統治者であったのであって単独で統治したことはなかったのかもしれない。アメンエムハト4世が短期間で死去すると、王妃セベクネフェルが政権を握り、後に正式に王として即位して女王となった。しかし彼女についての記録も乏しく、間もなく第13王朝へと政権は移行した。女性が王となるという事態は当時としてはやはり特異なことであり、王位継承に関して何らかの問題があったことが伺われる。
アメンエムハト1世は第11王朝時代に任命されていた州侯を罷免し、王室に敵対的であるとして排除された有力者の地位を復活させた。これはアメンエムハト1世の即位が第11王朝の政策に不満を持つ有力者の支持を背景としたものであったためである。しかし、家臣が強大な権力を持つことは王権の側からは好ましいことであるはずも無く、第12王朝の歴代王は長期的には州侯などの権力を削いでいく方針を持って統治に当たった。

(当時の高句麗)
ヒッタイト王国を建国したのは、ハットゥシャの南北の地域を征服したラバルナ1世あるいはハットゥシリ1世のいずれかとされている(これらが同一人物ではないかとする論争もある)。ハットゥシリ1世はシリアのヤムハドまで遠征して攻撃したが、その首都であるアレッポを攻め落とす事は出来なかった。彼の後継者であるムルシリ1世は、紀元前1595年の戦役でアレッポを征服した。また紀元前1595年にムルシリ1世はユーフラテス川を下って大襲撃を行い、マリとバビロンを陥落させた 。しかしながら、ヒッタイトの外征は国内の紛争により中止され、軍はヒッタイト本国へ引き揚げた。それ以降の紀元前16世紀の間を通じて、ヒッタイトの王たちは王家の争い、そして東に隣接するフルリ人との戦争により本国に止まらざるを得なかった。またシリアとメソポタミアへの遠征により、アナトリアに楔形文字による筆記が再び取り入れられたものとみられる。なぜなら、ヒッタイト文字は先行するアッシリア人の入植地時代の文字とは明らかに異なっているからである。テレピヌの治世が「古王国」の最後となり、「中王国」として知られる長きにわたる弱小期が始まる。紀元前15世紀の期間は、現存する記録が疎らであるため殆ど分かっていない。中王国は、ヒッタイトの歴史における一つの時代というよりは、むしろ古王国から新王国への過渡期に当たる。この期間のヒッタイトの歴史については殆ど分かっていないが、古王国の最後の君主テレピヌの治世は紀元前1500年まで続いた。それに引き続き詳細不明の「中王国」が70年続き、その後で新王国が誕生する。
ヒッタイトの王統に関し、19代広開土王以降はほぼ特定することができるがそれ以前の歴代王は記録が少ないため比定ができていない。
(公孫氏・燕)エブラ、マリ
エブラ王国最盛期の5番目で最後の王がエブリウムの息子イッビ・スィピシュ(Ibbi-Sipish)で、エブラ最初の世襲君主であり、それまでの選挙王政(選挙で王を選びその任期は7年とする)というエブラの慣習を破るものだった。その専制政治は内乱につながり、最終的に衰退に至った可能性がある(またアッカドの帝王サルゴンやその孫ナラム・シンがエブラを征服していることから、彼らがエブラを破壊した可能性もある)。一方ではイッビ・スィピシュの治世は、王が何度も国外へ旅行をしていることからも、過度の繁栄の時期だったと考えられる。エブラとアレッポ双方の文書に、エブラが隣国アルミ(Armi、当時のアレッポの呼び名)と条約を結んだことが記されている。
当時、エブラは商業の重要な中心地であった。商売上の大きなライバルはマリで、エブラはマリの1回目の破壊に関与した疑いもある。マリが都市として繁栄したのは紀元前2900年頃から紀元前1759年にかけてのことで、その後ハンムラビによって破壊された。メソポタミアに流入したアムル人の建てた王朝のもと、マリは復権する。第二の黄金時代は紀元前1900年頃に始まった。マリにおける二つの大きな考古学的発見はこの時代に遡る。マリの王ジムリ・リムの宮殿は300以上の部屋があった。これは当時の最大級の宮殿であり、その評判は商人たちを通してアレッポ(ヤムハド)やウガリットなど近隣の都市国家や王国にとどろいていた。マリはバビロン第1王朝第6代の王ハンムラビにより、紀元前1759年頃に再度破壊された。マリ王国の文書庫の粘土板の中には、ハンムラビが古い同盟相手のジムリ・リムに敵対し、ジムリ・リムが戦いで破られたことを詳述するものがあり、この破壊の経緯が分かっている。バビロンはエシュヌンナやアッシリア、グティ人の連合軍と戦った。エシュヌンナはそれまでにマリに何度も攻撃を仕掛けており、ジムリ・リムはハンムラビを支援したことを示す書簡が発見されている。この中でジムリ・リムはハンムラビにエシュヌンナを支配するべきであると薦めている。
だが、次第にハンムラビがマリとの同盟を重視しなくなっていたらしいことが記録からは読み取れる。バビロンに派遣されたジムリ・リムの使節がヤムハドの使節より下の扱いを受け、祝宴に同席することを許可されなかったとして抗議し、改めて祝宴に出席するなどの事件も記録されている。こうした外交関係はマリで発見された多数の粘土板文書から判明しているが、バビロン側の記録を欠き、ハンムラビが実際にはどう感じ、どう考えていたのか正確にはわからない。しかしバビロンの強大化とエシュヌンナの弱体化につれて、バビロンにとってのマリの重要性が低下したのは確実であると思われる。紀元前1761年、ハンムラビはジムリ・リムとの長年の同盟関係を反故にしてマリを攻撃し、これを征服した。ジムリ・リムのその後の消息はわかっていない。

卑弥呼 セベクネフィル女王(在位:紀元前1785年 - 1782年または前1806年)
アメンエムハト4世の没後に政権を握り、約1500年ぶりの女性のエジプト支配者となった。セベクネフェル自身はアメンエムハト3世の娘だったと考えられ、アメンエムハト4世の異母兄妹の可能性があるが、アメンエムハト3世と4世が親子関係にあったのかどうかははっきりと分かっていない。また、アメンエムハト4世がセベクネフェルと結婚していた可能性もあるが、それを支持する証拠は見つかっていない。女性が王となるという事態は当時としてはかなり特異なことであり、後継者を巡る何らかの問題があったことを示唆している。実際、彼女の死をもって第12王朝は終焉を迎え、新たに第13王朝が創始された。
wikiのコピペばかりで申し訳ない。

さて、本題である。木村鷹太郎氏がエジプトが倭国だとしたわけでですが、卑弥呼を神功皇后とすることでやや信頼性を失ってしまった。稲羽氏はセベクネフィル女王を比定した。このことで、邪馬台国の置かれていた立場がにわかに現実味を帯びてくる。
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さて、やや長いが稲羽氏が描いた「卑弥呼の悲しみ」をお届けします。

卑弥呼は深い悲しみの中にいた。時はBC1807年エジプトのイチ・タウイの都である。戦況が思わしくない。つまりバビロニアのハムラビがメソポタミアの覇権を優勢に進めている。叔父であるシリア王(遼東太守・公孫淵)の運命が心配である。もともとオリエントは祖先であるサルゴン(黄帝・公孫軒轅)が初めてオリエントの統一を成し遂げ、その後ナラムシンが地中海を越え領土をギリシャ(倭)まで拡張した歴史的にも由緒のある王朝だ。このエジプトもギリシャもサルゴンの子孫であるシリア太守が管理してきた地域である。その叔父であるシリア太守公孫淵が燕王として独立を宣言してしまった。ハムラビの戦略はシリアの海上封鎖だ。エーゲ海(楽浪)、ケルト(帯方郡)を抑えるため司馬懿を派遣することにした。司馬氏がケルトとエーゲ海を押さえ、公孫氏は死ぬ。
女王はシリアを頼みにしていただけに国内の混乱をまとめることが難しくなる。そこで苦渋の決断をする。新しく赴任したケルト太守(帯方太守)の劉夏の元に使いを遣わした。シリアルートが戦禍で通れなかったからで、、男の生口4人、女の生口6人、班布二匹二丈の献上物を遠路ケルトへ届けた。ケルト太守は直ちに倭の使いを護送し、太守自らバビロニアまで届けた。
ハムラビ王は大国エジプト王の申し出に大いに喜んだという。
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公孫氏は中国の史書によれば黄帝の子孫だと書かれているが、シリア王がサルゴンの子孫であるとは確認できないし、セベクネフィルとの関係も憶測の域を出ない。
ただ、当時、エジプトの安全とシリア情勢は密接に関わっている。
いずれにしても卑弥呼の死とともにエジプト第十二王朝は終わる。


とりあえず、今日はここまで。とても疲れました。
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人民の歴史はどこ行った?

2021年07月17日 20時17分33秒 | 歴史の翻訳
まゆみさんからのコメントで、「中国、朝鮮半島、日本の古代史がオリエントのコピペなら、同時期の中国、朝鮮半島、日本ではどんなことが起きていたのでしょう。まさか何もないはずは無いだろうし、それぞれの歴史があるだろうし。そしてなぜコピペをする必要があったのか、自らの意思でコピペをしたのか、それとも大元からそういう指示があったのか。」
まあ、当然の疑問だと思います。しかし現実にそれらを実施した人たちに確かめないことには本当のところはわかりませんよね。
しかし、武力で簒奪した国はやがて武力で滅ぼされるでしょう。それを避けるために支配者たちは武力を後ろに隠し、宗教や祭祀等で民衆を手なずけてゆく方法を取ります。
私はお祭りの神輿を見るのはものすごく抵抗があり、なぜみんなが祭りにこだわるのか理解できないのです。
支配者たちが神輿をかつぎ、民衆はそれに石をぶつける、そんな祭りなら参加するかもしれませんが・・・・。

私は日本を征服した支配者たちを憎しむ気はありません。日本は良い国で、素晴らしい産業技術も持っていて、食べるものはすごくおいしいし、世界でも有数な暮らしやすい国だと思っています。これは支配者たちがやってきたことが悪い事ばかりではない証拠です。まあ、功罪半ばするというS氏の言葉は間違いないと思います。S氏には過去に何度も歴史に関する質問をしてきました。でも、必ずあいまいな回答しか得られませんでした。要は「ほかに研究することがあるだろう?」て感じかな。しかし、今はそう思いません。「歴史を調べてもがっかりするだけですよ。」ということを言いたかったのかもしれない。
昨日hanaさんから教えていただいたブログ、「浦島太郎から・・・」http://21seikinokadai.blog15.fc2.com/blog-entry-46.html
を読みますと、邪馬台国がエジプトであることを必要かつ十分に説明されています。とても参考になりますが、
「聖書の執筆者たちは、トロイ戦争について殆んど書いてはいません。一方、ホメロスは、出エジプトの情報を描いているようにはみえません。
しかし、考えても見てください、出エジプトとトロイ戦争は時代的にも地理的にも接近している出来事なのですから、両文明国がお互いに、こうした大事件にまったく無関心かつ無知ということは考えられないことです。
意識して書き分けているにちがいありません。
しかし、こうして、この古代史に大きな足跡を残した両雄の末裔がわたしたち日本人であるということ、そして、聖書の民とトロイア人とわが日本人が同一だったということが明きらかになろうとしていて、まさに、日本人の祖先たちの冒険とロマンが日の目を見ようとしているのです。
これが明らかになれば、わたしたち日本国民も、明るく前向きになれるはずです。」とあります。

残念ですが、私の認識とは大いに異なります。この論は所謂日猶同祖論となり、間違った認識をもたらす恐れがあります。私が言いたいことは、あくまでも日本を支配した人たちがエジプト、ギリシャ方面から来た人たちで、日本史はそれらの歴史を日本に移植したものだという考え方です。
まゆみさんのコメントにある「我々の歴史はどこへ行ったの?」はもちろん私たちが知りたいことではあるのですが、以前書いたように、日本は三波に渡って渡来人によって占領されています。最初は沿海州からやってきた縄文人、次に天神さん、最後に武力に秀でたユダ族、と言うことで、要は、渡来人にいいようにされたみじめな話にしかならないわけです。
全国各地に残る古文書や風土記をこまめに研究すればある程度の復元は可能かと思いますが、それほど楽しい作業には思えません。
私がやろうとしているのは現在の日本を作った人たちがどのような経路を経て日本にやってきたのかの解明となります。
始まりはメソポタミアの湿地帯から始まると言われていますが、そこへやってきたのはコーカサスから南下したフルリ人と考えます。
フルリ人からヒッタイト、ミタンニが出る。これが百済・高句麗なのだが、新羅がそこいらにいない。新羅がアルザワであるとかローマであるとか言われてますが、まあいずれ見つかるでしょう。
ローマは太秦です。ローマでキリスト教が国教になり他の宗教が禁止されるのが392年、現在調べているのはBC12世紀界隈、まだまだ先は長いな。
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カディシュの戦いを翻訳すると・・・

2021年07月10日 19時50分41秒 | 歴史の翻訳
さてと・・・、東京五輪が無観客で開催となるようですね。東京の不自然な陽性者数にはあきれるしかないが、そこまでして五輪で利益を出させないようにするとは、よほど支配者内部でも嫌われ者の派閥が五輪を主催していると見える。
まあ、庶民には気の遠くなるほどの損害が発生するように思えるが、我々が心配してもしょうがない。とにかく早くこのコロナ騒動が収束するのを祈るしか方法はないのだ。
現在、毎日歴史捏造の研究ばかりしていて、そんなことに興味のない皆様には全く申し訳ない気持ちでいっぱいです。しかし人生もあまり残りが少なくなってきている現在、少しでも真実の歴史を知りたいのです。
今日は隋と高句麗の戦争とヒッタイトとエジプトとの闘いの比較作業をしてみます。退屈かもしれませんが、これが私の日課になっています。
少しおさらいしましょう。前にエジプト18王朝でソロモンとハトシェプト女王との子供がアメンヘテプ2世で、宋書では倭国王済、日本史の履中天皇だとしました。
しかしその次は一神教に反対派であるトトメス4世が就き、アメンヘテプ2世の子供であるアメンヘテプ3世が王になるのはその死後になる。そしてその子アメンヘテプ4世が倭王武で雄略天皇と比定する。この武が例の宗教革命を起こし失敗する。死ぬのはBC1330。この後18王朝は弱体化しツタンカーメンのころに多神教に戻る。
要は、このころ倭国はエジプトを離れギリシャ方面へ移動したと考える。従って19王朝はまったく別の国と考えます。

「当時のヒッタイト王シュッピルリウマはエジプト域外における最高権力の調停役としてあり続けたが、間もなく自分の息子とツタンカーメンの未亡人の婚姻を通じてエジプトと同盟することを模索した。だが、その息子は目的地へ到着する前に明らかに殺されており、この同盟が結ばれる事はなかった。」wikiより
ツタンカーメンの未亡人はヒッタイト(高句麗)に婿を要求したものの道中で婿殿を殺されてしまいました。これで怒ったのはヒッタイト側で、それ以後エジプトと争うようになります。この暗殺事件の犯人がエジプト19王朝を開くことになる隋でしょう。倭隋と言うのが宋書に出てますが関連はわかりません。
エジプトとヒッタイトの争いはカディシュの戦いと言い、史上初の公式な軍事記録が残され、さらに成文化された平和条約が取り交わされた史上初の戦いだと言われています。

wikiから「エジプトのラムセス2世は治世4年目にシリア地方北部に侵攻し、ヒッタイトの属国アムル(アムッル)を傘下に治めた。ヒッタイトのムワタリ2世はすぐにアムル奪還を目指し、同盟諸国から軍隊を集めて同地に向かった。進軍途上で2人のヒッタイトのスパイを捕らえたラムセス2世は、ヒッタイト軍がアレッポに居るとの情報をつかみ、防備の薄いうちにカデシュを陥落させようと進軍を速めた。
エジプト軍は、それぞれ神の名を冠したプタハ、セト(ステフ)、アメン(アモン)、ラーの四軍団に分けられていた。ラムセス2世率いるアメン軍団がカデシュに到着した時、強行軍によって後続の個々の軍団の距離が離れてしまっていた。再び二人のヒッタイト人を捕らえたラムセス2世は、先の情報が嘘であること、そしてヒッタイト軍がカデシュの丘の背後に潜んでいることを知ったが、時すでに遅く、ヒッタイトの戦車隊2,500両が後続のラー軍団に攻撃を仕掛けて壊滅させ、その勢いでアメン軍団にも襲い掛かった。エジプト軍の敗勢必至であったが、アムルからの援軍が突如現れ、ヒッタイトを撃退した。エジプト軍は再結集し、戦車隊を破ったが、逃れた戦車隊はオロンテス川を渡って自軍の歩兵部隊と合流した。
戦闘が膠着状態に入り、ムワタリは停戦を申し入れた。ラムセス2世はこれを受諾し、両軍とも兵を退くこととなった。ラムセス2世が負けることはなかったものの、多くの死傷者を出し、領土も獲得できなかった。また、アムルは後に再びヒッタイトの属国となった。」
同じ戦いをwiki「隋の高句麗遠征」で調べてみよう・・・ただし、カッコ内に翻訳を入れてみます。


第1次遠征
598年(BC1274年ごろ)、高句麗の嬰陽王(ヒッタイトのムワタリ2世)が遼西(シリア)を攻撃した。隋の文帝(ラムセス2世)は、30万の大軍で陸海両面で高句麗(ヒッタイトの属国アムル)に侵攻したが、周羅睺(?)が率いる海軍は暴風に遭い撤退した。陸軍も十分な戦果を挙げられないまま、伝染病や補給不足のため撤退した。
第2次遠征
612年(BC1288ごろ)正月、隋の煬帝(ラムセス2世)は、113万の大軍(プタハ、セト、アメン、ラーの四軍団)で高句麗(カデッシュ)に侵攻した。高句麗(ヒッタイト)の将軍乙支文徳(?)は、隋軍(エジプト軍)の内情を探るため、降伏すると見せて隋軍の陣に入り、補給に問題があることを知ると、脱出して高句麗軍に戻った。乙支文徳は、焦土作戦を取りながら、わざと退却し続け、宇文述が率いる隋軍を深く引き入れ、補給線を延びきらせた。乙支文徳は、薩水(清川江)(オロンテス川)で、疲労と補給不足に陥った隋軍を包囲してほとんど全滅させた。これを韓国では、薩水大捷という。隋の大軍のうち、帰ることが出来たのは、わずか数千人だったという。
第3次遠征
613年、隋の煬帝(ラムセス2世)は再び高句麗(ヒッタイト)に侵攻したが、隋の国内で楊玄感(?)が反乱を起こしたため、隋軍は撤退した。
第4次遠征
614年、隋の煬帝は三たび高句麗に侵攻した。高句麗は度重なる戦争で疲弊していたため、楊玄感に内通し高句麗に亡命していた斛斯政を隋の将軍来護児に引き渡した。隋も国内が乱れていたため和議を結んだ。高句麗は和議の一つであった隋への朝貢を実行せず、これに隋は激怒し再度の遠征を計画したが国内の反乱のため実行することはできなかった。」
まあ、100%とは言わないまでもこの二つのwikiの記事はほぼ同じことを言っていると言えないだろうか。
紀元前1274年ごろに起きた歴史的な戦争がどうして600年ごろの満州地域で起きた戦いと全く同じだったとはどういうことだろうか。
本当に面白い作業なんですが、ものすごく大変なのです。今回のカデッシュの戦いは比較的簡単な作業ですが、数か国が絡むと作業量は数倍となりかなり大変です。
現在取り組んでいるのは金管加羅国とヘブライ王国の比較です。これが解ければオリエント史、日本史、朝鮮史が一つにつながる可能性があります。ただし、紀元前12世紀に一体何が起きたのかが非常に大きな課題となります。
wikiには前1200年のカタストロフとして記事があります。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D1200%E5%B9%B4%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%95#
紀元前1200年頃、環東地中海を席巻する大規模な社会変動が発生した。現在、「前1200年のカタストロフ(破局とも)」と呼ばれるこの災厄は古代エジプト、西アジア、アナトリア半島、クレタ島、ギリシャ本土を襲った。この災厄は諸説存在しており、未だにその内容については結論を得ていない。
この災厄についてフェルナン・ブローデルの分析によれば
1.ヒッタイトの崩壊
2.エジプトにおける海の民の襲撃
3.ギリシャのミケーネ文明の崩壊
以上の3項目に分けることができる。また、このカタストロフを切っ掛けに東地中海に鉄が広がることになる。
興味のある方はぜひ見てください。
結局この時期に明らかにできない真実が隠されている可能性が高い。海の民とは何だろう・・・まあ、恐らくだが・・・ペリシテ人とアッシリアが主人公なのではないかと疑っているのだが‥‥解けるかどうかはわかりません。
コメント (11)
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最後に日本へ来たのかな・・・?

2021年07月02日 19時10分51秒 | 歴史の翻訳
久しぶりの更新です。別にさぼっていたわけではなく、一生懸命お勉強をしていました。ただ歴史の翻訳比較作業があまりにも面白すぎて、そしてそれは際限がなく、何よりも答えがないということで、いつまでもきりがないのです。

例えば「卑弥呼はセベクネフィル女王で、邪馬台国はエジプトにあったのですよ」と言ったとして、誰がそれを本気で聞いてくれるだろう。まあ笑われるのが落ちでしょう。では以前記事に書いたようにヒッタイトが高句麗で、ミタンニが百済だったという話はどうだろうか。歴史は単独では成り立たず、相手が存在する以上その歴史に登場する人、場所、国それらすべてが確認されなければ単なる与太話に過ぎない。つまり際限がないというのはそれらすべてを検証しなければならなくなります。

現在調べているのは金管加羅国です。自分としては加羅諸国、伽耶、任那などに関しはその存在自体を疑っていて、さらに新羅、百済、高句麗の歴史も真実などどこにもないと感じていました。しかしここへ来て中国史はオリエント史の翻訳だという話から、日本史は朝鮮史の翻訳だというところに来て、さらに、朝鮮史もオリエントの翻訳だというややこしさ。
これは一体どういうことなのだ?つまり彼らは自分たちの歴史を意外と忠実に再現したと。ただし、その国の歴史ではなく、支配した人が経験してきた地域の歴史?になっているということか・・・?
まあ、こんな話をしていても埒が明かない。とても難しいことですが皆さまにもその悩みを味わっていただきたい。ちょっと長いのですが重要な文章を読んでいただきたい。そして私が毎日悩んでいる苦しみを少しわかっていただきたいのである。
さて、宋書と言う史書があります。宋と言うのはヘブライ王国の中国版と考えるわけで、宋書自体はヘブライ王国の立場から書かれたもののはずです。東洋史ではなくオリエント史として読んでいただけたら幸いです。
「倭国(エジプト18王朝)は高句麗(ヒッタイト)東南の大海の中にあって、その王は代々中国(メソポタミア王朝)に貢物を修めている。永初二年(421年)、高祖(ダビデ・武帝)は詔して言った。
倭国王讃(ハトシェプスト)は、万里(テーベ)の彼方から貢物を修めている。遠くにありながら忠誠を尽くすのは顕彰に値する。よって爵号を与えよ。
太祖(文帝・ソロモン)の元嘉二年(425)、讃はまた司馬の曹達を遣わし、上奏文を奉り土産物を献上した。
讃が死んで、弟の珍(トトメス3世)が王となった。使者を発見して貢献し、使持節・都督 倭 百済(ミタンニ) 新羅(アルザワ) 任那(マケドニア) 秦韓(イタリア) 慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王(エジプト王)と自称し、上奏文を奉りその官爵を認めて欲しいと求めた。詔して珍帝(トトメス3世)を安東将軍・倭国王(エジプト王)とした。珍はまた倭隋(アバリス王)たち13人に平西・征慮・冠軍・輔国の将軍号を授けて欲しいと願い出た。詔しこれをすべて許した。
元嘉二十年(443)倭国王(エジプト王)の済(アメンへテプ2世)が使者を遣わして奉献した。珍と同じく済もまた安東将軍・倭国王に任命した。
元嘉二十八年(451)倭国王の済に使持節・都督倭 新羅(アルザワ) 任那(マケドニア) 加羅(カリア) 秦韓(イタリア) 慕韓六国諸軍事を加え安東大将軍はもとのままとした。また済がすすめた二十三人を将軍・郡太守に任命した。
済が死に後継ぎの興(トトメス4世)が使者を遣わして貢献した。大明六年(462)世祖(ユダ王エアロポポ?)孝武帝は詔して言った。
倭王の後嗣である興(トトメス4世)は累代の倭王の忠誠をついで、外なる海に宋室の藩塀をなし、天子の徳化をうけて境域を寧んじ、このように恭々しく朝貢してきた。今、新たに辺土の守りを嗣いだのであるから爵号を授け、安東将軍・倭国王とせよ。
興(トトメス4世)が死んで弟の武が王位に即いた。武は使持節・都督倭 百済(ミタンニ) 新羅(アルザワ) 任那(マケドニア)加羅 秦韓(イタリア) 慕韓七国諸軍事・安東大将軍・倭国王(エジプト王)と自称した。」
まあ、こんな感じでどうでしょうか。これは「歴史は西から・・・」から引用させてもらったが、倭の五王を天皇に比定してゆくとさらに面白い。
ハトシェプト女王(在位BC1479-1458ごろ)は讃で、日本名では仁徳もしくは履中。
珍はトトメス3世(在位BC1479-1425ごろ)で日本では反正天皇、
済はアメンヘテプ2世(在位BC1453-1419ごろ)で日本では允恭天皇
興はトトメス4世(在位BC1419-1386ごろ)で安康天皇
武はアメンヘテプ4世(在位BC1364-1347ごろ)で雄略天皇となるようだ。
これをさらに進めヘブライ王国は金管加羅国であるという主張があり、これを比定してゆくと朝鮮史と日本史は同根になってゆく。
まあ、細かいことはともかくとして、言えることは日本の歴史や朝鮮の歴史と思われていた出来事が実はオリエントの出来事だったと。つまり彼らはエジプトからギリシャへ移動し、さらにトロイ戦争を経て北へ向かった派閥と海路で東へ向かった派閥があり最終的に日本に集まったと見ています。問題はその経路かな・・・・。海幸と山幸か?
それにしても・・・・紀元前15世紀ころの出来事が日本では紀元後の話になっている。もしこれが本当なら我々が習ってきた日本史ってのは一体なんなんだ?

お疲れさま。
コメント (5)
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