マヨの本音

日本の古代史から現代まで、歴史を学びながら現代を読み解く。起こった出来事は偶然なのか、それとも仕組まれたものなのか?

生みの苦しみ

2010年03月05日 05時54分56秒 | ひとりごと
鬼塚さんの新「二十世紀のファウスト」が発売になるそうだ。聞いていた予定より半年ほど遅れている。いろいろ追加する記事が多かったのだろう。旧作を復刻した関係上、ここに報告すると共に良書としてお奨めします。私の復刻と違うのは後半部分の書き換えと新たに書き足す部分だそうだ。
もう連絡を取らなくなって半年以上経つが、先日「サピオ」に寄稿していたのには驚いた。内容は中国が金を買い占めている・・・みたいな話だったが、内容はともかくとして、”あの”サピオに寄稿するということで、有名になったものだな感じると共に、何か割り切れないものを感じるのは私だけだろうか。まあ、私とは関係のないことだが・・・。メインブログ「シバちゃん」に紹介記事を書いています。

話は変わって、内閣法制局参事官のことである。つまり、彼ら法制局の官僚は法あるいは憲法の解釈について国会で質問されるとしゃしゃり出て、憲法や法律の解釈を独自に行なってきたのである。あるいは、各省が法案を作る場合一番の難関はこの法制局なのだそうで、ここが一言一句チェックをするのだ。ところが今回の鳩山内閣ではそれら法律の解釈を内閣が行うこととし、内閣法制局参事官の国会答弁、つまり法律解釈を禁止したのである。
一昨日自民党は意図的に法制局参事官に答弁をもとめ、法解釈を要求した。そこで民主党はこれまたそうはさせじと枝野大臣が答弁に立ち、法制局参事官の答弁をさえぎろうとした。そして国会は異様な怒号に包まれた。結局、参事官は答弁に立ち無難な対応をした。自民党が意図したのは法制局参事官に発言させ、今でも官僚が優位にいることを明らかにさせることで、政府はあくまでそれをさせたくはなかったのである。これを見ても自民党が誰に雇われているのかは明らかであろう。
内閣が憲法や法律の解釈をするのが当たり前なのか否か、実は重大な問題なのである。国の主導権が官僚にあるのか政府にあるのかの問題なのである。国民主権というのが文字だけのものか、現実なのかである。
確かに先日来、自民党の法解釈の質問に官房長官が戸惑う場面があった様で、急遽、法に強い枝野氏がそれを担当することになったのである。

内閣法制局参事官はWIKIによれば、「主要な省庁からそれぞれ1~2名が出向して就任する。「内閣法制局参事官」の官職名は、職名であるとともに官名(国家公務員の肩書きのうち事務官、技官などに相当する部分)である。
内閣法制局参事官は、第一部から第四部までの部長(局長級管理職)と、課制が敷かれていない各部における課長級の分掌職として配置される。各部の参事官は、各部の主たる事務である法令の審査を分掌して担当しており、担当分野の内閣提出法案の審査についての実務上の権限はきわめて大きい。」とされ、隠れた官僚のトップであることは、今回民主党が「官僚から政府へ」の方針を立て、そのことが官僚とそしてそれらと癒着していた自民党にとっては大変な事態であるとあせっていることで証明される。

検察にしても日銀にしても法制参事官にしても、いわば従来から政府内で聖域扱い、つまり強い独立性をもっていたのである。憲法に保証された国民の権利から見て、それが異常な状況であった事がはじめて表に出たのである。
この治外法権を自民党が容認してきたというより、むしろ彼ら官僚達が自民党を操ってきたというのが現実だったのだろう。
単なる政権交代ではなく無血革命だとするのは実は本質がここのあたりにあるのである。つまり、現在起きている異様な政治は自民党対民主党の構図ではなく、官僚の国家から議員による民主国家への生みの苦しみと言えるのだ。
確かに内閣にすべてをゆだねることを危険視する向きもないではないが、憲法の趣旨からすればこれが正しいと言わざるを得ない。