アンティークマン

 裸にて生まれてきたに何不足。

無農薬で人を傷つけた…?

2014年08月05日 | Weblog
 少年団の1泊のキャンプに、引率者の一人として行ってきました。夕食は、「焼き肉」と、決まっているので、我が家の畑から、「紫ササギ」「普通のササギ」「1mの長さになる華厳の滝と名付けられたササギ」「緑の皮のズッキーニ」「オレンジ色の皮のズッキーニ」「コリンスキー」「シシトウ」を持参しました。
 評判は…少年たちは、野菜を食べない…がっかり。少女たちは、「おいしい」と、言ってくれました。

 で、私がその焼き肉の席で自慢してしまったのです…。
 我が家の野菜は、「完全無農薬」ですから、サッと水洗いするだけで安心して食べられます。

 この台詞に、同じ引率者の40歳代後半の男性が反応した!
 「そんなことを言わないでください!ウチの会社は、農薬を作っているんです!」
 鈴木宗男に反論されて、目がおよいでいた石原大臣を思い出しました。自分がまさに、石原大臣。

 「大変失礼いたしました」と、素直に謝りました。私としたことが…「無農薬=正義」「農薬=悪」と、勝手に決めつけていましたねえ。「無農薬!」を唱えれば、万人が、スタンディングオベィションで賞賛してくれるものだと…。
 農薬を作って生計を立てている人が、引率者に紛れ込んでいたとは!農薬を否定することは、「おまえら一家路頭に迷えっ!」ってことですもんねぇーっ。

 この一件を反省し、今後、農薬を大量に使用することにします。えっ?やめとけって?三日もしないうちにそんな反省なんぞ忘れますから大丈夫!四日後には、無農薬自慢再開です。「無能厄」じゃないですよ、「無農薬」ですから!

命を奪われない対策…

2014年08月04日 | Weblog
 「小人、中人、大人」…これは、分かります。ところで、鈴木中人って人をご存じでしょうか?「命」についてがんばっておられる。全国的に有名な方。お名前の、「中人」をなんと読むか?「ちゅうじん」かと思ったら、「なかと」なんだそうで。その、鈴木中人さんと飲む機会がありました。

 中人さんへは、質問がいっぱいありましたが…中人さんは、「同席していたモンゴルの女性たちが、自分の話にどのような反応を示すか」に興味がおありの様子で…私がしゃしゃり出て質問をする空気ではありませんでした。モンゴルの人たちは、同時通訳を通して涙を流して聴いておりました。

 長崎県教育方針7項目の三番目に…「命の尊さや個人の尊厳を重んじ、公共の精神を身に付け」があります。「かけがえのない命を大切にし、個人の尊厳を重んずるとともに、社会の構成員としての自覚と規範意識を高めていくことが必要であることを強調」している。

 2003年7月、中学1年の男子生徒が幼児を商業施設から連れ去って殺害(長崎市)。
 2004年6月、小学6年の女子児童が校内で同級生をカッターナイフで切りつけ、失血死させた(佐世保市)。
 長崎県教育委員会は、この10年間、命の大切さを小中学校の児童・生徒に教える「心の教育」に力を入れてきた。
 そして、2014年7月、高校1年の女子生徒が同級生を殺害した(佐世保市)。

 長崎の教育関係者は与えた衝撃は、はかりしれません。
 「教育の中で、命の大切さや規範意識に関する授業を集中的に行う期間を設け、学校ごとに講話や授業参観、地域交流などを実施してきた。一生懸命に命の大切さを訴えてきたのに、こういう事件が起こってしまった」

 長崎の教育関係者の皆様!そんなことしたって、なーんにもなりません。スタートから間違えている。やらないよりはいいですけどね。長崎県が、「命の教育」に取り組んでいなかったら、毎年事件が起こっていたかもしれません。この10年間事件がなかったということは、「効果があった」と考えてもいいでしょう。だから、がっかりする必要はない。
 命の大切さや規範意識なんて、「そのための授業等」で扱うものではありません。すべての教育活動の中で育てられるものです。

 それにしてもまた、新たな難問の発生ですね。
 ゲームが子どもの心に良くない・・・機会あるごとに言ってきましたが、ゲームの普及は青天井。保護者が子どもをコントロールできない…。学校、帰宅後、どんなゲームを持っているかでグループができている。これがやがて、「いじめ」の引き金にならなければいいのですが。すでになっていますがね。
 次いで、ケータイ、スマホ…私は、子どもには必要ないと言い続けてきました。「ネットいじめ」の急速な台頭が、「子どもに携帯・スマホ必要ない」という私の主張の追い風となっておりました。
 しかし、子どもが拉致される事件が続いて……「子どもに携帯・スマホは絶対必要」と、なってしまいました。

 子ども向けの携帯・スマホには、防犯機能・サービスがついている。
 防犯ブザー、防犯ライト、、GPS機能(携帯電話やパソコンから高い精度で位置検索可能)、サービス通報機能(防犯ブザーを鳴らすと自動的にセコムへ通報)、現場急行サービス(24時間365日、要請でセコムが急行)。
 …これは、保護者にとっては魅力的ですよ。実際に狙われたら役に立ちませんが、気休めにはなる。

 ゲームは、やり放題というかやらせ放題、携帯・スマホは必需品…さて、「猫の解剖に飽き足らず、クラスメートを…」このような犯罪に巻き込まれないためにどうしたらいいか?
 「学校、塾以外は、保護者同伴でなければ外出させない」…これしかない。そのうち、「家から一歩も出さないのが当たり前」という時代が…来ても不思議ではない。

 なお、鈴木中人さんの講演のクライマックスは、「親より先に死ぬなよぉー!」でした。だけど…親より長く生きたくても、病気や、他殺を含む事故で親より先に死んでしまう子もいるのです。「自殺するな」という訴えはよいですが…。

神仏の数え方

2014年08月02日 | Weblog
 小一の算数の時間…ウサギの数え方で、児童が「一羽、二羽…」と答えました。先生は、「一羽、二羽…?そんな数え方どこで習ったの?」。児童は、「保育園!」「幼稚園!」…これには、先生も反撃できず…。
 この先生、ウサギの数え方を知らなかった。40歳代後半なので、教諭としても脂が乗ってきているところ。それなのに、ウサギの数え方を知らなかった!ヒステリックに児童をしかる女の先生なので、私も好んで話しかけたくはなかったが、ウサギの数え方と、そのいわれを教えてあげました。先生の反応は、「マジカヨ?」って感じで、「教えてくださってありがとうございます」ではありませんでした。半信半疑でしたねえ。

 学校の先生もホント様々で、蝶を、「一頭、二頭…」と、数えたら、嘲笑気味の先生も…。ジョークだと思っている。学校の先生なら、蝶に限らず、トンボも、蛍も、蟻も…昆虫全般の正式な数え方は、「一頭、二頭…」であることぐらい知っておいていただきたいもの。

 では、神様の数え方は?正解は、「一柱、二柱…」です。なぜ、「柱」なのかって?簡単です。「大黒柱」という言葉がすべてを物語っています。
神道は、自然全てに霊性を認め、畏敬と感謝の念を持っています。ですから、森は神々が存在する場所。神社には緑深い「鎮守の森」があるわけです。木には生命があり、そこには魂が宿っています。神道にはことさらに木を大切にする宗教文化があるのです。そんなわけで、神様を「柱」と数えるようになりました。

 では、仏様はどう数えるか?釈迦三尊、八尊仏、十三尊仏のように、「一尊、二尊…」と数えます。「天は二仏を与えず」ということわざがあるぐらいだから、「一仏、二仏…」と数えるはずだって?あ、あのね、それは、「天は二物を与えず」の間違い。仏じゃなくて物ですから!

蟻はどの脚から歩き出すか

2014年08月01日 | Weblog
 私も出演したことがある、「なんでも鑑定団」。熊谷守一の作品が登場しておりました。熊谷守一は、いいですよ。もちろん、どーでもいいんじゃなくて、すばらしいという意味の「いい」です。
 で、熊谷守一といえば、「蟻」。…「地面に頬杖つきながら、蟻の歩き方を幾年も観ていてわかったんですが、蟻は左の二番目の足から歩き出すんです」
 私は、こういう話が好きなので、10年ほど前の、知識である「左の二番目の足から」が本当なのかどうか気になり、図書館へ行ってきました。早い話が、暇人の野次馬…。

 1 生物は、足の数に関係なく、安定を保ちながら移動する。・・・ほんと、昆虫といえども安定を求めているのです。
 2 昆虫は、その安定が三脚の原理に基づいている。・・・なるほど、四脚より三脚が安定しています。
 3 三本の足を動かし、あとの三本は止め、それを交互に繰り返して歩行する。・・・この説明、非常ーにわかりやすい。
 4 左側の真ん中の足と、右側の前足と後ろ足で踏み出すときは、右の真ん中と左の前と後ろは、じっと三脚をなす。・・・たいしたもんだ!
 5 足の動きに関して、三本が同時だというふうに考えられているが、安定を重んじて片方の二本が、反対側の一本より微妙に遅れることもありうる。・・・これですね。つまり、真ん中の足が先に動く!アリにも、利き足があるかもしれないので、左の真ん中が一番先のアリもいれば、右の真ん中が先に動くアリもいる。守一が観たのは、左の真ん中を先に動かすアリだったのでしょう。

 蟻はどの脚から歩き出すか…とは関係ないのですが、熊谷守一の話でいつも心にひっかかっていることがあるのです。
 守一は、5人の子供に恵まれました。しかし、日々の食事にも事欠く赤貧を洗う暮らしだったらしいのです。次男が肺炎に罹ったとき、医者にかかるお金がなく死なせてしまった。 
 これ、壮絶ですよ。守一本人は、97歳まで生きたのですが…。幼い子が死ぬというのは悲しい。死に至る過程に、「貧乏」がある…これには、やり場のない憤りを感じます。