<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

夜中のお寺が男女の出会いの場だったとは!

2024年08月31日 18時52分04秒 | Weblog

一つ山越え もう一つ山越え あの山越えて わたしゃあんたに惚れとるばん 惚れてるばってん 言われんたい

追々 彼岸も近まれば 若者(わかもん)衆も寄らすけん 熊本(くまんどん)の夜聴聞(よじょもん)詣りに ゆるゆる話もきゃあしゅうだい

男振りには惚れんばな 煙草入れの銀金具が それが因縁たい

アカチャカベッチャカ アカチャカチャー

熊本県民謡「おてもやん」の歌詞の二番です。

その頃の女性は,女性から男性に告白して言い寄ることはできなかった。その代わりに出会いの場を用意してあった。それが夜のお寺での御聴聞(ごちょうもん)会であった。説法を聞きながら、気が合った男女が交じり合って恋のさや当て仲間作りをしたようだ。

ここでだったら女の方からも言い寄ることができたのだろう。妖しい妖しい。

芸者のチモさんが訛って「おてもやん」になったらしい。

男振りには惚れたはず。言い訳か。

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アカチャカベッチャカ アカチャカチャー

2024年08月31日 18時35分15秒 | Weblog

一つ世の中 艱難辛苦の荒波越えて オトコ度胸でおいでんさい

くよくよしたとてしょうがない いつか芽も出る花も咲く

移り気な浮世の習いに 取り越し苦労はおやめなさい

悩みなんかはコチャ知らぬ 意地と張りのこころが それが後生楽たい

アカチャカベッチャカ アカチャカチャー

これは熊本民謡「おてもやん」の三番の歌詞。後で誰かが付け加えたとも。

歌詞の「後生楽」は、仏教語。死後の後生は安楽だと思って安心を得ること。ひいては、何事も気にせず暢気に暮らすこと。

気に入ったなあ、おてもやんの民謡。悩みなんかはコチャ知らぬ。ここもいいなあ。

アカチャカベッチャカアカチャカチャー。後はどうなときゃあなろだい。

さっきから3度も4度も歌ってみた。曲がなかなか難しいが。浮世の苦労を擲って、足浮かせ手舞って、踊ってみたいなあ,踊れるもんなら。

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仏道は自己尊厳の極み。

2024年08月31日 17時06分16秒 | Weblog

仏道は自己肯定・自己尊厳の極みである。仏がわたしを仏にされているのだから、おろおろしてはいられないのである。仏がわたしを仏と同等同質にして高めておられるのだから、めそめそしてはいられないのである。

此処に生まれて、人間をして生きていられることを嬉しく思って,よろこんでよろこんで、自己を最高に尊厳して、与えられている日々を過ごしていなければならないはずである。

そう言って聞かす、わたしに。めそめそしているわたしに。おろおろしているわたしに。無明の闇を突破できないでいるわたしに。わたしの本質を見抜けないでいる蒙昧のわたしに。

わたしの霊性の本質は疾うにもう仏陀をして生きているというのに。

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ということは?

2024年08月31日 16時21分19秒 | Weblog

重誓偈(じゅうせいげ)

我建超世願 必至無上道 斯願不満足 誓不成正覚

(大無量寿経より)

がこんちょうせいがん ひっしむじょうどう しがんふまんぞく せいふじょうしょうがく

我は世に超えし願を建つ。必ず(衆生を)無上道(=仏国土)に至らしめん。斯(こ)の願、満足せずんんば、誓って正覚を成さじ。

これは、阿弥陀如来の前身の、法蔵菩薩が、師とする世自在王仏に向かって、仏になる誓いを述べられているところである。

宇宙中の、生きとし生きるもののすべてを仏にしないなら、わたしは仏となりません、と。

あらゆる生命体が、いつまでも苦海にあって迷いに繋がれ、苦しんでいるままであれば、仏の正覚(=悟り=涅槃)には入られない、と。

そして、この至心信楽の願いが原因と為って、必至滅度の願いがとうとう成就したので、法蔵菩薩は阿弥陀如来になられたのである。

(滅度は仏の寂滅世界に渡っていること)

ということは?

わたしの霊性本質が、その願いの無上道に至って、仏と等しい正覚を成満させて、実は、いまここで大涅槃に達しているということである。

(そういう自覚を持てなかったらわたしはいつまでもいつまでも迷ってばかりになっている、はずだ)

(これはわたしの解釈)

苦海を生きるわたしが、無上道に至っていなければ、法蔵菩薩は阿弥陀如来にはなっていないのである。

法蔵菩薩は超世の願いを建てられて、その願いが成って、阿弥陀如来となられているのである。

ここは仏の世界である。本願成就の世界である。それを自覚すれば、わたしはわたしは必至無上道を完了していることになる。

さっきからわたしは、仏の建てられたお誓いを思って、何度もこの重誓偈を唱えています。

 

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オレ、台風するの、ヤ~メタ!

2024年08月31日 16時01分34秒 | Weblog

書くことが見つからない。意欲が満たない。書く視力が極端に乏しくなっている。眼科の診察をうけるべきだろうか。白内障が、すっすすと進んでいるのかもしれない。

29日の昼過ぎ、庭の酔芙蓉の木の株ごと薙ぎ倒した後で、あれれあれれという間に、台風10号が消えた。これから本格的に勢いづいて吹き荒れるというところで、すとんと消えた。

あれは何だったんだろう? 消えてくれてよかったんだけど。

いきなり「おれ台風するの、ヤ~メタ。ばかばかしい。こんなことしててな~んにもならぬ」って感じだった。

台風一過の31日、8月最終日。気温はそれでも32・6℃ある。湿度58%。この数日多量の雨を得て畑が潤っている。

明日から9月だが、暑い。畑に出て行く気にはなっていない。

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