<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

甘えてみようか。

2024年08月19日 18時51分27秒 | Weblog

わたしの父の母の名は「いち」。「おいったんばあちゃん」と呼ばれていた。

長男のわたしはこのお婆ちゃんに可愛がられた。お婆ちゃん子だった。

寝るときもおばあちゃんの布団で寝た。

(わたしの4歳下の弟がお母さんのおっぱいを独り占めして育った)

おいったんばあちゃんは88歳で亡くなった。老耄していた。最後のころは、「ご飯を食べてない食べさせて貰っていない」が口癖だった。母が最後まで看病看護した。

毎晩、おばあちゃんを背負って母が、集落が共同で使う「モヤイ風呂」まで連れて行った。

今日、老いたわたしの手の甲の浮き出た血管をみていて、ふっとこのおいちお婆さんを思い出してしまった。(年を取ったおばあちゃんんの手の甲の血管も大きく膨れていた)

お婆ちゃんの名を呼べば、そこでわたしは幼い頃に戻ることが出来る。擦り寄って行って、べたべたして、甘えてみようか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わたしが耐えられる分の苦しみにして

2024年08月19日 18時26分23秒 | Weblog

若し無量百千万億の衆生有って、諸々の苦悩を受けんに、この観世音菩薩を観て、一心に名を称れば、観世音菩薩は即時にその音声を観て、みな解脱を得せしめん。

妙法蓮華経「観世音菩薩普門品第25」より

もしもこの娑婆世界に百千万億の無量の衆生がいて、もろもろの苦悩を受けて苦しんで、藁を持つ神気持ちからこの観世音菩薩の姿を観て、そこで一心に菩薩のみ名を称えたら、観世音菩薩は即時にその声を、あたかもそこに人がいるのを観るようにして聞きつけてくださって、その人達を苦しみから解き放って下さるだろう。

観音様は苦しんでいる人が上げる声を観ることができる菩薩である。特殊な神通力の持ち主である。だから観音の名がある。

人は一人では抱えきれないほどの苦しみ悲しみを抱いて生きている。その苦悩の衆生を観て、助けないような菩薩様なら、それは菩薩道の菩薩様ではないことになる。

菩薩は「代受苦」が得意種目である。代わって苦しみを受けることができる特殊能力の持ち主である。

(わたしはその反対で、人様の楽しみをぶんどってきて、代受楽しているばかりだが。)

だから、わたしの苦しみ悲しみを、その幾ばくかは、いつも代わって受けていて下さっているのである。

わたしが耐えられる分の苦しみにして軽減していて下さっているのである。ああ、有り難いなあと思う。

でも経典を読んでいないときには、横着者のわたしは、その分の観音様のご苦労を察知することすらも、しないでいる。一人で生きているような顔をしている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

触るっていいなあ、いい感触だなあ。

2024年08月19日 18時15分29秒 | Weblog

見っけ!

畑に出て、冬瓜の青い実、見っけ!

3個見っけ! 大中小の。全身和毛(にこげ)の。

おお、久しぶりの感動を味わったぞ!

手で触ってきた。

(冬瓜にだって、触るっていいなあ。一体感はいい感触だなあ)

おんなの人にも触ってみたいなあ。(これは無理難題だ)

禁欲生活しているからもう何十年と触っていないなあ。

ホースで水をたっぷり上げてきた。冷たい地下の井戸の水を。

有り難う有り難うが聞こえた。

喉が渇いていただろう、さぞや。

まだまだ大きくなりそうなので、収穫はしてこなかった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

これから水遣り。

2024年08月19日 17時20分38秒 | Weblog

まもなく夕方の5時半。雨が降らない。何日も雨が降らない。

地上が渇き切っている。

玄関回りの鉢物にだけでも水遣りをして上げようかな。

水を貰ったら、わたしが神様に見えて来るだろうな。

深い地下を流れている井戸水だから、よも渇水はしていないだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

目が開けていられないほどにわたしが明るく輝いている。

2024年08月19日 16時56分33秒 | Weblog

天上天下唯我独尊。

てんじょうてんげゆいがどくそん。

天上天下に、唯だ我独りあって尊し。

尊い尊い尊い、と。

目が開けていられないほどにわたしが明るく輝いている、と。

お釈迦様はそう言ってお生まれになった。

自己の絶対尊厳を宣言された。

生まれて来ることは尊いことだ、と。

生きて行くことは尊いことだ、と。

老いていくことは尊いことだ、と

死んで行くことは尊いことだ、と。

これほどに尊いことなのに、それを否定して否定しているわたし。

尊いことを打ち消して、尊くしないで生きているわたしの不遜。わたしの傲慢。

根本の暗さ。

無明の闇。

お釈迦様のみが天上天下唯我独尊ではない。

わたしが天上天下唯我独尊なのである。

目が開けていられないほどにわたしが明るく輝いているのである。

千人が千人万人が万人、明るく輝いているのである。

地上のすべての存在が目が開けていられないほどに輝いているところに、このわたしが生きて、人間の暮らしをしているのである。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ああ、なんと神々しい世界か。

2024年08月19日 16時46分34秒 | Weblog

ほっそりしたメヒシバの穂先が静かに風に揺れている。

「こうしているだけでわたしは幸せです」

そんな安らぎが聞こえて来る、こちらにまで。

地上の万物がこんな安らぎを得て生きている世界。

それが、わたしの眼前に広がっている。

ああ、なんと神々しい世界か、此処は。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いまのままでわたしは幸せです。

2024年08月19日 16時34分40秒 | Weblog

「いまのままでわたしは幸せです」は、仏道の極地だなあ。

「いまのわたしを幸せにしている」って、もう禅者の悟りだなあ。

願いを欲張らないでいられたら、いいなあ。

そういう安心と落ち着きを得ている人の傍にいるだけで、幸せをもらい受けられそうだ。

こういう人は、そこにいるだけで、無言感化をしていることだろう。あたたかいだろうなあ。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お願いばかりをしている自分を恥じる。

2024年08月19日 16時03分22秒 | Weblog

午後4時を過ぎた。予報では雨が降り出す時間になっているが、降っていない。曇っているだけ。酔芙蓉の藪の葉っぱが数枚、かすかに風に揺れている。お昼寝から目が覚めた。

若し女人有って、設(たと)えば男を求めんと欲して、観世音菩薩を供養礼拝すれば、便(すなわ)ち福徳智慧の男を生まん。

妙法蓮華経「観世音菩薩普門品第25」より

此処に女性がいて、男の子を産みたいと思って、観世音菩薩を礼拝し供養したら、願いに応じて、福徳と智慧を具えた男の子を生むだろう。

観音様はそんな願いにまで応じてくださるのか、と感心する。もしも、そのような願いを起こしたら、だが。そこまでわれわれの具体的な生活の中に入ってきて下さっている、ということだろう。世話焼きだなあ、とも思う。

でも、そこまでは観音様に世話をやいてっ貰うことは、きっと控えただろう。菩薩道におられる方に、あれもこれもお願いばかりしている自分を恥じただろう、とも思う。「それには及びません、観音様がいてくださるだけで、わたしは心強く思って安心が敵っています」と答えたことだろう,女性達は。

仏道を歩む者は、「足を知ること」を覚えて来る。「このままで幸せです」が自覚されて来るだろう。

法華経を読みながら、そんなことを考えました、わたしは。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

短所は長所、そう思っておこう。

2024年08月19日 14時01分12秒 | Weblog

負け惜しみばっかり言っているかもしれない、僕は。

負け惜しみって、人には在るのに自分には備わっていないって場合に、その不均衡・不均等の差に沈んでしまうのじゃなくて、開き直って、撥ね除ける手段に使うのだろうね。

ま、いいか、オレはオレだ。おれにあるもの、おれにしかないもの、その価値を認識していられたらいいんじゃないか、って。

そうやって、オレの価値を発見する。これでいいんじゃないか。

短所は長所って諺もある。諺を信じよう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

魅力は磁力だ。

2024年08月19日 13時38分49秒 | Weblog

魅力は磁力だ。吸着マグネットだ。人を惹き付ける。引き寄せる。そこにべったり張り付かされる。

魅力が旺盛な人がいる。そうでない人もいる。僕だ。僕には、魅力吸着用マグネットが装着されていないのかも知れない。

負け惜しみを言おう。誰を魅力させているか、何を魅了させているか、これが問題じゃないか。

女性を惹き付ける男性魅力、男性を惹き付ける女性魅力、それ以外の魅力だってあるはずだ。数限りなくあるはずだ。

こどもを惹き付ける親の魅力、その反対の親を惹き付けるこどもの魅力、集合体組織を惹き付ける魅力、社会を惹き付ける魅力、神様を惹き付ける魅力などというのもあるんじゃないのか。

魅力の種類が、だから、幾種類も幾種類も幾種類もあるのではないか。

強弱もあるのじゃないか。弱電流だっていいんじゃないか。

風景が放つ魅力を受け取れるというのも、十分な魅力に相当するんじゃないか。

音楽が放つ魅力に酔いしれていられるという人も、魅力なんじゃないのか。

魅力を感じて生きるという生き方がいいのだろうなあ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする