<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

いまのわたしはいったいどれくらいの重さの荷物を背負っているのだろう?

2023年01月05日 17時43分23秒 | Weblog

歩いて行けるだけの荷物を背負って歩いています。大丈夫。その人が背負えるだけの荷物の重さになっています。

大学のキリスト教学の授業でその話を聞いた。ほっとした。

わたしの力に応じただけの重さ軽さだった。ほっとしたけれど、もう少し重い荷物を背負って歩けるようになりたいとも思った。

この荷物は、わたしが必要としている荷物だけ。ということもあろうが、人が背負えない荷物の、少しだけを分け持っている荷物のケースもあるだろう。

わたしの体力精神力が大きくなれば、それに応じてわたしは大きな重い荷物を背負えることにもなる。とすれば、荷物が軽いことに満足してもいられないのではないか、そうも思った。

いまのわたしは、いったいどれくらいの重さの荷物を背負っているのだろう。

もしかしたら、どんどん軽くしていっているのかもしれない。

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どうして何度もこの苦しみの世界に生まれて来たいと思うのだろう?

2023年01月05日 16時48分31秒 | Weblog

今是(かく)の如くの因縁あり、願生此娑婆国土し来れり、見釈迦牟尼仏を喜ばざらんや。

修証義より

わたしは此の娑婆国土に生まれたいと願って、願いが成就して生まれて来ました。その上に、導かれて、釈迦牟尼仏にお会いすることが出来ました。この喜ぶべき因縁を二つも忝くしました。

(これはわたしの解釈、わたしの受け取りです。ずれているかもしれません)

娑婆は、梵語のサハーの音訳語です。苦しみを耐え忍ぶところ、という意味で、忍土とも訳されています。娑婆はいまわたしたちが生きている世界です。苦しみのある世界、苦しみを耐える世界です。そして釈迦牟尼仏が教化する世界という意味も含まれています。

そこにわたしが進んで生まれて来ようと願った。願ったので、願いが成就して、人間となった。そこで釈迦牟尼仏の教えに遇って、発心して仏道を歩んでいます。それを喜びとしています。苦しみの世界で人間となって仏道を歩んでいることに最高最大の意義を見出しているのです。

わたしたちはふるさとを離れてこの娑婆世界、苦しみの多い世界に生まれてきています。可愛い子には旅をさせよ、でしょう。旅が終わればまたふるさとに帰って行きます。これを繰り返します。1回1回目的があります。

やがてもう二度と旅に出なくていいようになります。娑婆世界に戻ってこなくていいようになります。前進していいようになります。浄土往生して成仏します。次は仏としての活動をするようになります。利他の救済活動に邁進します。それで終わりでもありません。わたしたちは次へ次へ次へと進んで行きます。

この現在の娑婆世界では釈迦牟尼という仏に遇って教えを聞いていますが、その後は、極楽浄土に往生して阿弥陀仏の教えを聞いて修行をします。そこで終わりでもありません。

人間になって娑婆世界に戻ってくるというのは、落第させられるのではなくて、自分の方から進んでそれを申し出ることのようです。それはなぜか? 苦しみ悲しみを克服できなかったからかもしれません。再挑戦をしたくなったのかもしれません。釈迦牟尼仏の教えを聞き足りなかったのかもしれません。それはよく分かりません。

今日は、「願生此娑婆世界=願って此の苦しみの世界に生まれたいと願って人間になった」というところで、幾つかの疑問を抱きました。「三歩進んで二歩下がる」は水前寺清子さんの歌う歌の文句でした。人間界はワンツーパンチでチャレンジするところ。歓喜が尽きないところなのかもしれません。

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正月から連続5日間草取り。

2023年01月05日 16時35分48秒 | Weblog

北の畑に行っていました。お天気もいいし、風もないので。2時間ほど草取り作業をしました。2時から4時までの。

たった2時間の労働なのに、自足しました。安らぎをもらいました。労働と言えるほどの労働でもなかったんですが。

里芋の親芋を土に埋めて貯蔵している1畝が、雑草に埋まっていましたが、雑草が抜けてきれいになりました。

**

近所のNさんが自転車に乗って通りかかられました。久しぶりにお会いしました。しばらくお話をすることが出来ました。

毎年、庭で取れた大きな夏蜜柑を頂いていましたが、今年はそれがありませんでしたので、体調でも崩しておられるのかなと案じていました。お元気で何よりでした。

そんなことをお喋りしたら、さっそく夏蜜柑を1袋届けて下さいました。なんだか請求したみたいで悪いなあと思いました。

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何かやりたくなって来る。

2023年01月05日 10時38分36秒 | Weblog

根なんだなあ。

わたしは仏さまの根なんだなあ。

根の一本なんだなあ。

仏さまが地上に延ばしている小さな根のひとつをわたしが受け持っているという自負。

この自負はいいなあ。誇らしいなあ。

なんかやりたくなって来る。活動がしたくなって来る。

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朝の里芋の味噌汁がうまかったなあ。

2023年01月05日 10時29分49秒 | Weblog

今朝の味噌汁がうまかったなあ。里芋の味噌汁がうまかったなあ。とろりとろりとしていたなあ。

寒い一月のおいしい味噌汁。寒い一月に、おいしい里芋の味噌汁を啜る。あたたかくして喉に通す。これで一日の元気をもらう。

いいなあ。なんともいいなあ。何でもないことのようだけど、それがまたいいなあ。何でもなくしていられるというのもまたいいなあ。朝の里芋の味噌汁がうまかったなあ。

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経典を僕流に読んでみる。

2023年01月05日 09時53分36秒 | Weblog

此の一日の身命は、尊ぶべき身命なり。貴(たっと)ぶべき形骸なり。此の行持あらん身心自らも愛すべし、自らも敬うべし。我等が行持に依りて諸仏の行持、見成し、諸仏の大道、通達するなり。然(しか)あれば即ち一日の行持、是れ諸仏の種子なり、諸仏の行持なり。

曹洞宗在家勤行要集「修証義 第五章 行持報恩」より

行持(ぎょうじ):仏道を常に怠らず修行すること。

僕流に読んではならないだろうけど、僕流に読んでみる。平凡に読んでみる。

今日を生きているわたしがいる。有り難いなあ。今日を生きているわたしの生命がわたしにある。有り難いなあ。今日を生きているわたしの肉体がカタチを持っている。有り難いなあ。それがみな等しく仏道の一道を歩いている。有り難いなあ。そんなことを思っていると一日中自己称賛をしていたくなる。恵まれて恵まれている自己を称賛していたくなる。

わたしの歩む仏道修行の一道によって、それをよろこぶ諸仏の輝きが増し、仏道の大道がいよいよ開発されて来る。そうであるのだから、わたしの此の一日の寂滅の安らかな座禅こそは、まさしく仏が仏と成るための揺るぎない基盤である。

わたしの一日の中の仏道修行はそのまま諸仏の仏道修行になっている。そういう自覚がわたしを嬉しくさせている。

わたしと仏は、同体なのである。大の中に含まれている微細ではあるけれども、同心円である。

その己を愛すべし敬うべし、と。諸仏に喜ばれているその己を愛しむべし尊ぶべし、と。

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死は終りではない。

2023年01月05日 09時37分28秒 | Weblog

次の旅に向かう。次の次の旅に進む。

そういうわたしがいる。

此処にいる。

死は終りではない。1回の死でもって完結しない。

死は、新しい旅の始まりである。

終わるとみせて終わらないでいる。肉体を脱皮する。何度も何度も何度も。

わたしの先々の未来を思うと、目の内がまぶしくなる。

旅をするごとにわたしはわたしの輝き度合いを高めているのだから。

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死者たちは自慢をし合ったりはしない。

2023年01月05日 09時27分13秒 | Weblog

死者たちは自慢をし合ったりはしない。しないように思う。しないですむんじゃないかと思う。反対の自己卑下もしないように思う。しないですむのじゃないかと思う。

あれはどちらとも慢心の慢なんだから。慢心の表と裏なんだから。

死者たちは死後、肉体の自己を離れる。意識の自己だけになる。こころの自己意識だけになる。

その自己意識の自己も消えてしまって、全体意識になる。宇宙意識の合一される。

すると、なあんだ、になる。

自慢なんかしなくてよかったんだ、になる。自己卑下に苦しむこともなかったんだ、になる。

そこを通り越して来た、という感慨に耽る。超越を味わう。

おれは美しい地球に生まれて此処で美しい人生を過ごすことが出来た、このよろこびだけになってしまう。自己称賛だけになってしまう。

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1階のない2階に住んでいたのか?

2023年01月05日 09時05分17秒 | Weblog

お爺さんになって思うことが幾つかある。

そのうちの一つはこう。人間、偉い偉くないはなかったんじゃないか。

偉くならなくても生きて来られた。偉くなる必要はなかったんじゃないか。偉くならなかったので、負け惜しみなのかもしれないが。人より偉くならねばならない、なんてあれは錯覚だったんじゃないか。

勉強をして努力をしていい学校に進んで、いい会社に就職して、偉い地位について、偉い偉いと言われてその気になって、おれはとうとう偉くなったんだぞ、とほくそ笑む。

でもそれは1階のない2階のようなものだったんじゃないか。

1階にはまったく別の暮らし方があった。そんなものに惑わされないでいい暮らし方があった。お爺さんになってやっとそんなことに気付く。なあんだと思う。

他者との比較をしないでいい暮らし方があったのだ。安心の生き方があったのだ。おれはおれでよかった。おれはおれの人生、おれらしい一生を悠々と楽しく生きていてよかったのだった。

惑わされないでよかったのだ。脅されずによかったんだ。

お爺さんになって、脅しが外れて、穏やかな一日になった。日々、畑に行って草取りをしていればそれでいい一日、上等な一日になっている。フシギだ。

偉い人間の範疇を外れた人間の、そのわたし、まったく偉くないわたしがお爺さんをしている。

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言わない方がいいことは言わない。

2023年01月05日 08時48分38秒 | Weblog

言わない方がいいことは言わない。音声にしない。倒して伏せている。

音声にしないが、声はある。内側に潜まっている。他者に届かない工夫をしている。でも、その声を潜めていながら、その目で見ている。

僕はあなたが好きだ、も、僕はあなたが嫌いだ、も、声として、ある。目は声を持たない。でも、見ている。

僕にそれがあるということは? 他者にもそれがある、ということだ。

あなたが好きだは声に出してもらいたいが、あなたが嫌いだの声は、なるだけ聞きたくない。

音声にならない声。無数の声。表現を控えているおびただしい声。これに取り巻かれて暮らしている。これで済んでいる。

声にしなくてよかった、と思うときが来る。しばらく静かにしていると、この時が来る。相手を傷つけないで済んでよかった、と思う。

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