今是(かく)の如くの因縁あり、願生此娑婆国土し来れり、見釈迦牟尼仏を喜ばざらんや。
修証義より
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わたしは此の娑婆国土に生まれたいと願って、願いが成就して生まれて来ました。その上に、導かれて、釈迦牟尼仏にお会いすることが出来ました。この喜ぶべき因縁を二つも忝くしました。
(これはわたしの解釈、わたしの受け取りです。ずれているかもしれません)
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娑婆は、梵語のサハーの音訳語です。苦しみを耐え忍ぶところ、という意味で、忍土とも訳されています。娑婆はいまわたしたちが生きている世界です。苦しみのある世界、苦しみを耐える世界です。そして釈迦牟尼仏が教化する世界という意味も含まれています。
そこにわたしが進んで生まれて来ようと願った。願ったので、願いが成就して、人間となった。そこで釈迦牟尼仏の教えに遇って、発心して仏道を歩んでいます。それを喜びとしています。苦しみの世界で人間となって仏道を歩んでいることに最高最大の意義を見出しているのです。
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わたしたちはふるさとを離れてこの娑婆世界、苦しみの多い世界に生まれてきています。可愛い子には旅をさせよ、でしょう。旅が終わればまたふるさとに帰って行きます。これを繰り返します。1回1回目的があります。
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やがてもう二度と旅に出なくていいようになります。娑婆世界に戻ってこなくていいようになります。前進していいようになります。浄土往生して成仏します。次は仏としての活動をするようになります。利他の救済活動に邁進します。それで終わりでもありません。わたしたちは次へ次へ次へと進んで行きます。
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この現在の娑婆世界では釈迦牟尼という仏に遇って教えを聞いていますが、その後は、極楽浄土に往生して阿弥陀仏の教えを聞いて修行をします。そこで終わりでもありません。
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人間になって娑婆世界に戻ってくるというのは、落第させられるのではなくて、自分の方から進んでそれを申し出ることのようです。それはなぜか? 苦しみ悲しみを克服できなかったからかもしれません。再挑戦をしたくなったのかもしれません。釈迦牟尼仏の教えを聞き足りなかったのかもしれません。それはよく分かりません。
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今日は、「願生此娑婆世界=願って此の苦しみの世界に生まれたいと願って人間になった」というところで、幾つかの疑問を抱きました。「三歩進んで二歩下がる」は水前寺清子さんの歌う歌の文句でした。人間界はワンツーパンチでチャレンジするところ。歓喜が尽きないところなのかもしれません。
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