死ぬときには死ぬが宜しく候。
良寛禅師にこういう述懐があったなあ、たしか。
死なない努力を放棄せよということでもないらしい。
そうなるときには、ジタバタしないで、それに身を任せていて宜しいということか。
ジタバタもいいと、僕なんかは、思うけどなあ。
すべては仏陀のおはからいということか。
仏陀が計らっているのであれば、我が計らいは無用ということか。
仏陀は、わたしをいい方へいい方へと導いている、はずである。
間違った方向へは誘導していないはず。
だからこれは、そうだと信じているしかないのだ。
信じていれば信(まか)せられるはず。
右へも左へもどちらへでも仏陀の手の平の中。迷うことがない。生きてよし、死んでよしが大往生の相(すがた)なのだ。
「仏陀よ、仏陀のお好きなようになさいませ」は自己の努力の放棄ではない。これは大安心の冥利なのだ。
☆
死ぬときは死ぬが宜しく候。・・・などとはしかし決断できぬなあ、このお爺さんは。
死なぬときには死なぬが宜しく候。生まれたときからずっと仏陀の大船に乗っているじゃないか。さぶろうよ、ジタバタするな。
常に現在が最高最上最良。常に過去と未来も最高であって最上であって最良なのである。
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