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<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

風の音にぞおどろかれぬる

2016年08月20日 16時31分19秒 | Weblog

秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる   

藤原敏行 (古今和歌集秋歌上169)

秋が来たとはっきり目にすることはないのだが、吹いて来る涼しい風によってそれと気づかされることだなあ。

藤原敏行朝臣は平安朝前期の歌人。能書家。法華経書写を好んだ。36歌仙の一人。

今日8月20日はこの歌を導いてくれた。立秋はとっくに過ぎている。ややに涼しい風が吹いている。風が木々の枝葉を揺らしている。夕方5時近い。そろそろ外に出て農作業をしてみようか。

藤原敏行朝臣には次の歌もある。

白露の色はひとつにいかにして秋の木の葉をちじに染むらむ   

白露が落ちてひんやりしてくるともう秋が深まっている。白露は白一色なのにどうして秋の木の葉はさまざまな色に染まって行くのだろうか。なるほど、そうだよねえ。全山がこれから黄色や赤や紅に染まっていく。露が染めている訳じゃないから、なんて無粋を言わないでね。

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ただこの貫通する大道を歩むのみ

2016年08月20日 15時44分01秒 | Weblog

今是(かく)の如くの因縁あり、願生此娑婆国土(がんしょうししゃばこくど)し来れり、見釈迦牟尼仏(けんしゃかむにぶつ)を喜ばざらんや、静かに憶(おも)うべし。     禅宗経典「修証義」より

儂(わし)はひょいと此処へ生まれて来たのではないぞ。これまでの綿密な繋がり(因縁)があったからじゃ。まず、この娑婆国土に生まれたいとは儂が願ったことじゃ。そして釈迦牟尼仏に出遭うたのじゃ。願いを快く引き受けてもらったのじゃ。ということは儂は仏因縁所生ということじゃ。でかい顔をしているのはこのためじゃ。この道理を静かに憶へば憶うほどに、図太い喜びが込み上げて来るではないか、のお。

願生此娑婆国土: 此の娑婆国土に生まれたいと願うこと。そのように仏によって願わされること。

見釈迦牟尼仏: 釈迦牟尼仏に迎えられること。仏のこころに合致すること。

因縁: 直接の原因と間接の原因。

仏因縁所生:仏との結びつきがあって生まれて来たという受け取り。

生死は因縁ごとである。世跨がりは因縁ごとである。切れてはおらぬ。断絶はない。すべては繋がっている。前後があって中がある。願生彼安養浄土して次生すべし。ただこの貫通する大道を歩むのみ。

願生彼安養浄土: 仏智仏力を授かって彼岸の安養浄土に生まれたいと願うこと。願わされること。

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大事な視点を取り戻すために

2016年08月20日 14時25分10秒 | Weblog

さぶろう、お前、大事な視点を見失っているのではないか。そう自問するのがこのブログです。さぶろうは見えていないのです。聞こえていないのです。

峯の色渓の響きもみなながら我が釈迦牟尼の声と姿と     道元禅師

仏陀の声が発せられているけれども聞こえて来ません。仏陀の世界が眼前に広がっているのに見えていません。

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そんなに話題に乏しいのか

2016年08月20日 13時52分57秒 | Weblog

視野狭窄さぶろう、お前はそんなことしか書けないのか。そんなに話題に乏しいのか。そんな風に詰(なじ)られそうですが、そうなのです。狭い庭先で秋風が落ち葉を旋回させているようなものです。同じ処をぐるぐるぐるぐる回っています。抜け出していけません。

かといって、今話題独占のスマップの解散記事には触れたくもありません。(キムタクの映画は見ていますけど) 芸能界のエンタメにさぶろうの入り込める余地などありません。オリンピックでの日本人の活躍はNHKさんはじめ各社が番組にして届けてくれていますから、わたしフゼイがいっぱしスペシャリストを衒(てら)うことも躊躇(ためら)われますしね。

いまドボルザークの「新世界」第2楽章を聴いています。気持ちよくなっています。ドボルザークは3人の子供に先立たれています。この世の辛酸を嘗めている芸術家です。苦悩はいかばかりだったでしょうね。でも、それも加わって人を慰め励ますような素晴らしい音楽を遺しています。この世のことは大きく見ればすべてプラスプラスに動いているのかもしれません。

わたしは全身脱毛症です。何処も此処もつるつるです。鏡を見るとぎょっとします。地球に居ながらにして火星人です。人前に出るのをためらいます。まして女性の前になど。でもね、これくらいは耐えられます。耐えられることでよかったなと思います。耐えられないことに耐えている人だってたくさんいるはずです。そこを思うとわたしは幾分か刑罰を軽くしてもらったようなものです。

大学のキリスト教学の教授があるときの授業で「神さまはあなたが持てない荷物を与えられることはありません」と教えられました。その言葉をひょいひょい思い起こしています。「そうか、みなわたしの持っている荷物はわたしが持つことの出来る荷物だったのだな」と思ってそこに力を見い出しています。

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安心のブランコは朝夕に風に揺れる

2016年08月20日 13時09分49秒 | Weblog

自力では助かるはずのないわたしを、(仏力によって)助けると法蔵菩薩が誓願されました。その誓願が成就して法蔵菩薩は阿弥陀仏になられました。だから、わたしは助かるのです。未来に助かるということは畢竟するに現在でも助かっているということです。

自力では仏の世界に往生するはずのないわたしですが、阿弥陀仏の仏力によってわたしが往生を果たして行くのです。それが阿弥陀仏の真宗です。真実の仏のみ宗(むね=こころのハタラキ)です。人に真宗はありません。なくてすんでいます。よかったと思います。

凡庸凡俗のわたしが考えてわたしがわたしを助ける算段をしなければならないとしたら、わたしが助かる見込みは皆無でした。助かるか助からないかの詮議も無用になります。助かったか助からなかったかの証明もわたしの手を離れています。わたしはただ安心をしていればいいのです。わたしが剣をふりかざなくても勝負はついています。

安心をするということが大悟です。ところがこの安心がすぐに揺らいでしまいます。懊悩の土用波が襲って来てものの見事に打ち砕かれてしまいます。わたしはまたもや不安だらけ恐怖だらけ苦悩だらけに変身します。

でも煩悩身は菩提身でもあります。氷と水のようなもの。霧と水のようなもの。変化を辿って循環をすることが出来ます。変化は広がりと余力のある証拠です。氷は氷のハタラキをし、霧は霧のハタラキをしています。根底にあるのは仏の本願成就です。これが通底していれば何処へ立って旅立っていけるのです。どんな変容もそこに含められているのです。

今日のさぶろうはそんなことを考えました。安心はブランコ。風に吹かれて揺れます。揺れる分だけ遠くの海山が美しく見て取れます。

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何事もなかりし如く

2016年08月20日 12時00分31秒 | Weblog

何ごともなかりしごとく 朝さめて溲瓶(しびん)の水を くつがえしたり       釈迢空 

作者はすでに年老いている。老人は夜が長い。夜中に何度も目が覚める。一度目覚めたらなかなか寝付けない。思い悩むことも目覚める。しばらくはあれこれ思案する。寝付いたと思ったら悪夢を見る。ふらふらする。ふらふらしてトイレまで行かなくて済むようにするには、寝床の傍に溲瓶がいる。一晩でたっぷり尿がたまる。これを朝目覚めた後にトイレに棄てに行く。ざざざざあと溲瓶の尿を覆す。しかし、覆してしまえば何事もなかったのだ。廊下を踏みしめる足元に爽やかな朝が来ている。

釈迢空、本名は折口信夫。歌人、民俗学者。国文学者。明治20年、大阪の木津村に生まれた。明治42年子規庵の歌会に参加。アララギに入会。大正13年白秋の創刊した「日光」に参加。昭和28年没。折口信夫全集33巻がある。

覆してしまえば何事もなかったことになる。我が来し方も溲瓶に溜めて捨て去ってしまえばいいのだ。よく生きたかどうかの自己評価に思い悩むこともなかろう。我が輩はぎっくり腰を何度も患った。そのたび昼も夜も溲瓶の助けを借りることになった。1瓶では足りなかった。朝になって家人に棄ててもらった。溜まった我が懊悩もついでに棄ててもらった。

懊悩をくつがえし棄つるこの朝を快とす 快も多種多様なり     李 白黄

      

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睡蓮の花今朝は開かず

2016年08月20日 10時02分10秒 | Weblog

この三朝あさなあさなをよそほいし睡蓮の花今朝はひらかず      大正13年刊  土屋文明歌集「冬草」より

短歌鑑賞をしてみます。わが慰めに。

睡蓮は蓮池のロータスではない。長い首がない。池の面にちょこんと首を乗せている。多くは北アメリカ原産。アフリカ原産の熱帯睡蓮もある。花の色は赤・紫・白など。早朝に開いて早々と閉じる。後は睡眠したままだ。花の周辺では魚が跳ねる。睡蓮などの水草類が池を覆い尽くしてしまうと魚が死んでしまう。

作者は毎朝これを見に池を尋ねているらしい。三朝と言っているが三日間ではなくずっとの意か。この夏ずっと花を咲かせて池を美しく清々しく装ってくれていた睡蓮が今朝になってとうとう開かなくなった、というのである。夏の早朝の叙景の背後に清冽な叙情が立ちこめている。作者はこのときまだ二十歳にもなっていない。

群馬県高崎市出身。東大在学中、芥川龍之介、菊池寛らとともに第三次「新思潮」に名を連ねる。昭和9年まで法政大学で教鞭を執る。昭和5年より斎藤茂吉の後を受けて「アララギ」編集発行人となった。「万葉集私註」で芸術院賞。生前に出版された歌集が13冊ある。平成2年没。

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鬱は毒悪 異臭が立ちこめる

2016年08月20日 09時37分06秒 | Weblog

さぶろうは俗界の俗人。泥沼の底に鬱が溜まる。鬱は毒悪。異臭が立ちこめる。これを抜かねば息をもつけない。さあ困った。抜く方法が見付からない。このまま腐ってしまうのを見定めているしかないのか。

俗界の俗人は俗を喰って腹を太らせるしかあるまい。うまいものでも喰いに行くか。ところが夏は素麺が一番うまい。するする老人の喉を通るのはこれくらいだ。だったら、我が家の台所で乾麺を茹でたらいいではないか。ガラスの器に井戸水を張って氷を浮かべてこれで一級品だ。

さぶろうは俗界の俗人。いつまでたっても大悟が開けない。3万6千日を費やしてもこうだ。弟はあっさりこの世の大悟を諦めて次へ進んで行ってしまった。それが利口だったかもしれぬ。8月の愚者の暑苦しさ。毎日35度、36度の熱風に晒されておらねばならぬ。しかも無為にして。得るところ皆無にして。

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それを呟くしかないのか

2016年08月20日 09時27分24秒 | Weblog

どんなにかよかろう。ともに楽しく遊べる人、気心通い合う人が傍にいたら、どんなにかよかろう。弟も異界の人となった。この世で遊ぶこともなくなった。仏教を論じ合うこともなくなった。遺された者は世を跨ぐまでこうして「どんなにかよかろう」をつぶやくしかないのか。

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老爺は行くところすらない

2016年08月20日 08時55分56秒 | Weblog

寂しくても、酒を飲みに行かなくなった。赤提灯の一杯飲み屋に立ち寄ることもなくなった。老いた。夜の飲み屋街を放浪するだけのエネルギーも乏しい。しかし、ちょろちょろと涌き出る谷水のような寂しさだけが、暗い静かな沼を造ることになる。沼に鯰が跳ねる。どうしよう。鯰を釣り上げてくれる釣り人もいない。慰めてくれるおんなの人もいない。酒飲み相手をしてくれた友人らも持病持ちで隠居生活だ。もう声も掛けられない。社交性協調性喪失の我が儘老爺は、新しい仲間を得ることもない。八方ふさがりのようなもの。日に何度も溜息をついて夏の入道雲を仰ぐということになる。ぶらりと外に出ても、行くところすらない。残りは一つ。机上に積んだ本にかじりつく一匹の虫にでもなろう、日暮れまで。

 

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