<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

軽い一日を終わります

2016年08月28日 21時02分19秒 | Weblog

現在夜の9時過ぎ。室内の気温26度c。ひんやりする。草叢の中にいる虫たちが夜の闇を聴衆に見立てて思い思いに秋を奏でて鳴いている。下着だけで暮らしている僕はクシャミを繰り返す。僕は、人がする重大な仕事のようなものは何もしない一日を終わろうとしている。他の人たちの重い一日よりもうんと軽い一日だ。

夕方、雨が止んだのを見計らって僕はサイクリングに出掛けた。いつも走る城原川の川土手を南下した。川水の水嵩が増していた。濁流だった。けっこう雨は降っていたんだな。ずっと怠けていたので、脚の筋肉がずいぶん衰えているのが分かる。ペダルをゆっくりゆっくり漕いだ。行き帰りで約40分間だった。

帰宅した後、汗を掻いたついでに庭先の草取りをすることにした。警戒して蚊取り線香を腰の右左に下げたが、蚊はそもそもいないようだった。飛蝗類が住むべき家を追われて飛び出してきた。計画した部分の草取りは一時間で終了した。雨が降って土が湿っていたので作業が楽だった。箒を握って集めて見ると抜いた草が草山を高く作った。

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光降る野原を光よりも明るいパラソルを差して

2016年08月28日 20時46分42秒 | Weblog

ベッドの上にひとときパラソルを拡げつつ癒ゆる日あれな唯一人の為め       河野愛子

切ない歌だなあ。彼女は病気をしてベッドに寝ている。もう長く。彼女には愛する人がいる。病気が癒えたならばその人と歩いてみたい。光降る野原を光よりも明るいパラソルを差して。でもそれはできない。でも行ってみたい。癒える日は来ないかもしれない。願望「あれな」を仕組んで必死でそれを待ち望んでいる。こういうとき人は錯覚を味方につける。錯覚で実現をこころみるしかないからだ。ベッドの上に西洋日傘を拡げてみた、という設定が切ないのだ。唯一人のためのパラソルが華やかな色彩をして暗い病室の中で踊っている。それさえもほんのひととき限り。

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一生に一度だけの本当の恋

2016年08月28日 20時20分13秒 | Weblog

一度だけ本当の恋がありまして南天の実が知っております     山崎方代(やまさきほうだい)

どうしてだけわからない。この歌に初めて出遭ったときに、どぎまぎした。ここから容易に抜け出していけなかった。捕まってしまった。どうしてだかわからない。今でも説明が付かない。でも直感がこれを秀歌にしている。秀歌だとか名歌だといういう範疇を離れたところで、この歌は僕を虜にしている。

作者がどんな人物でどんな境遇に置かれている人なのかもまったく知らなかった。あとあと、彼が破天荒な生き方をしていた人物だということを知った。南天の実が知っているという彼の本当の恋。一度だけだというからその他の時間はそんなこととは無関係な暮らしをしていたというのだろうか。

一度だけでいいから本当の恋というものがしてみたいという願望、万人にその願望があるをちゃんとわきまえていて、それを錦の御旗に見立てて勝ち戦を目論んだだけなのかも知れない。それにしてもなぜ、そしてどうやって人間の本当の恋というものを身動きも出来ない庭の南天が嗅ぎ付けたのだろうか。生き証人になどなれるはずもないのに、それがいかにも真実めいて聞こえてしまう。

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名を呼ばれたのでここにいるのだ

2016年08月28日 15時47分50秒 | Weblog

名を呼ばれしもののごとくにやわらかく朴(ほう)の大樹も星も動きぬ       米川千嘉子   

やわらかく大樹の朴が動いたのは真昼間。やわらかく星々がまたたいたのは夜。先生から名を呼ばれた小学生が「はい」と答えてよろこびの手を挙げたように。ただ小学生のように瞬間的ではなく、もう少し長くゆったり整然と。

名を呼ばれたのである。「呼ばれしごとくに」と婉曲してあるが。名を呼ばれてはじめて全存在がここに存在しているのである。名を呼ばれて命が宿ったのである。星もわたしも山も朴の大樹も、虫も蛙も。名指しされてここへ来たのである。ここを荘厳し輝かす者として。わたしの名を呼んだのは誰か、それをたしかめたくて動く。やわらかく。やがて厳かにしなやかに。目を瞠ってそこに立つ。深く息づく。そして確かめ得たものが約束通りそこできらきら己を輝きださせるのだ。

短歌とはなんだろう。ショットガンだろうか。大砲だろうか。読者を打ち抜いてくる。触媒だろうか。読者を化学変化させてくる。ピストルだろうか。読者を静から動へ移らせる。毒だろうか薬だろうか。眠っていた者を目覚めさせる。とにかく大きな力を持つ。この歌がそうだ。

わたしさぶろうもここに呼ばれている。そう思っている。アカシック・レコードの記録に依れば、さぶろうの宇宙名はラ・ハマロ・ズ・テである。この名で繰り返し繰り返し宇宙に登場し退場してきた。これからもそうするだろう。そしてさぶろうもまた諸仏諸菩薩の名を呼んでいる。これも事実だ。さぶろうに宇宙の法、正覚の道を指し示すものの名を呼んでいる。

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ここは仏さまのご説法の声が鳴り響くところ

2016年08月28日 14時36分43秒 | Weblog

「正覚大音 響流十方」

仏説無量寿経上巻中「讃仏偈」より    

しょうがくだいおん こうるじっぽう

正覚の大音は十方に響いて流る     

阿弥陀仏はいまだし修行中の身であった。法蔵菩薩と名乗っておられた。世自在王仏を師としておられた。苦悩する衆生を救済するためにはそれができる仏と成らねばならなかった。無量光と無量寿を差し延べねばならなかった。仏国土を建設し、そこに人々を招いて、安楽の法門を説かねばならなかった。讃仏偈の仏とはこの世自在王仏のことである。

正覚とは正しい覚り、いま世自在王仏の説かれている教えの内容である。それが大音声になって、宇宙中、十方のあらゆる国々に響き渡っている、というのである。

法蔵菩薩はそれをお聞きになっていよいよ奮い立っておられる。衆生救済のお誓いをますます強くしておられる、そういう行(くだり)だ。

ふっとそれをさぶろうも聞いてみたくなったので、これをここに書いてみたのである。耳朶を立て耳を傾け全神経を集中して正覚の大音を聞きたいのである。

十方の国々に響き割っているのだから、当然この娑婆世界にもその正覚の大音は届いて来ているはずである。彼の仏は自在者である。すべての世界(世)を自在に行き来する王者である。当然仏は無量寿であって無量光を放っておられる。それを受けたものはその功徳を身に受けるのである。聞けないはずがないのである。

菩薩でもない者がそんなことを思い立つとは身の程知らずだ。傲慢だ、不敵にもほどがあるとしかられるだろうか。讃仏とは仏のご威徳を讃えることである。長い長い讃仏の修行の後にしか聞こえて来ないのかもしれないが。

今日空に響き渡った雷ほどの大音ではあるまい。海の潮鳴りほどの響きではあるまい。鹿児島桜山の爆発ほどの瞬間でもあるまい。

偈には「震動大千」ともある。大千とは大千世界のことである。正しくは三千大山世界のことである。天上界から地獄界までが一小世界。その千倍が一小千世界、その千倍が中千世界、その千倍が大千世界である。それだけの広大極まる世界に鳴り響く音声である。鳴り響く声でもって三千大千世界が震動して止まないというのである。聞こえないはずがないではないか。

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わたしは天地万物に好かれている

2016年08月28日 10時17分39秒 | Weblog

わたしは天地万物に好かれている。そう思うことにした。だったら居心地がよさそうなのだ。

好かれているという感覚は人をやさしくあたたかくするものだ。その反対に、嫌われているという受け止めだったらさみしい。暗い。冷たい。最後は追い込まれて凍り付いてしまう。

「わたしは天地万物から好かれている」と受け止められたら、そのあたたかさ朗らかさに背中を押されて、それに見合う分くらいは目にするもの、耳にするもの、手に触れるものを好きになれるのだ。これが自然の循環のなのだ。

好きと好きは循環をする。嫌いと嫌いも循環をする。でもこれは対人間の間のことかもしれない。天地万物は、こちらの「嫌い」だって「好き」にして返してくれるのかもしれない。それくらいの度量がないと天地万物は整然たる調和や秩序を保てないかもしれない。

わたしは天地万物に好かれている。好かれているからわたしにも青空が見えているんだ。そう思って昨日一日を過ごした。この世にいるその居心地がうんと増したように思えた。なんだかものごとがなにもかもそこから好転を始めたようにも思えた。

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やっとやっと雨が降り出した

2016年08月28日 10時08分41秒 | Weblog

雨が降り出した。やっとやっと。待ちに待った。待ち遠しかった。からからに乾いた土がこれでやっと湿る。土のお父さんの雄叫びが聞こえて来そうだった。土のお母さんは「これでわたしを頼って育っている植物たちにいのちの水を吸わせてあげられる」と言ってぽろぽろ嬉し涙を泣きだした。雨はそれを聞いてなおさらにしとしとしとしと降り続けた。大降りという感じはしなかった。でも天気予報では今日の雨は一日中らしい。だといいよね。これで畑の土がしっとりした秋野菜の土らしくなるだろう。

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宇宙の意思がそうであるように

2016年08月28日 08時47分20秒 | Weblog

わたしは地球上を駆け回っている。それだけで終わっていない。わたしは宇宙中を駆け回っている。わたしの肉体とう物質体は地球上の世界中を駆け回っているが、わたしの霊体(スピリット=愉快本質)という非物質体はもっと活発で宇宙中を駆け回っている。ずっとずっとずっと。活動には停止がない。宇宙の意思がそうであるように。ずっとずっとずっと向上を夢見てひた走る。それが楽しいのだから嬉しいのだからそうしているにまかせていようと思う。そうしていると輝きが増すのだから。全体の輝きがいや増すのだから。

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