まあそんなこんなを考えている。さぶろうは暇人なのだ。どうでもいいことを考えている。考えてどうにかなることではない。1銭1厘にもならない。
この世のことは一長一短なのだ、すべからく。短を歎くか、長を驕るか。そしてそのどちらの受け取りも平べったくない。主観がある。色が付いている。味付けが濃い。ごてごてしている。ねばねばしている。臭っている。
さっき(前のブログ)の物質か非物質かの話の延長になる。わたしたちは物質化を選択したのだ。肉体をもってわたしとしたのだ。それにも当然、一長一短が具わっていた。短は生滅すること消えてしまうこと、長は生成発展を楽しめること快楽を味わえること。(その他もろもろあるだろうけど)
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非物質をわたしとしてもよかったのだ。現にその選択をしている同胞も多いはずだ。
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今のさぶろうは肉体をもってわたしとしている。だから、物質界のルール原則に従って生きるようになっている。だからもうすぐ消える。選択期限、借受期限が終了するのだ。
消えた後にまた役所に出向いていく。そこで次の選択をしてもいいようになっている。人々が列を成して列んでいる。「やっぱりわたしは物質になります。肉体という快楽の実体があるほうが生き甲斐があるんです」と主張する者もあるが、「もうそれには懲り懲りだよ。しばらく生滅器具を借りないで過ごしてみたい」といって非物質の選択をする者もいる。
どっちだってやはり一長一短なのだ。長ばかりではない。短ばかりではない。
長にあるときは長を楽しんでいればいいのに、それができない。(それが人間が背負っている業だ。罪業だ)長にあるのに短が気になって仕方がない。で、そちらばかりに目が向いてしまうことになる。
短にあるときの過ごし方を知っている者もいる。彼はそれをすべてとしないですむ術を心得ているので、短に捕まらないのだ。物(われわれは物質)は考えようなのだ。物質化したときについて回る付帯事項に拘束されることはないのだ。
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こんなふうにさぶろうは暇人である。どうでもいいことなのだ。
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物質化を選択しなかったわれわれの同胞たちは、さて、そこでどんな暇人をしているのだろう? やっぱりさぶろうのように、どうでもいいことをあれこれ考えているのだろうか。次にはさぶろうも「肉体をわたしとしない選択」を選択してみるか。
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華厳が教える毘盧遮那仏の毘盧遮那(ビルシャナ)というのが「肉体をわたしとしない選択」のコンセプトである。彼は物質界の法則を超脱している。無量光であり無量寿でもある。物質尺度の計算外の摩訶不思議そのものである。いやいや、そこまでは到達できないだろうが。