<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

面白くもないだろうなあ こんなブログ

2016年08月04日 10時50分07秒 | Weblog

だよなあ。くそ面白くもないだろうなあ。こんなブログを読まされたってねえ。

グウのブログのトピックスベスト10には芸人の話が多い。くっついたの離れたのという話。それはそれで結構な話題提供にちがいない。でも、さぶろうには書けない。引っ繰り返ったって。だから、さぶろうはさぶろうを通すしかない。

でもやっぱり面白くするべきだろうなあ。

妖しい光を放つ彼女の話を持ち出してくればいいのかなあ。そんな人はさぶろうの近辺にはいないよなあ。

じゃ、見たこともないのか。いや、見たことくらいはあるけどね。でも無縁だ。とっかかり、引っかかりもない。

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非物質をわたしとしてもよかったのだ

2016年08月04日 10時15分23秒 | Weblog

まあそんなこんなを考えている。さぶろうは暇人なのだ。どうでもいいことを考えている。考えてどうにかなることではない。1銭1厘にもならない。

この世のことは一長一短なのだ、すべからく。短を歎くか、長を驕るか。そしてそのどちらの受け取りも平べったくない。主観がある。色が付いている。味付けが濃い。ごてごてしている。ねばねばしている。臭っている。

さっき(前のブログ)の物質か非物質かの話の延長になる。わたしたちは物質化を選択したのだ。肉体をもってわたしとしたのだ。それにも当然、一長一短が具わっていた。短は生滅すること消えてしまうこと、長は生成発展を楽しめること快楽を味わえること。(その他もろもろあるだろうけど)

非物質をわたしとしてもよかったのだ。現にその選択をしている同胞も多いはずだ。

今のさぶろうは肉体をもってわたしとしている。だから、物質界のルール原則に従って生きるようになっている。だからもうすぐ消える。選択期限、借受期限が終了するのだ。

消えた後にまた役所に出向いていく。そこで次の選択をしてもいいようになっている。人々が列を成して列んでいる。「やっぱりわたしは物質になります。肉体という快楽の実体があるほうが生き甲斐があるんです」と主張する者もあるが、「もうそれには懲り懲りだよ。しばらく生滅器具を借りないで過ごしてみたい」といって非物質の選択をする者もいる。

どっちだってやはり一長一短なのだ。長ばかりではない。短ばかりではない。

長にあるときは長を楽しんでいればいいのに、それができない。(それが人間が背負っている業だ。罪業だ)長にあるのに短が気になって仕方がない。で、そちらばかりに目が向いてしまうことになる。

短にあるときの過ごし方を知っている者もいる。彼はそれをすべてとしないですむ術を心得ているので、短に捕まらないのだ。物(われわれは物質)は考えようなのだ。物質化したときについて回る付帯事項に拘束されることはないのだ。

こんなふうにさぶろうは暇人である。どうでもいいことなのだ。

物質化を選択しなかったわれわれの同胞たちは、さて、そこでどんな暇人をしているのだろう? やっぱりさぶろうのように、どうでもいいことをあれこれ考えているのだろうか。次にはさぶろうも「肉体をわたしとしない選択」を選択してみるか。

華厳が教える毘盧遮那仏の毘盧遮那(ビルシャナ)というのが「肉体をわたしとしない選択」のコンセプトである。彼は物質界の法則を超脱している。無量光であり無量寿でもある。物質尺度の計算外の摩訶不思議そのものである。いやいや、そこまでは到達できないだろうが。

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言葉(文字)は生滅しない

2016年08月04日 09時46分59秒 | Weblog

言葉は文字として残り得るのだった。すべてが残りうるか。それは疑問だ。有用であれば残りうる。偉大な文学者、自然科学者、社会科学者、偉大な業績者等のであれば、しかり、残っている。人類全体の資産として残っている。

わたしはやがて消える。消えるという不安がある。(消えるという安心も同時にあるけれど)そこに有った物がある日忽然と消えてしまうというのはやはり恐怖に映る。 

見える部分としてのわたしは見えなくなる。それが消えるということだ。見える部分の肉体だけを、普通は、わたしとして扱っているから、肉体の消滅は即わたしの生滅でもあるわけだ。(見えない部分までをわたしとする方法があれば、話はまた別だが)

物体だから消えるのである。形が在る物は形をなくす。これは自然界のルールであって、珍しいことではない。頭を傾げて考えることではない。(だから唯々諾々と受け入れるしかない)

物体でなかったのなら、しかし、このルールの適用外になる。つまり、消える消えないは、物体であるかそうでないか、これが決め手になるのだ。

非物体、非物質とは、ではどんなものか。見えないものがそうである。形を取らないものがそうだ。そこまで進化を遂げたものがはじめて非物質化するのである。ここまで来れば消滅を免れる。(念願の、生滅を回避できる)

勿論その代わりその逆もない。非物質にはポーズがない。スタイルがない。出現がない。誕生がない。生成発展がない。美の表現がない。音が出ない。快楽が伴わない。芸術振興がない。あるのはただ空白な、透明な、まっさらな真理だけだ。

そこの矛盾を潜り抜けて来たものが言葉である。文字である。物質と非物質とのちょうど中間に位置している。形があるようでない。ないようである。そしてそれがそれなりの機能を保つ。死んで生滅を繰り返す人間界に代々伝承される。

 

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蜂が飛び回る羽音のぶううんぶうん

2016年08月04日 09時38分06秒 | Weblog

軒下のベランダに音がする。ぶううんぶうううん。蜂だな。巣作りを始めようというのかな。厄介だな。でかいぞ。スズメバチだろう。あぶないあぶない。ここには洗い物が干してある。風にくるくる回っている。小さい頃にチクリと刺されて泣いたことがある。2度3度。溺愛してくれたお婆ちゃんが畑に行って水芋を切ってきて、刺されて赤く腫れ上がったところに汁を塗ってもらったことがあった。イタイノイタイの飛んで行けの呪いくらいにはなったはずだ。兎に角しかし、ぶうううんぶうんの音には今でも警戒をする。

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