<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

夏草は夕暮れても茂る

2016年08月17日 18時06分54秒 | Weblog

さあ、夕暮れて来たぞ。そろそろ涼しくなった外に出るか。草取りに。庭の夏草は逞しければ昼間も茂る、夕暮れても茂る。

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われわれは死なずに連続している

2016年08月17日 13時54分09秒 | Weblog

連続しているということは死なないでいるということだ。形はさまざまに変えて行くけれどもそれでも連続をしている。大空に白い雲が流れている。さっきは驟雨が来たが、いまはまたぎらぎら太陽が照りつけている。風があるらしく、屋根まで届いている隼人瓜の藪がときおりざわざわ音を立てている。どれもが互いに連続している。縦方向に横方向に斜め方向に、上下に。

こうして大気圏が死ぬことはない。青空が死滅するということもない。過去へ未来へベクトルが延びて巧く釣り合っている。大自然の変形種のわたしも是に倣っているので、長い目で見ればどこまでも生命直線は延びきっていて、立派に連続を果たしている。縦横無尽の大宇宙に座標があって、そこではわたしは点である。一つの小さな点在だが、なんという摩訶不思議か、これが死滅するということがない。わたしが死滅すれば大宇宙が死滅してしまうけれども、その心配は万に一つもない。

時間的にも空間的にもわれわれは連続をしているのだ。木の葉が風に揺れるように変化を見せてはいるが、それが見事に全体を形成しているのだ。心配はない。心配することはない。心配をすることがあってもそれもまた一つのバリエイションであって、変化の妙なのだ。

 

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洗濯された帽子と靴下が風に揺れている

2016年08月17日 13時34分21秒 | Weblog

洗濯された帽子と靴下ワンペアーがベランダの物干し竿にフックで吊されている。帽子は丸く、靴下は長くなって、それがゆっくり風に揺れている。その向こうは夏だ。太陽がぎらぎら照りつけている。山茶花の木を取り巻いている朝顔の蔓が黄緑色をして元気だ。それが安らいだ僕の魂が見ている世界だ。魂からするとそれがかけがえのない見事な美しい絵になっている。

8月17日、朝からずっと僕は一人でいる。お昼ご飯がまだだ。あんまり食べる気がしない。これから市立図書館に本の返却に行くところだ。孫と一緒に借りて来た本が13冊。「植物の種」が孫の自由研究だったので、その種の本が多い。僕も読んでみた。意外と面白かった。雄蘂と雌蘂だけがほんとうの花であって、花片などそれを取り巻くものは葉が変形したものだと書いてあって僕は花を見る眼を新しくせねばならなくなった。

でもこの炎天だ。さぞかし暑いだろうなあ。図書館の冷房の中でしばらく過ごしてくるという手が浮かんだ。

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アメーバブログにお盆のことを書いてみました

2016年08月17日 13時26分27秒 | Weblog

アメーバ・ブログに「お盆のことを考える」エッセーを数編書いてみました。

http://ameblo.jp/8888waoh、あるいは8888waohで検索できます。このブログのタイトルは「おでいげにようこそ」です。

お盆について考えてみましたが、どれも正しい意見にはなっていません。支離滅裂です。

 

 

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栄枯盛衰は世の習いなのだ

2016年08月17日 09時11分18秒 | Weblog

勢いを誇った奥州藤原氏は三代で滅びて行った。時代の覇者争いを演じた源氏も平家もほどなくして互の破局を迎えた。栄枯盛衰は世の習いというが、無常は権力者達の独占物でもない。

静かな我が村里にもそれが見える。豪邸が次々と廃墟になっていく。跡目を継ぐ者がいないのだ。都会に出て行って戻って来ないという事例も多い。夏草が庭を蔽い入り口を塞いでいる。

我が母の里の旧家も、さまざまなドラマを従えて、この夏ついに途絶えてしまった。家も取り壊されて更地になってしまった。近くの檀那寺の駐車場になってしまった。二代に亘ってその娘達が次々に嫁いでいってしまったのだから、しようがない。

夏草を抜きながら、そんなことこんなことに思いを馳せながら、そうは言っても我が家もいつこうなるかはわからないなと思った。我が家も娘三人である。ここに留まる保証はない。ここは村里である。それほど価値が高いというものでもない。ないけれども愛着はある。しかし、土地と家はそもそも借り物なのだ。

誰にも等しく言えることなのだが、それがなんであろうと永久的に「我が所有」と言うことはないのだ。無論、我が命でさえも。時間も空間も、しばしをお借りしているだけなのだ。だから、返すときが来れば返すしかない。返さない、返したくないとする方が間違っているのだ。そういう諦めに至り着くしかないのかも知れない。

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賑やかな夏ツバメたち

2016年08月17日 08時40分29秒 | Weblog

夏ツバメが我が家の周辺を飛び回っている。屋根を越えるくらいに低く低く。遠離ったかと思うと又近づいて来て。出来上がったばかりの新しい家族の面々だろうか。ピピ、ピピと鳴いていかにも「わたしたちは楽しいのよ」とアピールしているようだ。我が家で育ったものたちではない。巣を作らなくなってもう長い。蚊帳を吊って寝ていた頃には網戸は閉めてなかった。泥棒の心配などは何処の家もしていなかった。玄関も開いたままだった。ツバメたちは従って自由に出入りが出来た。居間の梁の上に巣があって子育てをすることができた。夜は家の中で眠っていた。夜が明けるまもなく親鳥は餌を探して戻って来た。家族の者は糞の始末に注意を払った。ツバメは幸運を招く鳥だとして大事にされた。孵ったばかりの雛の鳴き声が耐えなかった。一日賑やかだった。

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