降りそうで降らない。何処か遠くで雷の音。それも微かだ。どどどどどうと降ってくれたらよかろうに。乾ききった大地をしばらく湿地帯にしてくれたらよかろうに。風が出てきて気配が整って今にも降り出しそうなのに、そこまで。降り出して来ない。雨を待つ一切の生物群を、無慈悲にも、じらしにじらす。ちなみに昼間、車の外気温計は36度を指していた。乾燥は極に達している。これでもう何日だあ。
東の岸にたちまちに人の勧(すす)むる声を聞く、「きみただ決定(けつじょう)してこの道を尋(たず)ねて行け。かならず死の難(なん)なけん。もし住(とど)まらばすなわち死せん」と。
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これが「釈迦の発遣」の勧める声である。
前方に二つの河がある。後ろからは鬼どもが迫って来る。絶体絶命だ。その時にお釈迦様の声が聞こえてくるというのである。「この道を進め」と。死なない方法はこれしかない。河を渡らなかったら、ここで死滅のままになる、と。
炎を上げている火の海が行く手を阻んでいる。そこを避けると今度は逆巻く狂奔の海が行く手を阻んでいる。これでは先へ行きようがない。するとそのちょうど真ん中に細い筋のような白い道が見えている。限りなく狭くて細い。
善導大師の「観経疏散善義」に説かれた比喩がこの「二河白河」である。この白い道を進んでいけば阿弥陀如来のお浄土である。
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西の岸の上に、人ありて喚(よ)ばひていはく、「なんじ一心(いっしん)に正念(しょうねん)にしてただちに来れ、われよくなんじを護(まも)らん。すべて水火(すいか)の難に堕(だ)せんことを畏(おそ)れざれ」と。
これが「弥陀の召喚」といわれるものである。
お釈迦様に背中を押され、今度は阿弥陀如来に手を引かれる。「召喚」とは手招きである。荒野の呼び声である。「わたしがあなたを護るから恐れないでいい。さあ、白い道を歩いてこちらに渡りなさい」と呼んで下さるのである。
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わたしが「ある」とか「ない」とか言っていることはなかったのである。浄土がそこに「ある」「ない」はこの白い道を進む前には、まるで何も見えていないのである。
「行ってみれば分かる」「この道を行け」と立て札がしてある。ところがこの道は一方通行である。つまり行ったら戻って来られない。だから、体験報告者がいるわけではない。つまりそれぞれがこの道標を見て進んでみるしかないのである。そして「あった」を叫ぶことになる。
そこにお目当てがあったらそれでいいのだが、危うい話である。行き着くまでずっとそれがはっきりしていないからだ。ない、まだない、未だ見当たらないと最後の最後まで疑心暗鬼しながら進むことになる。それだからこそ「あった」ときにはその驚き、よろこびが大きいのだが。
このブログもさっきのブログの続きで、死後の世界である。阿弥陀如来の浄土「極楽」一丁目一番地の話である。仏典は道標である。「この道を進め」と書いてある。右に火の河があっても左に逆巻く濁流の海があっても、「この道を進め」とある。懐疑の河と不信の海が己のこころの中に広がって来るが、それでも進むしかないのである。
そこを進んでいるとそれが「あった」という叫びになるのである。
おおよそわたしの煩悩の眼が見ているのである。正しい判断は難しい。煩悩が遮断されたときに初めて見えて来るのである。そのときに「あった」という叫びになるのである。阿弥陀如来の仏界に往生してそこで仏陀の霊性を覚知することができるのである。
生前でもそこに行き着けないはずはないと主張する学者諸氏もいるが、そんなに慌てないでもいい。生前は生前でそこに開かれている世界があるのだから、その時には其れを見ていればいいのである。煩悩の眼が遮っているといっても、それはそれで存在の価値があるのである。ここを潜っていくことで得られることがあるからである。
完熟トマトを食べ放題に食べている。朝ご飯昼ご飯夕ご飯に。8分の1に裁断した細切れをガラスのボール一杯も食べてしまう。甘くておいしいので、箸が止まらない。我が家の畑にあってずっとずっと太陽に照らされまるまる熟れに熟れたものばかりである。贅沢が過ぎると思ってしまうが、箸が止まらない。ここ数日は加えてオクラが大量に収獲されて来る。火も湯も通さないでそのまま微塵切りにしたもの、焼いたもの、茹でたもの、煮込んだものなど料理法はいろいろあるが、そのどれもおいしい。
「ある」ということ「ない」ということ。それを考えたくなった。いや、僕はそれが「ある」と断じている。断じていればそれでいいと思っている。切り口あざやかに一刀両断している。僕が斬ればそれで斬れているのである。だからまさしく独断である。したがって他者の介入を許さない。それは僕のこころの問題だからである。客観視されないで済んでいる。危ういという向きもあるが、「ない」としたところでその危うさが消滅するのでもない。
空間的に「ある」という「あり方」、時間的に「ある」という「あり方」。その両方とも具えた「あり方」。それ以外の「あり方」。つまり空間的にも「ない」、時間的にも「ない」けれども、それでもなおかつ「ある」という「あり方」。「あり方」はさまざまに工夫されてあるのではないか。「ある」と見越してするんでいたからこそ「あった」というケースもある。それでも尚且つ何処まで進んで行っても「なかった」というケースもあるだろう。
「それ」とは阿弥陀如来の浄土である。浄土は仏陀が建設した清浄な国、理想国家、仏界という意味である。仏陀はガンジス川の砂の数ほどたくさんいらっしゃるし、そのどの仏陀方も建設してそこに居住する民衆に理想を説いておられるから、違いを設けておかねばならない。そこで固有名詞「極楽」を冠せられている。「とても楽しいところ」「とても愉快を覚えて生きていられるところ」という意味合いが込められている。
もちろんこれは方便である。指し示そうとしておられるのである。だから、極楽は「指さしている指」に過ぎない。阿弥陀如来の指が指さしているところにそれがあるのである。この指を辿るとそれが「ある」のである。だからこれは霊性的である。阿弥陀如来の霊性という懐にそれが「ある」のである。そしてその如来界の霊性は、これに直結直通するわたしの懐にも開かれて来るのである。
われわれの下す「ある」も「ない」も、何処まで行こうと無明の産物である。無明の行き着いたところだから、当てにはできないのである。仏陀の国を見るのはやはり仏陀の霊性に俟たねばならないのである。それを頼みにした段階で霊性が分け与えられてくるのである。行き着いたら「あった」ということになるのである。それまでは「ある」も「ない」も虚空のブランコに過ぎないのかもしれない。