彼(=金剛菩薩)は一切安楽と悦意(えっち)と大楽(たいらく)金剛(きんこう)不空(ふこう)三昧(さんまい)との究竟(くきょう)の悉地(しっち)を獲(え)て、現世(けんせい)に一切法(いっせいほう)の自在(しいさい)の悦楽(えいらく)を獲得したり。如来(じょらい)の執金剛位(しゅうきんこうい)を得(う)。 (真言宗経典「般若理趣経」より)
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この菩薩は、ありとあらゆる安楽とよろこびを獲得した。そして大楽が金剛であり、不空であってほしいという誓願の究極の境地にも達しえた。彼は、いま生きているこの世で、この世におけるすべての存在に及ぼす自由自在なる悦楽の境地を得て、ついに如来の最高の境地の座に登ることができたのである。
(これはさぶろうのいい加減な解釈文だ。およそこんなんじゃないかという概略)
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何度も何度も読んでみる。難解だ。当たり前だろう。さぶろうは行者ではない。修行をしていない。難しくてさぶろうには分からない。分からないが、とても惹かれている。いつになったら分かるようになるのだろう。溜息が出る。
如来が持つ執金剛位という最高の境地に到達し得たらこの世は果たしてどんな風に見えて来るだろうか。そしてそれが見えたらそこでどんな生き方をして行くのであろうか。もちろんこれは如来になってみなければ理解不能だ。さぶろうには見当も付かない。見当も付かないさぶろうのような衆生に、しかし、如来は誠実に法を説いている。説いて説いて説いて理解を獲得させてやろうとしている。でも、さぶろうには分からない。申し訳ないが、この分では分からないままでこの世を閉じていきそうだ。