庭に出て草取りをしました、朝ご飯ができるまで。草も花を着け始めました。小さい小さい花です。
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本屋さんから数日前に買ってきた吉野弘詩集「素直な疑問符」を読んでいます。そこに「奈々子に」というタイトルの詩が載っています。とってもいい詩です。後半の半分を紹介します。(行を分けてありますが、ここでは分けずに聯ごとに)
「奈々子に」
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お父さんが お前にあげたいものは 健康と 自分を愛する心だ。/ひとが ひとでなくなるのは 自分を愛することをやめるときだ。/自分を愛することをやめるとき ひとは 他人を愛することをやめ 世界を見失ってしまう。/ 自分があるとき 他人があり 世界がある/ お父さんにも お母さんにも 酸っぱい苦労がふえた。/ 苦労は 今は お前にはあげられない。/ お前にあげたいものは 香りのよい健康と かちとるのにむずかしく はぐくむのにむずかしい 自分を愛する心だ。
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いいでしょう。自分を愛する心は育むのも難しい。勝ち取ってしまうのはもっと難しい。でも、自分を愛する心が愛の基本じゃないのかな。ベースじゃないのかな。自分に(無意識的に)愛されて来ながら、自分を(意識的に)愛して来なかった。ってことが多かったような気がする。自分を構成している構成要素の全部がご主人様の自分を総掛かりで愛して来たはずだ。それを読み取ることもしなかった冷淡な自分がいた。そんなの当たり前だとして内に込み上げている総掛かりの献身的な愛情を取り上げもしなかった。むしろ長い年月そっぽを向いて暮らしてきたように思う。
もういいかなあ。自分を両手に抱き上げて頬摺りしてあげてもいいかなあ。大好きだよ、と言って。恥ずかしがらずに、明るく素直に、堂々と向き合って。
仏教では利己愛を見下しているところがある。利他愛こそが崇高だとしているところがある。でも自己を卑下することはない。自己は尊厳である。ナルシストは自分の美貌に見取れてしまう人で、揶揄の対象になっているが、その極端は避けねばならないとしても、自己の内面を美しく見て行く、磨いていくことは大切なことなんじゃないか。
己を愛することには衒(てら)いがある。仏教でも自己犠牲をより多く勧めているし、自己美化は謙虚さを失った者の悪行とすら見られることもある。ここでやはりブレーキがかかってしまうだろう。
奈々子は作者のまだ若い、林檎のほっぺをした娘さんのようだ。愛情の向かうところを人は、(見えやすいように、分かり易いように、衒いが少なくて済むように)誰も自分の外にこしらえている。社会や自然や、調和や真理や、家族や恋人を愛の中心に据える。でも、それはことごとくその人の心の内側にも住んでいるのだ。内側の心の反映なのだ。その人そのものでもあるのだ。そこがとりもなおさず人間の愛を育むところなのだ。
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