モーツアルトを聴いています。レクイエムになりました。でも、眠くなって来ました。欠伸が出ます。専門的知識がないので、こうやってただ漫然と聞き流すだけで終わります。
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「往生はいわゆる死の後にあるのではありません。信心の篤い人にとっては、至心に南無阿弥陀仏を称えるとき、自分が浄土に生まれるというよりも浄土そのものが創造され、浄土が現成(げんじょう)するのです。だから、浄土へ行くと言うよりも、浄土がわれわれのところへ来るのです。ある意味で、われわれは浄土を携えて歩いています。そしてナムアミダブツというあの不思議な成句を称えるとき、自分のまわりというよりもむしろ自分の中に浄土が現在することを自覚するのです」 アメリカでの鈴木大拙講演録「真宗入門」より
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真宗念仏行者の極楽往生ということについて説明がしてあります。向こう(死後世界)へ行かなくとも往生はできると言ってあります。浄土はわがこころの内に現在すると言ってあります。現成(げんじょう)は現在で完成しているという意味合いにさぶろうは受け取っています。未来を待たない、場所を移さない。念仏を称えているとき、そのところに阿弥陀仏の浄土が完成している。ですから、わざわざ死ぬのを待って極楽まで出掛けて行って、往生成仏しないでもよくなるのです。不往生成仏です。往かなくともいいわけです。南無阿弥陀仏の念仏を称える、そこで終了していますから、もう先々に期待をすると言うことも無用になります。魔法みたいな話です。即座にそのままで阿弥陀仏を受領しています。心配がなくなりますね。<ここで安心、いまが安心>の真っ只中に居ることになります。
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凄いことが書いてありました。これ以上、阿弥陀さんと交易をしないでよくなりました。あの世での物々交換(交渉事)をしなくてよくなりました。現在の完成(=現成)とは、今日の上天気の春の空のようです。では、お説の通りに、わが内に浄土を携えて土筆の野を歩いてみましょう。
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