多病息災発達障害者こよりの日常

両手で数えきれない障害と持病を抱えつつ毎日元気に活動中。発達障害の息子たちの子育ても終え、悠々自適の毎日です。

「いい子」ではなかった私が親になって

2018-11-03 16:37:51 | 修業について
私は 子どもの頃、文字や文を書くことは 秀でていたが、


その他のことは からきしだめだった。隣のおばさんに「おはよう」と


あいさつすることもできないし、何もない道でよく転んだ。


ランドセルが 重すぎて、通学団のお姉さんに助けてもらったりもした。


そんな風だから、学校に着く頃には 疲労困憊で、頭も回らず、運動もできない。


おとなしく座っている事はできたけれど、先生の指示がわからず、ぼーっとしていた。


学校の勉強は、できるものは 先生が驚くほどできるけれど、


できないものは 全くできない。


文章題は、意味のある日本語なので 解けるけれど、


計算式だけだと、それが何を意味するのか、


わからない。やる気もでない。計算問題が手つかずや間違いで、


文章題だけ解いた私を、先生はひどく怒ったが、私はなぜ怒られたのか


さっぱりわからなかった。


給食の時間は苦行である。当時はパン給食で、牛乳が必ず出た。


牛乳でちぎったパンをなんとか流し込むのだが、それが済んだら


おかずが待っている。偏食で小食の私には、パンと牛乳だけが精一杯なのに、


先生がやってきて「食べなさい」という。食べられません、と言っても絶対に許してはくれない。


他の子ども達が 給食の片づけをして 外に遊びに行く中、私は先生の監視下である。


食べないと解放されない、とわかってから、先生の目を盗んで、パンにおかずをはさみ、


机の中のコップ袋に押し込む、という技を覚えた。


先生は 「遅いけど、食べたからいいわ。給食室に食器持っていきなさい」と


開放してくれた。しかし 帰宅後にコップ袋の事をすっかり忘れていたら、


とんでもない事が起きた。母がまさか中に給食が押し込まれているとは知らず、


洗濯を始め、洗濯機内は油やパンくずでどろどろである。


こっぴどく叱られたので、この技も使えなくなり、先生のタイムリミットまで、


ひたすら食べるふりをするしかなかった。


「こんなに残して!」と怒られた。給食室のおばさんにも「もっと早く持ってきて頂戴」と


言われ、なんでこんな物を食べなきゃならないんだろうと思った。


栄養も十分で バランスが取れているのだろうが、私は2月生まれで、未熟児である。


他の子どもと同じ量の食事は多すぎるのだが、そんな事は考えてももらえなかったし、


親も「好き嫌いはダメ」「出された物は全部食べなさい」で 終わりである。


今でも忘れられないメニューが、「おでん 牛乳 パン ミカン サラダ」である。


おでんと牛乳?牛乳とミカン? どう組み合わせても おかしな献立だと思ったが、


皆 普通に食べている。ミカンの酸味と独特の香りが周囲から流れてくる。


味覚過敏で、果物の甘味を感じられず酸味を強烈に感じる私は、教室から出ていきたかったが、


それは絶対に許されない。地獄の時間だった。


運動もできないし、歌も 縄跳びも 何もできない。他の子が遊んでいるのを見て、


「よくあんな事ができるなあ」と思ったが、仲間に入れて欲しいとは思わず、


教室で 本を読んでいた。しかし中には親切な子がいて、「おいでよ」と


手を引っ張る。入れてもらったところで、ルールがわからないし、


わかったところで 失敗だから、私の順番で遊びが中断する。


皆が 嫌な思いをするだけだから、行きたくはないのだが


一人で教室にいると目立つので、他にもいろいろ嫌な事があった。


先生からは 問題児とみられ、他の子からも「変な子」とよくいじめられた。


家に帰れば きょうだいの世話がある。母が帰宅するまでの時間は長かった。


子どものあやし方、なんて知らないのだから、当然きょうだいはぐずる。


「おかああさあああん!」と声を上げるのをなだめてみても


また その繰り返しである。


人との関わりが下手で、遊びも下手で、きょうだいとすらうまく関われなかった私だが、


結婚して生まれた子ども達を抱いたりあやしたり世話をするのは、


嫌ではなく、むしろ楽しかった。赤ん坊ってかわいいなあ、と思ったし、


夜泣きも ぐずりも 気にはならなかった。普通よりも手が掛かる子ども達だったが、


そういう性分なんだなあ、と思ったので 発達の偏りや遅れがあるのに気付いても、


悲観はしなかった。あー、私と同じタイプかなあ、と思っただけで、


ショックはなかった。よく発達障害の子は育てにくい、と聞くが、


子ども達は 昼も夜も泣くし 寝ないし あれこれ手はかかったが、


まあ こんなものだろうと思っていた。


発達障害だろうなあ、と思い、健診や小児科で相談しても


「大丈夫です」「気にしすぎ」で片づけられて、腹が立ったが、


その後 何年も後に「どちらのお子さんも発達障害ですね」と


言われた時は、内心(今頃わかったのお?遅すぎるよ。鈍いなあ)と思ったが、


「ありがとうございます」と頭を下げて、診断書などをお願いした。


言葉のなんたらだの あおいそらなんとかと 書いたパンフレットを見せられ、


(言葉の教室や 療育だな)と 中を見なくてもピンときて、


「またにします」と 断って帰った。


私は 子ども時代に 誰からも「いい子」とは思われずに育ったが、


逆に 育てる側になった時には、「いい子にしよう」「頑張って育てよう」という


気負いが無くてよかったのかもしれない。


どっちの子も 私にないいいものを持っていたし、とにかく愛しかった。


よそのお母さんのように 真面目な子育てはできないけれど、


案外そういう事がよかったのかとも思う。


育児書は 活字中毒の私には、読み物としては面白かったけれど


それを実践しようとは 思わず、すべてが 子どもの様子を見て、


まあいいか、というやり方で 離乳食も 断乳も 皆適当だった。


子ども達は それでも 育ったし、途中であれこれ寄り道もあったけれど、


私は 子どもの様子だけ見て 自分がいいと感じたままに育ててきた。


子ども達の様子を見て、「こんな風では 将来碌な子になりませんよ」とか


「知的に問題があるから、一生文字の読み書きはできないでしょう」など


悲観的な言葉や 罵倒も受けたけれど、子ども達は 想像以上に伸びて、


「普通では 考えられない」と言われるようになった。


医学上のデータとか、O歳時にこうだと 将来はOOしかできないとか、


私も 本や 論文を読んで知ってはいたけれど、うちの子が産まれる前のデータが


うちの子にも 必ず当てはまるとは 思わなかった。


「まず 疑ってかかれ」である。50数年前に 最先端の医療が受けられる病院の、


名医達が「まず助からない」と匙を投げた私が 生き延びて こうして親になっているのだから。


医師や教師や 専門家であっても、私の子どもに関しては 私の方が詳しい。


だから 何を言われても揺るがずに 気ままに 子育てができたのだと思う。


子どもの頃に「いい子」ではなく、褒められもせずに 育った事も、


私の場合は 良い方に向いたように思う。


私は 今でも 人に褒められる事はないが、息子達が


職場や 地域やいろんな場所で 頑張り、仕事で成果をあげたり、


仲間を作って楽しんでいるのを見て、不出来な親からでも


自分で学んでくれてよかった、としみじみ思う。





 




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