多病息災発達障害者こよりの日常

両手で数えきれない障害と持病を抱えつつ毎日元気に活動中。発達障害の息子たちの子育ても終え、悠々自適の毎日です。

愛着障害は治りますか ~我が家の場合~

2016-11-22 17:03:11 | その他
私も 愛着障害が あったし 夫も愛着障害で 長年苦しい思いをしてきた。


でも 結婚して 一緒に過ごすうち、夫も私も 変わっていったように思う。



私は 未熟児で生まれて医師にこれはもうだめだろう、と匙を投げられたのだが、保育器に半年入って


懸命に治療してもらって 家に帰ることができた。


母も難産で 子癇発作を 起こして 死にかけて、父は



葬式の準備をしなければと 大変な思いをしながら 親戚一同に電話を掛けたという。


しかし 死にかけの赤ん坊でも 治療しないわけにはいかないので、


「出生届を出して、名まえをつけて、健康保険証を大至急作ってきてください」と言われ


寝る暇もなかったらしい。


「自分が 戻るまででもいいから 生きててほしい」と父は願って、


自分の名の一字と、「長く永久に」という意味の文字を組み合わせて


私に名を付けた。


その祈りのおかげかわからないが 私は 奇跡的に助かって、今もまだ 生きている。


母と長く離れて過ごしたからかはわからないが、私は母に懐かなかった。


私が 幼い時、母が添い寝をしようと 私のそばに来たのだが、


まだしゃべれない 私が、手まねで「あっちへいけ」とやったので、


母はかなりショックだったらしい。


もう少し大きくなって、妹が生まれるときに、母の体調を心配した医師が、


母の入院を勧めた。小さい子の世話をしながらの安静は むつかしいし、


また 難産にならないように万全を期したほうがいいといわれ、


父は 考えた末 わたしを 親戚の家に預けた。


私は あちこちの家を転々としたが、別にダダをこねるわけでもなく


親戚の人たちの話だと いい子にしていたそうだ。


母がお産を終え、退院して家に戻ってしばらくしてから、


父が私を 迎えに来た。


私はその時 父を見て しがみついて泣いたそうだ。


世話をしてくれた 親戚のおばさんたちが 「よかったねえ、お父さん来て」と


言ってくれて、私は 上機嫌だったそうだ。


家に帰ったら 妹を抱いた母がいた。


私は 母のことに関心がなかったらしく、


「お母さん」とも言わず、「おばさん、ここの家の人なの?」と言った。


母も 「おばさんも ここのうちの人だよ」と返事をしたというから


かなり 変わった親子関係だったんだなあと思う。


妹が成長してからは、私と父、妹と母、とで別れて行動することが増えた。


母が「どこどこへ行こう」と誘うこともあったが、


私は 断って 一人で留守番をしていた。



私にとっては 母は 自分の親というより「父の奥さん」という感じに近かった。


妹ともどうかかわっていいか わからなかった。


私と母の関係が変わったのは かなり後で、



私に発達障害の診断が ついてからだ。


母が私を理解してくれなかったことや、 私とした約束を何十回も破ったこと、


妹を溺愛したことなどが 診察のたびに思い出されて腹がたった。


買い物先で 子どもが 何かねだったとき、「また今度ね」と済ます親は多いと思う。


私は それを 断り文句や ごまかしと 思わず 言われるたびに


「いつか 買ってくれるんだ」と思っていた。


何十年たっても かなえてくれないことに腹が立って、


母に 愚痴をたくさん言った。


「そんなこと 覚えてないけど あんたは 私がOOを買えば 納得できるんだね?」といい


私は あるものを 30年かかって やっと買ってもらった。


母に愚痴をいっぱい言って、


気が少しは晴れたし 父が亡くなって 母しかいないことが寂しいと 母が傷つくような事まで言った。


あれこれあったけど 今は母と出かけたりもするし


実家にもちょくちょく顔を見に行く。


「この人が私の親なんだなあ」と実感するのに長い時間がかかったけど、


夫の家族の介護や 二人の子の子育てを していくことで


私の 愛着障害も 癒されていったような気がする。


でも 一番の癒しになったのは 夫に出会えたことだと思っている。


夫も 複雑な 親子関係で育ち、大変だったけれど、


私や子どもたちと過ごすうちに 徐々に変わってきてくれた。


夫の細かいことは ここには書かないけれど、


今 私たち家族は 幸せです。



















愛着障害は治りますか? 自分らしさの発達を促す
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花風社

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