なんでそうなるのか

青森県八戸市で公務員試験塾オクトを主催する岡政也のブログです。

経験は理論に優越するか

2014-06-30 12:41:13 | インポート
 経験がある、といっても、要はその中身だ。
何にも挑戦せず、ただいたずらに時間だけを重ねた経験もある。いや、そのような経験のほうが多いかもしれない。
このような経験は役に立たないというばかりでなく、有害な場合もある。変革を拒み、因習を形成してしまうからだ。

 苦しい思いをして、冷や汗をかいて、ギリギリのところでつかみつかみとった経験は、未来に向かっていろいろなことを示唆してくれる。

 理論が現実の前で役に立たないのは、見落としていること、あるいは、切り捨てていることが多すぎる場合だ。理論が不完全だから役に立たないのだ。経験が理論より価値があるのはそんな場合だ。理論化のために捨象した事項の中に、見逃すことの許されない影響力を持った要素がある場合だ。

 経験のあるものは机上の理論、と理屈の世界を嘲笑う。
 理論にたけた者は、一般化に乏しい経験則をバカにする。

どっちもダメだ。両方とも必要だ。


2014-06-29 16:35:56 | インポート
振り返ってみれば、結果オーライ、としか言いようのないことが多い。
なにも、自分だけでもなさそうだ。ラッキーがあったからこそ今がある。

つまり、幸せな人生、ということだ。普通の人とは、標準的な運に恵まれた人のことを言うのかもしれない。

結果オーライも、あとで振り返ればヒヤっとする。今後はもっと安心できるようにいろいろ手を打たなければならない。
ただ、手を打っても、運は必要だ。運命の神様に愛されるように努めなければならない。


論理的

2014-06-28 12:38:14 | インポート
 論理的に考えてるつもりでも、実は感情に流されてることが多い。

 形式論理が確立された分野ならともかく、例えば人物批評だとか歴史的事件の評価だとか、事実を列挙して論理的に見せることは可能だが、大元にあるのは感情だと思う。感情だからダメ、というわけもなく、それこそまさに生きる力の源泉なのだが、感情だけでは周囲との折り合いがつかない場合も多い。

 「はい論破」とか、「論点がずれている」など、よく聞くが、ほとんどの場合、不快感を示す、ただの感嘆詞のようなものだ。論理的であると勘違いしてはならない。


工事現場の機械

2014-06-27 12:55:05 | インポート
大型特殊の免許を持っている。パワーショベルの運転経験は1500時間くらいある。
特殊車両の運転は、神経をすり減らすが、ときどき、また乗ってみたいな、と思うこともある。

機械の力を得て、圧倒的に自分が強くなったような気がする。荒地でも平気で進むことができる。

自分を解き放つ、なんて、言葉があるけど、機械を使えば簡単にSFのような夢想の世界に浸ることができる。
実際にはそんな精神状態では危なっかしくて作業なんて任せられるものじゃないが。

 工事現場で動く機械を見てそんなことを思った。


成功の基準

2014-06-26 15:14:41 | インポート
 成功の基準とは何だろう。
ただの主観に過ぎないのだろうか。

 外的な基準が役にたつ場合もある。 

 思い描いていた目標が達成されて、なお心は満たされない、なんて場合だ。達成の感激から少し覚めると、それが当たり前、になって、もっと、を求めてしまう。そんなとき、「もうこれほどのものを手にしたのだから世間の基準に照らし合わせれば十分だ」などと、強欲に陥るのをとどまらせてくれる。

 自分の中に強い基準を確立できるのなら、それでいいが、そこまで強い自我を持つ人も少ない。世間基準、に振り回されてしまうのが普通だ。それが悪い、というばかりでもないだろう。振り回されつつも、ゆっくりでいいから、自分の基準を作っていけばいいのでは。