なんでそうなるのか

青森県八戸市で公務員試験塾オクトを主催する岡政也のブログです。

他所者の視点

2013-02-28 16:33:37 | インポート
 北海道で働いているとき、よく北海道の欠点をあげつらう他県出身の方がいた。「自分の県ではこうだ、それに比べて北海道は・・・」といった話。当然、地元の人間は自分を含めて快く思っていなかった。完全に見下した物言いであることが多かったからだ。

 でもこれは気をつけていないと、同じ愚を犯してしまう。何かを判断する際に基準となるのは生まれ育つ過程でで得てきた知見だからだ。よそに行って、ビックリするようなことがあっても、その地における必然、理屈、があるはずなのだ。
 
 そうしたことをふまえた上で、新参者は自己に対して批判的に新しい環境を評価すべきだし、また、受け入れる側も、度量を大きく、耳を傾けることも大切だと思う。
 


習慣

2013-02-27 18:54:12 | インポート
 いざというとき自分を守ってくれるのは習慣だと思う。
追い詰められて、強いプレッシャーを感じても、実行できるのは習慣となっていることだ。

 では、習慣といえるかどうかの判定だが、それは、忙しい毎日の中で実践できていること、だと思う。
ヒマな時に、気が向いたときにだけできることは、習慣ではない。ただの、一時的な盛り上がりだ。

 だから、習慣として身につくまでは、特に、忙しいときに頑張らなければならない。そこは、歯を食いしばっても、だ。




授業をうけるということ

2013-02-26 17:18:01 | インポート
 授業を受けるということは、車の助手席に乗って道案内を受けるようなものだ。運転し、道の説明を行うのは講師。この場合、目標は自力で目的地に到着できるようになることだ。
 
 自分で運転しているのなら、よほど疲れていない限り眠くはならない。しかし、助手席だとボッーとしてるとたちどころに眠くなる。そうならないように、たえずメモをとり、姿勢をよくしていることが必要だ。

 ただ座っているだけで、ただ聞いているだけでできるようになる人もごくわずかに入るだろう。だが、それ以外の大多数の人にとって大切なのは、道案内を受けてから、どれだけ自分のなかに取り込むか、だ。説明を聞く部分と、自力での演習。そのバランスは後者が半分以上を占めているべきだと思う。


年寄りから教わる価値観

2013-02-25 16:33:40 | インポート
 子供のころ、冬といえば、ストーブは常に最大火力で炎を燃やし続けたような感がある。
なにより祖父母がそれを望んでいた。
 北海道の冬。寒さは死に直結する。暖房に関してはケチらないのが鉄則だった。
 一方、冷房はせいぜい70年代以降だが、ぜいたく品であり、我が家には扇風機すらなかった。暑くてもうちわであおいでしのぐべきもの、とされた。

 いま、エネルギーの節約のため室内温度を低めに保ちましょう、と聞くと、なんてケチくさいことを、と反射的に思ってしまう。むろん節約は大事だし、むやみに部屋を暖かくすることは慎むべきだ。それはわかっていても、幼いころに仕込まれた価値観は強力だ。
とくに、これはなんとなくだが、年寄りに教わった価値観は無条件で正しい、と感じてしまう。

 そして、「ストーブは最大に」なんてのはどうでもいいにせよ、お年寄りの中には、非常に貴重な、これからも失うべきではない価値観を持ってらっしゃる方が大勢いる。もちろん、次の世代に伝えないのは大きな損失だ。「伝統が損なわれる」といっていいだろう。教育について、これは真剣に取り組むべき問題だと思う。
 


ゆるい商売

2013-02-24 18:36:54 | インポート
塾をやっていて、商売の一つとして、きちんとした、よい商いをしたいと思う。よいサービスを提供し、規律ある運営をしていきたい。町中で、ちゃんと商売を営んでいるところはどこもそうしている。見習っていかなければならない。

 だが、一方でゆるい商売もあるのも事実だ。いや、厳しさが見えてこないだけで、緩く見えているだけなのかもしれないが。
 そう思っていても、日がなスポーツ新聞を眺め、ワイドショーをぼ
んやり視聴して、客がきたときだけ仕方がなさそうに調理する食堂とか、10年前から新しい商品を仕入れていないとしか思えない洋品店とか、緊張感を持って日々取り組んでいるとはとうてい思えない店もある。

 では、そんな店が嫌いかというと、そうでもない。なぜかホッとする。こういう店が、もし、すべて消えてなくなったら寂しいだろうな、と思う。
 
 それは、社会のあり方に対しての、要望の現れなのかもしれない。常に
緊張を強いられる社会よりも、規律は守られながらもどこか息の抜けるところ、リラックスできる部分があることを、私だけでなく、多くの人は望んでいると思う。

 両方を望むのは贅沢かもしれない。でも、そのような両面があることをふまえて街づくりを担っていくことも大切だと思うのだ。