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一粒のタイル2

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

天地万物の創造者に立ち返る(2022.7.21 祈り会)

2022-07-25 04:18:37 | 祈り会メッセージ
2022年7月21日祈り会メッセージ
『天地万物の創造者に立ち返る』
【ヨブ記38:1~7】

 きょうの聖書箇所はヨブ記38章1~7節です。

ヨブ38:1 は嵐の中からヨブに答えられた。
2 知識もなしに言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。
3 さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。
4 わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。分かっているなら、告げてみよ。
5 あなたは知っているはずだ。だれがその大きさを定め、だれがその上に測り縄を張ったかを。
6 その台座は何の上にはめ込まれたのか。あるいは、その要の石はだれが据えたのか。
7 明けの星々がともに喜び歌い、神の子たちがみな喜び叫んだときに。

 前回はエレミヤ書の「腰に帯を締めて」(エレミヤ1:17)に注目しました。そして、きょうのヨブ記38章では3節に、「さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ」とあります。エレミヤとヨブが置かれていた状況は全く異なりますが、エレミヤもヨブも弱気になっていました。その弱気の二人に対して主が「腰に帯を締めよ」と叱咤激励した点は共通していると思います。

 エレミヤの場合は預言者として召し出されましたが、「ああ、神、主よ、ご覧ください。私はまだ若くて、どう語ってよいか分かりません」と弱気になっていました。ヨブの場合はサタンに打たれて子供たちと財産を失い、さらにヨブ自身もひどい病気になって病床でうめき苦しみ、すっかり弱気になって神様に泣き言を言っていました。例えば、ヨブ記30章19節から23節(旧約p.913)、

ヨブ記30:19 神は泥の中に私を投げ込まれ、私はちりや灰のようになった。
20 私があなたに向かって叫んでも、あなたはお答えになりません。私が立っていても、あなたは私に目を留めてくださいません。
21 あなたは、私にとって残酷な方に変わり、御手の力で、私を攻めたてられます。
22 あなたは私を吹き上げて風に乗せ、すぐれた知性で、私を翻弄されます。
23 私は知っています。あなたが私を死に帰らせることを。すべての生き物が集まる家に。

 このように神様に対して泣き言を言うヨブに対して、主はきょうの箇所で仰せられました。ヨブ記38章2節から4節をお読みします。

ヨブ記38:2 知識もなしに言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。
3 さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。
4 わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。分かっているなら、告げてみよ。

 ヨブはぜんぜん悪くないのに1章と2章でのサタンと主とのやり取りによって、ヨブはひどい目に遭います。ヨブは本当に気の毒です。弱気になって泣き言を言って当然です。でも、そんなヨブに対して主は、「知識もなしに言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか」と叱りつけます。一見すると可哀相なヨブに対しては厳し過ぎる言葉のようにも感じますが、この箇所を深く味わうなら、主のヨブへの深い愛もまた感じられます。愛しているからこそ、懇々と諭すように、主はヨブに多くのことばで語り続けます。

 ヨブ記1章と2章で主はヨブの信仰をほめていました。ヨブは正しい人でした。そんなヨブでも弱り切ってしまうと、泣き言を言ってしまいます。ましてヨブほどの信仰を持たない私たちはヨブほどの苦しみを受けていなくても、弱音を吐いてしまうことでしょう。
 本当に私たちは狭い知識の中で泣き言や不平不満を言いがちな者たちです。そんな私たちを、このヨブ記の主のことばは、万物の造り主、創造主である主に立ち返らせてくれますから、感謝です。38章で主はご自身が天地を創造された方であることを語り、39節以降と39章に掛けては動物たちの名前を挙げて主は天地だけでなく命をも造られた方であることを示します。

 そうして主は40章2節で仰せられました。

ヨブ記40:2 非難する者が全能者と争おうとするのか。神を責める者は、それに答えよ。

 何の力もなく、何もできない私たちが全知全能の神様を非難するなど勘違いも甚だしいということです。ヨブも、そのことを思い知らされました。4節、

4 ああ、私は取るに足りない者です。あなたに何と口答えできるでしょう。私はただ手を口に当てるばかりです。

 そんなヨブに主はもう一度、言います。7節です。

7 さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。

 この主とヨブの会話からは、創造主という大きな存在である主に立ち返り、狭い場所から解き放たれることの大切さを教えられます。私たちは苦難の中で悩み、苦しむと、どうしても狭い袋小路に入って行ってしまい、そこに縛られて抜け出せなくなってしまいます。すると、大きな存在である神様を自分と同じくらいの小さな者にしてしまいます。そうして、ますます心の平安を失います。主は私たちとは比較にならないぐらい大きなお方だからこそ、私たちに心の平安を与えて下さいます。ですから、私たちは狭い所から解き放たれて、大きな主に目を向けなければなりません。

 イエス様が弟子たちに教えた「主の祈り」も、まず大きな天の父に目を向ける所から始めますね。

「天にまします我らの父よ ねがわくは御名を崇めさせたまえ」

 まず、大きな天の父に呼び掛けます。そうして次もまた大きな天の御国に目を向けます。

「御国をきたらせたまえ みこころの天になるごとく 地にもなさせたまえ」

 地に目を転じて、小さな私たちのことについて祈るのは、その次のことです。

「我らの日用の糧を きょうも与えたまえ 我らに負債(おいめ)あるものを 我らがゆるすごとく 我らの 負債(おいめ)をもゆるしたまえ 我らをこころみに会わせず 悪より救いだしたまえ」

 このように、後半は小さな私たちのことについて祈りますが、最後はまた大きなお方に目を転じて、祈りを終わります。

「国とちからと栄えとは 限りなく なんじのものなればなり アーメン」

 「国」とは神の国のことであり、「なんじ」は天の父のことですから、大きなお方に目を戻して祈りを終えます。このように、私たちはいつも大きな主を仰いでいたいと思います。苦難の中で小さな自分のことで精一杯になってしまうと、神様まで小さくしてしまいます。ヨブもそのことを思い知らされました。ヨブ記42章の1節と2節、

ヨブ記42:1 ヨブはに答えた。
2 あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能ではないことを、私は知りました。

 主は、5つのパンと2匹の魚で五千人のお腹を満腹にすることができるお方です。ヨブが主に答えたように、主はすべてのことができるお方であり、どのような計画も不可能ではないお方です。でも、私たちはそのことを忘れて現実的なことばかりを考えがちです。

 神学生として、森に囲まれた神学院の広大なキャンパスの中で生活していた三年間は、こんな立派な神学校が作られるなんて、本当にすごいことだなといつも思っていました。それは教団の創設者の蔦田二雄先生たちが皆、大きなことを為さる主を信頼してお委ねしたからこそ、できたことです。そうして、多くの神学生が続々と入学して行きました。神学生が多く与えられていた時代は世の中全体が上向きの時で、人々の多くは希望を持って日々を生きていたことと思います。今は世の中全体が下り坂で、弱気になりがちです。でも今の弱気な私たちは、病床で苦しむヨブが心まで病んでしまったのと同じような状況だと思います。そんな私たちに主は、

7 さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。

とおっしゃって下さっているように感じます。

 蔦田二雄先生たちが教団を立ち上げて、神学校をも設立するという大きな働きをしたのと同じように、松村導男先生もまた、この静岡教会を拠点にして浜松、磐田、金谷、島田、藤枝、清水、沼津、下田の教会の開拓に携わるという大きな働きをされました。さらには県外の甲府教会や岐阜教会、名古屋教会などの開拓伝道にも関わりました。このような大きな働きをされたのも、やはり主が大きなことをして下さるお方だと信頼し切っていたからこそ、できたことでしょう。私たちの一人一人は小さな者ですが、主は五つのパンと二匹の魚で五千人を満腹にできるお方です。

 現代は本当に様々な悪いことが起きている難しい時代です。しかし苦難の中にあっても、病床でうめくヨブのように心まで病んでしまってはならないと思います。そのようにして神様が大きなお方であることを忘れるなら、心の平安まで失ってしまいます。もちろん、現実を見て、現実的な歩みをすることの大切さも忘れてはなりません。それもまた大切にしつつも、まず第一には、主が大きなお方であることを決して忘れずに大きな主を仰いで心の平安をいただきながら、日々を歩ませていただきたいと思います。お祈りいたします。

ヨブ記38:2 知識もなしに言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。
3 さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。
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