2018年10月31日祈り会メッセージ
『時にかなって美しい神の御業』
【伝道者3:11】
伝 3:11 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。
はじめに
きょう10月31日は宗教改革記念日です。501年前の1517年の10月31日にマルティン・ルターがヴィッテンベルクの教会の門に「95か条の提題」を貼り付け、このことをきっかけにして、やがてカトリックとプロテスタントが袂を分かつことになったとされています。
使徒信条を重んじたルター
私はこれまでメッセージの中でルターに因んだ話をほとんどしたことがありませんでした。しかし、きょうはちょうど10月31日ですので、少しだけルターに関係のある話をしたいと思います。
「少しだけ」と断ったのは、きょうはルターが重んじた使徒信条に少しだけ関係のある話をするからです。藤本満先生の著書の一つに『わたしの使徒信条』という本があります。これは高津教会の礼拝での使徒信条に関する説教をまとめた説教集ですが、この本の序文で藤本先生は次のように書いています。
――――――
使徒信条は、現代では、ほとんどのプロテスタント教会の礼拝で告白されていることでしょう。これは、ドイツの宗教改革者マルティン・ルターにさかのぼることができます。彼は使徒信条を重んじ、『小教理問答』にも用いています。レーヴェニヒは、ルターが使徒信条を用いた理由として、この信条が持つ、教団教派を超えた公同性を挙げています。「宗教改革は、一つの分派としてではなく、一つの、真の公同の教会の更新として理解されることに最大の価値を置いたのである」(『わたしの使徒信条』p.4-5)
――――――
これを読んで私は改めて、使徒信条の果たしている役割の大きさに感慨を覚えました。キリスト教の教会はもともとは一つでしたが、東方教会と西方教会とに分かれ、西方教会はカトリックとプロテスタントとに分かれ、プロテスタントはさらに無数の教派に枝分かれしています。しかし、バラバラというわけではなくて、例えば沼津の教会はクリスマスのチラシをカトリックもプロテスタントも一緒になって合同チラシを作り、新聞に折り込んで配布しています。もし使徒信条が無かったらキリスト教はもっとバラバラになっていて、私たちがクリスマスの合同チラシを作ることなど考えられなかったかもしれません。使徒信条は単に信徒一人一人の信仰告白のためにあるだけでなく、考え方が違うキリスト教会を一つに束ねるという大きな働きをしているのだということを改めて感じています。
ニカイア信条
さて、きょう取り上げるのは、使徒信条ではなくて、使徒信条の上流の方にあるニカイア信条です。きょうの聖書箇所を伝道者の書3:11にしたのは、このニカイア信条ができた時代が、まことに時にかなっていたと感じるからです。本当に、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」なあと私は思いました。そのことを、きょうはご一緒に分かち合いたいと思います。
ニカイア信条を採択したニカイア公会議は、紀元325年に開かれました。最近私は、使徒たちの時代の後の、2世紀以降のキリスト教の歴史を勉強し直したいと思って、キリスト教史の本を少し読み直しています。今日は後でニカイア公会議が開かれることになった経緯とその前後の歴史を簡単に分かち合いたいと思いますが、まずは325年に採択されたニカイア信条がどのようなものであったかを、ご一緒に見てみたいと思います。
――――――
我らは、見えるものと見えざるものすべての創造者にして、
すべての主権を持ち給う御父なる、唯一の神を信ず。
我らは、唯一の主イエス・キリストを信ず。
主は、御父より生れたまいし神の独り子にして、御父の本質より生れ、光からの光、
まことの神からのまことの神、造られずして生れ、御父と本質を同一にして、
天地万物は総べて彼によりて創造されたり。
主は、我ら人類の為、また我らの救いの為に下り、しかして肉体を受け人となり、
苦しみを受け、三日目に甦り、天に昇り、生ける者と死ぬる者とを審く為に来り給う。
また我らは聖霊を信ず。
主の存在したまわざりし時あり、生れざりし前には存在したまわず、
また存在し得ぬものより生れ、
神の子は、異なる本質或は異なる実体より成るもの、造られしもの、
変わり得るもの、変え得るもの、と宣べる者らを、
公同なる使徒的教会は、呪うべし。
(Wikipedia「ニカイア信条」より)
――――――
このニカイア信条で強調されているのは、イエス・キリストがどのような存在であったかということで、「主は・・・造られずして生れ、御父と本質を同一にして」とあります。
ここから分かることは、ニカイア信条は異端を排除するために作られて採択されたものだということです。その異端とはアレイオス(アリウス)主義のことです。
アレイオスは、ロゴス(ことば、つまり御子)は存在しない時があったと考え、ロゴスは父と共に永遠なのではないと主張したそうです。アレイオスによれば、ロゴスは厳密には神ではなく、すべての被造物の第一の存在でした。彼は、すべてのものの創造に先だって、ロゴスが神によって創造されたと主張しました。なぜアレイオスがこのように主張したかというと、もしロゴスが神であるなら、父とロゴスの二人の神が存在することになり、それでは唯一の神ではなくなってしまうと考えたからだそうです。
当時、このアレイオス主義はかなり広まっていたとのことです。ニカイア信条はこの異端を排除する目的で作られて採択されました。ただし、このニカイア信条を採択したニカイア公会議は、このアレイオス主義を排除するためだけに招集されたものではなく、これからのキリスト教について様々に話し合うための場として、300名以上の多くの教会関係者が集められたということです。
このニカイア公会議325年を開催したのはコンスタンティヌスというローマ帝国の皇帝です。このコンスタンティヌス帝が325年にニカイア公会議を開いてニカイア信条を採択したことが、私はとても時にかなった美しい神の見業であると感じています。なぜそのように感じるかは、後半に話すことにします。
(賛美歌)
キリスト教の国教化
前半は、ローマ皇帝のコンスタンティヌス帝が325年にニカイア公会議を開催して、ニカイア信条が採択されたことまでを話しました。コンスタンティヌス帝は313年にミラノ勅令を出したことでも良く知られています。このミラノ勅令にはキリスト教徒の迫害をやめて礼拝の自由を保証し、また教会・墓地・およびその他の財産を返還することが含まれていました。ただし、このミラノ勅令によって迫害が完全に終わったわけではないそうです。それは、この時にはまだコンスタンティヌスがローマ帝国領のすべてを掌握していたわけではないからです。この時、ローマ帝国には複数の皇帝がいて分割して統治されていました。しかし、やがてコンスタンティヌスはローマ帝国の全土を下図のように支配し、迫害は終了しました。

コンスタンティヌスの勢力拡大図(フスト・ゴンザレス『キリスト教史 上巻』石田学訳、新教出版社 p.128)
コンスタンティヌスがローマ帝国の東側までを含めた全域を支配するようになったのは324年です。こうしてキリスト教に理解を示していたコンスタンティヌス帝がローマ帝国の全土を支配したことで迫害も終了しました。そしてコンスタンティヌスは翌325年にニカイア公会議を開催しました。300名以上もの教会関係者が集う大きな会議を開くことができたのは皇帝に大きな力があったからこそです。そうしてコンスタンティヌスの後、一時的にまた揺り戻しの時期もありましたが、テオドシウス帝の時の380年にキリスト教はローマ帝国の国教になりました。そして翌381年にコンスタンティノポリス公会議が開かれてニカイア・コンスタンティノポリス信条が採択されました。このニカイア・コンスタンティノポリス信条は、ニカイア信条に比べると今の使徒信条に、もっと近い形になっています。
――――――
わたしたちは、唯一の神、全能の父、天地とすべて見えるものと見えないものの造り主を信じます。
また、世々の先に父から生まれた独り子、主イエス・キリストを信じます。主は神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られず、生まれ、父と一体です。すべてのものは主によって造られました。主はわたしたち人類のため、またわたしたちを救うために天から降り、聖霊によっておとめマリヤから肉体を受け、人となり、ポンテオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ、苦しみを受け、死んで葬られ、聖書にあるとおり三日目によみがえり、天に昇り、父の右に座しておられます。また、生きている人と死んだ人とを審くため、栄光のうちに再び来られます。その国は終わることがありません。
また、主なる聖霊を信じます。聖霊は命の与え主、父と子から出られ、父と子とともに拝みあがめられ、預言者によって語られた主です。また、使徒たちからの唯一の聖なる公会を信じます。罪の赦しのための唯一の洗礼を信認し、死者のよみがえりと来世の命を待ち望みます アーメン (日本聖公会の訳文)
――――――
この西暦300年代に起きたことを、もう一度整理しておきたいと思います。
313年 ミラノ勅令。コンスタンティヌス帝によるキリスト教の保護。
324年 コンスタンティヌス帝がローマ帝国全土を支配。
325年 ニカイア公会議。ニカイア信条の採択。
380年 テオドシウス帝によるキリスト教の国教化。
381年 コンスタンティノポリス公会議。ニカイア・コンスタンティノポリス信条の採択
ゲルマン民族の大移動
私は今まで、キリスト教がローマ帝国の国教になったことのマイナス面ばかりを見ていました。ローマ帝国でキリスト教が国教になって他の宗教が禁止されてからは、イエス・キリストを本気で信じていなくても誰でもクリスチャンになれるようになりました。というより誰でもクリスチャンにならなければならなくなりましたから、口では誰でも「イエスを信じています」と告白するでしょう。しかし、どれぐらい本気で信じているかは分かりません。また、お金持ちも貧しい者も皆がクリスチャンになりました。それまでのクリスチャンは弱い立場の者が多く、救いを得て復活の希望を持つことに大きな喜びがありましたから、それだけに強い信仰を持っていました。一方、お金持ちは今の生活に十分に満足している者が多く、そのような者は弱い信仰しかありませんでした。そういう裕福な人々が教会につながることで教会は次第に腐敗して行きました。キリスト教の国教化には、こういうマイナス面がたくさんありました。
しかし今回、キリスト教の歴史を学び直す中でゲルマン民族大移動が始まった頃のタイミングでニカイア・コンスタンティノポリス信条が採択されたことを知り、神のなさることは本当に時にかなって美しいなあという思いがしました。それは、次の「ゲルマン民族の大移動後のヨーロッパ」の図を見ていただくと分かっていただけると思いますが、ゲルマン民族の大移動後には西ローマ帝国が消滅してしまっています。

ゲルマン民族大移動後のヨーロッパ『キリスト教史・上巻』p.248
ゲルマン民族は元々はヨーロッパの北方にいた民族です。ということはキリスト教の教えが十分には広まっていなかった地域にいた民族ということです。キリスト教は地中海沿岸の地域で広がっていたからです。そのゲルマン民族が地中海沿岸に南下して来ましたから、そこは異教徒が住む地になってしまいました。しかし、キリスト教の教会はゲルマン人が支配するようになっても地中海沿岸の地域に残りましたから、異教徒のゲルマン人への伝道が粘り強く行われたということです。そうしてゲルマン人もキリスト教の信仰を持つようになりました。
そんな時、もしキリスト教会にニカイア信条が無かったら、どうなっていたでしょうか。私は西側のキリスト教会が消滅してしまったとしても、おかしくないだろうと思います。現代の私たちの教会では毎週、使徒信条の告白をしています。そうしてキリスト教の信仰がどのような信仰であるかの確認をしています。この使徒信条が無ければ私たちの信仰は、ぶれてしまうかもしれません。そうして道をはずれてしまったら教会は弱体化して消滅してしまうかもしれません。私たちの教会が合併できるのは、同じ使徒信条を告白している教会だからです。
ゲルマン民族が移動して来た時代の西ローマ帝国領のキリスト教会も、ニカイア信条・またはニカイア・コンスタンティノポリス信条があったからこそ、教会は弱体化せずに生き残ることができたのではないか、そんな気がします。
時にかなって美しい神の御業
一方、東ローマ帝国領にはゲルマン民族の侵入はありませんでした。しかし7世紀以降、イスラム教の勢力が急速に拡大して東ローマ帝国のビサンティン帝国は圧迫を受けるようになります。このアラブ人のイスラム勢力は裏の図で示したように西ヨーロッパのスペインにまで拡大して来ていました。

アラブ人による支配圏の拡大『キリスト教史・上巻』p.267
もしゲルマン民族が支配する地中海沿岸にキリスト教会が無かったら、もしかしたらイスラム勢力が飲み込んでしまった可能性もあります。すると東ローマのビサンティン帝国は両側をイスラム勢力に挟まれてしまうことになり、ここもまた飲み込まれる危険があったことになります。そうすると、キリスト教会は西も東も消滅してしまって現代まで受け継がれることはなかったということになってしまいます。もちろんそうならなかった可能性もありますが、かなり危険であったのではないかと思います。
ですから、私は紀元313年のミラノ勅令によってキリスト教が保護され、ローマ帝国の国教になる方向に向かい、そしてコンスタンティヌス帝によってニカイア公会議が開かれてニカイア信条が採択されたことを、素晴らしい出来事であったと今の私は考えています。これまで私はキリスト教が国教化されたことのマイナス面しか見ていませんでしたが、ゲルマン民族の大移動と7世紀のイスラム勢力の台頭のことを併せ考えると、これは時にかなって美しい神様の御業ではないかなと思います。
おわりに
以上、宗教改革記念日とはあまり関係なかったかもしれませんが、宗教改革を始めたルターが重んじていた使徒信条の上流のほうにあるニカイア信条ができた頃について共に学び、神様がキリスト教会がニカイア信条とニカイア・コンスタンティノポリス信条、そして使徒信条を与えて下さったことの恵みをきょうは分かち合うことができましたから、感謝に思います。
私たちの教会が合併する方向に進んでいるのも、共に礼拝で使徒信条の告白をしている教会であるから、ということにも併せて感謝したいと思います。
お祈りいたしましょう。
伝 3:11 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。
『時にかなって美しい神の御業』
【伝道者3:11】
伝 3:11 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。
はじめに
きょう10月31日は宗教改革記念日です。501年前の1517年の10月31日にマルティン・ルターがヴィッテンベルクの教会の門に「95か条の提題」を貼り付け、このことをきっかけにして、やがてカトリックとプロテスタントが袂を分かつことになったとされています。
使徒信条を重んじたルター
私はこれまでメッセージの中でルターに因んだ話をほとんどしたことがありませんでした。しかし、きょうはちょうど10月31日ですので、少しだけルターに関係のある話をしたいと思います。
「少しだけ」と断ったのは、きょうはルターが重んじた使徒信条に少しだけ関係のある話をするからです。藤本満先生の著書の一つに『わたしの使徒信条』という本があります。これは高津教会の礼拝での使徒信条に関する説教をまとめた説教集ですが、この本の序文で藤本先生は次のように書いています。
――――――
使徒信条は、現代では、ほとんどのプロテスタント教会の礼拝で告白されていることでしょう。これは、ドイツの宗教改革者マルティン・ルターにさかのぼることができます。彼は使徒信条を重んじ、『小教理問答』にも用いています。レーヴェニヒは、ルターが使徒信条を用いた理由として、この信条が持つ、教団教派を超えた公同性を挙げています。「宗教改革は、一つの分派としてではなく、一つの、真の公同の教会の更新として理解されることに最大の価値を置いたのである」(『わたしの使徒信条』p.4-5)
――――――
これを読んで私は改めて、使徒信条の果たしている役割の大きさに感慨を覚えました。キリスト教の教会はもともとは一つでしたが、東方教会と西方教会とに分かれ、西方教会はカトリックとプロテスタントとに分かれ、プロテスタントはさらに無数の教派に枝分かれしています。しかし、バラバラというわけではなくて、例えば沼津の教会はクリスマスのチラシをカトリックもプロテスタントも一緒になって合同チラシを作り、新聞に折り込んで配布しています。もし使徒信条が無かったらキリスト教はもっとバラバラになっていて、私たちがクリスマスの合同チラシを作ることなど考えられなかったかもしれません。使徒信条は単に信徒一人一人の信仰告白のためにあるだけでなく、考え方が違うキリスト教会を一つに束ねるという大きな働きをしているのだということを改めて感じています。
ニカイア信条
さて、きょう取り上げるのは、使徒信条ではなくて、使徒信条の上流の方にあるニカイア信条です。きょうの聖書箇所を伝道者の書3:11にしたのは、このニカイア信条ができた時代が、まことに時にかなっていたと感じるからです。本当に、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」なあと私は思いました。そのことを、きょうはご一緒に分かち合いたいと思います。
ニカイア信条を採択したニカイア公会議は、紀元325年に開かれました。最近私は、使徒たちの時代の後の、2世紀以降のキリスト教の歴史を勉強し直したいと思って、キリスト教史の本を少し読み直しています。今日は後でニカイア公会議が開かれることになった経緯とその前後の歴史を簡単に分かち合いたいと思いますが、まずは325年に採択されたニカイア信条がどのようなものであったかを、ご一緒に見てみたいと思います。
――――――
我らは、見えるものと見えざるものすべての創造者にして、
すべての主権を持ち給う御父なる、唯一の神を信ず。
我らは、唯一の主イエス・キリストを信ず。
主は、御父より生れたまいし神の独り子にして、御父の本質より生れ、光からの光、
まことの神からのまことの神、造られずして生れ、御父と本質を同一にして、
天地万物は総べて彼によりて創造されたり。
主は、我ら人類の為、また我らの救いの為に下り、しかして肉体を受け人となり、
苦しみを受け、三日目に甦り、天に昇り、生ける者と死ぬる者とを審く為に来り給う。
また我らは聖霊を信ず。
主の存在したまわざりし時あり、生れざりし前には存在したまわず、
また存在し得ぬものより生れ、
神の子は、異なる本質或は異なる実体より成るもの、造られしもの、
変わり得るもの、変え得るもの、と宣べる者らを、
公同なる使徒的教会は、呪うべし。
(Wikipedia「ニカイア信条」より)
――――――
このニカイア信条で強調されているのは、イエス・キリストがどのような存在であったかということで、「主は・・・造られずして生れ、御父と本質を同一にして」とあります。
ここから分かることは、ニカイア信条は異端を排除するために作られて採択されたものだということです。その異端とはアレイオス(アリウス)主義のことです。
アレイオスは、ロゴス(ことば、つまり御子)は存在しない時があったと考え、ロゴスは父と共に永遠なのではないと主張したそうです。アレイオスによれば、ロゴスは厳密には神ではなく、すべての被造物の第一の存在でした。彼は、すべてのものの創造に先だって、ロゴスが神によって創造されたと主張しました。なぜアレイオスがこのように主張したかというと、もしロゴスが神であるなら、父とロゴスの二人の神が存在することになり、それでは唯一の神ではなくなってしまうと考えたからだそうです。
当時、このアレイオス主義はかなり広まっていたとのことです。ニカイア信条はこの異端を排除する目的で作られて採択されました。ただし、このニカイア信条を採択したニカイア公会議は、このアレイオス主義を排除するためだけに招集されたものではなく、これからのキリスト教について様々に話し合うための場として、300名以上の多くの教会関係者が集められたということです。
このニカイア公会議325年を開催したのはコンスタンティヌスというローマ帝国の皇帝です。このコンスタンティヌス帝が325年にニカイア公会議を開いてニカイア信条を採択したことが、私はとても時にかなった美しい神の見業であると感じています。なぜそのように感じるかは、後半に話すことにします。
(賛美歌)
キリスト教の国教化
前半は、ローマ皇帝のコンスタンティヌス帝が325年にニカイア公会議を開催して、ニカイア信条が採択されたことまでを話しました。コンスタンティヌス帝は313年にミラノ勅令を出したことでも良く知られています。このミラノ勅令にはキリスト教徒の迫害をやめて礼拝の自由を保証し、また教会・墓地・およびその他の財産を返還することが含まれていました。ただし、このミラノ勅令によって迫害が完全に終わったわけではないそうです。それは、この時にはまだコンスタンティヌスがローマ帝国領のすべてを掌握していたわけではないからです。この時、ローマ帝国には複数の皇帝がいて分割して統治されていました。しかし、やがてコンスタンティヌスはローマ帝国の全土を下図のように支配し、迫害は終了しました。

コンスタンティヌスの勢力拡大図(フスト・ゴンザレス『キリスト教史 上巻』石田学訳、新教出版社 p.128)
コンスタンティヌスがローマ帝国の東側までを含めた全域を支配するようになったのは324年です。こうしてキリスト教に理解を示していたコンスタンティヌス帝がローマ帝国の全土を支配したことで迫害も終了しました。そしてコンスタンティヌスは翌325年にニカイア公会議を開催しました。300名以上もの教会関係者が集う大きな会議を開くことができたのは皇帝に大きな力があったからこそです。そうしてコンスタンティヌスの後、一時的にまた揺り戻しの時期もありましたが、テオドシウス帝の時の380年にキリスト教はローマ帝国の国教になりました。そして翌381年にコンスタンティノポリス公会議が開かれてニカイア・コンスタンティノポリス信条が採択されました。このニカイア・コンスタンティノポリス信条は、ニカイア信条に比べると今の使徒信条に、もっと近い形になっています。
――――――
わたしたちは、唯一の神、全能の父、天地とすべて見えるものと見えないものの造り主を信じます。
また、世々の先に父から生まれた独り子、主イエス・キリストを信じます。主は神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られず、生まれ、父と一体です。すべてのものは主によって造られました。主はわたしたち人類のため、またわたしたちを救うために天から降り、聖霊によっておとめマリヤから肉体を受け、人となり、ポンテオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ、苦しみを受け、死んで葬られ、聖書にあるとおり三日目によみがえり、天に昇り、父の右に座しておられます。また、生きている人と死んだ人とを審くため、栄光のうちに再び来られます。その国は終わることがありません。
また、主なる聖霊を信じます。聖霊は命の与え主、父と子から出られ、父と子とともに拝みあがめられ、預言者によって語られた主です。また、使徒たちからの唯一の聖なる公会を信じます。罪の赦しのための唯一の洗礼を信認し、死者のよみがえりと来世の命を待ち望みます アーメン (日本聖公会の訳文)
――――――
この西暦300年代に起きたことを、もう一度整理しておきたいと思います。
313年 ミラノ勅令。コンスタンティヌス帝によるキリスト教の保護。
324年 コンスタンティヌス帝がローマ帝国全土を支配。
325年 ニカイア公会議。ニカイア信条の採択。
380年 テオドシウス帝によるキリスト教の国教化。
381年 コンスタンティノポリス公会議。ニカイア・コンスタンティノポリス信条の採択
ゲルマン民族の大移動
私は今まで、キリスト教がローマ帝国の国教になったことのマイナス面ばかりを見ていました。ローマ帝国でキリスト教が国教になって他の宗教が禁止されてからは、イエス・キリストを本気で信じていなくても誰でもクリスチャンになれるようになりました。というより誰でもクリスチャンにならなければならなくなりましたから、口では誰でも「イエスを信じています」と告白するでしょう。しかし、どれぐらい本気で信じているかは分かりません。また、お金持ちも貧しい者も皆がクリスチャンになりました。それまでのクリスチャンは弱い立場の者が多く、救いを得て復活の希望を持つことに大きな喜びがありましたから、それだけに強い信仰を持っていました。一方、お金持ちは今の生活に十分に満足している者が多く、そのような者は弱い信仰しかありませんでした。そういう裕福な人々が教会につながることで教会は次第に腐敗して行きました。キリスト教の国教化には、こういうマイナス面がたくさんありました。
しかし今回、キリスト教の歴史を学び直す中でゲルマン民族大移動が始まった頃のタイミングでニカイア・コンスタンティノポリス信条が採択されたことを知り、神のなさることは本当に時にかなって美しいなあという思いがしました。それは、次の「ゲルマン民族の大移動後のヨーロッパ」の図を見ていただくと分かっていただけると思いますが、ゲルマン民族の大移動後には西ローマ帝国が消滅してしまっています。

ゲルマン民族大移動後のヨーロッパ『キリスト教史・上巻』p.248
ゲルマン民族は元々はヨーロッパの北方にいた民族です。ということはキリスト教の教えが十分には広まっていなかった地域にいた民族ということです。キリスト教は地中海沿岸の地域で広がっていたからです。そのゲルマン民族が地中海沿岸に南下して来ましたから、そこは異教徒が住む地になってしまいました。しかし、キリスト教の教会はゲルマン人が支配するようになっても地中海沿岸の地域に残りましたから、異教徒のゲルマン人への伝道が粘り強く行われたということです。そうしてゲルマン人もキリスト教の信仰を持つようになりました。
そんな時、もしキリスト教会にニカイア信条が無かったら、どうなっていたでしょうか。私は西側のキリスト教会が消滅してしまったとしても、おかしくないだろうと思います。現代の私たちの教会では毎週、使徒信条の告白をしています。そうしてキリスト教の信仰がどのような信仰であるかの確認をしています。この使徒信条が無ければ私たちの信仰は、ぶれてしまうかもしれません。そうして道をはずれてしまったら教会は弱体化して消滅してしまうかもしれません。私たちの教会が合併できるのは、同じ使徒信条を告白している教会だからです。
ゲルマン民族が移動して来た時代の西ローマ帝国領のキリスト教会も、ニカイア信条・またはニカイア・コンスタンティノポリス信条があったからこそ、教会は弱体化せずに生き残ることができたのではないか、そんな気がします。
時にかなって美しい神の御業
一方、東ローマ帝国領にはゲルマン民族の侵入はありませんでした。しかし7世紀以降、イスラム教の勢力が急速に拡大して東ローマ帝国のビサンティン帝国は圧迫を受けるようになります。このアラブ人のイスラム勢力は裏の図で示したように西ヨーロッパのスペインにまで拡大して来ていました。

アラブ人による支配圏の拡大『キリスト教史・上巻』p.267
もしゲルマン民族が支配する地中海沿岸にキリスト教会が無かったら、もしかしたらイスラム勢力が飲み込んでしまった可能性もあります。すると東ローマのビサンティン帝国は両側をイスラム勢力に挟まれてしまうことになり、ここもまた飲み込まれる危険があったことになります。そうすると、キリスト教会は西も東も消滅してしまって現代まで受け継がれることはなかったということになってしまいます。もちろんそうならなかった可能性もありますが、かなり危険であったのではないかと思います。
ですから、私は紀元313年のミラノ勅令によってキリスト教が保護され、ローマ帝国の国教になる方向に向かい、そしてコンスタンティヌス帝によってニカイア公会議が開かれてニカイア信条が採択されたことを、素晴らしい出来事であったと今の私は考えています。これまで私はキリスト教が国教化されたことのマイナス面しか見ていませんでしたが、ゲルマン民族の大移動と7世紀のイスラム勢力の台頭のことを併せ考えると、これは時にかなって美しい神様の御業ではないかなと思います。
おわりに
以上、宗教改革記念日とはあまり関係なかったかもしれませんが、宗教改革を始めたルターが重んじていた使徒信条の上流のほうにあるニカイア信条ができた頃について共に学び、神様がキリスト教会がニカイア信条とニカイア・コンスタンティノポリス信条、そして使徒信条を与えて下さったことの恵みをきょうは分かち合うことができましたから、感謝に思います。
私たちの教会が合併する方向に進んでいるのも、共に礼拝で使徒信条の告白をしている教会であるから、ということにも併せて感謝したいと思います。
お祈りいたしましょう。
伝 3:11 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。