平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

逆風に立ち向かう信仰(2018.6.6 祈り会)

2018-06-07 09:26:18 | 祈り会メッセージ
2018年6月6日祈り会メッセージ
『逆風に立ち向かう信仰』
【使徒21:7~14】

はじめに
 きょうは先ず、吹流しの話から始めます。
 その吹流しは、私のジョギングコースである海岸沿いの防潮堤の付近に設置してありますから、週3回ぐらいのジョギングの時には必ず目にするものです。

目に見えない風を知るためにある吹流し
 この吹流しを見ることで、風の方向とおよその強さを知ることができます。吹流しを見なくても体に当たる風でも、ある程度はわかりますが、それは風が強い場合です。風が弱い時は向かい風ならわかりますが、追い風の場合は風が弱いとほとんどわかりません。走るのが楽だなとは感じますが、背中に風が当たる感覚はありません。背中に風が当たるのを感じるのは風が強い時だけです。
 吹流しは風を知るためにありますから、凝った形やデザインにする必要はありません。原駅を越えて富士に近い方にまた別の吹流しがあって、そちらまで足を延ばした時には、その吹流しを目にするのですが、その吹流しはちょっと格好いい感じのデザインになっています。すると風を知るよりは、吹流しのデザインのほうに目がどうしても行ってしまいます。
 吹流しは目に見えない風を知るためのものですから、目によく見える必要は当然あります。しかし、必要以上に吹流しに目が行き、そのデザインを気にするようになるなら、風を知ることが疎かになってしまいます。

目に見えない神を知るためにある聖書
 聖書もまた同じではないでしょうか。聖書は目に見えない神様のことを教えてくれます。私たちは目に見える人物のことを聖書で読み、目に見えない神様のことを知ろうとします。大事なことは神様を知るということです。ですから、必要以上に人物の細部にわたって知ろうとするなら、神様を知るという大切なことが疎かになってしまう危険性があるのではないでしょうか。
 どうして、きょうはこんな話から始めているかというと、先日、ある方とヨハネの福音書の話をして、私の説くヨハネの福音書論のことをどうしても分かってもらえないという経験をしたからです。その方は聖書のことを良くご存じの方です。しかし、私の説くヨハネの福音書のことを、どうしても分かっていただくことができませんでした。いつも話しているように、ヨハネの福音書はイエスさまの地上生涯に旧約の時代の出来事と使徒の働きの時代の出来事が重ねられています。そうして、ヨハネの福音書はイエスさまの地上生涯よりもイエスさまがまだ受肉する前のことば(ロゴス)としてのイエスさまの働きと、天に帰った後で天から聖霊を遣わすという働き、つまり地上生涯の前と後の目に見えない時のイエスさまの働きのほうを重視している書です。その目に見えないイエスさまのことを読者に伝えるためにヨハネは目に見える地上生涯のイエスさまに旧約聖書と使徒の働きを重ねるというテクニックを使っています。しかし、やはりどうしても、読者の目は地上生涯のイエスさまに釘付けになってしまうという結果になってしまっています。地上生涯のイエスさまのことよりも、その前と後のイエスさまの働きのほうが大事なのだということを、どうしてもわかってもらえません。このことと、デザインが新奇な吹流しは似ているように感じます。

目に見えない原子空孔の動きを知るための原子空孔集合体
 きょうはこの吹流しの話から始めましたが、実は吹流しの例えに思い至る前に、もう一段階ありましたから、今度はその証をさせていただきます。
 私は大学4年生の時と大学院生の時、それから研究所の研究員と大学の助手の時の十数年間、主に金属材料の点欠陥の研究をしていました。点欠陥というのは原子サイズの最小単位の欠陥のことです。点欠陥の一つの例は、原子空孔です。空孔というのは空(から)の孔(あな)のことです。例えば、この教会にあるようなパイプ椅子を、もっと広い学校の体育館のような所に並べた様子を思い浮かべてみて下さい。学校の卒業式などの時には体育館にパイプ椅子をたくさんきれいに並べたりしますね。しかし並べた後で、パイプ椅子の一つが壊れていることに気付いたとします。そして、その壊れたパイプ椅子を抜き取ることにします。すると、椅子を取り去った場所に孔(あな)が空きます。これが原子空孔です。金属の原子は体育館に並べたパイプ椅子のようにきれいに並んでいますが、完全に原子で満たされているわけではなく、一定の割合で原子空孔を含んでいます。
 この原子サイズの孔は小さすぎるので、電子顕微鏡でも見ることはできません。技術が進歩しているでしょうから最新の事情は分かりませんが、少なくとも私が研究に携わっていた時には見ることはできませんでした。しかし、この空孔が移動して何個か集まると見えるようになります。空孔は材料の温度を上げてやると、よく動くようになります。パイプ椅子の列の孔が空いた場所も、隣の椅子をその孔の方に移動させてやると、孔が椅子一つ分動きますね。そんな風に原子空孔も動いて行きます。そうして別の原子空孔と出会うと空孔同士が合体して集合体になります。そして、その原子空孔の集合体はだんだん成長して大きくなり、電子顕微鏡で見えるようになります。
 このような研究が何の役に立つかというと、例えば原子炉の中では放射線などの高エネルギーの粒子が飛び交っていて、その高エネルギーの粒子が材料の原子に当たると材料の原子が弾き出されて、孔が空きます。その孔が集まると空洞状の大きな孔になり、材料が膨張したり、脆くなったりします。それで、その孔を動きにくくするために、その孔を動きにくくするための別の原子を混ぜてあげたりします。そうして、いろいろと条件を変えて実験をして、目に見える大きな孔の成長速度がどう変化するかを調べることで、目に見えない最小単位の原子サイズの孔がどれくらい動いているかを知ることができます。
 この研究で肝心なことは、目に見える現象から、目に見えない小さな空孔の動きをできるだけ正確に知るようにするということです。実験はお金も手間も掛かりますから、いくつかの条件でしか実験できません。あらゆる条件の実験をやり尽くすことはできません。しかし、目に見えない空孔の動き方の性質がわかるようになるなら、あとは実験をしなくても、別の条件の時にはどうなるかを予測できるようになります。目に見える現象はただ一つの特定の現象ですが、目に見えない原子空孔の動きがわかるなら、広くいろいろな条件について実験しなくてもわかるようになります。

神と聖書中の人物との関係から神を知る
 聖書の読み方も同じだと思います。使徒の働きにはパウロやペテロたちのことが書いてあります。この目に見えるパウロの働きはパウロだけのものですが、パウロと目に見えない神様との関係を見出すことができるなら、その関係を自分と神様との関係に適用することができるようになります。同じように目に見える地上生涯のイエスさまと目に見えない神様との関係を見出すことができるなら、そのイエスさまと神様との関係を私たちと神様との関係に適用することができるようになります。
 私が地上生涯のイエスさまよりも、地上生涯の前と後の目に見えないイエスさまのほうに目が行くようになったのは、かつて金属材料の点欠陥の研究者であった私の経歴を用いて下さっているのだなと最近になって気付かされました。ですから、前半は、そのことの証をさせていただきました。ただし、いきなり点欠陥の話をしても分かりづらいと思いましたから、いつもジョギングで目にしている吹流しの例えを最初に使わせていただきました。
後半は使徒の働きを開いて、その後でもう一度、吹流しの話 に戻りたいと思います。
 
(賛美歌を挟む)

風上と風下のどちらが神の方向でどちらが悪魔の方向か
 使徒の働き21章の7節から14節までを交代で読みます。この箇所は礼拝でも学びましたが、パウロの第三次伝道旅行の終わりのほうの場面です。
 20章でパウロはミレトスでエペソの教会の長老たちに別れを告げました。告別説教とか遺言説教とも言われますね。そして21章3節にツロに入港したとあります。そのツロの地の弟子たちは4節にあるように御霊に示されて、エルサレムには行かないようにとパウロに繰り返し言いました。しかし、パウロはそれを聞き入れないでエルサレムへと向かって行きます。
 そして、ご一緒に交代で読む次の箇所でも、人々はパウロにエルサレムへ行かないようにと懇願します。7節から14節までを交代で読みます。

21:7 私たちはツロからの航海を終えて、プトレマイスに着いた。そこの兄弟たちにあいさつをして、彼らのところに一日滞在した。
21:8 翌日そこを出発して、カイサリアに着くと、あの七人の一人である伝道者ピリポの家に行き、そこに滞在した。
21:9 この人には、預言をする未婚の娘が四人いた。
21:10 かなりの期間そこに滞在していると、アガボという名の預言者がユダヤから下って来た。
21:11 彼は私たちのところに来て、パウロの帯を取り、自分の両手と両足を縛って言った。「聖霊がこう言われます。『この帯の持ち主を、ユダヤ人たちはエルサレムでこのように縛り、異邦人の手に渡すことになる。』」
21:12 これを聞いて、私たちも土地の人たちもパウロに、エルサレムには上って行かないようにと懇願した。
21:13 すると、パウロは答えた。「あなたがたは、泣いたり私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことも覚悟しています。」
21:14 彼が聞き入れようとしないので、私たちは「主のみこころがなりますように」と言って、口をつぐんだ。

 私たちは目には見えない神の働きを知ることが大切だという話をしていますが、同時に私たちは目に見えない悪魔の働きも知る必要があると思います。
 いま世の中では目に見える形で悪が横行しています。前代未聞の大規模な公文書の改竄が行われた財務省では処分が行われるとのことですが、政治家は自らの責任をうやむやにしています。今、世の中は目に見える形でどんどん悪い方向に向かっています。この背後には目に見えない悪魔の働きがあることを認識していたいと思います。
 そこで、もう一度、吹流しの話に戻します。この吹流しは目に見えない風の向きを教えてくれます。この吹流しは風が来る方向、すなわち風上の方向を向いています。では、この風の方向を神様の方向と悪魔の方向に例えるなら、どちらが神様の方向でどちらが悪魔の方向だろうかということを今回、私は考えてみました。皆さんはどちらの方向が神様の方向だと思われるでしょうか。防潮堤の上を走っていると良くわかりますが、風上の方向は逆風になるので、進むのが困難です。一方、風下の方向を向けば、背中に追い風を受けて楽に前に進むことができます。

悪魔に支配されているこの世
 どちらが神様の方向で、どちらが悪魔の方向なのか、そのヒントは今ご一緒に読んだパウロが進んだ方向にあると言えるでしょう。パウロは進むのが困難な逆風の方向に向かって行きましたから、風上に向かって行きました。これが御心であるとパウロは確信していました。そしてローマに行くことができましたから、この風上が神様の方向だと言えるでしょう。しかしパウロは捕えられて苦難の道を歩むことにもなりましたから、この風上の方向は神様の方向であると同時に悪魔の方向でもあったと言えるでしょう。イエスさまが向かって行った十字架も同じですね。十字架の方向に進むことは父の御心でしたから神様の方向でしたが、それは同時に悪魔の手にご自身を明け渡す悪魔の方向でもありました。
 ここから分かることは神様の方向に向かうことは悪魔の方向に向かうことでもあるということです。悪魔は信仰者が神様に近づこうとすることを妨害します。その妨害は神様に近づけば近づくほど大きくなります。ですから、実は逆風は悪魔が吹かせているとも言えるかもしれません。この逆風に負けて神様に背を向ける人も多いでしょう。すると、背中から風を受けますから、神様から容易に離れ去って行くことができます。神様から離れるということは、悪魔の方向に行くということです。すると、風上の方向でも風下の方向でも、どちらを向いても悪魔の方向だと言うことになります。まさに、この世が悪魔に支配されているとは、こういう状況を言うのではないでしょうか。神様の方向は風上の方向だけですが、悪魔は風上の方向にも風下の方向にもいます。私たちが目指すべき方向は、もちろん風上の方向でなければなりません。私たちが伝道の働きをして人々を神様の方向にお連れしようとする時、逆風が吹きますが、それは悪魔が人々を神様に近づけまいとして妨害するからなのでしょう。しかし、私たちはこの逆風に立ち向かって行かなければなりません。
 信仰の道とは、困難に向かって歩んで行くことだということは、今ご一緒に読んだ使徒の働きの箇所に限らず、いろいろな箇所から読み取ることができると思います。ですから、いま私たちが直面している困難もまた、私たちが神様の方向に向かって進んでいるからこその困難だと言えるのではないでしょうか。ですから私たちは、この困難に立ち向かって行きたいと思います。

おわりに
 最後に、何度も開いている箇所ですが、エペソ人への手紙6章の10節から19節までを交代で読みましょう。

 6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
6:11 悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。
6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。
6:13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい。
6:14 そして、堅く立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
6:15 足には平和の福音の備えをはきなさい。
6:16 これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。
6:17 救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。
6:18 あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。
6:19 また、私のためにも、私が口を開くときに語るべきことばが与えられて、福音の奥義を大胆に知らせることができるように、祈ってください。

 お祈りいたしましょう。
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