平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

8月6日の朝の黙想

2016-08-06 06:07:13 | 折々のつぶやき
原爆は地上ではなく上空で炸裂し、核兵器の時代が始まった。平和な世界を実現するためには、私たちは地上の羊にとどまっているだけではなく、原爆が炸裂した高度よりもさらに高い場所を飛ぶ鷲にもなる必要がある。
「主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。」(イザヤ40:31)

最近になって気付かされたのだが、ルカ15章の羊と放蕩息子の例えの間に銀貨が挟まっているのは何故か。それは私たちの意識を父親の方に向けさせるためではないのか。私たちは自分を羊や放蕩息子に置き換えて読むが、銀貨は無生物だから自分を銀貨に置き換えることは少ないだろう。

聖書は、私たちがもっと父親の側に意識を置くよう勧めているのではないか。もっと父親の立場になって赦すことを考えるよう、勧めているのではないか。私たちが自分を羊や放蕩息子の側にとどまり続ける限り、報復の連鎖を止めることはできないのではないか。間もなく原爆が投下された8時15分だ。

羊や放蕩息子の側に身を置くことは、もちろん大切なことだ。そうでなければ弱い立場の人々に寄り添うことはできない。しかし同時にまた鷲や放蕩息子の父親の側に身を置くのでなければ互いに赦し合い、互いに愛し合うことは難しいのではないか。赦し合い、愛し合うことができないなら世界に平和はない。

イエス・キリストは人間の側に身を置きつつ神の側にもいる。私たちもまた聖霊を受け、聖霊の力が与えられるなら人間でありながら霊的には鷲のように神の高度へと翔け上がることが可能だ。それがヨハネの手紙第一1:3の「御父および御子イエス・キリストとの交わり」を持つことではないか。

平和な世界を実現するためには、私たちは羊であると同時に鷲でなければならない。真の人であり、また真の神であるイエス・キリストは私たちに聖霊を注ぎ、私たちもまた人と神の両方の視座を持つことを勧めている。そうして互いに赦し合い、互いに愛し合うことができる者たちになるように勧めている。
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