2015年7月5日礼拝メッセージ
『あなたの口を大きくあけよ』
【詩篇81:10】
はじめに
先週まで3回のシリーズでジョン・ウェスレーについて学びました。これは会堂問題の只中を歩んでいる私たちが霊の一致を保つことができるようになることを願っての学びでした。
祈りで孤児院の資金を得たミュラー
きょうは、ジョージ・ミュラーについて、ご一緒に学びたいと思います。ジョージ・ミュラーは祈りの器として、非常に有名な人です。ミュラーは1805年にドイツで生まれ、後にイギリスに渡って妻と共に孤児院を作り、親のいない子供たちを引き取って聖書を教えました。このことだけでも、立派なことだと思います。ただ、このことだけを聞くなら、ミュラーのことを、何かの事業に成功して大金持ちになり、そのお金を社会貢献のために用いた人だろうかと思う人もいるかもしれません。もちろん、お金持ちがそのような社会貢献をすることは大変に立派な素晴らしいことです。しかし、ジョージ・ミュラーの場合は、全く違います。ミュラーのすごいところは、彼には全くお金が無かったことでした。お金が全く無かったのにも関わらず、ミュラーは孤児院を作る資金が与えられるように祈り、実際にお金が与えられて孤児院を設立することができました。そして、運営して行くことができました。これは本当にすごいことです。孤児院を設立するだけなら、設立に必要な資金が一回与えられれば始めることができます。しかし、一旦孤児院を始めて孤児たちの世話が始まったなら、孤児たちに食べ物を与えなければなりませんから、そのための資金がずっと与えられ続けなければなりません。もう明日食べる食べ物がないという危機的な事態に陥ったことも何度もあったそうですが、ミュラーはひたすら祈り、そうすると不思議と献金が与えられました。さらにもっとすごいことは、ミュラーが孤児院の規模を段々と大きくしていったことで、五番目の最後の孤児院は二千人の規模だったそうです。
孤児院を始めた時、ミュラーには資金が全くありませんでしたが、ミュラーは祈れば必ず資金が与えられると確信していました。それは、親のいない孤児たちを孤児院で育て、そこで子供たちに聖書を教えることは神様の御心にかなっていると確信していたからです。そうしてミュラーが祈ると、神様は街の人の心を動かします。街の人は、なぜかミュラーの孤児院に寄付をしなければいけない気持ちになって寄付を申し出ると言うんですね。とても不思議なことですが、これは実際にあった話です。
御心に適っていたミュラーの願い
このジョージ・ミュラーの実話のポイントは、何と言ってもミュラーがしたいと願っていたことが、神さまの御心に適っていたということではないでしょうか。御心に適うことを願って、そのことのために祈るなら、神様は必ず実現させて下さいます。ただし忘れてならないことは、お金さえ与えられれば、すべて上手く行くとは限らないことです。親のいない子供たちを引き取って育てることは大変なことです。一人の子供でも大変なのに、ジョージ・ミュラーは最後には二千人規模の孤児院を運営したということですから、本当に大変なことです。神さまの力が無ければ到底為し得ないことであることは言うまでもありません。
さて、このジョージ・ミュラーの孤児院の働きは大変に祝されましたが、ミュラーが65歳の時に彼の妻のメアリーが亡くなってしまいました。その後、ミュラーは伝道師として世界中を説教で巡るようになりました。日本にも来たことがあるそうです。ミュラーが世界中を巡っていた時に実際にあったという話で、こんな有名な話があります。『神に用いられた生涯』(CS成長センター)という本から引用します(一部改変)。
北アメリカに向け船旅をしていた時のこと。ミュラーの乗った船が、ニューファンドランド沖に近づいた時、非常に深い霧が立ち込めてきました。船長はスピードを落とすように命令しました。船は、だんだんゆっくりになって、ほとんど動かなくなりました。船長は心配で、自ら22時間もぶっ通しで甲板にとどまっていました。船長は突然、ぽんと肩をたたかれて、はっとしました。彼が振り向くと、そこにブリストルのジョージ・ミュラーがいたのです。
「船長」と彼は言いました。「私はどうしても、土曜の午後にケベックにいなければならないので、そのことをあなたに知らせに来たのです。」その日は水曜日でした。
「不可能ですよ、そんなこと。」
「そうですか、まあいいでしょう。船長、あなたの船で連れていってもらえないなら、神さまが、別の方法で、私をそこへ連れていってくれますから。私は、57年間一度も説教の奉仕の約束を破ったことがないのですから。」
「私の力ではどうにもならないことです。私に何ができると言うのですか?」と船長はむっとして言いました。
「海図が広げてある下の部屋に行って、一緒に祈りましょう」とミュラーは言いました。
船長は、甲板にいるその見知らぬ客を見て、気が狂っているのではないかと思いました。
「この霧がどんなに深いか、あなたはわかっているのですか?」
「いや、それはわかりません。でも私の見ているのは、霧の深さではなくて、生きておられる神さまです。そのお方は私のどんな状況をも支配しておられるのです。」
それからミュラーは、自分が言ったことをそのとおり実行し、ひざまずいて、短く祈りをささげました。
「主よ。もし御心にかなうことでしたら、5分間でこの霧を取り去ってください。」
「なんて祈りだ。教会学校の子供の、それも幼児クラスの祈りだ。」そう思った船長は、自分が祈ろうとしました。しかし、ミュラーは立ち上がり、それを制止しました。
「もう祈らなくてけっこうです。まず、あなたは神さまが霧を取り去ってくださるとは信じていないでしょう。それに、私はもう神さまが霧を取り去ってくださったと信じています。ですから、いずれにしてもあなたが祈る必要はないのです。船長、立ち上がって、ドアを開けてください。霧が晴れたことがわかります。」
船長は立ち上がって、ドアを開けました。霧はすっかり消えていました。そしてミュラーは自分で言ったとおり、その週の土曜日にケベックにいたのです。
(引用ここまで)
この話のポイントはやはり、ミュラーが予定通りにケベックに行って説教の奉仕をすることが、神さまの御心に適っていたということでしょう。ミュラーが単なる観光旅行でケベックに行くのであったら、神さまが霧を晴らして下さることはなかったでしょう。ミュラーが説教をすることで救われる者がいるから、神さまは霧を晴らして下さったのですね。
それから、もう一つのポイントは、子どものように何の疑いも挟まずに祈るということだと思います。船長は、大人の人間的な考えで、この深い霧が祈りによって晴れるわけがないと思っていました。そのような疑いを持ちながら祈っても、祈りは聞かれないということです。
2年前の千本プラザでの特伝においてだったと思いますが、私はアフリカの施設で女の子が、湯たんぽがすぐに必要だと神さまに祈ったら、本当にすぐに届いたという話をしました。生まれたばかりの赤ん坊を暖めるための湯たんぽが必要になった時、幼い女の子が祈ったら、その日のうちに湯たんぽが届きました。その女の子の祈りを聞いていた宣教師は、祈っても母国からアフリカに荷物が届くのに何ヶ月も掛かるのだから、すぐに届くわけがないと思っていました。ところが、この祈りが何ヶ月も前の過去に運ばれて、宣教師の母国から発送されていたのですね。時間を超越している神さまは、こういう不思議なことをすることができます。まさに神に不可能なことは一つもないということの良い証だと思います。
あなたの口を大きくあけよ
ジョージ・ミュラーは、御心にかなっていると確信した祈りについては、人間的な考えでは不可能と思えることでも、神様が必ず祈りに応えて下さると信じて、疑いを挟まずにひたすら祈り、実際にミュラーの祈りは次々に応えられて行きました。
このジョージ・ミュラーのメッセージを集めた『祈りの力』(マルコーシュ・パブリケーション)という本があります。きょうは最後に、この本の冒頭に載っている文章をお読みしたいと思います。この文章の最初には、きょうの聖書箇所の詩篇81篇10節が引用されています。
では『祈りの力』の冒頭のメッセージをお読みします。
詩篇81:10 わたしが、あなたの神、【主】である。わたしはあなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。
私たちは、絶えずこの御言葉に心をとめておかなければなりません。すべての神の子供には、神に話さなければならない多くの必要があります。だからこそ、私たちの恵み深い主は、御自分の子供たち一人ひとりにこの御言葉を与えてくださったのです。
神はこう語っておられるかのようです。
「さあ、多くのものをわたしに求めなさい。わたしに大きなものを期待しなさい。大きな祈りの課題をもってわたしの前に来るのです。わたしは神であって、人ではありません。あなたに豊かに与えることは、わたしにとって喜びなのです。」
私たちが、ある成功している実業家のところへ助けを求めに行ったとしましょう。そのような場合、決して1ペンスであるとか、10ペンスといった少額を求めてはいけません。それよりもずっと多額の援助を求めた方がよいと思います。というのも、そんなに少額しか助けを求めないということは、相手に対して失礼になるからです。まして相手が全知全能の神であるならば、なおさらのことではないでしょうか。その方から自由に求めてよいと許可がおりているのに、小さな問題の解決しか求めないとしたら、主に対してたいへん申し訳ないことです。少なくとも、そう思わなければならないでしょう。
この地上でどんなに好き勝手に権力を振るっている者でも、ヤハウェの神の御前では無に等しい存在です。ですから、神をお喜ばせしたいと願うなら、私たちは主に大いなることを求め、主が確かに大いなることをしてくださると期待しなければなりません。このことが、「あなたの口を大きくあけよ」という聖句で比喩的に教えられています。そしてこの御言葉に応答する者への約束は、「わたしがそれを満たそう」というものです。誰であれ、この励ましの言葉に従って行動する者は、神がこの約束を守られるのをみるでしょう。この御言葉の原則に従って行動して、神がこの約束通りに働いてくださらなかったことがただの一度でもあったかどうか、今までの主との歩みを振り返ってみましょう。
しかし、その時に決して忘れてはならないことがあります。祈りの応えが、まだ眼に見える形で与えられないとしても、決して失望することはないということです。神は御言葉の約束を決してお破りにならない方ですから、まだその成就が与えられていないということは、主はこれから応えようとしておられるということなのです。ですから皆さん、さらに継続して忍耐強く主を待ち望もうではありませんか。これには神の栄光がかかっているのですから、主イエス・キリストの御名によって、神に希望をおき続けるのです。その時に私たちは、「私がそれを満たそう」という約束の成就を見ることでしょう。
同じ詩篇に書かれている次の御言葉を黙想する時に、胸が熱くなる思いがします。(81篇13節~16節です)
81:13 ああ、ただ、わが民がわたしに聞き従い、イスラエルが、わたしの道を歩いたのだったら。
81:14 わたしはただちに、彼らの敵を征服し、彼らの仇に、わたしの手を向けたのに。」
81:15 【主】を憎む者どもは、主にへつらっているが、彼らの刑罰の時は永遠に続く。
81:16 しかし主は、最良の小麦をイスラエルに食べさせる。「わたしは岩の上にできる蜜で、あなたを満ち足らせよう。」
神にとって、私たちに最善のものを与えることが最高の喜びであるということを心に刻みましょう。主はこの御言葉を通して、私たちに益となるものならすべてを与えると語っておられるのです。
(引用ここまで)
ジョージ・ミュラーは資金も無いのに孤児院を設立することを願い、お祈りによって資金を得てそれを実現させ、さらに子どもたちの日々の糧もお祈りによって得て、子どもたちを飢えさせることはありませんでした。そしてミュラーは孤児院の規模を拡大させていきましたが、神さまはいつでも必要を満たして下さいました。そのジョージ・ミュラーが詩篇81篇10節の「あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。」を引いて、私たちに大きなものを期待しなさいと勧めています。小さなものしか期待しないとしたら、それは却って神さまに対して失礼なことだと言っています。
おわりに
このことを私たちの教会の会堂問題に当てはめるなら、私たちも大きなものを期待しても良いということです。むしろ小さなものを期待してはならないということです。週報の1ページ目の今月の祈りの欄にも書きましたが、私たちは信仰者として成長したいと思います。私たちが成長すればするほど、主のお役に立つことができ、主に喜んでいただくことができます。ですから、主が私たちに大きなものを与えて下さろうとしている時には恐れることなく、それを受け取り、その受け取ったものを生かして主のお役に立てるようになりたいと思います。会堂は私たちが建てるものではなく、主が建てて私たちに与えて下さるものです。主は、この沼津地域の人々をもっとたくさん救いたいと願っておられます。会堂はそのために必要なものですから、必ず与えられます。
ですから私たちは、主が与えて下さる場所が、もし私たちには大きすぎるのではないかと感じるとしても、恐れることなく受け取り、主のために働きたいと思います。
お祈りしましょう。
『あなたの口を大きくあけよ』
【詩篇81:10】
はじめに
先週まで3回のシリーズでジョン・ウェスレーについて学びました。これは会堂問題の只中を歩んでいる私たちが霊の一致を保つことができるようになることを願っての学びでした。
祈りで孤児院の資金を得たミュラー
きょうは、ジョージ・ミュラーについて、ご一緒に学びたいと思います。ジョージ・ミュラーは祈りの器として、非常に有名な人です。ミュラーは1805年にドイツで生まれ、後にイギリスに渡って妻と共に孤児院を作り、親のいない子供たちを引き取って聖書を教えました。このことだけでも、立派なことだと思います。ただ、このことだけを聞くなら、ミュラーのことを、何かの事業に成功して大金持ちになり、そのお金を社会貢献のために用いた人だろうかと思う人もいるかもしれません。もちろん、お金持ちがそのような社会貢献をすることは大変に立派な素晴らしいことです。しかし、ジョージ・ミュラーの場合は、全く違います。ミュラーのすごいところは、彼には全くお金が無かったことでした。お金が全く無かったのにも関わらず、ミュラーは孤児院を作る資金が与えられるように祈り、実際にお金が与えられて孤児院を設立することができました。そして、運営して行くことができました。これは本当にすごいことです。孤児院を設立するだけなら、設立に必要な資金が一回与えられれば始めることができます。しかし、一旦孤児院を始めて孤児たちの世話が始まったなら、孤児たちに食べ物を与えなければなりませんから、そのための資金がずっと与えられ続けなければなりません。もう明日食べる食べ物がないという危機的な事態に陥ったことも何度もあったそうですが、ミュラーはひたすら祈り、そうすると不思議と献金が与えられました。さらにもっとすごいことは、ミュラーが孤児院の規模を段々と大きくしていったことで、五番目の最後の孤児院は二千人の規模だったそうです。
孤児院を始めた時、ミュラーには資金が全くありませんでしたが、ミュラーは祈れば必ず資金が与えられると確信していました。それは、親のいない孤児たちを孤児院で育て、そこで子供たちに聖書を教えることは神様の御心にかなっていると確信していたからです。そうしてミュラーが祈ると、神様は街の人の心を動かします。街の人は、なぜかミュラーの孤児院に寄付をしなければいけない気持ちになって寄付を申し出ると言うんですね。とても不思議なことですが、これは実際にあった話です。
御心に適っていたミュラーの願い
このジョージ・ミュラーの実話のポイントは、何と言ってもミュラーがしたいと願っていたことが、神さまの御心に適っていたということではないでしょうか。御心に適うことを願って、そのことのために祈るなら、神様は必ず実現させて下さいます。ただし忘れてならないことは、お金さえ与えられれば、すべて上手く行くとは限らないことです。親のいない子供たちを引き取って育てることは大変なことです。一人の子供でも大変なのに、ジョージ・ミュラーは最後には二千人規模の孤児院を運営したということですから、本当に大変なことです。神さまの力が無ければ到底為し得ないことであることは言うまでもありません。
さて、このジョージ・ミュラーの孤児院の働きは大変に祝されましたが、ミュラーが65歳の時に彼の妻のメアリーが亡くなってしまいました。その後、ミュラーは伝道師として世界中を説教で巡るようになりました。日本にも来たことがあるそうです。ミュラーが世界中を巡っていた時に実際にあったという話で、こんな有名な話があります。『神に用いられた生涯』(CS成長センター)という本から引用します(一部改変)。
北アメリカに向け船旅をしていた時のこと。ミュラーの乗った船が、ニューファンドランド沖に近づいた時、非常に深い霧が立ち込めてきました。船長はスピードを落とすように命令しました。船は、だんだんゆっくりになって、ほとんど動かなくなりました。船長は心配で、自ら22時間もぶっ通しで甲板にとどまっていました。船長は突然、ぽんと肩をたたかれて、はっとしました。彼が振り向くと、そこにブリストルのジョージ・ミュラーがいたのです。
「船長」と彼は言いました。「私はどうしても、土曜の午後にケベックにいなければならないので、そのことをあなたに知らせに来たのです。」その日は水曜日でした。
「不可能ですよ、そんなこと。」
「そうですか、まあいいでしょう。船長、あなたの船で連れていってもらえないなら、神さまが、別の方法で、私をそこへ連れていってくれますから。私は、57年間一度も説教の奉仕の約束を破ったことがないのですから。」
「私の力ではどうにもならないことです。私に何ができると言うのですか?」と船長はむっとして言いました。
「海図が広げてある下の部屋に行って、一緒に祈りましょう」とミュラーは言いました。
船長は、甲板にいるその見知らぬ客を見て、気が狂っているのではないかと思いました。
「この霧がどんなに深いか、あなたはわかっているのですか?」
「いや、それはわかりません。でも私の見ているのは、霧の深さではなくて、生きておられる神さまです。そのお方は私のどんな状況をも支配しておられるのです。」
それからミュラーは、自分が言ったことをそのとおり実行し、ひざまずいて、短く祈りをささげました。
「主よ。もし御心にかなうことでしたら、5分間でこの霧を取り去ってください。」
「なんて祈りだ。教会学校の子供の、それも幼児クラスの祈りだ。」そう思った船長は、自分が祈ろうとしました。しかし、ミュラーは立ち上がり、それを制止しました。
「もう祈らなくてけっこうです。まず、あなたは神さまが霧を取り去ってくださるとは信じていないでしょう。それに、私はもう神さまが霧を取り去ってくださったと信じています。ですから、いずれにしてもあなたが祈る必要はないのです。船長、立ち上がって、ドアを開けてください。霧が晴れたことがわかります。」
船長は立ち上がって、ドアを開けました。霧はすっかり消えていました。そしてミュラーは自分で言ったとおり、その週の土曜日にケベックにいたのです。
(引用ここまで)
この話のポイントはやはり、ミュラーが予定通りにケベックに行って説教の奉仕をすることが、神さまの御心に適っていたということでしょう。ミュラーが単なる観光旅行でケベックに行くのであったら、神さまが霧を晴らして下さることはなかったでしょう。ミュラーが説教をすることで救われる者がいるから、神さまは霧を晴らして下さったのですね。
それから、もう一つのポイントは、子どものように何の疑いも挟まずに祈るということだと思います。船長は、大人の人間的な考えで、この深い霧が祈りによって晴れるわけがないと思っていました。そのような疑いを持ちながら祈っても、祈りは聞かれないということです。
2年前の千本プラザでの特伝においてだったと思いますが、私はアフリカの施設で女の子が、湯たんぽがすぐに必要だと神さまに祈ったら、本当にすぐに届いたという話をしました。生まれたばかりの赤ん坊を暖めるための湯たんぽが必要になった時、幼い女の子が祈ったら、その日のうちに湯たんぽが届きました。その女の子の祈りを聞いていた宣教師は、祈っても母国からアフリカに荷物が届くのに何ヶ月も掛かるのだから、すぐに届くわけがないと思っていました。ところが、この祈りが何ヶ月も前の過去に運ばれて、宣教師の母国から発送されていたのですね。時間を超越している神さまは、こういう不思議なことをすることができます。まさに神に不可能なことは一つもないということの良い証だと思います。
あなたの口を大きくあけよ
ジョージ・ミュラーは、御心にかなっていると確信した祈りについては、人間的な考えでは不可能と思えることでも、神様が必ず祈りに応えて下さると信じて、疑いを挟まずにひたすら祈り、実際にミュラーの祈りは次々に応えられて行きました。
このジョージ・ミュラーのメッセージを集めた『祈りの力』(マルコーシュ・パブリケーション)という本があります。きょうは最後に、この本の冒頭に載っている文章をお読みしたいと思います。この文章の最初には、きょうの聖書箇所の詩篇81篇10節が引用されています。
では『祈りの力』の冒頭のメッセージをお読みします。
詩篇81:10 わたしが、あなたの神、【主】である。わたしはあなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。
私たちは、絶えずこの御言葉に心をとめておかなければなりません。すべての神の子供には、神に話さなければならない多くの必要があります。だからこそ、私たちの恵み深い主は、御自分の子供たち一人ひとりにこの御言葉を与えてくださったのです。
神はこう語っておられるかのようです。
「さあ、多くのものをわたしに求めなさい。わたしに大きなものを期待しなさい。大きな祈りの課題をもってわたしの前に来るのです。わたしは神であって、人ではありません。あなたに豊かに与えることは、わたしにとって喜びなのです。」
私たちが、ある成功している実業家のところへ助けを求めに行ったとしましょう。そのような場合、決して1ペンスであるとか、10ペンスといった少額を求めてはいけません。それよりもずっと多額の援助を求めた方がよいと思います。というのも、そんなに少額しか助けを求めないということは、相手に対して失礼になるからです。まして相手が全知全能の神であるならば、なおさらのことではないでしょうか。その方から自由に求めてよいと許可がおりているのに、小さな問題の解決しか求めないとしたら、主に対してたいへん申し訳ないことです。少なくとも、そう思わなければならないでしょう。
この地上でどんなに好き勝手に権力を振るっている者でも、ヤハウェの神の御前では無に等しい存在です。ですから、神をお喜ばせしたいと願うなら、私たちは主に大いなることを求め、主が確かに大いなることをしてくださると期待しなければなりません。このことが、「あなたの口を大きくあけよ」という聖句で比喩的に教えられています。そしてこの御言葉に応答する者への約束は、「わたしがそれを満たそう」というものです。誰であれ、この励ましの言葉に従って行動する者は、神がこの約束を守られるのをみるでしょう。この御言葉の原則に従って行動して、神がこの約束通りに働いてくださらなかったことがただの一度でもあったかどうか、今までの主との歩みを振り返ってみましょう。
しかし、その時に決して忘れてはならないことがあります。祈りの応えが、まだ眼に見える形で与えられないとしても、決して失望することはないということです。神は御言葉の約束を決してお破りにならない方ですから、まだその成就が与えられていないということは、主はこれから応えようとしておられるということなのです。ですから皆さん、さらに継続して忍耐強く主を待ち望もうではありませんか。これには神の栄光がかかっているのですから、主イエス・キリストの御名によって、神に希望をおき続けるのです。その時に私たちは、「私がそれを満たそう」という約束の成就を見ることでしょう。
同じ詩篇に書かれている次の御言葉を黙想する時に、胸が熱くなる思いがします。(81篇13節~16節です)
81:13 ああ、ただ、わが民がわたしに聞き従い、イスラエルが、わたしの道を歩いたのだったら。
81:14 わたしはただちに、彼らの敵を征服し、彼らの仇に、わたしの手を向けたのに。」
81:15 【主】を憎む者どもは、主にへつらっているが、彼らの刑罰の時は永遠に続く。
81:16 しかし主は、最良の小麦をイスラエルに食べさせる。「わたしは岩の上にできる蜜で、あなたを満ち足らせよう。」
神にとって、私たちに最善のものを与えることが最高の喜びであるということを心に刻みましょう。主はこの御言葉を通して、私たちに益となるものならすべてを与えると語っておられるのです。
(引用ここまで)
ジョージ・ミュラーは資金も無いのに孤児院を設立することを願い、お祈りによって資金を得てそれを実現させ、さらに子どもたちの日々の糧もお祈りによって得て、子どもたちを飢えさせることはありませんでした。そしてミュラーは孤児院の規模を拡大させていきましたが、神さまはいつでも必要を満たして下さいました。そのジョージ・ミュラーが詩篇81篇10節の「あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。」を引いて、私たちに大きなものを期待しなさいと勧めています。小さなものしか期待しないとしたら、それは却って神さまに対して失礼なことだと言っています。
おわりに
このことを私たちの教会の会堂問題に当てはめるなら、私たちも大きなものを期待しても良いということです。むしろ小さなものを期待してはならないということです。週報の1ページ目の今月の祈りの欄にも書きましたが、私たちは信仰者として成長したいと思います。私たちが成長すればするほど、主のお役に立つことができ、主に喜んでいただくことができます。ですから、主が私たちに大きなものを与えて下さろうとしている時には恐れることなく、それを受け取り、その受け取ったものを生かして主のお役に立てるようになりたいと思います。会堂は私たちが建てるものではなく、主が建てて私たちに与えて下さるものです。主は、この沼津地域の人々をもっとたくさん救いたいと願っておられます。会堂はそのために必要なものですから、必ず与えられます。
ですから私たちは、主が与えて下さる場所が、もし私たちには大きすぎるのではないかと感じるとしても、恐れることなく受け取り、主のために働きたいと思います。
お祈りしましょう。