平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

宇宙に突き抜ける平和の巨木(2014.9.7 礼拝)

2014-09-08 10:55:07 | 礼拝メッセージ
2014年9月7日礼拝メッセージ
『宇宙に突き抜ける平和の巨木』
【エペソ3:14~21】

はじめに
 戦争を振り返って平和の貴さを考える月の8月を越え、きょうは9月の第一の聖日です。私たちは「終戦の日」と言えば8月15日であると当たり前のように思っていますが、少し前の新聞記事によれば、国際的には必ずしも8月15日ではないのだそうですね。国際的には、9月2日に戦艦ミズーリ号上で日本が降伏文書に署名した日を「終戦の日」とするのが大方の見方のようです。そして、中国はこの9月2日の翌日の9月3日を「抗日戦争勝利記念日」とすることを今年から公式に定めたというニュースもありました。これまでも非公式には祝われていたようですが、今年から公式の記念日にしたのだそうです。
 このニュースを聞いて、なぜ今さら過去の戦争の勝利を公式に祝うことにしたのだろうかと思い、私はザワザワとしたものを感じました。そして、なぜ私がこんなにも違和感を覚えるのか、私自身も興味があったので、その理由を考えてみることにしました。私がザワザワとしたものを感じるのは、中国が日本への対抗意識を剥き出しにしているからというような単純なものではなさそうです。

21世紀にふさわしい新しいこと
 それで、こんな例えを考えてみました。
 いま日本の科学の世界では、STAP細胞騒動で自殺者まで出てしまって、ガタガタしていますね。それで、政府がこんな提案をしたと仮に考えてみます。その提案とは、物理学の湯川秀樹博士が日本人初のノーベル賞を受賞した1949年の12月10日を日本の科学が勝利した日である勝利記念日として公式に定めようというものです。そうして1949年の精神で今の日本の科学を立て直そうという提案です。
 しかし、そんな提案があったら、「何言ってんだ」と思いますね。1949年の栄光を今さら持ち出して、どうするんだということになるでしょう。当時の精神を大事にすることは必要ですが、それだけではダメで、私たちは21世紀の現代にふさわしい新しい何かを切り開いて行く必要があります。
 そんなことを考えていたら、私たちの教会が2017年に行う50周年記念事業についても、同じであると思わされました。私たちは、この教会の設立当時の精神を大切にしながらも、21世紀の現代に必要な新しいことをしなければなりません。そのためにも新会堂を何としてでも実現したいと思います。
 そして、それはキリスト教においても同様ですね。キリスト教の教えは変わらなくても、伝道の方法は時代に合わせて変わることも必要です。ジョン・ウェスレーの弟のチャールズ・ウェスレーは多くの賛美歌を作って、それを伝道に活かしました。現代の教会でも若者が多い教会では今風の音楽を用いて伝道しています。それからインターネットも20世紀の終わり頃まではありませんでしたが、21世紀には活用することが必要です。

宇宙スケールの意識を
 それらに加えて、私は宇宙規模の意識を持つことも必要であろうと考えています。20世紀の後半から人類はロケットを使って地球の大気圏外に飛び出して行くことができるようになりました。ソ連のガガーリンの頃は地球に近い軌道を回っているだけでしたが、1968年にアメリカのアポロ8号が月の軌道を回って帰って来てからは、地球にいる私たちもカメラの目を通して、月から見た小さな星としての地球の姿を、見ることができるようになりました。
 今年に入ってからウクライナ情勢を巡ってロシアと欧米が対立するようになりました。しかし、そんな中、宇宙の国際宇宙ステーションの中ではロシアとアメリカの宇宙飛行士が協力して任務に当たっていました。宇宙とはそういう所です。
 ジャーナリストの立花隆がアメリカの多くの宇宙飛行士にインタビューをして書いた『宇宙からの帰還』(中公文庫 1985)という本があります。この本の中で著者の立花はジム・アーウィンとのやり取りに多くのページを割いています。ジム・アーウィンはアポロの月着陸船で月面に降りて調査活動をして地球に帰った後に宇宙飛行士を辞めてキリスト教の伝道者になった人物です。アーウィンは次のように語っています。

「結局、宇宙飛行士たちは、それぞれに独特の体験をしたから、独特の精神的インパクトを受けた。共通していえることは、すべての人がより広い視野のもとに世界を見るようになり、新しいヴィジョンを獲得したということだ。」(p.146)

 宇宙から地球を見る時、人はより広い視野で世界を見ることができるようになります。 続いてアーウィンは次のように言っています。

「私はミサイルの専門家だったが、いまの超大国の軍事的対立をとても悲しいことだと思うようになった。ソ連の脅威というが、ソ連もアメリカの脅威を感じている。お互いに脅威を与え合うというこの関係の底にあるのは、結局のところ観念的対立なのだ。目的を異にする観念体系をお互いに持っているというだけで、世界中の不幸な人々を全部救済してあまりあるような巨額の資金を投じて、お互いに殺し合う準備を無限に積み重ねているというこの現状は悲しむべきことだ。神のメッセージは『愛せよ』の一語であるのに。」(p.146)

 21世紀の今はもうソ連はありませんが、ロシアとアメリカは相変わらず対立しています。宇宙からの広い視野で地上の対立を見るなら、それは愚かで悲しいものに見えます。最初に話した、中国が今年から新たに9月3日を「抗日戦勝記念日」に公式に定めたことも、21世紀の現代にふさわしいものとは、とても思えません。日本が先の大戦で降伏した1945年や湯川秀樹博士がノーベル賞を受賞した1949年には人類はまだ誰も宇宙に行ったことはありませんでした。しかし、1961年のガガーリン以降、人類は宇宙に飛び出して行くようになりました。私たちは宇宙時代にふさわしい意識を身に付ける必要があるのだと思います。
 私たちのほとんどは実際にロケットに乗って宇宙に行くことはできませんが、意識の中でなら宇宙に行くことができます。人類の意識がもっと宇宙にあるなら、私は世界はもっと平和になるのに、と思っています。
 それゆえ今私は、信仰の種が発芽して育った木が、巨木となって宇宙に突き抜ける様子を想像することを始めています。それで、きょうの説教のタイトルは『宇宙に突き抜ける平和の巨木』として、週報の3ページ目に、そのようなイラストを載せてみました。



 きょうは、この図の説明を後で少し時間を掛けてしてみたいと考えています。話す内容は、新しいことはそれほど無く、多くは復習です。ですから、そんなに難しい話ではありません。私は21世紀のキリスト教は、このような宇宙を意識しながらの思い巡らしも必要だと思います。現代人の多くは、聖書は古臭い書物であると思っています。しかし聖書は宇宙規模の壮大なスケールを持つ書物ですから、むしろ宇宙時代の現代にふさわしい書物であると私は考えます。

読むと心の容量が大きくなるエペソ書
 きょうの聖書箇所のエペソ人への手紙3章は、この教会の礼拝でもよく開く、宇宙スケールの壮大な箇所です。週報の3ページ目のイラストを説明する前に、先ずこのエペソ人への手紙3章を読んで私たちの心の容量を大きく広げておきたいと思います。まず3章の14節と15節、

3:14 こういうわけで、私はひざをかがめて、
3:15 天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。

 天の父は万物を創造しましたから、天上のものも地上のものも全てのものの上に立つ方です。その方に対して、この手紙を書いたパウロはひざをかがめて祈ります。16節、

3:16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。

 御霊は神ですから、御霊は時間も空間も越えます。一方、神ではなく人間である私たちの日常生活は時間と空間とに縛られています。しかし、御霊に私たちの心を委ねるなら、私たちの心もまた御霊の力によって時間と空間を越えることができます。こうして、御霊の力を得て私たちは心の中で「宇宙に突き抜ける平和の巨木」になることができます。17節と18節、そして19節、

3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

 イエス・キリストは天の父とともに宇宙を造った方ですから、キリストの愛は宇宙スケールの愛です。宇宙は、私たちの銀河である天の川銀河だけでも十分過ぎるぐらいに大きいのですが、宇宙にはこの銀河が何千億個も何兆個もあるということです。宇宙の大きさは正に人知を越えています。そしてキリストの愛もまた、それほど大きな愛であるのでしょう。20節と21節、

3:20 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、
3:21 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。

 私たちのうちに働く御霊の力によるなら、私たちは人知を遥かに越えるスケールの神さまに語り掛け、祈ることで交わることができることは本当に幸いなことです。

「流れる時間」の中を生きる不安
 さて、このような宇宙スケールの目で見るなら、週報の3ページ目のイラストの地球も、実はそんなに大きいものではないとも言えます。私たちはこんな小さな地球の中で争いを続けているのだと言えます。
 では、イラストの説明をして行きます。ここに説明文も載せてありますから、この説明文の解説をして行きます。

「世界中の人々が『降り積もる時間』の中で、地中に堆積した過去の数多くの戦争の惨禍にしっかりと根を下ろし、国際宇宙ステーションよりも高い場所から地球を眺めるなら、世界はきっと平和になるだろう。」

 私たちの一人一人は、植物の種に例えられます。植物の種は風に飛ばされて運ばれて行きます。風次第で、どこに運ばれるかはわかりません。地に落ちても、大雨が降れば水に流されて、どこかに運ばれて行きます。こんな風に、私たちは「流れる時間」の中で、自分の人生がどこに向かって行くのか、よくわからない中で日々を過ごしています。しかし、一つだけハッキリしていることがあります。それは一日一日、時々刻々、「死」という人生の終わりに近付いているということです。この、一日一日、死に向かっているということは普段はそんなに意識はしていませんが、誰でもいつかは死ぬことは皆がよく知っていることですから、人はそのことに漠然とした不安を抱きながら生活しています。
 キリスト教の信仰について良く知らない人の多くは、キリスト教のような宗教は「死」の不安や恐怖から逃れるために存在するのだと思っていることと思います。そういう意味で、人が信じる宗教には寛容であったりします。信じることで安心が得られるなら良いんじゃないですか。信仰は個人の自由ですから、大いに信じたら良いでしょう。でも私は信じません、などと言ったりします。私もキリスト教を信じる前に、クリスチャンに対して、そんなことを言った覚えがあります。
 しかし、どうでしょうか。毎日が不安で不安で仕方なく、その不安から逃れるために教会の門をくぐったという人も、それなりにいるかもしれませんが、そうではない人も多いのではないでしょうか。何か漠然とした不安はあるけれども自分ではその不安の正体が何かはハッキリとはわからずにいて、しかし、ある時に偶然に教会を訪れたことで、こここそが自分の求めていた場所だったのだとわかり、不安が解消した、というケースも多いのではないかと思います。
 或いは、子どもの頃に教会学校に通って聖書を学んだ経験のある人たちの証しを聞くと、中学や高校に進んでから教会に行かなくなり、大人になってからも教会に行かなくても全然平気で毎日を過ごしていたけれども、順風満帆の人生に陰りがさした時に、ふともう一度教会に行ってみようと思い、心の平安を得た、というようなことが言われます。
 このように、毎日が不安で不安で仕方なく、その不安から逃れるために、すがるようにして教会の門を叩くという人は、それほど多くはなく、人に誘われたり、チラシを見たり、或いは昔のことをふと思い出したりなどと、ちょっとしたことで教会の門をくぐり、その結果、こここそが自分が無意識の中で求めていた場所であったと気付く場合も多いのではないかと思います。

「降り積もる時間」への移行により得られる平安
 このように、無意識の中で漠然と求めていた自分の居場所が実はキリスト教の教会だったのだと気付くことが、「信仰の芽生え」と言えるのではないかと思います。私自身も教会に通うようになるまでは、まさか教会が自分が求めていた場所などとは思ってもいませんでした。
 ちょっと余談になりますが、ラジオの沼津コーストFMの番組「潮風の中で」の、次の私の出番が10月の第二土曜日の10月11日にありますので、今度は、この「信仰の芽生え」について、私自身の経験も交えながら話してみようかな、と今思っているところです。この放送を聞いている沼津地域の方々のほとんどはキリスト教とは無縁の生活を送っていて、いつか自分にキリスト教の信仰が芽生える日が来るなどとは、全く思っていないと思います。しかし、そういう人でも、ある日、突然のように信仰が芽生える時が来ることも有り得るのだということを、話してみようかなと今思い始めています。
 さて、信仰が芽生えた種は根を張りますから、もはや風に飛ばされたり水に流されたりすることはなくなります。つまり「流れる時間」に流されることがなくなりますから、漠然とした不安からも解放されて心の平安を得ることができます。このような心の平安を得た人は、もはや「流れる時間」の中にいるのではなく、「降り積もる時間」の中を生きるようになります。
 この「降り積もる時間」の中に身を置くようになると、時間とは本来、流れるものではなく降り積もるものなのだ、ということが良くわかるようになります。実際、地面の土を見ても、私たちは「降り積もる時間」の中を生きていることがわかります。地面の土を掘れば、下へ行くほど昔に積もった土があります。それらの土は、過去の津波や洪水によって運ばれて来た土砂かもしれませんし、火山の噴火によって降り積もった火山灰かもしれません。都心部であれば、戦争の空襲によって焼け焦げた瓦礫が出てくることもあるでしょう。私たちは、そういう過去の自然災害や戦災を土台にして生きています。それなのに、「流れる時間」の中を生きていると、それらの過去のことは忘れてしまいがちです。そして過去の経験を活かすことができずに、またしても同じ過ちを繰り返すことになってしまいます。しかし、「降り積もる時間」の中を生きるなら、これらの過去の出来事に根を下ろし、そこから水分や養分を吸収しますから、過去の経験を活かすことができます。
 そして、さらに深く根を下ろして行くなら、そこには聖書の時代があります。地面に近い方に新約聖書の時代があり、もっと深い方に旧約聖書の時代があります。それらの聖書の時代に根を下ろし、そこから聖書のみことばを吸収するなら、次第に神様との個人的な関係を築いて行くことができるようになります。
 神様との個人的な関係は聖霊の働きによって築くことができます。聖霊とは先ほどのエペソ人への手紙のことばを使うなら「御霊」です。キリスト教の聖書の神は御父・御子・御霊の三位一体の神です。信仰の種が芽生え、聖書の時代に根を下ろして、聖書のみことばを自らの根で吸収できるようになると、御父・御子・御霊の三位一体の神との交わりが出来るようになります。御父・御子・御霊は時間と空間を超越した中にいますから、私たちの心もまた時間と空間を超越した中に入ることができます。

宇宙に突き抜ける平和の巨木
 この時、種から成長した地上部分は、宇宙に突き抜けて平和の巨木になっているのだと私は言いたいと思います。種から発芽した芽は根が下に伸びて行くのと同時に天に向かって伸びて行きます。「降り積もる時間」は、この天から降り注いでいます。根のある下の方が過去ですから、時間が降って来る天は未来と言っても良いでしょう。その天の未来に向かって私たちは枝を伸ばして行くと同時に過去にもしっかりと根を張っています。つまり私たちは現在にだけいるのではなく、過去にも未来にも同時にいます。
 この平和の巨木のイラストでは、私は木の高さを国際宇宙ステーションの軌道よりも高くしてみました。左の図の「ISS」と言うのがInternational Space Station、つまり国際宇宙ステーションです。私たちが霊的に三位一体の神様との交わりの中にある時には時間と空間を超越しているのですから、遠慮しないで、大きなことを考えたら良いのです。エペソ人への手紙を読んだ時にキリストの愛は宇宙スケールだと話しましたから、地球レベルの大きさでは、まだまだ小さいぐらいです。ですから、地球レベルの大きさの木を思い浮かべたとしても決して傲慢だとか誇大妄想などではありません。そして皆が、右側のイラストのように手をつなぐなら、私たちの世界はもっと平和になるのだと思います。
 私たちが宇宙スケールの想像をする時、そこに神の存在を感じます。宇宙を造った神が私たちの命も造った神でもありますから、宇宙を想像する時、神との一体感を感じることができます。宇宙飛行士からキリスト教の伝道者になったジム・アーウィンもまた、月面で神との素晴らしい一体感を感じたと語っています。それは本当に素晴らしく大きな喜びだったことでしょう。
 ベートーベンの交響曲第九番の第四楽章の合唱は、「歓喜の歌」や「喜びの歌」などと呼ばれていますね。
 この合唱のドイツ語の歌詞を日本語に訳すと、出だしはバリトンのソロで、

「おお友よ、このような音ではない!」

で始まります。そして、次のように続いて行きます。

「そうではなく、もっと楽しい歌をうたおう。もっと喜びに満ちたものを」。

 このようにして喜びの歌が始まります。そして中盤では、「創造主」、或いは「父」という言葉が出て来ます。それは、こんな歌詞です。

「あなたの創造主を、予感しているか、世界よ?
 探し求めなさい、その方を、星の天幕の彼方に!
 兄弟たち!星の天幕の彼方に必ずや、愛しき父はおられる」

 ですからベートーベンの第九の合唱も、宇宙スケールの神と交わる喜びを歌ったものなのですね。日本人はこのベートーベンの第九が大好きです。それは日本人がこの歌詞の意味を良く理解していなかったとしても、日本人の私たちを造ったのもまた創造主である神ですから、皆が無意識の内に天の父の愛を感じているのだと思います。

おわりに
 こうして世界中の私たち皆が宇宙スケールの意識を持ち、創造主である神を賛美するなら、私たちの世界はもっともっと平和になるであろうと思います。
 最後に、エペソ人への手紙3章の14節から21節までを交代で読んで、礼拝を終わりたいと思います。

3:14 こういうわけで、私はひざをかがめて、
3:15 天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。
3:16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。
3:20 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、
3:21 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。

お祈りいたしましょう。
コメント